第一章 シンデレラ・シンドローム
高級海鮮料理屋「権兵衛」の黒い漆の塗られた美しい引き戸を開けると、美濃部礼一が軽く手を挙げた。
絵里と会うときは必ず個室を予約してくれる。「権兵衛」は芸能人も時たま現れる、このあたりでは有名な店だ。
だがここは南麻布。美濃部の勤め先……つまり元旦那の勤め先がある虎ノ門からも近く、冷静に考えれば、遅かれ早かれ不倫は鴫原にバレるに決まっていた。美濃部と絵里の不倫を鴫原にリークしたのは同じ会社の後輩だった。
ならば美濃部の妻は知っているのだろうか?
「十万円でよかったのよね?」
「うん、本当にありがとう。なかなか返せなくて申し訳ないね。今夜のホテル代は僕が出すから」
絵里から現金の入った封筒を受け取ると、美濃部はホッと表情をやわらかくして、あわびの蒸し焼きをつつき始めた。フランス人の祖父を持つ美濃部は、日本人離れした彫りの深い顔立ちを持つ。五十歳を過ぎているとあってシワも深いが、ちょうどよく筋肉質な身体と、血色のいい肌は、鴫原よりもよっぽど健康的な五十代に見える。高い鼻筋、形のいい唇、色素の薄い瞳。若い頃はさぞかし王子様みたいだったろう。その上、営業部長として会社からの信頼を一身に受けている。家族にもいい暮らしをさせているに違いない。しかし、絵里は、美濃部と結婚したいとは思わない。
浮気する男だからだ。
だから今の関係性が、ベストなのである。愛人として、いつだって新鮮なときめきを彼はくれる。
「鴫原さんと別れたの」
突然の絵里の告白は美濃部を愕然とさせた。「本当かい」と、神妙な顔つきで少し身を乗り出してくる。
「今は、住居が見つからないから八ツ星町のビジネルホテルで生活しているわ」
「絵里……大丈夫か」
どういう意味での「大丈夫」なのか。精神的なことか、それとも経済面での心配か。どちらかというと、経済的な事情を案じてくれるほうを期待して、打ち明けたところもある。
離婚の件はどうせいつかはバレるのだ。だったら早いほうがいい。そして、こうした金銭の貸し借りも長く続けないほうがいい。美濃部のためにも――。
「わたしは大丈夫よ、礼一さん。でも、次の家は小さな賃貸の部屋にするわ。一人だしね」
「目途は立ってるのか?」
「六本木に良さそうな賃貸マンションがあるの。今日にでも内見に行きたかったけど、さすがに性急すぎちゃって、先方を困らせてしまったみたい。結果、来週になったわ。その間に他の物件も探してみるつもり」
「そうか……。このあたりだったら、俺にとってもありがたいよ。会社を出てすぐ君のところへ遊びに行けるしね」
美濃部は鼻をさわったり、髪を掻いたり、落ち着かない様子だ。
「そうよ。あなたが喜んでくれると思って」
「鴫原くんと別れたのは、俺との関係が原因?」
箸を置いた美濃部が申し訳なさそうに俯く。隆々とした両肩が、まるでしおれたように丸い。「あなたが気にすることじゃないわ」と、絵里はとっさに言っていた。美濃部の悲しむ顔は見たくないし、迷惑もかけたくない、だから「遅かれ早かれ離婚する運命だったのよ、わたしたち。わたしから切り出したの。好きな人ができたから別れましょうって。でも、相手があなただとは言っていない」とウソをつく。
「そうなのか?」
「むしろ、せいせいしているくらいなんだから。あの人ともう一緒にいなくて済むんだって。お義母様もうるさかったしね」
ウソを吐き続けることは簡単だ。自分がこうやってにっこり微笑んでいれば、男はちゃんと騙されてくれる。
「孝道さんと社内で気まずくなったりしたら、申し訳ないけど」
「今は部署が違うから、ほとんど顔を合わせることがないんだ」
「そう」
「……絵里は、鴫原くんより俺を選んでくれたんだね」
絵里は心からの笑みを浮かべた。そして「ええ」と口では偽りを言った。
自分には美濃部しかいない、だから、彼を選ばざるを得ない。というのが多分、一番正しい。卑怯な真似が嫌いなくせに、自分が一番ずるいことをしているのではないか。だとしても、もうどうにもできなかった。
男を騙すのも生きる手段のうち。豊かな男性経験は、自然と本能に染みつき、無意識に自分の言動をコントロールしてくる。
目の前の愛する男がどこまで絵里の心に気づいているのかは知らない。いっそ、そんなことに絵里は興味なかった。ただ、二人の時間がいつまでも続いてくれればそれでいい。このひとときが、二人にとって、現実をつかの間忘れさせてくれる甘い時間。
それを共有するためだけにわたしたちは関係を結んでいるのだから。
「絵里」と、美濃部が名前を呼んだ。口角を上げ、結婚指輪のない絵里の左手を、両手で握った。
美濃部の手はいつも皮膚が固く、熱い。
「君の愛情深いところが、俺はやっぱり、すごく好きだ。だから俺も惜しみない愛を君に注ぎたくなる。俺を愛してくれて、ありがとう」
だが、その美濃部は、妻と別れないのだろう。
「お金はいつ返してくれるのかしら?」
美濃部と絵里の視線が交差する。向こうの瞳が、ぬらりとした情欲の色に輝いた。また誤魔化される気配がする。
「そろそろ百万近くなるわよ。あまり額が大きくなると、返すのが大変になってくるでしょう」
わたしはいつまでも待つけど、と言おうとした唇は急に距離を詰めてきた美濃部の唇によって、遮られた。気を付けたほうがいいですよ、という誰かの忠告が脳裏を一瞬、過ぎる。
八ツ星町駅に着いたのは朝の九時だ。昨晩、美濃部のほうは終電の前に帰ったのだが、絵里は朝までビジネスホテルに一人残り、眠ってきた。
冬の朝のまばゆさに目が眩む。深く冷たい土の底を長い間探検し、ようやく太陽の下に顔を出したもぐらのように打ちのめされていた。今も続けているダンスのおかげで、48歳のわりに体力は人並み以上あると自負しているが、それでも昨晩はずいぶん消耗した。
離婚のときの疲れがまだ残っているのだと思う。
離婚のことを知れば、美濃部は罪悪感から、自分たちも別れようと切り出してくるかもしれないと恐々としていた。だが、杞憂であった。思っていたよりも、昨晩、美濃部は平然としていた。べつに心配してほしかったわけじゃないが、わたしが夫と家を失ってホテル生活をしていようと、あの人は大してなにも感じていないのでは、という疑念が胸の奥に渦巻いていた。もっと人情深い男だと思っていた。
腹いせに駅前の百貨店でなにか衝動買いしてやろうかと足を止めたが、生憎、まだ開店前だ。そりゃそうね、まだ9時だもの……。
百貨店の前の黒いベンチに若い男が座っている。
「え」
背中に汗をかいた。
「和磨くん?」
「あ」
和磨が、絵里に気づき、頷くような動きで頭を下げた。「ども」
「おはよう、偶然ね。これから出勤?」
「いえ」手に持っていた缶のボトルコーヒーのフタを指先でいじっている。「今日は休みです。火曜日以外もたまにもらえるんすよ」
今日は、何曜日だったか。美濃部が出勤するといっていたから平日であるのは間違いない。
「美咲さんのお墓参りに行くの?」
「いえ。美咲ンところには火曜日って決めてるんで、今日は違います」
「そしたら、どうしてこんな朝早くに一人で?」
「今日はねこちゃんがいなかったから」
ねこちゃん?
近所の野良ネコとか好きなのだろうか、と思ったが和磨はそれ以上話題を広げるつもりはないようだ。「島崎さんこそ、こんな朝早くにどうしたんですか?」気だるそうに、絵里を見上げている。「お仕事でも始めたんすか?」
「……いいえ、違うわ」
和磨が黙った。またボトルコーヒーに目を落とし、蓋を爪で引っ掻いている。
この子、やっぱりわたしを、拒絶しない――。
「立ってるの疲れないっすか?」
座れということか。
31歳の青年のとなりに腰を下ろした瞬間、今まで抱えてきた荷物も一気に下ろした。そんな感覚がある。いっそ、内心に溜め込んでいた全部を解放したい衝動が胸を突き上げた。指先が小さく痙攣してくる。
「わたし今、そこのビジネスホテルに泊まってるの。二週間ぐらい」
なぜだか、急にすべてがどうでもよくなってきた。口火を切ると、止まらなくなった。「離婚した、って言ったじゃない? わたし」
「ええ」
「つい数週間前の話なのよね、それ。だから今、実質ホームレスよ」
「離婚ホヤホヤっすね」和磨の白い顎がこちらを向く。
「わたしが不倫したのがきっかけ。昨日会った人が、その不倫相手。ダブル不倫よ、いわゆる。愚かだと思うでしょ?」
「それで、家、追い出されたってことですか」
「夫も義理のおかあさまも、世間知らずのくせに不貞行為に走った女に愛想を尽かしたわ。当たり前よね」
「容赦ないんですね」
「夫はずいぶん前からわたしのことなんて、どうでもいいみたいだった。だから決断も早かったんでしょうね」
「お子さんは?」
「うちはいないわ」
「不倫相手とは続いているんすね」
臆する様子もなく、和磨が促してくる。フタをいじる手が止まっている。
「そうね。向こうもわたしとの関係が心地いいみたい。でも時間の問題かもね。長くは持たない気がするの。だって彼、わたしが離婚して家を失っても、わたしが彼の近くに越して一人暮らししてくれるならそれでいい、って感じだから」
「……というと?」
「期待するのがいけないのよね。だから、不倫相手とも別れられないのよね。彼がもう少し、わたしの心、身体、生活、のどれかを優先してくれる人だったらなあ、なんて考えてしまう自分が、今、とても嫌になるわ」
「全部優先すべきじゃないですか?」
和磨は迷いなく言った。「あなたの恋人なら」
絵里は、声が出なくなる。
「失礼なのは承知の上で言わせてもらいますけど、愛人の男はそもそも、関係ないって思ってるかもしれませんよ。あなたと旦那さんの関係が破綻したことぐらい」
「……どうしてそう思うの?」やっと返事できたと思ったら、噴き出すように笑っていた。
「あなたは」対して和磨の声にはやはり、感情がない。「都合のいい存在だから」
都合のいい愛人。都合のいい金ヅル。
「あなたがどうなろうと、べつにいいんじゃないですか、向こうは。じゃないと多額のお金とか、借りようとしないと思います。こないだ貸した分、って電話で言ってたのもお金ですよね? 相手は、まずい男ですよ。島崎さん」
「そんなね、大した、大した金額じゃないのよ。わたしこう見えて資産家の娘で、亡くなった両親の遺産をそのまま引き継いでいるから」
和磨の前傾姿勢だった首が上がった。
「しばらく仕事をしなくても生きていけるのよ、充分」
「そういう問題じゃない。そのお金は島崎さんが生きていくためのお金でしょ。自分の力でちゃんと稼げていて、家庭を養って、さらに不倫までできるくらい余裕のある男が、なぜあなたのお金に手をつけるんです? 男側に本当に金がなくて、女性側がその分いろいろ工面してあげているのなら、また別ですけど」
「あなたには関係のないことよ、和磨くん」
「そうっすね」和磨が頭を掻く。「言い過ぎました」
心臓の音が、頭にドクドク響いている。
「すべては島崎さんが選んで、決めることっすからね」
今まで、絵里が背中越しに見て見ぬフリしてきた違和感を、突然真正面から思いっきりぶつけられたような気分だ。違うそんなことない、あの人はわたしをちゃんと愛してくれてる、と目の前の青年に言い放ってやりたい激情が、一瞬身体を蝕みかけたが、喉がふるえて、声が詰まるばかりで、結局なにも出てこない。反撃のカードなんて最初から手札にないのだ。夢想に酔いしれる当事者より、無関係な第三者のほうが冷静に事を見抜けるものである。和磨は、ただそうしただけだ。しかし和磨の言葉は、絵里の致命傷を確実に刺した。
これ以上、希望を奪わないでほしい。
だが、和磨を責める気になれない自分もいる。わたしだって本当は薄々理解している。でも、「愛されたい」なんてわたしのワガママなのよ。だって最初から、わたしと礼一さんは一緒になれない、そう割り切って、関係を始めたわけなのだから。
「飲みたいわ」
無性に酒が欲しい。むかしから旦那に隠れて焼酎のボトルを買い置きしておくほど、酒は好きだ。「もう、なにもかも考えたくない」
「飲みましょうよ」
和磨があっさりと提案するので、驚く。
「さすがにまだ開かないけど、十時ぐらいになれば西口のファミレスでアルコール頼めますよ。行ってみます?」
「あなた飲めるの?」
「美咲が死んだ直後、祐希人と二人でアル中手前まで行ったことあります。朝から晩まで、時間も忘れてチャンポンしまくっては、吐いて、の繰り返し。でも、おかげでずいぶん強くなった。それまではビールなんて苦くて、好きじゃなかったのに」
よく見ると彼が持っているボトルコーヒーには、カフェオレと書いてある。
「あら。結構、子ども舌?」
「そっすね。コーヒーはブラック飲めないっす」彼の唇がニッと横に広がった。「あ、そういやそこの回転寿司なら九時半から開いてたかも」
「自分で言い出しておいて、なんだけど、まだ午前中なのに」
「刺激的な一日になりそうで、いいでしょ。それともお酒は夜のほうがいい?」
「そんなことないけれど。付き合わせることになって、悪……」
「なにが悪いことがあるんです? この程度」和磨が、カフェオレのボトルで絵里を差す。「そしたら不倫は死刑になっちゃいますよ」
「相手の奥様が不倫に気づいていた場合、わたしは、死刑になれって思われてるわねきっと」
「まあ、そりゃそうでしょうね。藁人形に釘打たれても文句は言えない」
「そうだったら、わたしと一緒にいるあなたにも不幸が来るかもしれないわよ」
「不幸」和磨が子どものように素直に繰り返す。それから「あれ以上にどんな?」と笑い出した。大きく開いた口。こうも、澄んだ「けたけた声」がこの世にあったのかと思うほど、こちらまで童心に帰らせてくれるような無邪気な笑い方だ。
また胸が締め付けられた。
彼の履く年季の入ったスリッポンが、後ろ部分を踏みつけられているのが少し気になった。かかとだけ外に露出されているのだ。歩きにくいだろうに。ところどころ若いというより、幼い。
和磨が覚えているかは定かではない。自分も、あれは咄嗟の行動だったから本当はよく覚えていないのだけど。
電車の中で狂ったように美咲の名前を呼び、泣きながらのたうち回る丹羽和磨の肩を、絵里が抱こうとすると、ますます和磨が暴れた。それから絵里と、数人の乗客たちが彼の身体を必死に抑えた。獣を相手にしているんじゃないかというほどの緊迫感が車内に張り詰めていた。あの光景を、同じ車両に乗っていた乗客全員が一生忘れないだろう。
ひっくり返った咆哮が和磨の全身から鳴っていた。床に丸まった和磨の腕はガイコツのように細く白く、壊れそうなくらいガクガクと震え、叫び続けているはずなのに体温は冷たかった。このまま彼のほうが絶命してしまうのではないかとさえ思い、怖かった。一人の人間が完全に破滅していく様は、絵里の中に確かな絶望を残した。事件後、絵里が丹羽家の末路をニュースなどで追う勇気がなかったのは、あの日の和磨の絶望を思い出して、何度も心が潰されそうになったからだ。
黒のスマホが床に落ちていた。ずっと通話中になっていた。誰かがスピーカーモードに切り替えたが、もうなんの音も聞こえなかった。
絵里と会うときは必ず個室を予約してくれる。「権兵衛」は芸能人も時たま現れる、このあたりでは有名な店だ。
だがここは南麻布。美濃部の勤め先……つまり元旦那の勤め先がある虎ノ門からも近く、冷静に考えれば、遅かれ早かれ不倫は鴫原にバレるに決まっていた。美濃部と絵里の不倫を鴫原にリークしたのは同じ会社の後輩だった。
ならば美濃部の妻は知っているのだろうか?
「十万円でよかったのよね?」
「うん、本当にありがとう。なかなか返せなくて申し訳ないね。今夜のホテル代は僕が出すから」
絵里から現金の入った封筒を受け取ると、美濃部はホッと表情をやわらかくして、あわびの蒸し焼きをつつき始めた。フランス人の祖父を持つ美濃部は、日本人離れした彫りの深い顔立ちを持つ。五十歳を過ぎているとあってシワも深いが、ちょうどよく筋肉質な身体と、血色のいい肌は、鴫原よりもよっぽど健康的な五十代に見える。高い鼻筋、形のいい唇、色素の薄い瞳。若い頃はさぞかし王子様みたいだったろう。その上、営業部長として会社からの信頼を一身に受けている。家族にもいい暮らしをさせているに違いない。しかし、絵里は、美濃部と結婚したいとは思わない。
浮気する男だからだ。
だから今の関係性が、ベストなのである。愛人として、いつだって新鮮なときめきを彼はくれる。
「鴫原さんと別れたの」
突然の絵里の告白は美濃部を愕然とさせた。「本当かい」と、神妙な顔つきで少し身を乗り出してくる。
「今は、住居が見つからないから八ツ星町のビジネルホテルで生活しているわ」
「絵里……大丈夫か」
どういう意味での「大丈夫」なのか。精神的なことか、それとも経済面での心配か。どちらかというと、経済的な事情を案じてくれるほうを期待して、打ち明けたところもある。
離婚の件はどうせいつかはバレるのだ。だったら早いほうがいい。そして、こうした金銭の貸し借りも長く続けないほうがいい。美濃部のためにも――。
「わたしは大丈夫よ、礼一さん。でも、次の家は小さな賃貸の部屋にするわ。一人だしね」
「目途は立ってるのか?」
「六本木に良さそうな賃貸マンションがあるの。今日にでも内見に行きたかったけど、さすがに性急すぎちゃって、先方を困らせてしまったみたい。結果、来週になったわ。その間に他の物件も探してみるつもり」
「そうか……。このあたりだったら、俺にとってもありがたいよ。会社を出てすぐ君のところへ遊びに行けるしね」
美濃部は鼻をさわったり、髪を掻いたり、落ち着かない様子だ。
「そうよ。あなたが喜んでくれると思って」
「鴫原くんと別れたのは、俺との関係が原因?」
箸を置いた美濃部が申し訳なさそうに俯く。隆々とした両肩が、まるでしおれたように丸い。「あなたが気にすることじゃないわ」と、絵里はとっさに言っていた。美濃部の悲しむ顔は見たくないし、迷惑もかけたくない、だから「遅かれ早かれ離婚する運命だったのよ、わたしたち。わたしから切り出したの。好きな人ができたから別れましょうって。でも、相手があなただとは言っていない」とウソをつく。
「そうなのか?」
「むしろ、せいせいしているくらいなんだから。あの人ともう一緒にいなくて済むんだって。お義母様もうるさかったしね」
ウソを吐き続けることは簡単だ。自分がこうやってにっこり微笑んでいれば、男はちゃんと騙されてくれる。
「孝道さんと社内で気まずくなったりしたら、申し訳ないけど」
「今は部署が違うから、ほとんど顔を合わせることがないんだ」
「そう」
「……絵里は、鴫原くんより俺を選んでくれたんだね」
絵里は心からの笑みを浮かべた。そして「ええ」と口では偽りを言った。
自分には美濃部しかいない、だから、彼を選ばざるを得ない。というのが多分、一番正しい。卑怯な真似が嫌いなくせに、自分が一番ずるいことをしているのではないか。だとしても、もうどうにもできなかった。
男を騙すのも生きる手段のうち。豊かな男性経験は、自然と本能に染みつき、無意識に自分の言動をコントロールしてくる。
目の前の愛する男がどこまで絵里の心に気づいているのかは知らない。いっそ、そんなことに絵里は興味なかった。ただ、二人の時間がいつまでも続いてくれればそれでいい。このひとときが、二人にとって、現実をつかの間忘れさせてくれる甘い時間。
それを共有するためだけにわたしたちは関係を結んでいるのだから。
「絵里」と、美濃部が名前を呼んだ。口角を上げ、結婚指輪のない絵里の左手を、両手で握った。
美濃部の手はいつも皮膚が固く、熱い。
「君の愛情深いところが、俺はやっぱり、すごく好きだ。だから俺も惜しみない愛を君に注ぎたくなる。俺を愛してくれて、ありがとう」
だが、その美濃部は、妻と別れないのだろう。
「お金はいつ返してくれるのかしら?」
美濃部と絵里の視線が交差する。向こうの瞳が、ぬらりとした情欲の色に輝いた。また誤魔化される気配がする。
「そろそろ百万近くなるわよ。あまり額が大きくなると、返すのが大変になってくるでしょう」
わたしはいつまでも待つけど、と言おうとした唇は急に距離を詰めてきた美濃部の唇によって、遮られた。気を付けたほうがいいですよ、という誰かの忠告が脳裏を一瞬、過ぎる。
八ツ星町駅に着いたのは朝の九時だ。昨晩、美濃部のほうは終電の前に帰ったのだが、絵里は朝までビジネスホテルに一人残り、眠ってきた。
冬の朝のまばゆさに目が眩む。深く冷たい土の底を長い間探検し、ようやく太陽の下に顔を出したもぐらのように打ちのめされていた。今も続けているダンスのおかげで、48歳のわりに体力は人並み以上あると自負しているが、それでも昨晩はずいぶん消耗した。
離婚のときの疲れがまだ残っているのだと思う。
離婚のことを知れば、美濃部は罪悪感から、自分たちも別れようと切り出してくるかもしれないと恐々としていた。だが、杞憂であった。思っていたよりも、昨晩、美濃部は平然としていた。べつに心配してほしかったわけじゃないが、わたしが夫と家を失ってホテル生活をしていようと、あの人は大してなにも感じていないのでは、という疑念が胸の奥に渦巻いていた。もっと人情深い男だと思っていた。
腹いせに駅前の百貨店でなにか衝動買いしてやろうかと足を止めたが、生憎、まだ開店前だ。そりゃそうね、まだ9時だもの……。
百貨店の前の黒いベンチに若い男が座っている。
「え」
背中に汗をかいた。
「和磨くん?」
「あ」
和磨が、絵里に気づき、頷くような動きで頭を下げた。「ども」
「おはよう、偶然ね。これから出勤?」
「いえ」手に持っていた缶のボトルコーヒーのフタを指先でいじっている。「今日は休みです。火曜日以外もたまにもらえるんすよ」
今日は、何曜日だったか。美濃部が出勤するといっていたから平日であるのは間違いない。
「美咲さんのお墓参りに行くの?」
「いえ。美咲ンところには火曜日って決めてるんで、今日は違います」
「そしたら、どうしてこんな朝早くに一人で?」
「今日はねこちゃんがいなかったから」
ねこちゃん?
近所の野良ネコとか好きなのだろうか、と思ったが和磨はそれ以上話題を広げるつもりはないようだ。「島崎さんこそ、こんな朝早くにどうしたんですか?」気だるそうに、絵里を見上げている。「お仕事でも始めたんすか?」
「……いいえ、違うわ」
和磨が黙った。またボトルコーヒーに目を落とし、蓋を爪で引っ掻いている。
この子、やっぱりわたしを、拒絶しない――。
「立ってるの疲れないっすか?」
座れということか。
31歳の青年のとなりに腰を下ろした瞬間、今まで抱えてきた荷物も一気に下ろした。そんな感覚がある。いっそ、内心に溜め込んでいた全部を解放したい衝動が胸を突き上げた。指先が小さく痙攣してくる。
「わたし今、そこのビジネスホテルに泊まってるの。二週間ぐらい」
なぜだか、急にすべてがどうでもよくなってきた。口火を切ると、止まらなくなった。「離婚した、って言ったじゃない? わたし」
「ええ」
「つい数週間前の話なのよね、それ。だから今、実質ホームレスよ」
「離婚ホヤホヤっすね」和磨の白い顎がこちらを向く。
「わたしが不倫したのがきっかけ。昨日会った人が、その不倫相手。ダブル不倫よ、いわゆる。愚かだと思うでしょ?」
「それで、家、追い出されたってことですか」
「夫も義理のおかあさまも、世間知らずのくせに不貞行為に走った女に愛想を尽かしたわ。当たり前よね」
「容赦ないんですね」
「夫はずいぶん前からわたしのことなんて、どうでもいいみたいだった。だから決断も早かったんでしょうね」
「お子さんは?」
「うちはいないわ」
「不倫相手とは続いているんすね」
臆する様子もなく、和磨が促してくる。フタをいじる手が止まっている。
「そうね。向こうもわたしとの関係が心地いいみたい。でも時間の問題かもね。長くは持たない気がするの。だって彼、わたしが離婚して家を失っても、わたしが彼の近くに越して一人暮らししてくれるならそれでいい、って感じだから」
「……というと?」
「期待するのがいけないのよね。だから、不倫相手とも別れられないのよね。彼がもう少し、わたしの心、身体、生活、のどれかを優先してくれる人だったらなあ、なんて考えてしまう自分が、今、とても嫌になるわ」
「全部優先すべきじゃないですか?」
和磨は迷いなく言った。「あなたの恋人なら」
絵里は、声が出なくなる。
「失礼なのは承知の上で言わせてもらいますけど、愛人の男はそもそも、関係ないって思ってるかもしれませんよ。あなたと旦那さんの関係が破綻したことぐらい」
「……どうしてそう思うの?」やっと返事できたと思ったら、噴き出すように笑っていた。
「あなたは」対して和磨の声にはやはり、感情がない。「都合のいい存在だから」
都合のいい愛人。都合のいい金ヅル。
「あなたがどうなろうと、べつにいいんじゃないですか、向こうは。じゃないと多額のお金とか、借りようとしないと思います。こないだ貸した分、って電話で言ってたのもお金ですよね? 相手は、まずい男ですよ。島崎さん」
「そんなね、大した、大した金額じゃないのよ。わたしこう見えて資産家の娘で、亡くなった両親の遺産をそのまま引き継いでいるから」
和磨の前傾姿勢だった首が上がった。
「しばらく仕事をしなくても生きていけるのよ、充分」
「そういう問題じゃない。そのお金は島崎さんが生きていくためのお金でしょ。自分の力でちゃんと稼げていて、家庭を養って、さらに不倫までできるくらい余裕のある男が、なぜあなたのお金に手をつけるんです? 男側に本当に金がなくて、女性側がその分いろいろ工面してあげているのなら、また別ですけど」
「あなたには関係のないことよ、和磨くん」
「そうっすね」和磨が頭を掻く。「言い過ぎました」
心臓の音が、頭にドクドク響いている。
「すべては島崎さんが選んで、決めることっすからね」
今まで、絵里が背中越しに見て見ぬフリしてきた違和感を、突然真正面から思いっきりぶつけられたような気分だ。違うそんなことない、あの人はわたしをちゃんと愛してくれてる、と目の前の青年に言い放ってやりたい激情が、一瞬身体を蝕みかけたが、喉がふるえて、声が詰まるばかりで、結局なにも出てこない。反撃のカードなんて最初から手札にないのだ。夢想に酔いしれる当事者より、無関係な第三者のほうが冷静に事を見抜けるものである。和磨は、ただそうしただけだ。しかし和磨の言葉は、絵里の致命傷を確実に刺した。
これ以上、希望を奪わないでほしい。
だが、和磨を責める気になれない自分もいる。わたしだって本当は薄々理解している。でも、「愛されたい」なんてわたしのワガママなのよ。だって最初から、わたしと礼一さんは一緒になれない、そう割り切って、関係を始めたわけなのだから。
「飲みたいわ」
無性に酒が欲しい。むかしから旦那に隠れて焼酎のボトルを買い置きしておくほど、酒は好きだ。「もう、なにもかも考えたくない」
「飲みましょうよ」
和磨があっさりと提案するので、驚く。
「さすがにまだ開かないけど、十時ぐらいになれば西口のファミレスでアルコール頼めますよ。行ってみます?」
「あなた飲めるの?」
「美咲が死んだ直後、祐希人と二人でアル中手前まで行ったことあります。朝から晩まで、時間も忘れてチャンポンしまくっては、吐いて、の繰り返し。でも、おかげでずいぶん強くなった。それまではビールなんて苦くて、好きじゃなかったのに」
よく見ると彼が持っているボトルコーヒーには、カフェオレと書いてある。
「あら。結構、子ども舌?」
「そっすね。コーヒーはブラック飲めないっす」彼の唇がニッと横に広がった。「あ、そういやそこの回転寿司なら九時半から開いてたかも」
「自分で言い出しておいて、なんだけど、まだ午前中なのに」
「刺激的な一日になりそうで、いいでしょ。それともお酒は夜のほうがいい?」
「そんなことないけれど。付き合わせることになって、悪……」
「なにが悪いことがあるんです? この程度」和磨が、カフェオレのボトルで絵里を差す。「そしたら不倫は死刑になっちゃいますよ」
「相手の奥様が不倫に気づいていた場合、わたしは、死刑になれって思われてるわねきっと」
「まあ、そりゃそうでしょうね。藁人形に釘打たれても文句は言えない」
「そうだったら、わたしと一緒にいるあなたにも不幸が来るかもしれないわよ」
「不幸」和磨が子どものように素直に繰り返す。それから「あれ以上にどんな?」と笑い出した。大きく開いた口。こうも、澄んだ「けたけた声」がこの世にあったのかと思うほど、こちらまで童心に帰らせてくれるような無邪気な笑い方だ。
また胸が締め付けられた。
彼の履く年季の入ったスリッポンが、後ろ部分を踏みつけられているのが少し気になった。かかとだけ外に露出されているのだ。歩きにくいだろうに。ところどころ若いというより、幼い。
和磨が覚えているかは定かではない。自分も、あれは咄嗟の行動だったから本当はよく覚えていないのだけど。
電車の中で狂ったように美咲の名前を呼び、泣きながらのたうち回る丹羽和磨の肩を、絵里が抱こうとすると、ますます和磨が暴れた。それから絵里と、数人の乗客たちが彼の身体を必死に抑えた。獣を相手にしているんじゃないかというほどの緊迫感が車内に張り詰めていた。あの光景を、同じ車両に乗っていた乗客全員が一生忘れないだろう。
ひっくり返った咆哮が和磨の全身から鳴っていた。床に丸まった和磨の腕はガイコツのように細く白く、壊れそうなくらいガクガクと震え、叫び続けているはずなのに体温は冷たかった。このまま彼のほうが絶命してしまうのではないかとさえ思い、怖かった。一人の人間が完全に破滅していく様は、絵里の中に確かな絶望を残した。事件後、絵里が丹羽家の末路をニュースなどで追う勇気がなかったのは、あの日の和磨の絶望を思い出して、何度も心が潰されそうになったからだ。
黒のスマホが床に落ちていた。ずっと通話中になっていた。誰かがスピーカーモードに切り替えたが、もうなんの音も聞こえなかった。