このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

第一章 シンデレラ・シンドローム

 二週間が経った。
 絵里はホテル住まいのままだ。
 ときどき都心の美術館へ出かけてみたり、銀座に行ったり、主婦時代から気になっていたおしゃれなカフェへ行ったりと持て余した時間を消費したが、なにを見てもなにを食べても心は動かなかった。胸の中に大きな岩が鎮座しているみたいにいつだって重いのだ。ほらずっと食べてみたかったパンケーキよ、ずっと家庭と義母と親戚の世話ばかりで行きたくても行けなかった美術館よ。そう言い聞かせ、いくら岩を一生懸命押してみても、コテでも動かないぞというくらいだった。結局、ただ無感動でほっつき歩いていただけだった。
 鴫原と義母と生活していたときは日々仕事で忙殺されている夫を慮って、あまり家を空けなかったから、絵里は仕事を持たない身ではありつつも、たまの息抜きといったら直子とランチに行く程度だった。義母のほうは習い事とスポーツクラブと、ほぼ毎日やっていたのではないかというお友達とのお茶会と、そっちで忙しそうだったが。
 とにかくまずは住まいだ。
 出かけたついでに不動産屋でもらってきた物件の資料や、マンションのチラシをベッドの上に広げた。鴫原家は露瀬の一等地に建てた一戸建てだったが、さすがに自分一人なら、分譲マンションの一室で十分だろう。買える金はあった。だが、美濃部の顔がまたここでチラつく。
 あの人のためのお金も確保しておかなくちゃ……。
 だったら、やはり賃貸だろうか。大きな家である必要はない。だが、できることなら静かで治安がよく、景観のいい場所に居つきたい。わがままなことは承知の上だが、成城の静かな高級住宅街で生まれ育ち、結婚後も露瀬の高台の一等地に暮らしていた絵里にとって、そうした環境以外の場所でいきなり一人ぼっちで住む勇気がまだなかった。
 道路の幅が広く、緑が多く、ご近所さんも知性と品性を備えた良い人ばかり、スーパーは少し遠いけれど、夕方の通りには子どもの遊ぶ声だけが響いているような――。それが絵里にとっての「暮らし」であった。もうこの年齢になると、それが染みつきすぎてしまって、なかなか新しい環境には身体も心も慣れてくれない気がする。
 高級住宅街にはマンションやアパートがそもそも少ない。となると、必然的にもう少し都市部、あるいは都心じゃないにしても普通の住宅街にある賃貸住宅を、選ぶしかない。
 ずっとホテル代ばかりを払い続けてここにいるわけにもいかないのだ。頑張らなきゃ。一人暮らしも、新しい街も、慣れればきっとどうってことない。
 わたしは今までが恵まれ過ぎたのよ。
 とりあえず一番気になっているのは六本木のとある賃貸アパートだ。駅から徒歩10分の12階建ての、7階の一室が空いているらしい。賃料13万。1K。来週、内見の予定が入っており、よさそうであればもうそこに決めてしまってもいいかと思っている。
 それに六本木ならば、虎ノ門にある美濃部の勤め先にも近い。帰りに寄りやすいだろう。
 この期に及んで美濃部から離れられない自分が情けなかった。同時に、しょうがないよね、と自分を宥めた。
 気分転換に散歩に出ることにした。相変わらず鴫原のくれたパンプスを足に入れて。
 まだ履いて一年なのに、透明なガラスの靴よりもずっと色濃く錆びた古い靴のように感じられる。これは、鉛だ。鴫原に対する切っても切れない鉛のような感情を、わたしは足にぶら下げ、引きずっている。
 愛する男が二人もいることがそんなに悪いことなのかと急に誰かに糾弾したくなった。

「五十嵐さん」
 すぐ近くから、焦った声が飛んできた。
 自分が呼ばれたのかと思って、一瞬立ち止まりそうになる。が、ぜんぜん名前が違う。
「五十嵐さん、もうすぐお迎えが来ますから! お店に戻って待ちましょう」
「ああ、なんだい、天国のお迎えが、かい?」
 老婆が甲高く笑う。カラスの鳴き声のような甲高い不気味さに、思わず振り返る。
「んなわけないでしょ、まだあの世に逝きませんよ。娘さんのお迎えです。1時ごろには、ってさっき連絡来たんですよ。勝手に家帰ろうとしないでください」
 人でにぎわう駅前通りのスクランブル交差点、そこの銀行支店の前だ。絵里はアッと息を呑んだ。
 建物の前の日陰で老婆の肩を支えているのが、丹羽和磨だったからだ。
 彼はスポーツブランドのロゴが入ったシンプルな白いシャツに、色褪せた水色のジーンズを履いていた。腰のベルトには意外なものが下がっている。ハサミだ。ハサミだけじゃない、数本の櫛に、ダッカール。美容師だったのか。
 その美容師が街の往来で、美しくブローされた茶髪のおばあさんをなにやら説得している。一体どんな状況なのだこれは。
 よく見ればおばあさんは右手に杖を持っている。
「娘さんね、ケータイショップに行ってたんですって。五十嵐さんのための新しいスマホを契約してくれに行ったんですって。でも思いのほか時間かかったみたいで。さっき終わったから、もう車でお店向かってるんですよ」
「あたしゃスマホは使えないからいらないって、何度も言ったんだけどねぇ」
「まー、でもほら、スマホ便利っすよ。わからなかったら、今度いらしたときに俺が教えてあげます。だから無理せず、車を待ちましょ」
「でもねぇ、孫が千葉から来るんよ、息子の二歳の孫が。1時半には着くって朝に連絡あってね、もうそろそろ着く頃でしょう、お昼ご飯の支度なーんもしていないんよ。息子たちがうちの前で待たせるのは悪いよ。うち、すぐそこだから大丈夫」
 和磨は辛抱強く説得する。「五十嵐さん家、橋町のあの大きなマンションでしょ? 余裕で二十分近くかかりますよここから。すぐじゃないです」
 そのとき、目が合った。互いに声は出さなかった。だが、唇が「あ」と言うように開いたのは和磨も一緒だった。
「どうしたの?」口火を切ったのは絵里のほうだった。和磨の顔が切実なものに変わった。
「島崎さん、一緒に説得してもらえないっすか」
 話はこうだ。この五十嵐さんは和磨の勤める美容室の客である。御年85歳で、もともと足が悪い上に最近は身体の調子そのものが良くないが、髪だけは二カ月に一回、必ず切りに来てくれる。近くに住む娘さんが毎回車で送迎して、来店する。
 今日は久しぶりに白髪染めもしたので、およそ二時間弱の施術の間に娘さんは五十嵐さんのためのスマホを、ケータイショップへ契約しに行った。が、ショップがかなり混んでいたらしく、終わる時間までに間に合いそうにないからそのまま店で待っているよう母に伝えてくれ、と電話があった。
 五十嵐さんは終わってから三十分ほど、待合の席で迎えを待っていた。
 しかし待てども待てども戻らない娘にしびれを切らし、和磨を含む他の美容師が仕事している間にこっそりと一人で店を出てしまう。それにいち早く気づいたのが和磨だった。担当していたカラーのお客さんをアシスタントに丸投げして、急いで追ったのだという。そして今に至る。
「おばあさん、わたしが一緒に待ちますから。息子さんたちだって事情わかってくれますよ、大丈夫です」
「そうかねぇ、でもねぇ、あたしゃ一人で帰れるんだけどねぇ」
 認知症が始まっているのではないか?
 この思い込みの激しさと、頑さは。亡くなった叔父と同じ。
 二人で根気強く、あの手この手で言いくるめ、なんとか五十嵐さんを店に連れ戻すことができたのは十分後だった。
 絵里は一緒に待合席に座り、五十嵐さんの世間話に付き合っていたが、やがて店の向かいの通りに青の軽自動が停まったのを見て五十嵐さんがそそくさと立ち上がった。
「すんません、ほんと助かりました」
 おばあさんが帰ると和磨がシザーケースを腰に下げたまま、絵里のところに来た。手に持っていた櫛をサッとケースの中に突き刺した彼に、「あなた美容師さんだったのね」と改めて訊ねる。「さっきの方の髪も、あなたがやってあげたの? 素敵だったわ」
「あ、いえ、五十嵐さんはうちの店長のお客さん。俺がアシスタントの頃からずっとシャンプーとかカラーさせてもらってたから、親しくはあるんすけど。最近はああやって勝手に店を出てっちゃいそうになるから、怖いんすよ。もし事故でも遭ったら俺たちの責任だから」
 高齢で認知症の母をひとり置いて、時間通りに戻れない可能性の高い場所に行ってしまう娘も、絵里からしたら危なっかしさを覚えてしまう。先ほどの五十嵐さんのように「自分は大丈夫」と思い込んでいる認知症患者は、小さな子ども並みに行動が予測不能で、冗談じゃなく、「大丈夫じゃない」ことが多々ある。叔父にも似たような症状があった。徘徊癖というほどではなかったが、常に目を離せない恐怖が叔父の介護には付きまとった。
 和磨も同じ恐怖を感じていたから、五十嵐さんの挙動に目を光らせていたのだろう。
「それじゃあ、わたしはこれで……」
「やっていかないんですか?」和磨が言った。
「え」
「俺、今なら空いてます。お礼にカット代くらいサービスしますよ」
 媚びもなければ無愛想でもない絶妙な脱力感が、いい意味でも悪い意味でも無防備に見える。「島崎さん、ちょっと髪伸びてるでしょ。後ろが少し重たい」
 絵里のヘアスタイルはゆるいパーマのかかったボブスタイルである。最後に切ったのは一か月半くらい前だろうか。そろそろ肩につきそうになっている。
「そんな、悪いわよ。わたし大したことしてないもの」
「ンなことないっすよ。いてくれてよかった」
「でも……」
「あ、じゃあ」
 受付台にあったメニュー表を見せてきて、「指名料300円」を指で差す。
「これだけいただくってのは、どうです?」
 不思議な子だ、と絵里は思う。
「それとも俺みたいな若い男に切られるのは不安っすか?」
 和磨は典型的な首猫背だ。しかし、そこから放たれる僅かな上目遣いに、決してあざとさや粘っこさはなかった。そして無理に迫ってくる気味の悪さもなかった。現に絵里と和磨の立ち位置には、間にヒト二人分くらいの距離があり、また、目の前にいる和磨はほぼ無表情である。「ここで回れ右して店を出て行っても俺はあなたを追いかけませんよ」という無理やりさのない感じを、その175センチほどの立ち姿が醸し出している。
「あなたは……嫌じゃないの?」
「なにがっすか」
「こんなこと言うのもアレだけど、わたしが実は芸能記者の関係者で、あなたたちの今の様子をリークする可能性だってあるかもしれないのよ? 絶対ないけど。祐希人くんだって、そういうのが嫌だからわたしを家に上げたくなかったんでしょう?」
「五年も経って、今更、メディアが俺たちのことを掘り返す理由がありますか? 犯人の手がかりが見つかったわけでもないのに。そもそも島崎さんは」
 そこで今日初めて和磨が、笑う。「ンなことしませんよね?」
 目の前で、バチンとなにかが光ったようだった。
「俺にはそうは思えない。祐希人にコレ言うとまた叱られるかもしんないけど、祐希人だって、むかしはあんなに神経質で疑い深いヤツじゃなかった。むしろ俺よりのんびりしてたっすよ」
「……事件が起きるまでは」
「そうです。あんなに鏡ばっかり眺めてるナルシストでもなかったし。美咲がね、死ぬ間際に言ったんです。あんたたちはもっと自分を愛せって。自分のために生きて自分のために死ねって。あたしみたいになるな、と」
 どういうことなのか。だが、深くは切り込めない。「そっから俺もあいつもおかしくなっちゃった」
「おかしくなっているようには、見えないわ。あなたたちは」
「それは島崎さんが気づいていないだけです。終わってますよ、俺は」
「そんなことない。あなたはこうやって責任ある仕事を持って、周りの信頼を得て、社会貢献をしてる。その時点で、終わってなんかいないのよ」
 和磨が、ほんのわずかだが、上下に動いた。それからまるで子どもがなにかを我慢しているみたいにシャツの裾をもぞもぞと掴んだところで、絵里のバックからスマホが鳴った。彼に断りを入れ、電話に出る。
『絵里。久しぶり』
 美濃部礼一だった。
『いま、たまたま時間が空いたから電話してみたんだ。三週間ぶりくらいかな。君の声が聞きたくなってね』
「礼一さん……」この頃、美濃部と話していると、喜びと不安が急激に募って混ざり合って、正体不明の震えが身体に走る。「わざわざ電話ありがとう。でも今、少し取り込み中なの。悪いんだけどあとでかけ直しちゃダメかしら」
『そうか、それは申し訳なかった。ついでに、次に会える日を少し早めたいと思って、相談したかったんだけど』
 早めたい、というどこか性急な言葉。「来週の土曜日にデートする約束だったわよね」覚えた違和感をなるべく悟られないよう、落ち着いて聞いてみる。「それを前倒ししたいってこと? 土曜日は、千葉の国立自然公園に行く約束だったけれど」
『土曜日の予定はそのままにしておいてよ。その前にディナー……ランチだけでもしたいなと思ったんだが』
 また金を貸してほしいのだ。そんなに急に。
「ねえ、このあいだ貸した分もまだ……」
 和磨の視線にハッとして、慌てた。「じゃあ、今夜にでも会いましょうよ。南麻布のいつもの『権兵衛』で」
『いいのか?』わかりやすく美濃部の声がはずむ。こういうところが可愛いのだ。『じゃあ、この前お願いした金額で頼む』
「わかったわ」
『いつもありがとう、絵里。愛してるよ』
 顔が引きつるのとは裏腹に、胸がじんわりと熱くなる。美濃部という甘い蜜の味から、やはり離れられない自分がいる。鴫原が生涯でほとんどくれなかった言葉を、美濃部は惜しみなく自分に注いで、満たしてくれる。
「わたしもよ、礼一さん」
 電話を切った。和磨がなんとなく訝しんでいるのは、わかっていた。
「ごめんなさい和磨くん。わたし、急がなきゃいけないの」
「……まだ1時半っすけど、もう行かなきゃならないんすか」
 もちろん和磨は電話の内容を聞いていたはずだ。今夜、誰かと会うということを。絵里の口調からして相手が親密な関係にあるのも、察したかもしれない。
 愛人に――いや、夫と別れた絵里にとっては美濃部はただ一人の恋人になるかもしれない――金を貸すぐらい、大したことじゃないと思っていた。美濃部に過去十回ほど貸しているが、最初のほうはちゃんと返してくれたし、いずれは全額返済してくれるに違いないと信じている。
「引っ越しを……すると思うの。付き合っている人がいてね、その人の会社の近くに、なるべく早く家を見つけたいの。だから不動産屋さんに相談しに行くわ。時間があればすぐにでも内見させてもらえるかも」
「ふうん」
 絵里は気づかない。和磨が今の一連の流れで、絵里の現状の半分くらいを掴んだことを。
 恋人同士であれば、普通、新居の相談や内見を女一人に任せるのは不自然ではないか。電話から察するに、男はいま仕事中で、終業後の夜に会う約束なのだろう。さらに、「このあいだ貸した分もまだ」という絵里の狼狽した声も聞き逃せない。ただの恋人同士じゃない。そもそも、島崎さんが離婚した理由が、もしかしてコレじゃないのか?
 俺たちこそ、この人のことをなにも知らないが、小さな違和感の糸を引っ張った先にドデカイ不穏の塊が釣れるのがなんとなく想像できてしまう。
 これをあえて引っ張ってみるか、それとも放置するか。
「美咲ならどうするかな」
 えっ?と絵里が訊き返す。
「ああ……とりあえず、こう言うかもな。『島崎さん、気を付けたほうがいいよ』って」
5/11ページ
スキ