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第一章 シンデレラ・シンドローム

 事件当時の丹羽美咲は24歳だった。
 絵里は美咲と、目を合わせた。彼女は長い睫毛でにっこりと笑っている。そうして天使みたいな顔で遺影の中で永遠に凍り付いている。
 都心のジーンズショップで働いていたという。パーマのかかったロングの髪は明るい茶色で、派手なファッションに派手なシャツ。それがとてもよく似合っていた。
「顔の雰囲気はどちらかというと祐希人くんに近いのね」
 絵里は穏やかにつぶやいた。「でも、笑ってる目元は、和磨くんに似てるかも」
 後ろで、石のように座り込んでいる兄弟二人はなにも言わない。
 なぜ丹羽家が、この子を奪われなければいけなかったのか。しかもまだ24歳。24って、わたしが孝道さんに出会って、この人と幸せになるんだいつか結婚するんだと、毎日夢見ながら過ごしていた時期だ。女にとって一番美しくいられる、それでいて未来への希望に溢れたかけがえのない年頃なのだ。
 美咲の命を奪った連続殺人鬼「カメレオン」が未だ行方知らずのまま逃亡を続けているのは、絵里ももちろん知っている。
「カメレオン」の被害者は若者が多い。特に女性。現時点で彼(彼女?)の犯行と確認されている被害者は一人を除いて8人。全員が遺体で発見されており、ほとんどが女性だった。あくまで確認されているだけで合計8人というだけで、実際はもっといる可能性もある。
「カメレオン」がいま現在も日本全国に恐れられている理由は、単に手をかけてきた人数だけでなく、その残酷な殺人方法によるところも大きかった。
 丹羽美咲のケースはその最たるものだったといっても過言ではない。――だから、和磨を忘れられるわけがなかったのだ。
 絵里は仏壇の前からしばらく動けなかった。後ろに座っていた祐希人がつと立ち上がり、台所へ向かったのも気づかなかった。しばらくするとほんのりと香ばしいかおりが和室に漂い、「島崎さん」と絵里から少し離れた場所でじっと彼女を見守っていた和磨が、口を開いた。「コーヒー飲みます?」
 祐希人の声もする。「リビングへどうぞ」
 祐希人が淹れてくれたコーヒーは飲んだことのない種類だった。口にまず芳醇な苦味が広がるが、余計な酸味はなく、深みがある。甘味のようなものさえ感じるが、だからといってフルーティな味わいとは違い、そのなんともいえない絶妙なコクが癖になりそうだ。
「いいコーヒーね。おいしい」
「お口に合ったのならよかったです」感情を抑えた声で祐希人は言った。「それで、気は済みましたか?」
 やはり、祐希人としてはあまり絵里と関わりたくないのだろう。
 美咲の仏壇に手を合わせるという目的は果たしたのだから、絵里がこれ以上ここに滞在する理由はない。おいとまします、とこっちがさっさとコーヒーを飲み干して席を立つのを待っているのだ。それが一番安全で平和に、終わるのだ。
「……しばらく家のお片付け、できていないのね。二人ともお仕事が忙しいのね」
 目を上げた祐希人の喉ぼとけが、大きく動いた。「それがなにか」と絞り出した言葉尻がふるえた。
 美咲の仏壇があるのはマンションの一室の奥の和室だ。玄関からそこに辿り着くまでのほんの十数歩のうちに、洗濯カゴに大量に突っ込まれた男物の衣服、キッチンに放置された可燃ゴミと思しきビニール袋、しばらく掃除機のかけられていない廊下の隅のホコリ、とりあえず畳まれてはいるがそのままリビングのソファーの上に置かれ、他の家具と同じような顔してそっと風景に溶け込んでいる乾いた服、丸めた靴下。それらが若い男二人の住居に突然上がり込んできた48歳の女を、無感情に迎え入れた。人を招き入れることに積極的ではない、ましてや女性を連れ込んでいる気配も微塵もない、と絵里は直感で思った。軽く荒んだ兄弟の根城の奥で、亡き美咲の遺影と仏壇だけがホコリ一つなく磨かれていた。
 自分の顔を鏡で眺めていなくては気が済まない祐希人でさえ、本当は今も美咲のことしか考えていない。
 あの事件以降の兄弟の生き方が、この家の様子にすべて集約されている。少し散らかっているだけで、床が足場の踏み場もない、というほどじゃない。真っ白な陶器のティーカップは丁寧に洗われていて傷一つなく、シンクに積み上げられた食器の中からではなくちゃんと、棚にしまわれていた新しいものを出してくれた。常識は残っているし、二人とも家事を一切やらないというわけでもなさそうだ。それでなくとも、きちんと仕事を持つまっとうな大人たちなのだ。わたしが心配しなくても二人で普通に生活できるだろう。孝道さんと、お義母さんみたいに。
「わたしになにかお手伝いできることないかしら」
 だが、そう口走っていた。
 和磨が「手伝い?」と聞き返す。「たとえば、どんな」
「どんなって、なんでも」
「暇なんすか」
 絵里は苦笑する。「そうね、時間はたっぷりあるの、わたし。おうちの中の片づけとかね、こう見えて得意なんだから。わたし専業主婦だったの。離婚したけどね。でも、家事なんでも得意だし、早いのよ。だから、あなたたちの代わりに、わたしが……」
「なぜ俺たちが、あなたを、家政婦として雇う必要があるんです?」
 遮ったのは祐希人だった。
「あなた親戚でもなんでもないでしょ。結構です」
 しまった、と瞬時に内省する。あなたの一言はたまに余計な世話なのよね、と義母によく注意されてきたのに。
 祐希人はプライドを踏みにじられたような顔だった。絵里は、下半身が喪失して、背中をくだった冷たいものが全部そこから流れ出ていくような感覚のまま、座っていた。
「………コーヒーごちそうさまでした、本当に今日はありがとう」
 冷たいままの足では、うまく立ち上がれたかもわからなかった。だが、ふらつきながらも逃げるように席を立った絵里の姿を、

「本当になんでもしてくれるんですか?」

 和磨のサイボーグのような黒目が引き止めた。
 なぜだか、絵里の息が止まった。
 祐希人がじろりと和磨を睨む。その和磨は、
「冗談です」
 と口だけで微笑む。「でも島崎さんの言うとおり、部屋ちょっと片づけないとヤバイよな、そろそろ。五年前よりはこれでもなってんだけどね」
 持ち手ではなくカップそのものをつまみ上げるようにして和磨はコーヒーを飲む。ミルクたっぷりのまろやかなベージュ色が、ぐびぐびと喉へ吸い込まれる。やがて静かに置き、「油断すると今でもすぐこうなる。でも、自分たちのことは自分たちでやるしかないし、そうじゃないと良くないから。ありがとう、島崎さん」
「……かーくん」
「あ、今日は、美咲のためにわざわざ、すんません。そういえばちゃんとお礼言ってなかった」
 和磨が頭を下げた。毛量の多そうな髪の根本が、黒かった。頻繁に染めているのか、少し枝毛もあるようだ。となりの祐希人も気まずそうにしながらも、兄に倣った。
「そんな……いえ、こちらこそ」
 奇妙な光景だろう。ずっと交わることのないと思っていた悲劇の青年と、その弟の家で、三人で毛根を突き合わせているなんて。それは和室にいる美咲に対する黙祷かと思うほど、静かな五秒間だった。



「島崎さんになにを言うつもりだったの、かーくん」
 台所で食器を洗っていた祐希人が、客人の去ったリビングへ声を投げる。ソファーに腰を深く沈めて、天井を仰いでいた和磨からしばらく返答はなかった。
「べつに、あんなすげない追い払い方をしなくたってよかっただろ、ユキ」やがて和磨の口が発したのはそれだった。
「俺の質問に答えて。かーくんは時々そうだよ、しれっと話を逸らそうとする」祐希人に怒っている様子はない。兄の性格をよく知っているからだ。軽く笑いながら、スポンジで優しく皿を撫でまわす。「誤魔化せないよ、俺のことは」
「……べつにー」
「べつに、なに」
「ただ言ってみただけ。あのお姉さんに、オレたちの生活に首を突っ込める覚悟があるのかどうか」
「お姉さんっつーか多分おばさんだろ。美人だけど、40は過ぎてるよ、俺の推測では。ほうれい線とか、首回りの感じを見る限りね」
「そういうこと言ってやるなよ」
「俺らは二人でいいんだ」
 祐希人の手が、スポンジを強く握り込む。もちぃ、と泡が指の隙間からはみ出る。
「誰かの力を借りなくたって大丈夫だ。ホイホイ人を信用しすぎると痛い目見るぞ」
「俺って警戒心がなさすぎるのかな?」和磨は頭の後ろで両手を組み、首をかしげる。「マスコミに家ン中入られたのも、気づいたときには手遅れだった」
「でもあれはいい教訓になったよ」祐希人は少し冷静になったらしく、また皿を洗い始める。「俺たちに近づいてくる他人に対して、無暗に甘えを出したら付けこまれるんだってね。人は自分より不幸にあった人間を見ると、ああ自分の人生こいつよりマシだって安心して、見下すんだ。無意識のヤツもいれば、明らかに態度に示すヤツもいる。さっきの島崎さんもそうだろう。俺たちのことを心配できるくらいの余裕があるんだ、あの人は」
 自嘲するような笑い声を立てた。祐希人の声は一本調子だ。そして徐々に早口になる。
「専業主婦だったって言ってたよね。母さんもそうだったから、専業主婦には専業主婦の大変さがあるのは俺も知ってるよ、でもさ、俺らに仕事忙しいのねとかなんとか心配してくるようなこと言って、どうせ自分のほうがいい人生送れてるから良かったわ、って心の中では多少の軽蔑をしているよ。俺にはわかるよ。そんなヤツ死ぬほど見てきたんだ。同情するくらいなら放っておいてくれたらいいのに。悪いけどああいうのが一番、信用できない」
「ごめんな」
 祐希人が、撃ち抜かれたように目を見開いた。水を出しっぱなしにしていたことを今、気がついた。シンクに置いた皿の泡が勝手に流されていく。和磨がリモコンでテレビの電源を入れる。
「ユキの人間不信は、しょうがないよ。あんたも余計なこと考えないほうがいいんじゃないの? ユキのためにも」
 誰かが言った。
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