このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

第一章 シンデレラ・シンドローム

 絵里の両親はすでに他界している。父、母共に病死だった。父にいたっては絵里が二十歳のときに亡くなり、母も四年前に癌になって、突然余命宣告を受けた。一年と八カ月の闘病生活だった。
 両親の莫大な資産はもちろん、一人娘の絵里に丸ごと相続されている。つまり自動的に鴫原家の貯蓄に変わったのだが、離婚の際、鴫原はずっと手をつけていなかった絵里の両親の資産をそのまま絵里に譲ったのである。
 母の必死の説得も跳ねのけて。
 もしかしたら自分を裏切った妻の相続金など、持っていたくもないと思ったのか。
 だとしても、不倫されたのは鴫原のほうなのだから、慰謝料だのなんだの、むしり取ろうと思えばできたはずである。無論、義母がすぐ納得するはずもなかった。あんたおかしいんじゃないのかい、この女を許すのかい、と食い下がった。こんな、実家の遺産しか取り柄のない浮気女を。
『許しているのではないよ、母さん。だったら別れたりしない。鴫原と島崎の関係を、真っ白に戻すだけさ。ウチに関係ないヤツの遺産を、ウチが所持するのは根本的におかしいだろ? それだけだよ』
 鴫原の声音は強かった。
 鴫原家から、絵里の痕跡をすべて絶ちたかったのだ。彼の決意は良くも悪くも揺るがなかった。
『なんでもいいから出ていってくれ』
 昨日のことどころか数秒前のことのように思い出せる。あのときの鴫原の顔を。
 父と母に会いに行こうかしら、とぼんやりベッドの上に座りながら、考えた。気晴らしに、といっては両親に申し訳ないけど。
 墓は絵里の実家があった世田谷区・成城にある。墓参りのついでに都内の不動産屋を回ってみよう。
 昨日八ツ星駅の百貨店で買った、あたたかいタートルネックセーターとロングスカートに着替える。それからトレンチコートを羽織り、玄関でシルバーのパンプスを履こうとして、本当に買い足すべきは靴だったのではないか、と絵里は唇を噛みたくなる。だが、花の蜜に誘われる蝶のように、また絵里の白い足は鴫原のくれたパンプスの中に吸い込まれ、ぴったりと密着した。じん、と足首が熱を持つ。
 通勤ラッシュは引けていた。八ツ星駅東郷線ホームは然程混んでいない。まもなくして、新宿行きの電車が突風を連れてホームに滑り込んだ。肩まで伸びていた髪がぱたぱたと揺れ、美容院行きたいなと思った。
 あ。
 絵里は、声が出そうになった。今日は火曜日だ、そういえば。
 電光掲示板に目をやると、9時6分発とある。乗るかどうか考えた。この次の――13分発とある――電車まで待つべきか。
 とっさに、階段のほうへ振り返る。

 一年前、叔父が亡くなった。
 絵里は週に三回、叔父の介護に通っていた。叔父のところには息子が一緒に住んでいたが、息子は仕事をしており、妻もすでに他界していたため、絵里がよく世話をしに行っていたのだ。四年くらいそんな生活が続いただろうか。昨年、叔父が85歳でこの世を去ってからは、火曜日のこの時間に電車に乗る理由がなくなり、そうなれば必然的に、彼の姿を見ることもなくなった――。
 当時、絵里がいつも露瀬駅から乗っていたのは9時3分発新宿行きの電車だった。露瀬は八ツ星駅のひとつ前だ。
 それに乗れば必ず、彼がいたのだ。
 火曜日のこの時間のこの電車……5年前の事件が起きたときと、まったく同じ車両に。もう一度階段のほうへ首をよじる。
 自分の呼吸が一瞬浅くなったのを感じた。



 13分発の電車に乗り込むと絵里はドアからもっとも近い座席に座った。通勤ラッシュが引けた時間帯とはいえ、都心行きの電車だ。席が空いていたのはラッキーだった。
 電車は街の中を縫うようにして走る。雲ひとつない快晴が広がっている。途中の大きな川の前に差しかかると、一面緑の芝生が広がる広い土手が一望できた。土日であれば草野球に興じる少年たちの姿が見られる場所だ。
 青年の無気力な横顔が、朝日を浴びてきらめく土手を眺めていた。
 絵里はスマホを見るでも眠るでもなく、ただじっと座って、時折、青年の姿を盗み見た。斜め右向こうのドアの前に彼は立っている。
 彼が発車一分前に階段をのろのろ上ってきて、ホームに現れたのは、正直予想通りだった。きっと現れるに違いないという確信めいたものがあったのだ。そして同じ9時6分発新宿行きの電車の同じ車両に乗り込んだ。
 青年とは知り合いじゃないし、「事件」のときでさえ言葉を交わしていない。向こうもこちらもそれどころではなかったからだ。だが、孤独なホテル生活を過ごしていた絵里にとって知っている顔を一目見れたこと、そして彼が今もまだ火曜日のこの時間の電車に欠かさず乗っていたことに、ひっそりと安堵してしまうのだった。
 青年のフルネームは知らない。あの日殺害されたのが彼の妹「丹羽美咲」だということ、つまり彼の苗字もおそらく「丹羽」であるということ以外、彼のことをなにも知らない。ネットで調べれば兄の名前くらい簡単に出てくるだろうけど……5年経った今でも、調べる勇気がなかった。それどころかあの日のことを克明に思い出す勇気もずっとなくて、事件に関する情報を意図的に避けてこの5年を生きてきたといってもいい。
 それでも、丹羽青年のその後を気にかけずには、いられなかった。
 だから彼が毎週火曜日のこの時間に電車に乗ってどこかへ向かっていることに気づいてから、自分も同じ電車に乗るようになった。そして毎週、確認した。彼の生きている姿を。彼が、妹のあとを追って自ら命を絶つようなことになっていないかを。必要以上に痩せていないかを。気が狂った行動をしていないかを。見守り続けた四年間、丹羽青年はいつも無表情だった。
 あのとき。
『美咲が殺される、殺される、誰か助けてください! 美咲を助けてください!』
 泣きながら、床に蹲って訴えていた。乗客はなにもできなかった。彼の妹、丹羽美咲は、彼のスマホ越しに殺害された。彼女の死ぬ瞬間を耳で聞いた青年は、まるであの日の出来事を絶対に忘れてなるものかと自分で自分を呪縛するかのように、ああして感情のない目をして、同じ電車に乗り続けているのを絵里は知っていた。
 叔父の介護を終え、一年ぶりに彼の姿を見たが、茶色のくしゃくしゃ髪型から若干の姿勢の悪さまで、まるで変わっていない。電車が来る直前、ホームに上がってきた彼の姿を発見したときは鳥肌が立った。やはりまだ続けていたのか、と。平日のこの時間に欠かさず乗れるということは、火曜日は休みなのか。それとも出勤するのか。どこへ行くのか。
 しかし丹羽青年はなにも事件後すぐに戻ってきたわけではない。彼が再びこの車両に現れたのは、事件から丸一年経ってからだった。絵里も事件から半年の間は、どうしてもつらくなってしまうので同じ時間の電車を避けていたのだが、それ以前のルーティンがあったため、結局元の時間の電車に戻ってしまった。そしてある日、彼を見つけた。以来、叔父が亡くなるまでの四年間、毎週同じ電車に共に揺られ続けた。
 声をかけたことはない。目が合うこともない。それでも放っておけない。
 電車は「白河国際大学前」駅に停まった。学生と思しき乗客が何人か降りていく。椅子の下からじんわり沸いてくる温風に、絵里がウトウトしかけていたそのときだった。
「あ、いた。かーくん」
 入れ替わりで乗ってきた背の高い男の子が、丹羽青年に話しかけたのは。驚いて目が醒めた。
 大学生にしては大人びている。おそらく学生ではない。丹羽青年の知り合いが突然現れたことよりも、その彼の容姿がまるで俳優がモデルのようにスタイルが良く、美形であることのほうに絵里は驚いた。姿勢も良く、身体の半分が脚である。ドアの前でスマホをいじっていた女の子が顔を上げてあからさまに彼に見惚れているほどだ。
 かーくんと呼ばれた丹羽青年のとなりに、美形が並ぶ。
「おう。あった?」
 丹羽青年の声を、実に五年ぶりに聞く。
「うん、やっぱり職場に置き忘れちゃってたみたい。玲奈さんが朝、店を開けたときに気づいて、俺がきっと取りに来るだろうと思って預かってくれてたみたい。うんざりした顔で渡されたよ」
「そりゃそうだ」丹羽青年の表情は変わらないが、言い方に棘はない。「お前のソレは相変わらずヤバイ。むかしから心配だったけど、年々レベル上がってんじゃん」
「ははは」美青年はさわやかに笑って、かわす。「まあとにかく電車、間に合ってよかった。かーくんと一緒に行きたかったからね」
 彼もまた丹羽青年に会うために、同じ電車に乗ったのだ。
 美青年が誰なのか、絵里には心当たりがあった。
 丹羽青年の弟だ。
 殺害された丹羽美咲には兄と弟がいる、と事件当初どこかで聞いたのを覚えていた。美咲もまた綺麗な女性であったし、穏やかな喋り方や落ち着いた雰囲気がとなりの丹羽青年にどことなく通ずるものがあるから、おそらく彼が丹羽家の末っ子……のような気がする。それにしてもあんなイケメンだとは。
 どうやら二人はこの電車のこの車両で待ち合わせをしていたようだ。その前に職場に忘れ物でも取りにいったのだろうか。
「二人で行くの久しぶりだよね。俺、普段は火曜日あんまり休めないから」
「お前がいないと、玲奈さんが困るだろ。今日シフト大丈夫だったのか?」
「川上くんがだいぶ仕事を覚えてくれたから、そろそろ俺がいなくてもいけるだろうって、玲奈さんが休みをくれたんだ。その代わり土日はびっちり出るよ。相変わらず人が足りてないからさ、うちは」
「大変だよなー、飲食店は」
「いつぶりだろう」
 電車がまた駅に停車する。人がまたわずかに入れ替わる。
「兄弟三人集まれるのは」
 絵里は、胸の芯を掴まれたようだった。
 恵野(めぐみの)駅で兄弟は降りて行った。ドアの前に立っていた女の子が最後まで弟の背中を目で追っていたが、絵里は、本当に追うために降りた。
2/11ページ
スキ