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第一章 シンデレラ・シンドローム

「いいか、舞踏会は終わりだ。シンデレラは家政婦に戻る」
 斬りつけるような祐希人の声が周辺の空気を震わせるようだ。「ただし元旦那のじゃない。今度は俺たちの、ね」
「結局お前たちも絵里を利用するんじゃないか」眉毛を吊り上げた美濃部が近づき、凄んできた。「絵里の財産が目当てか? それとも身体か? 確かに絵里のスタイルのよさは普通の48の女のそれじゃない。胸もでかいし、若い男が欲情するのもおかしくない」
 ゴミを見るような目をする祐希人の前で、一人勝手に興奮し始める美濃部からは大人の貫禄なんてものが完全に剥がれ落ちていた。ウザいな。祐希人は声に出さず悪態をつく。こんなのが大企業の営業部長やってるとは俄かに信じがたいが、案外世の中、そんなもんか。
 かーくん、もう島崎さんを攫ったかな。俺も帰っていい?
「大体、こういうときは絵里さんを俺たちにください、と兄弟揃って挨拶に来いよ。それくらいの礼儀、わきまえておけよ」
「気持ち悪。不倫相手だろ。なんでそんなことしなくちゃいけねえんだ、お前みたいなやつに」
 まずい、口が荒くなってきている。抑えろ。
「というか結局てめえも、奪うんじゃねえか。俺から絵里を。なにもかもを奪われた人間の気持ちなんて俺には一生わからない、とのたまっておいて」
「俺たちは奪うんじゃない。島崎さんを助ける」
「そんな綺麗事、通用すると思ってんのか! 俺と別れることが絵里を助けることだと、誰が言ったんだ? 絵里がそう言ったのか? え?」
 目をひん剥き、今にも祐希人の喉元に噛みつかんばかりの剣幕だ。確かにこっちも都合のいいことを言っている自覚はある。だが、この男だって、ずっと都合よく島崎さんを使ってきたんだ。かーくんだったらこういうとき、どうするだろう? 記者がこちらの取材拒否を無視して家に押しかけてきたときのように、ただただ冷静に取り成しただろうか。
 そういえば。あのときが初めてだ。美咲が殺される前は人と喧嘩もしたことがなかった自分が、記者に殴りかかって容赦なく蹴飛ばして泣きながら激昂したのは。あれから祐希人の怒りの沸点はおそろしく低くなった。そして一度解放された感情に収集がつくまで、時間がかかる。今だって、右手をぎりぎりと固めすぎて爪が皮膚を貫通しそうだ。頭に真っ赤な衝動が突き上げそうである。よくこんな男と付き合えたな、島崎さんは。
 俺とかーくんはもはや互いを補い合ってでしか生きていけない。兄がいなければ、次に犯罪者となるのは自分だったかもしれない。
 だけどもう、そろそろ、かーくん以上に俺が壊れるわけにはいかないのだ。しっかりしなきゃ。
 寿司屋での葛西の言葉を思い出す。


『俺は確かにお人好しなのかもしれないけど、あの人を頭っから見捨てる理由が見つからないんだよな、俺には』
『和磨ァ』
 葛西の指摘のほとんどを、祐希人は肯定できた。
『お前、人に心配かけないように、事件後もずっと普通のツラで生活してるつもりなんだろうけど、やっぱり表情筋の半分は死んだぜ。ま、お前のことだから、自分でも気づいてんだろうがな』
 それを聞く和磨も顔色は変えなかった。向かいに座る自分はため息をつくしかなかった。
『だけどそれは、仕方のねえことだ。無理に自分を変える必要もない。祐希人みたいに外面だけがいいイケメンピエロになったって怖いだけだし、俺みたいな面白イケメンになられても面倒だからな。面白イケメンは俺一人でいいんだから』
『誰がだよ』
『いいツッコミだな祐希人、お前、いつも思うけど才能あるぜ』
『ツッコミとかじゃないです』
『要するに、俺が一番怖いのは』
 底に溜まったビールの残りを飲み干した葛西は一回、ゲップをしたあとで、『底が見えなくなったんだよ。丹羽和磨の』と今度は唾を飛ばす。それはテーブルに飛び散って、汚い。
 なんでこの人彼女と三年も続いているんだろうと疑問になる。
 だが、底が見えなくなった――か。
『おかげでお前のこと、ネタにしづれえんだよ。どうしてくれんだよ』
『そろそろ俺を使うのも、ネタ切れってことだろ』和磨はシニカルに笑うだけだ。
 葛西洸介とは美咲の事件以降、葛西のほうからなにかと世話を焼いてくるようになり、そこから交流が始まったのだが、それ以前はただの「売れない芸人をやっている兄の友達」という印象でしかなく、祐希人は劇場へネタを見にいったことすらなかった。
 事件からしばらく経ち、初めて葛西のコンビのコントネタを観覧したとき、自分のナルシストぶりを無断で、堂々と盛大に、ネタに使われ、しかも、細かいところまで精密に再現されていたのを目の当たりのしたときは寒気がした。もちろん笑いのため幾分誇張している部分もあったが、和磨がネタ提供でもしているのかと思うほどだった(実際和磨は葛西のネタに今まで関わった経験がない。そして、その和磨もむかしからちょいちょい勝手にネタにされているらしい)。だが、それでいい具合に面白くされていて観客からの反応もよかったので、文句が言いづらい。
 鈍感でいい加減で、仕事もなく、同じく売れない仲間たちと酒を飲みながら夢を語る毎日に明け暮れるダメ人間……という葛西に、どうして和磨が高校時代からずっと心を開けているのか、疑問でしかなかったのが正直な話だ。
 しかし関わってみるとわかる。彼の、笑いと皮肉に対するアンテナの張り方は尋常ではない。だから和磨は、彼には隠し事をしないのだろう。飯をせびられても、自分自身を勝手にネタにされても。葛西の目は誤魔化せない。
 そして、こっちの欠点も適当に受け入れてくれるから、付き合うには楽なのだろう。
 だが、あのときの葛西の指摘で一つだけ否定できるものがある。実際にピエロなのは兄のほうだ。
 和磨は、自分自身なんて、心の底からどうでもいい。彼の行動は全部、周りのためでしかない。自分はいつ死んでもいいと思っている。ただ、祐希人と父と、美咲のために生きているだけだ。


 それは一つ、大きな意思の塊だ。感情を半分失った代わりに、兄にはそうした「生きる理由」が――歪んではいるものの――ちゃんとある。自分と違って。
 元々、兄はあまり感情的なタイプではなかったが、それでも以前に比べて和磨の表情筋がきちんと機能しなくなったのは火を見るよりも明らかであり、稀に本気で爆笑したり困惑したりしていても、芯の部分はほとんど靡いていない。ひょっとして、和磨の意識そのものが和磨の身体から遠く離れた場所にあり、ゲームのコントローラーみたいなもので、自分の顔の動き身体を操っているのではないかと、たまに疑いたくなる。
 だけど、その遠くにある和磨の魂からときどきテレパシーみたいなものが伝わるのだ。それは祐希人にしかキャッチできない、和磨からの、かすかな感情のサイン。
 でも、そこに悪意はない。兄はいつだって純粋に誰かのためを思って行動する。それは、姉がいなくなる前から変わらないのだ。
 と、祐希人は信じている。
「俺たちの人生の方向性を常に決めてくれるのが、かーくんの役目だ。俺は、かーくんの望み通りに動き、こういうときにかーくんに代わって怒ったり悲しんだりもするのが役目だ。たとえ俺の本心と少しズレていても。島崎さんを奪う俺の中の理由はそれでしかない。でもお前のもとにいるよりはぜんぜんマシだろ」
「さっきからなに、意味不明なエゴ語ってんだよ? くだらん!」
「でも、あんたのほうが、やっぱりくだらない」心からのニヒルな笑みを浮かべる。「と、正直俺も、権兵衛の親父さんも思ってる」
 わかりやすく美濃部が動揺し、祐希人は口笛を吹きたくなる。
「お前いま、なんて言った」
「言葉の通りさ。あそこはあんたの会社の人たち、よく来るんだってね」
 そもそもなぜ俺が絵里を連れて権兵衛に行ったことを知っている、と聞きたそうな目だ。そう思うのも当然だよな。祐希人は肩をすくめる。
「俺たちが行ったときには、あんたを知る部下数人がカウンター席に座っていた。つい先週の土曜の晩だったかな。まあ美濃部礼一は若い頃から遊び人で有名だったみたいだけど、同期の鴫原さんの奥さんをお金目当てで寝取ったなんて、会社の人に知られたらどうだろう? そこから上役の耳にでも入ったら? そういえば、親父さんはあんたの女好きをとっくに看破していたんだろうね、美濃部さんならやりかねないな、って渋い顔してたよ」
 なぜか美濃部は得意げに威張った。「お前らみたいなヤツらの話を会社が本気にするわけねえだろ。そんな程度で勝ったつもりか? これだからガキは」
 当人は鷹を括っているが、祐希人の見解では、彼にとってはなかなかマズイことになっていると思う。美濃部が想像している以上に、美濃部のタチの悪い不倫騒動は店内で盛り上がったのだから。今はまだ、大企業のオフィス内で美濃部の耳には届いていないかもしれないが、あそこには噂好きの女性社員が集まる経理部の若い女の子もいた。目をハートにして自分の顔にうっとりしてくれた彼女の影響力で、早く広まってくれることを祈る。
「一つ懸念なのは、女の子にその話をした俺のかっこよさのほうが大企業の中で波紋を広げてしまわないか、だ。そうなるとあんたの悪評がかき消されてしまうからね」
 美濃部は、しばらくぽかんとしたあとで、祐希人の予想しなかった特大ナルシズムに嫌気がしたのか彼の胸倉を乱暴に引き寄せ、頬を殴った。「図に乗るなよ、バカが!」倒れた祐希人のこめかみに革靴の底を振り下ろす。186センチの祐希人の身体が激しく悶え、低く呻く。それに重なるように、甲高い女の声が「祐希人くん!」と叫んだ。
 絵里だ。
 喫煙所の外からだった。美濃部が慌てて出ると、そこには無表情の和磨が立っていて、後ろには顔面蒼白で立ち竦む絵里がいる。
「なにしてるの、礼一さん!」
 絵里が美濃部を押しのける勢いで喫煙所の中へ駆け出そうとしたのを、「大丈夫です」と和磨が片腕を広げて制する。「あいつはああ見えて、タフです」
「でも……!」
「絵里、こいつらはなんなんだ。さっきからひねくれた戯言ばかりで喧しいんだ!」
 忌々しそうに呻く美濃部に、絵里は泣きそうな顔で「ごめんなさい。わたし間違ってたわ」と今度こそ和磨を軽く押しのけ、前に出る。今にもこちらへ駆け出して自分のもとへ戻ってくるように感じた。俺がさっき言った愛の形をようやくわかってくれたのか。そうだ、お前は俺のもとでしか生きられないんだから早く戻ってこい。
「絵里……」
「確かにわたしは誰かに献身することが生き甲斐で、ずっと孝道さんに、そして今まではあなたに、そうしてきたわ。でも、守りたいものが変わったの。あなたじゃなくて」
「え?」
「もう、お金も返してもらなくていいわ。そのままあげる。その代わり今日を最後に、二度とわたしの前に現れないで」
「おいおい、お前までそんなこと。俺が今までどれだけお前のためにいろいろやってきたか、わかってるのか!」
「わかってないのはそっちでしょうが」淡々と口を挟んだのは和磨だ。「あんたみたいなの、見限られて当然でしょ。女性たちに甘やかされすぎて、今の自分自身の醜さが見えなくなっちゃってるくらい脳みそ溶けてるんすね。羨ましいっす。おめでたいっす。拍手」
 興奮気味に鼻の穴を広げてこちらを睨んでくる美濃部が、群れのメスたちを他のオスに奪われて孤独になったゴリラのように悲惨に見える。
「ふざけるな!」

 パチパチと手を叩くのをやめて、和磨が表情を消す。電球が切れたように、一瞬で。傍らの絵里は硬直し、こちらは目をぱちぱちとさせる。違和感を受け取り、美濃部も後ろを振り返って、あ、と言いたげに口を開けた。
 鏡を強く叩きつけ、割れた音が響く。
「は? 俺の顔に」
 まるで別人の声が聞こえる。
「俺の顔に傷がついた」
 爆発的な感情と意思が、丹羽祐希人の理性をぶち抜く。
「ふざけるなはこっちの台詞だ。は? マジ意味わかんねえ。なに?」
「ユキ」
 和磨は、宥める気もなさそうな無気力な声だ。「落ち着け。島崎さんの前だぞ」
「どうでもいいだろ許さねえ何してくれてんだ、おい、俺の、俺の、大事な顔」
「はい、もうダメっすね。落ち着くわけない。知ってんすよ、俺は」
「ゆ、祐希人くん?」
「言ったでしょ。あいつああ見えてタフだって」
 怒りで真っ赤に血走った祐希人の眼球に、さすがの美濃部ものけ反った。慌てて身を翻そうとする。
 しかし逃げられず、闇夜から股下90センチの男の右足が閃光のように飛び出して、横を向いた美濃部礼一の顔の右半分を突き刺した。
「うちの弟、こうなると普段の反動から、人が変わるんで。だから取り扱い注意なんすよ」
「慰謝料寄こせよ! 競馬なんかやってねえでよ!」馬乗りになり、美濃部の胸倉をがくがくと揺らす祐希人の右頬がわずかに腫れ、こめかみも、たらりと血は流れているが、傷はそれだけのようだ。意識を失った美濃部からはもう反応がない。
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