第一章 シンデレラ・シンドローム
トイレのついでにビアガーデンのすぐ近くの屋外喫煙スペースに立ち寄ると、幸いにも誰もいなくてラッキーと思ったのだが、すぐに背の高い若者が悠然とした足取りで喫煙所に入ってきた。
むかしから色男ともてはやされてきた美濃部礼一だが、その彼でさえハッとするほどの美青年である。首元にファーのついたデニムコートをサラリと羽織っている。決して派手な顔立ちではないが、長身でスタイルもよく、煙草にライターを近づける所作にもどことなく品があり、かと思えば細い煙草を挟み込む指から無骨な男らしさが滲む。絵に描いたようなモテ男だな、と美濃部は内心で苦笑した。そして少々疎ましかった。
絵里という最高の愛人を所持する自分がもう決して取り戻せないものをこいつは持っている。
「すみません、ライター貸していただけないでしょうか?」
突然、青年がこちらに声をかけてきた。自前のライターは火がつかなかったらしい。
素直に貸してやった。銀製の、ブランド名が刻印されたライターだ。青年は渡されたそれを興味津々に眺め回して、「いいなあ、こういうの持っているとかっこいいですよね。俺も欲しいんですよ」としみじみとつぶやく。カブトムシに目を輝かせる少年みたいな横顔だ。「男の格を一つ上げてくれる感じがして」
「そうかな」
「おじさんが、すでにもう色気がありますもん。モテてるでしょ?」
意外とグイグイ来る。でも俺も若い頃はこうだった気がする。「まあ、女には困ってないな」と笑った。
「へー。じゃあ今夜もデートですか?」
「そこのビアガーデンで女性を待たせてるよ」
「その言い方はもしかして、相手、奥さんじゃない人?」青年も悪戯っぽく微笑む。「綺麗な人ですか?」
カンの冴えた子だ。この美貌だから、彼もさぞ遊んできたのかもしれない。最初は面倒くさかったが、どうせ子どもみたいな恋愛しかしていない人懐こいイケメンに、気がつけばマウントを取っていた。「美しさも気立ての良さも財産も、妻より極上だよ、彼女は」
「うわ。最高の不倫」気持ちいいくらいストレートな青年の言い方は、逆に好感を抱いた。
そうだ、最高だろう。絵里だってこの状況の心地よさを早く思い出すべきだ。
正直、最近の絵里の煮え切らない態度にはイライラしていた。酔いも手伝い、美濃部はさらにスカッとしたくなって、「でも結局、妻を一番愛してるんだけど」と声を立てて笑う。
青年も同じように爆笑する。
酒が入ると美濃部礼一は気が大きくなる傾向があった。
「ねえ、でも、浮気してるのはその美女だけですか?」
「風俗は浮気にカウントされるかな? 俺はされないと考えてるんだけど」
「カウントする女性のほうが多いと思いますけどね。へー、じゃあ、たくさんの女性に囲まれて毎日幸せですねぇ」
「君ほどじゃないよ」
「俺はモテなくていいんです」
「またまた~」
「本当にそんなのどうでもいいんですけど、その浮気相手のことが一番じゃないなら、俺たちにください」
「え」
ようやく祐希人は煙草に火をつける。
煙草は好きだ。本当にたまにしか吸わないが。和磨の言うことであれば任務を遂行してあげたいから、乗り気じゃないけど自分にスイッチを入れなくちゃいけない。そうしたら美濃部が喫煙スペースに入っていったからちょうど助かった。
「だってやっぱりあなたにとって島崎さんってその程度なんでしょ? 極上、とか言って。黒毛和牛ですか? まあ、極上高級黒毛和牛って脂が乗ってめちゃくちゃおいしいですよね。でもそういうのってずっとずっと味わい続けてたらやがて飽きますよ。ていうか、本当はもう飽きてるんでしょ」
冬の風が吹き、熱い煙が夜空に散る。美濃部は、酔いが醒めたようだ。警戒の目で祐希人を射抜く。祐希人はその視線を堂々と受け止めた。
「俺もそう言われて、付き合った女の子がいたんです。だからあんたみたいなヤツは腹が立ちますよ」
「捨てられる側には捨てられる理由があるんだよ、君にも原因があった」
「まるでいじめられる側にも原因がある、みたいな言い分ですね」
「事実、そうなんじゃないか?」
「そう言ってるヤツには一生わからないんだ。なにもかもを奪われた人間の気持ちは」
祐希人の冷たい表情を美濃部は鼻で笑った。煙草を灰皿に押しつけ、スーツの襟を整えている。さっさと喫煙所を出て行きたいのだろう。
「君たち絵里の知り合いか? 一体なんの繋がりが?」
「あんたには関係ない」
「なんだそれ。俺と絵里のことは聞き出しておいて、自分のことは煙に巻く。卑怯な若者だ」
「あのさ、奥さんに黙って風俗行って、挙句に不倫相手から大金搾取してるクソ野郎にそんなん言う資格あると思ってるの」
喫煙所を出ようとした美濃部が足を止める。「なんでそこまで知ってる」と振り向いた美濃部の表情は先ほどよりも、余裕がない。
祐希人は当然のごとく質問を無視する。
「べつに俺が、島崎さんを欲しいわけじゃない。うちの兄が」
「兄?」
「兄が、島崎さんみたいな人はきっと俺たちをこれから助けてくれるって。粉々にブッ壊れた俺たちの人生に、必要なピースをくれる人だって。俺はかーくんの言うことについて行く。だからこんな平日の夜に、新宿まで来て、あんたのバカみたいなツラ拝まなきゃいけなくなったんだ。俺も災難なんだよ」
「お前には自分の意思がないのか?」美濃部は嘲った。「ただの兄貴の言いなりで絵里を奪いに来たのか? それじゃあ、絵里と一緒じゃないか。あいつは一人で生きていけないんだ、鴫原と別れてからもはや意思がないからな」
「その代わり俺はかーくんの分もあんたに怒ることにしたんだ」
ぐちゅ、と祐希人が煙草を灰皿に押しつける。ひしゃげて折れ曲がったマルボロは力なく中へ落ちていく。汚くて臭い灰皿の底には、新宿の夜に渦巻く薄汚い欲望を吸い込んで燃え尽きた吸殻たちが、死骸の山のごとく積もっているだろう。美濃部の弧を描く唇を見ていると、不快感がこみ上げる。それで、絵里と、不特定多数の風俗嬢を代わりばんこに食らってきたと思うと。
結局自分も、兄と姉の血を引いてしまっているのだ。島崎さんよりもこういう、他人を甘い言葉で操って利用するヤツのほうが嫌いだ。それでも自分一人だったら決して関わったりしなかっただろうけど。
「俺はかーくんの操り人形かもしれないけど、それでもいい。だって俺はかーくんを信じているし、かーくんも俺も信じてる。そこはあんたと島崎さんとは違う」
「美咲の事件以降、祐希人のヤツ、自分の身の回りにおけるほぼすべての決定権を俺に委ねてしまってる。悪い言い方すると、俺の言いなりです」
かーくんが言うなら。
それが祐希人の口癖らしい。確かに、どこかで聞いた気がする。
そうだ、丹羽家のマンションに自分を招いてくれたときだ。あれはそもそも和磨が許したから。しかし祐希人のほうは最初、どう見ても家に上げたくなさそうだった。
絵里が同席していると知りながら渋々、寿司屋に来たのも、和磨が呼んだから。
ということは今、彼も、新宿にいる。どこにいるのだ。まさか美濃部と、接触しているのでは?
「たぶんもう察しがついていると思いますけど、俺とあなたが話している間、ユキにはあの美濃部という男を足止めしてもらってましてね。もちろんそれも俺の提案。服も髪型も、今のバイト先も、今回島崎さんを奪う計画も、全部俺が発案した。あいつ気が強そうに見えて実はそうでもない。今となっては、俺の言葉で祐希人の生活が決まってる。でもずっとこのままじゃ、さすがにヤバイと思うんすよ俺だって」
「部外者が一緒に住んだら、彼に窮屈な思いをさせるだけじゃない?」
「それでも祐希人をもっと俺以外の人に慣れさせたほうがいいと思う」
床に叩きつけられたグラスを、慌てて駆け付けた店員が片付けている。和磨は無視したままだ。そして、絵里から目を離さない。たぶん絵里と自分の声以外が聞こえていないのではないか。いつもなら周りへの気遣いを忘れない彼なのだから。
「ユキは取り扱い注意のデリケート野郎です。人は選ばなくちゃいけない。でも島崎さんならあいつと上手く接することができます。俺の勘では」
「………」
「丹羽和磨の勘は50パーぐらいで当たりますよ」
「半分じゃない! それもう、賭けよ、賭け」
ため息をつく。「たまたまわたしがあなたたちに関わってきたから、適当に家政婦を選んだだけでしょう」
「ンなことない」と少しムキになりながら和磨が、両手をずぼっとデニムのポケットに突っ込む。「プラス、うちの家政婦として来てくれるなら生活費はこっちで全部負担します。あの男に尽くすよりもこっちのほうが、面白そうじゃないすか、島崎さん?」
「和磨くんはそれでいいの? ちゃんとそれはあなたの意思なの?」
「俺は」
一呼吸、間を空けて。「なんか、正直どっちでも、いいっす。俺には親父がいて、友達もいて、仕事先にはアホみたいな先輩も後輩もいて、ねこちゃんもいて……でもユキって友達いないんすよ、マジで。葛西くらいしかいない。加えて病的な自己愛でしょ。誰か、あいつをもっと大切に想ってくれて、助けてくれる人が現れたらいいなって、ずっと考えてた。そこでですよ、島崎さん」
指をさされる。
「母親みたいな存在が必要なんじゃねえかと」
「母親? まさか、わたし?」
「っす」
「……あなた面白いこと言うのね」
苦笑いし、片耳に髪をかける。酔いと涙の痕で火照った頬を、強い風が叩く。
「面白くっていいじゃないすか」立ち上がる和磨は、ふにゃっと笑っていた。「どうせね、俺たちもあなたも、まともでいられないんだから。人生一回終わってんすから。今のあなたは自分の人生をあの男に賭けるか俺たちに賭けるかしかない。中途半端じゃダメですよ。ゼロか100か、です。100もらわないと満足できませんね俺は」
祐希人を導きたいだけじゃない。和磨は、自分を美濃部から助けようとしている。
どうしようもなく優しいのか、実は強引なのか、わからない青年だけど。今のわたしにできることはもう、一つだけだ。この子たちのためにできること。
「……もう、どうして、わたしのそばに来るのはまともじゃない男ばかりなの?」
和磨が噴き出す。それから返事も聞かないまま、立ち上がり、「あっすんません!」と声を張り上げる。絵里に対してではない。やっと頭が冷えてきたのか、今になって慌てて店員に駆け寄っていった。「すんませんグラス弁償します」と律儀に頭を下げる。その背中があの日の和磨に重なる。その五年前の和磨を抱きしめる五年前の自分。今にも死にそうな冷たい和磨を無我夢中で抱きしめた感触が頭から指先を刹那、駆け巡り、胸の奥が破れて無数の棘のようなものたちが身体の中を飛び散る。
『家事なんでも得意だし、早いのよ。だから、あなたたちの代わりに、わたしが……』
『本当になんでもしてくれるんですか?』
あのときから和磨は、この交渉を考えていたのかもしれない。祐希人が嫌がったから、一旦は退いた。しかし絵里の事情を知り、美濃部の存在を知り、今日新宿まで尾行して、絵里の精神の限界を確信し、美濃部から奪い取ることを決めた。そして今こうして絵里の前に現れた。どうしてここまで自分に執着した? 本当に祐希人のためだけか?
『誰か、あいつをもっと大切に想ってくれて、助けてくれる人が現れたらいいなって、ずっと考えてた』
実は数日前、少しネットで調べた。丹羽家の情報を。
事件当時、丹羽家は長女の美咲を含めた四人家族だった。母親は長男・和磨が高校生の頃に病死していた。
丹羽兄弟の住むマンションの部屋に入る前、和磨が一人で少し片づけをしたと言っていた。もしかしたらあのとき母の写真を隠したのかもしれない。
墓に入ってこないでくださいと牽制したのは、あそこには美咲と母、二人の墓があったからではないか。
あの日――和磨が絵里の胸の中で「かあさん」と咽び泣いたのも。
そういうことではないか。
母が必要なのは祐希人だけじゃない。和磨自身もきっと、それを理解している。誰にも言わないだけで。
みさき! みさき! みさき!
のたうち回りながら、しかし精神がすでに壊れかけていて舌は回っていなかった五年前の和磨を、最初はもっと幼い青年なのかと思った。実際、あの当時の彼は精神が崩壊して幼児退行のようなものが起きていたのではないかと推測できる。だけど絵里は苦しくて見ていられなかった。もし自分たちに子どもがいたら、きっとこれくらいの歳だろう――。
気がつけば落ち着いて、落ち着いてと叫びながら彼を抱き寄せていた。和磨がか細い遠吠え混じりに返してきた単語は、かあさん、だった。絵里の胸の中で呼び続けた。一回や二回じゃない。かあさん、美咲が、美咲が。何度もだった。
あれから五年経った。
助けてほしいのは、和磨くん、あなたではないのか?
しかし、聞いても答えてくれない気がする。わたしはもっとこの兄弟のことを知りたい。誰かが知らなければいけないと思う。彼らを見ていると他人とは思えない愛おしさと同時に、ときどき、底知れぬ不安が胸の中を渦巻くのはなぜだ。二度と、あんな惨劇も、和磨の悲しい姿も見たくないのに。
もう美濃部に構っている場合じゃない。
やっぱりこの子たちを守りたい。
「……和磨くん、わたしと初めて会って以来、靴のかかとを踏んでいるわね」
店員に謝り続けた和磨の横顔が、こちらを向いた。和磨は絵里の顔ではなく、絵里の吐く白い息を目で追っていた。そして寒さで赤くなっていた自分の鼻をさわって「さむ」と、違う季節からタイムスリップしてきた人のように大袈裟に自分の肩を抱くのである。
「もう無理して履かなくていいのよ。あなた、ずっとわたしの真似をしていたでしょ?」
最初はどうしてスリッポンのかかとを踏んでいるのかわからなかった。だけど、まさか、と絵里はあるとき勘付く。
ヒトを尾行してるときって、
どんな気分っすか?
今日、この場所まで彼らがつけてきたのは。鴫原がくれたサイズの合わない靴を無理やり履いていた絵里と会ってから、自分もわざわざ足を引きずりながら歩いていたのは。
おそらく丹羽和磨という青年にそういう習性があるからではないのか。
それにしても、自分が足の痛い靴を無理やり履き続けていることは直子にだってバレていないのに――。
「俺は島崎さんの気持ちを知りたかっただけです」和磨がしれっと言った。「こうしないと、人の気持ちに寄り添えない。アレだ……疑似体験ってヤツっすか? 相手を知るためにその人の現状と、今の精神状態を図りたいんです。俺は今、その足枷みたいなものを脱ぎ捨てて、歩くのも息をするのもめちゃくちゃ楽になった瞬間のあなたの感情を、あなたの後で、知りたい」
美咲の死によってこの子が失ったものが絵里にはわかった。
むかしから色男ともてはやされてきた美濃部礼一だが、その彼でさえハッとするほどの美青年である。首元にファーのついたデニムコートをサラリと羽織っている。決して派手な顔立ちではないが、長身でスタイルもよく、煙草にライターを近づける所作にもどことなく品があり、かと思えば細い煙草を挟み込む指から無骨な男らしさが滲む。絵に描いたようなモテ男だな、と美濃部は内心で苦笑した。そして少々疎ましかった。
絵里という最高の愛人を所持する自分がもう決して取り戻せないものをこいつは持っている。
「すみません、ライター貸していただけないでしょうか?」
突然、青年がこちらに声をかけてきた。自前のライターは火がつかなかったらしい。
素直に貸してやった。銀製の、ブランド名が刻印されたライターだ。青年は渡されたそれを興味津々に眺め回して、「いいなあ、こういうの持っているとかっこいいですよね。俺も欲しいんですよ」としみじみとつぶやく。カブトムシに目を輝かせる少年みたいな横顔だ。「男の格を一つ上げてくれる感じがして」
「そうかな」
「おじさんが、すでにもう色気がありますもん。モテてるでしょ?」
意外とグイグイ来る。でも俺も若い頃はこうだった気がする。「まあ、女には困ってないな」と笑った。
「へー。じゃあ今夜もデートですか?」
「そこのビアガーデンで女性を待たせてるよ」
「その言い方はもしかして、相手、奥さんじゃない人?」青年も悪戯っぽく微笑む。「綺麗な人ですか?」
カンの冴えた子だ。この美貌だから、彼もさぞ遊んできたのかもしれない。最初は面倒くさかったが、どうせ子どもみたいな恋愛しかしていない人懐こいイケメンに、気がつけばマウントを取っていた。「美しさも気立ての良さも財産も、妻より極上だよ、彼女は」
「うわ。最高の不倫」気持ちいいくらいストレートな青年の言い方は、逆に好感を抱いた。
そうだ、最高だろう。絵里だってこの状況の心地よさを早く思い出すべきだ。
正直、最近の絵里の煮え切らない態度にはイライラしていた。酔いも手伝い、美濃部はさらにスカッとしたくなって、「でも結局、妻を一番愛してるんだけど」と声を立てて笑う。
青年も同じように爆笑する。
酒が入ると美濃部礼一は気が大きくなる傾向があった。
「ねえ、でも、浮気してるのはその美女だけですか?」
「風俗は浮気にカウントされるかな? 俺はされないと考えてるんだけど」
「カウントする女性のほうが多いと思いますけどね。へー、じゃあ、たくさんの女性に囲まれて毎日幸せですねぇ」
「君ほどじゃないよ」
「俺はモテなくていいんです」
「またまた~」
「本当にそんなのどうでもいいんですけど、その浮気相手のことが一番じゃないなら、俺たちにください」
「え」
ようやく祐希人は煙草に火をつける。
煙草は好きだ。本当にたまにしか吸わないが。和磨の言うことであれば任務を遂行してあげたいから、乗り気じゃないけど自分にスイッチを入れなくちゃいけない。そうしたら美濃部が喫煙スペースに入っていったからちょうど助かった。
「だってやっぱりあなたにとって島崎さんってその程度なんでしょ? 極上、とか言って。黒毛和牛ですか? まあ、極上高級黒毛和牛って脂が乗ってめちゃくちゃおいしいですよね。でもそういうのってずっとずっと味わい続けてたらやがて飽きますよ。ていうか、本当はもう飽きてるんでしょ」
冬の風が吹き、熱い煙が夜空に散る。美濃部は、酔いが醒めたようだ。警戒の目で祐希人を射抜く。祐希人はその視線を堂々と受け止めた。
「俺もそう言われて、付き合った女の子がいたんです。だからあんたみたいなヤツは腹が立ちますよ」
「捨てられる側には捨てられる理由があるんだよ、君にも原因があった」
「まるでいじめられる側にも原因がある、みたいな言い分ですね」
「事実、そうなんじゃないか?」
「そう言ってるヤツには一生わからないんだ。なにもかもを奪われた人間の気持ちは」
祐希人の冷たい表情を美濃部は鼻で笑った。煙草を灰皿に押しつけ、スーツの襟を整えている。さっさと喫煙所を出て行きたいのだろう。
「君たち絵里の知り合いか? 一体なんの繋がりが?」
「あんたには関係ない」
「なんだそれ。俺と絵里のことは聞き出しておいて、自分のことは煙に巻く。卑怯な若者だ」
「あのさ、奥さんに黙って風俗行って、挙句に不倫相手から大金搾取してるクソ野郎にそんなん言う資格あると思ってるの」
喫煙所を出ようとした美濃部が足を止める。「なんでそこまで知ってる」と振り向いた美濃部の表情は先ほどよりも、余裕がない。
祐希人は当然のごとく質問を無視する。
「べつに俺が、島崎さんを欲しいわけじゃない。うちの兄が」
「兄?」
「兄が、島崎さんみたいな人はきっと俺たちをこれから助けてくれるって。粉々にブッ壊れた俺たちの人生に、必要なピースをくれる人だって。俺はかーくんの言うことについて行く。だからこんな平日の夜に、新宿まで来て、あんたのバカみたいなツラ拝まなきゃいけなくなったんだ。俺も災難なんだよ」
「お前には自分の意思がないのか?」美濃部は嘲った。「ただの兄貴の言いなりで絵里を奪いに来たのか? それじゃあ、絵里と一緒じゃないか。あいつは一人で生きていけないんだ、鴫原と別れてからもはや意思がないからな」
「その代わり俺はかーくんの分もあんたに怒ることにしたんだ」
ぐちゅ、と祐希人が煙草を灰皿に押しつける。ひしゃげて折れ曲がったマルボロは力なく中へ落ちていく。汚くて臭い灰皿の底には、新宿の夜に渦巻く薄汚い欲望を吸い込んで燃え尽きた吸殻たちが、死骸の山のごとく積もっているだろう。美濃部の弧を描く唇を見ていると、不快感がこみ上げる。それで、絵里と、不特定多数の風俗嬢を代わりばんこに食らってきたと思うと。
結局自分も、兄と姉の血を引いてしまっているのだ。島崎さんよりもこういう、他人を甘い言葉で操って利用するヤツのほうが嫌いだ。それでも自分一人だったら決して関わったりしなかっただろうけど。
「俺はかーくんの操り人形かもしれないけど、それでもいい。だって俺はかーくんを信じているし、かーくんも俺も信じてる。そこはあんたと島崎さんとは違う」
「美咲の事件以降、祐希人のヤツ、自分の身の回りにおけるほぼすべての決定権を俺に委ねてしまってる。悪い言い方すると、俺の言いなりです」
かーくんが言うなら。
それが祐希人の口癖らしい。確かに、どこかで聞いた気がする。
そうだ、丹羽家のマンションに自分を招いてくれたときだ。あれはそもそも和磨が許したから。しかし祐希人のほうは最初、どう見ても家に上げたくなさそうだった。
絵里が同席していると知りながら渋々、寿司屋に来たのも、和磨が呼んだから。
ということは今、彼も、新宿にいる。どこにいるのだ。まさか美濃部と、接触しているのでは?
「たぶんもう察しがついていると思いますけど、俺とあなたが話している間、ユキにはあの美濃部という男を足止めしてもらってましてね。もちろんそれも俺の提案。服も髪型も、今のバイト先も、今回島崎さんを奪う計画も、全部俺が発案した。あいつ気が強そうに見えて実はそうでもない。今となっては、俺の言葉で祐希人の生活が決まってる。でもずっとこのままじゃ、さすがにヤバイと思うんすよ俺だって」
「部外者が一緒に住んだら、彼に窮屈な思いをさせるだけじゃない?」
「それでも祐希人をもっと俺以外の人に慣れさせたほうがいいと思う」
床に叩きつけられたグラスを、慌てて駆け付けた店員が片付けている。和磨は無視したままだ。そして、絵里から目を離さない。たぶん絵里と自分の声以外が聞こえていないのではないか。いつもなら周りへの気遣いを忘れない彼なのだから。
「ユキは取り扱い注意のデリケート野郎です。人は選ばなくちゃいけない。でも島崎さんならあいつと上手く接することができます。俺の勘では」
「………」
「丹羽和磨の勘は50パーぐらいで当たりますよ」
「半分じゃない! それもう、賭けよ、賭け」
ため息をつく。「たまたまわたしがあなたたちに関わってきたから、適当に家政婦を選んだだけでしょう」
「ンなことない」と少しムキになりながら和磨が、両手をずぼっとデニムのポケットに突っ込む。「プラス、うちの家政婦として来てくれるなら生活費はこっちで全部負担します。あの男に尽くすよりもこっちのほうが、面白そうじゃないすか、島崎さん?」
「和磨くんはそれでいいの? ちゃんとそれはあなたの意思なの?」
「俺は」
一呼吸、間を空けて。「なんか、正直どっちでも、いいっす。俺には親父がいて、友達もいて、仕事先にはアホみたいな先輩も後輩もいて、ねこちゃんもいて……でもユキって友達いないんすよ、マジで。葛西くらいしかいない。加えて病的な自己愛でしょ。誰か、あいつをもっと大切に想ってくれて、助けてくれる人が現れたらいいなって、ずっと考えてた。そこでですよ、島崎さん」
指をさされる。
「母親みたいな存在が必要なんじゃねえかと」
「母親? まさか、わたし?」
「っす」
「……あなた面白いこと言うのね」
苦笑いし、片耳に髪をかける。酔いと涙の痕で火照った頬を、強い風が叩く。
「面白くっていいじゃないすか」立ち上がる和磨は、ふにゃっと笑っていた。「どうせね、俺たちもあなたも、まともでいられないんだから。人生一回終わってんすから。今のあなたは自分の人生をあの男に賭けるか俺たちに賭けるかしかない。中途半端じゃダメですよ。ゼロか100か、です。100もらわないと満足できませんね俺は」
祐希人を導きたいだけじゃない。和磨は、自分を美濃部から助けようとしている。
どうしようもなく優しいのか、実は強引なのか、わからない青年だけど。今のわたしにできることはもう、一つだけだ。この子たちのためにできること。
「……もう、どうして、わたしのそばに来るのはまともじゃない男ばかりなの?」
和磨が噴き出す。それから返事も聞かないまま、立ち上がり、「あっすんません!」と声を張り上げる。絵里に対してではない。やっと頭が冷えてきたのか、今になって慌てて店員に駆け寄っていった。「すんませんグラス弁償します」と律儀に頭を下げる。その背中があの日の和磨に重なる。その五年前の和磨を抱きしめる五年前の自分。今にも死にそうな冷たい和磨を無我夢中で抱きしめた感触が頭から指先を刹那、駆け巡り、胸の奥が破れて無数の棘のようなものたちが身体の中を飛び散る。
『家事なんでも得意だし、早いのよ。だから、あなたたちの代わりに、わたしが……』
『本当になんでもしてくれるんですか?』
あのときから和磨は、この交渉を考えていたのかもしれない。祐希人が嫌がったから、一旦は退いた。しかし絵里の事情を知り、美濃部の存在を知り、今日新宿まで尾行して、絵里の精神の限界を確信し、美濃部から奪い取ることを決めた。そして今こうして絵里の前に現れた。どうしてここまで自分に執着した? 本当に祐希人のためだけか?
『誰か、あいつをもっと大切に想ってくれて、助けてくれる人が現れたらいいなって、ずっと考えてた』
実は数日前、少しネットで調べた。丹羽家の情報を。
事件当時、丹羽家は長女の美咲を含めた四人家族だった。母親は長男・和磨が高校生の頃に病死していた。
丹羽兄弟の住むマンションの部屋に入る前、和磨が一人で少し片づけをしたと言っていた。もしかしたらあのとき母の写真を隠したのかもしれない。
墓に入ってこないでくださいと牽制したのは、あそこには美咲と母、二人の墓があったからではないか。
あの日――和磨が絵里の胸の中で「かあさん」と咽び泣いたのも。
そういうことではないか。
母が必要なのは祐希人だけじゃない。和磨自身もきっと、それを理解している。誰にも言わないだけで。
みさき! みさき! みさき!
のたうち回りながら、しかし精神がすでに壊れかけていて舌は回っていなかった五年前の和磨を、最初はもっと幼い青年なのかと思った。実際、あの当時の彼は精神が崩壊して幼児退行のようなものが起きていたのではないかと推測できる。だけど絵里は苦しくて見ていられなかった。もし自分たちに子どもがいたら、きっとこれくらいの歳だろう――。
気がつけば落ち着いて、落ち着いてと叫びながら彼を抱き寄せていた。和磨がか細い遠吠え混じりに返してきた単語は、かあさん、だった。絵里の胸の中で呼び続けた。一回や二回じゃない。かあさん、美咲が、美咲が。何度もだった。
あれから五年経った。
助けてほしいのは、和磨くん、あなたではないのか?
しかし、聞いても答えてくれない気がする。わたしはもっとこの兄弟のことを知りたい。誰かが知らなければいけないと思う。彼らを見ていると他人とは思えない愛おしさと同時に、ときどき、底知れぬ不安が胸の中を渦巻くのはなぜだ。二度と、あんな惨劇も、和磨の悲しい姿も見たくないのに。
もう美濃部に構っている場合じゃない。
やっぱりこの子たちを守りたい。
「……和磨くん、わたしと初めて会って以来、靴のかかとを踏んでいるわね」
店員に謝り続けた和磨の横顔が、こちらを向いた。和磨は絵里の顔ではなく、絵里の吐く白い息を目で追っていた。そして寒さで赤くなっていた自分の鼻をさわって「さむ」と、違う季節からタイムスリップしてきた人のように大袈裟に自分の肩を抱くのである。
「もう無理して履かなくていいのよ。あなた、ずっとわたしの真似をしていたでしょ?」
最初はどうしてスリッポンのかかとを踏んでいるのかわからなかった。だけど、まさか、と絵里はあるとき勘付く。
ヒトを尾行してるときって、
どんな気分っすか?
今日、この場所まで彼らがつけてきたのは。鴫原がくれたサイズの合わない靴を無理やり履いていた絵里と会ってから、自分もわざわざ足を引きずりながら歩いていたのは。
おそらく丹羽和磨という青年にそういう習性があるからではないのか。
それにしても、自分が足の痛い靴を無理やり履き続けていることは直子にだってバレていないのに――。
「俺は島崎さんの気持ちを知りたかっただけです」和磨がしれっと言った。「こうしないと、人の気持ちに寄り添えない。アレだ……疑似体験ってヤツっすか? 相手を知るためにその人の現状と、今の精神状態を図りたいんです。俺は今、その足枷みたいなものを脱ぎ捨てて、歩くのも息をするのもめちゃくちゃ楽になった瞬間のあなたの感情を、あなたの後で、知りたい」
美咲の死によってこの子が失ったものが絵里にはわかった。