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第一章 シンデレラ・シンドローム

 島崎絵里は、独り身の48歳である。今日、独り身になった。バツイチデビューだ。
 デビューの晩は真冬の冷え込みが激しい夜だった。三時間前、同居していた元夫と義母に勘当されて家を放り出された際に、慌てて羽織ったベージュのトレンチコート一枚ではやはり、つらいものがあった。
 廃墟のようになった深夜零時の駅前で、いま絵里は突っ立っている。寒くてぎゅっと右手を握りしめると、ふるえている。湧き上がるのは、怒りではない。かといって哀しみもない。悔しさもない。ただ拳を固めていないと、自分の身体が砂の城のようにほろほろと削れ落ちていくような恐怖がある。
 そうして駅前の高層ビルの上に浮かぶ満月をぼんやりと眺めているうちに、とりあえず自分には今夜寝る場所がないことを、思い出した。
 依然として、暗く混沌とした夜が広がっている。仕方がないので絵里は歩き始めた。
 明日からどうしようなんてのも、もちろんなにも考えちゃいない。美濃部に連絡してみようかとポケットの中のスマホに触れたが、やめた。この時間だから彼もとっくに自宅にいるだろう。そして奥さんや子どもたちと一緒の時間を過ごしている。
 どうしてわたしだけがこんなことに、と少しも思わないのかと言われたらウソになるけれど、だからといって美濃部に迷惑をかけてやりたいと企むほど、彼に甘えてはいなかった。
 それよりもこの真夜中に黒いワンピースにトレンチコート、シルバーのヒールパンプスで一人でいる自分を、警察などが声をかけてこないかが心配だ。自宅を聞かれても、もう自宅はないんですと説明するのが恥ずかしい。ビジネスホテルでもいい、早くどこか、逃げられる場所を。
 子どもの頃、絵本の「シンデレラ」が大好きだった。幼少期からずっと習っていたバレエでも、シンデレラの組曲を踊ったことがある。主役のシンデレラ役としてコンクールで踊ったのは高校二年生のときだ。楽しかった。自分にもこんなロマンチックな出会いが訪れないかと、夢を見た。周りの同級生たちが同級生同士で次々と交際を始めていく中で、自分はいつか年の離れた、大人で素敵な運命の王子様と恋がしてみたいと本気で願っていた乙女、それが絵里だった。
 そして、ガラスの靴は無理でも、わたしの足にぴったりの素敵な靴を履いて、大好きな人と生涯共に歩いていけたら――。
 だからだ。30歳を超え、40歳を超えても、夫に誕生日のプレゼントを聞かれたとき、必ずいつも靴を希望してきたのは。彼は誕生日のときだけは、毎年プレゼントをくれた。元の家のクローゼットには、今でも夫から贈られたたくさんの靴がそのまま置いてある。あれらは義母によって、これからすべて処分されるのだろう。醜い不倫女の元・義理の娘の私物など、残しておきたくないはずだ。
 まるで本当に魔法が解けたみたいに、あっけない終わりだった。残ったのは去年の誕生日に夫……いや、夫であった鴫原孝道がくれたシルバーのパンプスだけだ。いま、絵里の両足を包み込んでくれているのがそれだ。
 パンプスのコツン、コツン、という小気味いい音が静まり返った夜中の露瀬駅に響くが、今の絵里にとっては、虚しさと恐怖を増幅させる呪いみたいな音に過ぎない。
 お気に入りで、この一年だけで何度も何度も履いて、その度に傷めないよう手入れをし続けてきたこれと、まさか共に家を追い出されるとは思っていなかった。半年前まで。
 絵里が鴫原孝道の仕事仲間の男性と不倫関係になったのが今年の夏である。今でもその男、美濃部礼一との関係は続いている。最後に会ったのはほんの二週間前だった。ホテルで密会し、次は三週間後の週末にちょっと遠出デートをしよう、楽しみだね、なんて今思えばバカみたいな会話をして別れた。つい先日、絵里が突然鴫原から離婚届を突きつけられたことを、美濃部はまだ知らない。
 想像よりもずっと簡単に、離婚は成立した。さすがに絵里もまったく無抵抗だったわけではない。素直に謝り、もうしませんと誓いたかったが、「君はいつまでも無垢な少女みたいだね」と苦笑いされたときに絵里の中でなにかが冷めた。
 無垢な少女。その比喩が皮肉であることくらい、絵里にもわかる。これでも長年一緒にいたのだ。50歳を目前に控えた女の、「無垢な少女みたい」なところが時に鴫原を支え、時に癒し、時に苛立たせ、時に悲しませたものであったのだから。
 自分でも驚くくらいに潔く、離婚届に判を押した。あんたお嬢様のわりに勝気なくらいさっぱりしてるよね、と友達に言われたことはあるものの、自分でここまでとは思っていなかった。いや、これこそが、鴫原に対する最後の仕返しだったのかもしれない。わたしのほうこそもうあなたなんて要らないわ、ときっぱり示すために。
 そんなこと本当は思ってもいなくとも。
 ずっと専業主婦として夫のそばにいた絵里にとって、離婚は、「解雇」も同然である。存在意義の消失、といってもいい。わたしはこれから誰のために生きていけばいい。
 彼が慰謝料などの金を要求してくることはなく、絵里は、亡くなった両親から相続した財産ごと、強制的に自由の身にさせられた。自分の金は全部自分のために使え、と最後に鴫原が言ったのだ。だけど、そうじゃない――。わたしはそうじゃないの。あなたのためのわたしでいたかったのに。
 だったらどうしてこんなことになってしまったんだろう。
 絵里の私物は、新しい住居が決まり次第、鴫原があらかた送ってくれる約束になっている。だが、厚手の冬用コートを今すぐ取りに帰りたい。だが怒り狂っている義母がどうせ家に入れてくれないのが目に見えている。やはり戻ることは無理だ。
 スマホで近くのホテルを検索する。指がかじかんでうまく文字が打てず、打ち込んだり消したり、だんだんもどかしくなってくる。身体にあたってくる強い北風を受けながら顔を上げると、またあの美しい満月が視界に入った。あれを見続けていると、だんだんと自分の中のどうしようもない醜さを照らし出し、浮き彫りにしてくるようで、怖くなった。 
 ああ、そういえば。
「月が綺麗ですね」。むかし、鴫原に交際を申し込まれた際の、告白の言葉がそれだった。不思議とまだ覚えている。あれから24年……わたしはもう鴫原絵里ではなくなった。


『絵里? ほんとなの?』
 電話の向こうの直子は、あえてなのか、大袈裟な反応をせずに低い声で訊き返した。『離婚した? あんたと孝道さんが? 信じられない』
「わたしもまだ悪夢を見ている気分よ、直子」
『え、まさか浮気とか……?』
「ふふ」おかしくって笑ってしまう。「そのまさかよ」
『向こうが?』
「わたしが」
『はあ⁉』
 それきり直子はしばらく口を噤んだ。重たい沈黙が続き、絵里はスマホを耳に押しつけながら胃を刺し抜かれるような苦痛を覚えた。
『あんた、今どこにいるの?』程なくして聞こえた直子の声音から、焦りが滲んでいた。
 絵里が今いるのは露瀬駅のとなり、八ツ星駅のすぐ近くのビジネスホテルだ。下町風情溢れる八ツ星町は、近年再開発されて綺麗になった駅周りを少し離れると、老舗の店やむかしからの会社などが多い。神社や寺も街の中に点在し、夏になれば街全体で大きな祭りが行われる。小京都や古都と呼ばれるほどではないが、古く清らかな建築物が並ぶどこか懐かしい雰囲気の下町は、度々メディアにも取り上げられ、加えて工場地帯としても盛んであることから職人の集う街としても知られていた。中でも八ツ星町に本店・本社を構える大手刃物製作所の包丁は、日本のみならず外国人の職人でも御用達にするほどの有名なブランドで、絵里も結婚した当初に母からプレゼントされ、今も現役で使い込んでいる。それも鴫原宅に置いてきてしまったが。
「ずっとホテルの部屋を借りるわけにもいかないわよね」と絵里は両足を投げ出した。腰かけているベッドの奥から、スプリングが錆びて軋んだ、古い音が鳴る。ホテル自体も古い建物だ。「でも、露瀬には戻れないわ……」
『そりゃそうよ。八ツ星も危険じゃない? 孝道さんはまだしも、あのお義母さんに街で遭遇する可能性あるよ、このへん一帯は』
「そうよね」
『正直孝道さんよりあっちのほうがヤバイからねえ。気性が荒い上に、息子溺愛な母親。今頃もあんたのやったこと、近所に大声で言いふらしてるかも。だからなるべく遠くに行ったほうがいいって』
「直子、怒らないの?」
『なにがよ』
 立ち上がり、数歩歩くと、ドレッサーの鏡の中の自分と目が合う。そこに映る自分の顔は、白かった。
「わたし、不倫したのよ。しかも孝道さんの同僚と。今もそっちとの関係は続いてる。孝道さんとはここ数年もうギクシャクしていたけれど、離婚の引き金はわたしなのよ、完全に!」
 直子は『あたしに責めてほしいの? 絵里は』と落ち着いた声で言った。『はああ、絵里が不倫か~やっちゃったか~。あんたほんっとバカね~って』
「そうよ」絵里はなにもかも放り出すような気持ちで、大きな声を上げた。「わたしバカよ!」
『まあ、正直びっくりした。お義母さんのことも、大変そうだった割には上手くいなしてたし、二人はなんだかんだずっと一緒にいるのかなって思ってたけど……違ったね』
 直子は、絵里が結婚してからできたご近所の友人だ。社会人の長男と、大学生の長女、高校生の次女がいる。夫婦共に学校の教師をしており、なんだかんだ言いながらも家庭はずっと円満である。
 竹を割ったような気持ちのいい性格で、それでいて寛容な直子に、人生のうちで幾度も助けられてきた。そんな平和な生活を送る彼女に、ついに至上最低な相談を持ち込んでしまった自分はなんなの?
 鴫原孝道とは絵里が24歳のときに付き合い始め、その一年後に結婚した。ふたりは四歳差で、鴫原は今年52になる。
 資産家の娘と、大手住宅メーカーの設計デザイナーの男。旦那の稼ぎだけで十分に暮らすことができたため、絵里は結婚してから専業主婦として、寡黙で温厚な夫の鴫原を支えてきた。子どもはできなかったが、それなりに「幸せ」であったと……思っていた。少なくとも絵里の認識では。
 ここ何年かだ。鴫原からの愛情を感じられる瞬間がなくなりつつあることに薄々気づき始めていたのは。社内でもベテランの域に達している鴫原であるから、ポジション的にも仕事に常に大きな責任が付きまとうようになるのは当たり前で、そのストレスが鴫原をむかし以上の鉄仮面に変えていったのは、妻の絵里の目から見ても明らかだった。元より不器用で、気分にムラのあるタイプだったが、この数年は輪をかけて取っつきにくくなって絵里でもなにを考えているかわからなくなってきた。
 むかしのようにいってらっしゃいのキスもなくなり、昼は会社の食堂で食べるから弁当はいらないとさえ通告された。専業主婦として長年夫のために弁当作りを欠かしてこなかった絵里にとって、それは結構堪えた。
 代わりに家庭のことをもっとしっかりやろうと奮闘するも、家での鴫原との会話は減っていく一方。食卓では義母だけが、べらべらとノンストップで一日の出来事を喋り続けるだけだった。誰も相槌しなくとも。
 一方で不倫相手の美濃部には、同い年の妻がおり、成人済みの子どもが二人いる。
 鴫原が働く住宅メーカーの営業部長で、52歳。つまり元夫の同期。物静かな鴫原とはまったく違う、快活で人懐こく、逞しい体つきをした、年齢のわりに常に元気な男だった。ついでに言うなら元気なのは、下のほうも。
 べつに男とどうしてもセックスがしたかったわけじゃない。いや、向こうは持て余した性欲を昇華するのも一つ、不倫の理由だったに違いないが。彼もまた妻との関係は冷め切っていて、そういう家庭の悩みでも意気投合したので、ずっと家庭のために生きてきた絵里にとって美濃部は「同志」のようでもあり、共感してもらえるのが嬉しかった。悩みを優しく聞いてもらえるだけで救われた。
 最初はそれだけだったのに、気がつけば肉体関係を結んでいるのだから、男女の仲とは妙なものである。
 仕掛けてきたのは美濃部のほうだ。しかし、誘惑を受け入れる選択をしたのは絵里である。
 わたしは拗ねてみたかったのかもしれない。そして同時に、愛に飢えていたのではないか、と思う。若い頃から周りの誰かを愛し、そして誰かに愛情を注ぐことが、人生の大半を占めていた気がする。なにせ高校生の頃から恋人がいなかった時期がほぼなかったのだ。
 生きている限り常に恋をしているというのが、絵里にとっての普通だった。48歳になった現在まで、頭も心も乙女のままなのだ。
『相手とは、どうすんの? ていうか離婚したこと話すの?』
 直子の声で、意識がぐるりと回って現実に戻ってきた。『あのね絵里、あんたも大概だけど、相手も相手よ。向こうだって家庭があってさ、それなのに同僚の奥さんに手を出してくる男って、やっぱまともではないから。あたしは別れてほしい。そいつと付き合ってたって絵里は幸せになれない。向こうは奥さんと別れる気あるの?』
 そういう話はしたことがなかった。
「お子さんもいるし、無理じゃないかしらね。でもわたしたち、最初からそのつもりで付き合ったのよ」
『で、相手のほうは未だ奥さんにバレないままで、あんただけが旦那と別れたの?』
「そうよ」
 直子はまたしばらく黙っていた。受話器と耳が僅かにこすれる、くぐもった音がする。
『……まあ、絵里の人生だからさ。孝道さんと一緒にいるのが嫌なら、我慢して結婚生活を続ける必要もなかったとは思うけど』
 そういうわけでも、なかったかもしれない。
 じゃあわたしがしたかったのは、やっぱり子どもじみた仕返し。
 だが、今更なにを言ったところで後の祭りだ。
『ただね、このままだとお義母さんどころか向こうの奥さんに殺されたって文句言えないよ、あんた。いくら不倫相手が優しくて素敵だろうと。あたしはあんたの人生を、これ以上壊されてほしくない』
 直子の忠告は切実だった。だから絵里は迷った。これを言おうか、言わないか。
「直子、あのね」
 額をてのひらで覆う。しかし、これを打ち明ければ絶対に怒られる。瞼の裏に美濃部の顔が現れた。セールスマンらしい爽やかに笑った表情と、健康的な白い歯。いつも首筋から漂うムスクの香り、低い声。やがてその声は鴫原の声に変わり、美濃部の顔にも元・夫の影が重なる。
 たった今、眠りが醒めた人みたいに虚ろな目でまばたきをしたあとで、
「また電話するわ。忙しいのに話を聞いてくれてありがとう」
 絵里はスマホをベッドに置いた。
 そして自分もベッドに顔から倒れ込む。一瞬、窓から八ツ星駅と、そこから都心へ向かって伸びていくJR東郷線の路線見えた。
 ――あの東郷線の電車の中だ。5年前、彼を見たのは。
 ねえ直子、わたしの人生はまだ、やり直しがしやすいほうだろう。だってわたしはこの広い世界で、わたしよりもひどい目に遭っている人たちが存在すると知っている。あの子の身に起きたことに比べたら。そう思うから、まだ精神を保っていられるのかもしれない。
 まだ、絵里は、あのときの光景を忘れられない。あのとき、あの車両にいたすべての乗客が、自分のスマホを握りしめて泣き崩れる青年の姿を前に、なにもしてあげられなかった。彼の身に起きた出来事に比べれば、自分を愛してくれなくなった夫に捨てられたぐらい、本当は大したことではないのかもしれない……。
 吐き気と嫌悪感が喉元をせり上がった。
 己とあの子の運命を比較して、まだ安心していたのかわたしは。最悪だ。
 もうこのまま今日は起き上がりたくない。
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