来たるとき
十次は、怒らなかった。
誰も、翔を責めなかった。
久しぶりに、孫の、子どもらしいところを見た気がする。
思えば昔から、自分の孫である翔にはどの子どもよりも厳しく躾をしてきた。
それは示しをつけるためもあったが、誰よりも強い大人へと成長させるためでもあった。
いつしか、甘えなくなった翔。
弱音など吐くことなく、十次の教えを素直すぎるほどに受け入れて、真摯に己と向き合っていた。
そんな翔が我を忘れたところなんて、初めて見る。
これもトキ....
いや、詩の影響か....
面の下、十次は自分がやわらかい表情になっていることに気づく。
「翔...
お前は今、初めて自分を見失った...
あんなに苦しい鍛錬を積み、1日たりとも修行に手を抜くことのなかったお前が、だ...
それは、お前が今目の前にした詩を理解したいと強く思ったからがゆえ....」
「え...」
詩と翔は顔を見合わせる。
「この短期間でお前たちは、お前たちが思っている以上に、つながり合っていたのだ。
なに、不思議なことじゃない。
わしからしたら、必然と言える...
お前たちが思っている以上に、東雲と南雲の絆は強いのじゃ。
たった数十年、縁を絶ったからといって、そう簡単には切れぬもの。
お互いの感覚が結びつく感覚。
それを危険視され、今日まで引き裂かれた関係だったが...
やはり、東雲と南雲は切っても切れぬ縁...
詩、お前がわしの前に現れたあの時、もうわしはこの運命に抗うことを辞めようと決意したよ....」
南雲のじいちゃんが、そんなことを思っていたなんて...
詩は、初めて知るそのことに、ぐっと息をのむ。
すっと、十次の空気が変わり、詩と翔は息をのむ。
これは、修行の時の真剣な十次そのもの。
ここで手を抜いたら殺される、と感じるときのそれと同じだ。
「翔...
さっきの感覚を忘れるな」
静かに、十次は言う。
さっきの感覚。
説明されなくてもわかる。
自分を自分でコントロールできなくなった、あの感覚。
....正直、怖かった。
自分が自分じゃないようで、別なものに支配されている感覚が、怖かったのだ。
「式神使いは、あの感覚をずっと持ち続けているんじゃ。
どんなに鍛錬を積もうと、内に飼っている獣はそう簡単には手なづけられぬ。
強すぎるアリスがゆえ」
詩が言っていたことがある。
ー詩、なんでそんなに必死なんだよ。
そんなボロボロになってまで...
俺だってここまで体得するまで時間がかかったんだ。
そんな急ぐ必要なんて....
負けても、何度も何度も立ち上がる詩に、つい言ったことがあった。
ー...もう、自分のアリスで人を傷つけたくないから。
もう、自分のことも、自分のこのアリスも、嫌いになりたくないから。
自分を、愛したい。
自分を犠牲にすることが守ることじゃないって、仲間が教えてくれた。
前の俺は、みんなを守るためと言って、自分自身をないがしろにして、自分が傷つく道ばかり選んでいた。
でも、それが逆にみんなを悲しませることになるって、気づいたんだ。
こんな俺が生きることで、生き続けることで、希望を与えられるなら...
大切な仲間を傷つけないように....
自分自身をちゃんと守れるように...
そんなふうに、強くなりたい....っ
ー自分が、自分じゃなくなる瞬間が怖いんだ。
一番怖いのは、自分自身とこのアリス。
アリスにのみこまれそうになる瞬間。
いつか、この体すべてのっとられてしまうんじゃないかって、時々思う...
もう、そんな思いしたくないんだ。
ートキじいちゃんの気持ちがわかる...
じいちゃんの弟の気持ちだって...
そう言った詩が、とても苦しそうだったのを覚えている。
自分には、南雲にはとうてい理解できない壁。
じいちゃんも、詩のじいちゃんといた時、こんな思いを抱えていたのかと、少しだけ感じることができた。
それがあの戦時中だと、なおさらのこと。
隣で戦う戦友が、いつしか背中しか見えなくなっていたときのやるせなさ。
痛いほどに、わかった____
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