そしかいする度に時間が巻き戻るようになった
名前の由来を教えてもらって発表しましょう。
小学校低学年の時に出された宿題だ。
幼なかった秋には、その宿題が一条の光に思えた。
小走りで児童養護施設に向かいながら、過度な期待を抱かないよう自分に言い聞かせる。それでも胸が浮き立ち、自然と下校の足が軽くなっていた。
秋は親の顔を知らない。物心ついた時には児童養護施設にいた。だから秋は、自分は捨てられたのだと漠然と考えている。
それでも、もしかしたら施設に赤ん坊の自分を置いていく時、母親が「この子の名前は秋です」と職員に伝えていたかもしれないじゃないか。名前にはこんな願いを込めていて、こんな子供に育ってほしい。だからどうぞこの子をよろしくお願いしますと職員に頭を下げていたかもしれない。
今日、自分が愛されていた証拠が見つかるかもしれない。
砂だらけの玄関で靴を脱ぎ散らかす。
秋は一直線に施設長の部屋に向かった。
施設長は毎日周囲に当たり散らしている酒浸りの駄目人間だ。極力近づきたくない相手だが、彼は最も施設に長くいる人物であり、秋の親と会っている可能性がある唯一の職員でもある。背に腹は変えられない。
廊下を歩きながら、ランドセルを体の前へ移動させプリントを取り出す。無理やり取り出したせいで少しよれた。
施設長室の扉を開ける。施設長は椅子に座って酒瓶を仰いでいた。
彼はこちらに向かってギョロリと目玉を動かす。血走った目も相まって恐ろしい形相だ。
いつもなら腹いせに殴られる前に逃げ出すところだが、秋はグッと恐怖を堪えて足に力を入れた。
「えっと、学校から宿題が出されて。みんなの名前には素敵な願いが込められてるって先生が……」
気持ちがはやって言葉がとっ散らかる。要領を得ない秋の説明が終わる前に、施設長は立ち上がってズカズカと扉まで歩いてきた。
机に置かれたままの酒瓶は空っぽ。新しい酒を取りに行くのだろう。
施設長は部屋を出るついでに、秋が握りしめているプリントを覗きこむ。
「名前の由来だァ? んなもんお前が施設の前に捨てられてた季節が秋だからに決まってるだろうが」
秋は凍りついた。先ほどまで熱を帯びていた頬が急激に冷める。
施設長は様子が百八十度変わった秋を一瞥すらせず部屋から離れていった。
秋はその場に立ち尽くして、しばらく動けずにいた。ずっとぼんやりしていた気がする。記憶が曖昧だ。
飛ばした意識が戻ったのは、横から声をかけられたからだった。
「ああ、その宿題が出される頃か。だからあんなに期待を顔に滲ませて帰ってきたのかい」
いつの間にか秋の横に立っていたのは中年の女性職員だった。手にはモップを握っている。掃除に来たのだろう。
秋はゲッと顔を歪めた。彼女は意地が悪く、人を落ち込ませるのを生きがいにしているような人間だ。できるだけ近づきたくない職員の一人である。まあ、この児童養護施設には近づきたくない大人しかいないのだが。
女性職員はニィっと意地の悪い笑みを浮かべて、楽しそうに問いかけた。
「知ってるかい? 赤ん坊が捨てられる時期で一番多いのは春なんだよ。暖かくなってきた頃合いで、暑すぎて熱中症になる危険もないから、見つけてもらえるまで赤ん坊が生き延びやすいって親は考えるんだろうさ。
だからね、朝晩の冷えが強くなった時期に捨てられたアンタは、そういった些細な気遣いすらしてもらえなかったんだよ」
一番初めに訪れた自分の転換期を挙げろと言われたら、秋はこの出来事を選ぶだろう。
幼いときに自分は誰からも必要とされていない人間だと突きつけられたからこそ、彼女は自分を大きく見せることを覚えた。
偉そうにふんぞり返って自画自賛していれば幾分か息がしやすくなる。意味もなく攻撃されたり蔑まれる機会はグッと減るし、そう振舞っていれば自分は素晴らしい人間なのだと思い込める。
そうやって思考を停止させるのは何よりも楽だった。
* * *
伊達殺害ラッシュ阻止のために他メンバー二人と顔を合わせた際に、とんでもない事実が発覚した。萩原も松田も割と自炊をするタイプだそうだ。料理の腕もそこそこだという。
秋は慌てた。
なにせ、彼女の料理スキルは初心者も同然。得意料理はカップラーメンで、レトルト食品を温めるのすら面倒がる人間だ。
まずい。非常にまずい。
もしも話の流れで最近作った料理の話になって、写真を見せ合うような事態にでも発展したら完璧人間という自分のイメージが崩れてしまう。どうせそんな事態にはならないだろうが、万に一つでも可能性があるのなら潰さなくてはならない。「間宮秋」のイメージを守るのは何よりも大切なのだ。
秋は苦渋の決断の末、スコッチに助けを仰いだ。
一緒に生活している以上彼には情けない部分も見られてしまっている。今さら取り繕っても意味がないし、教えを乞う相手としては最適だろう。さらに言えば、イメージが崩れそうな事態に何度も直面しているのに、彼が態度を変えないのも後押しの要因となっていた。
他人に弱みを晒すのは身が裂けるほど嫌な行動の一つだが、萩原と松田が持っている「間宮秋」のイメージが崩れる方が怖い。
もしもそれが原因で、今まで必死に取り繕ってきた幻影が解けたらどうする。彼らは秋に失望して距離を取るかもしれない。
二人はたったそれだけのことで馬鹿にしてくる人間ではないと分かってはいるが不安は増す一方だった。だって本当の自分は何の価値もない薄汚い犯罪者──
ダァン!
秋は勢いよく包丁をまな板に叩きつけた。必要以上の力を込めて切られた白菜が真っ二つになる。
現在、秋はスコッチによる料理の監修を受けている最中だった。
こうなった経緯を思い返していたら嫌な考えがよぎったので、思考を切り替えようと力いっぱい包丁を振り下ろしてみたが、そう簡単には切り替わってくれないらしい。マイナスな思考は依然として頭の片隅に居座り、精神を蝕んでくる。
(人間は同時に二つのことを考えられないって言うし適当に雑談するか)
記憶をたどって話題を探す。公安の詳しい解説を聞きたかったのを思い出した。
秋は包丁を動かしながら尋ねる。
「ところでさー、公安って結局なんなの? いろんな意味がありすぎて訳わかんないんだけど」
「公安? そりゃまたなんで」
「個人的に調べてる事件に公安が関わってるっぽいんだよね」
「……へえ、それってどんな事件?」
「組織とは一切関係ないよ。具体的にどんな事件かって聞かれると何から話せばいいのかわからないけど」
言外に相手はバーボンではないと伝えると、スコッチはあからさまにホッとした。緊張による強ばりが消えて、普段のやわらかい表情に戻る。
「あそこらへんの用語ってややこしいもんな」
その言葉を皮切りにスコッチは説明を始めてくれた。
彼はすでに作業を終わらせており、タオルで手を拭いている段階だ。
歪な形の白菜の切れ端を量産している秋とは大違いである。
「ええっと、まずは公安警察からな。一般的に公安警察ってのは警察庁公安部と警視庁公安部をひっくるめた言い方なんだ」
「へー」
風見裕也とスコッチの所属が警視庁公安部。バーボンは警察庁公安部だ。
公安=やばい事件を担当するところ、くらいにしか理解していないせいで違いがわからない。
「警察庁と警視庁って何が違うの?」
「県警はわかるか?」
「県ごとに置かれてる警察機関」
「そう。長野県警や大阪県警ってやつだな。全部で四十七個ある。その東都版が警視庁で、すべての県警をまとめ上げているのが警察庁」
「なるほど。すっごく簡単に言うと警察庁公安部のほうが警視庁公安部よりも偉くて、色々と指示を出したりしている、と」
つまり警察庁公安部なんちゃらかんちゃら所属のバーボンの方が、警視庁公安部所属のスコッチよりも偉いのか。
ついでに伊達との接触が確認された公安警察官、風見裕也はスコッチと同じ所属先。
「まあそうだな。で、公安部の意味はわかってる?」
「……ほら、なんか、あれだ。一般的な事件じゃなくって黒の組織とかを担当するようなところでしょ」
「大体合ってる。公安部ってのは公共の安全の維持を目的とする部署のことな。国家の秩序を脅かす事案を担当したり、そういった事件を未然に防ぐために動いたりしてる」
「ああ、だから黒の組織。規模も幹部も頭おかしいし」
「幹部のアドニスがそれ言うか?」
「まともなのは私くらいなんだよ」
やれやれと言いたげに肩をすくめてから、スコッチの指示通り鍋に具を敷き詰め始める。一番下に肉類、その上に豆腐や野菜。
「あとは味付けして煮るだけ。簡単だろ」
事もなげに言い放ったスコッチに、秋は信じられないものを見る目を向けた。包丁を使う料理は総じて面倒だという自明の理を彼は知らないのだろうか。
(にしても)
公安の解像度が上がった今、風見と伊達の関係性はますます不明になった。
公安部と捜査一課の仕事はかけ離れている。定期的に接触するとは思えない。
(それに二人の接点を隠しているから別人のフリしてたんだろうけど……なんで?)
そこまで考えて思い当たった。
秘匿性が高い大事件を担当している公安警察は、所属している警察官だけで手が足りるとは思えない。特に専用の知識、立場が必要になることもあるだろう。
「……もしかしてだけど、公安警察が一般人や別の部署の人間──例えば捜査一課の刑事──に協力を仰ぐことってあったりする?」
「ああ、公安刑事に協力する民間人はいるよ。協力者って呼ばれてるんだ。特殊な技術や知識、立場を持ってる人とか。後は調査対象と親しい人なんかも協力者だったりするな。捜査一課のほうは分からないけど、公安刑事が動くよりも捜査一課の人間を足にするほうが適している場合なら、協力を仰ぐこともあるんじゃないか?」
協力者。きっと伊達航の立場はそれだ。
伊達と風見の接触を確認してすぐ、秋は彼らが使用しているベンチ裏に録音型盗聴器をしかけた。その盗聴器が拾った彼らの会話は二パターンのみ。
特定の殺人事件に関わるよう風見が指示しているか、伊達が監視相手の経過報告をしているかのどちらかだけだ。
伊達が公安の協力者なら、あの会話内容にも納得がいく。
(伊達が監視してる相手の正体とかは、萩原、松田との作戦会議で考えればいっか)
彼らと話し合うときに知識が不足していると大変なので、秋は再び質問を投げかける。
「公安警察が監視するとしたらどんな人物?」
「国家を揺るがすような大事件を起こしそうな不穏分子や、放っておくと面倒そうな団体。ようするに黒の組織みたいなやつだよ」
なるほど。
伊達が団体全体を監視しているとは考えにくい。
せいぜい団体に所属しているうちの一人か、公安に危険視される経歴がある人物の監視を請け負っているはずだ。
伊達航周辺に該当する人物はいなかっただろうか。
秋は尾行によって確認した伊達周辺の人物を思い浮かべ、すぐに諦めた。最終的に絞られた容疑者はともかく、周辺の人物となると膨大な数だ。いちいち覚えていない。
その代わりに、容疑者の一人である日下部誠の存在を思い出した。
彼の職業は東京地検公安部所属の検事だ。ここでも公安が出てきているが、名前の響きからして公安警察とは別物な気がする。
もしも彼に焦点が当たっても今のままでは話についていけない。
秋は次の質問をぶつけた。
「次のしつもーん。東京地検公安部ってなに?」
地検──地方検察庁。日下部の職場は東都の検察庁だ。検察庁とは検察官の職場である。そこまでは分かる。
が、秋は検察官に対して「弁護士ドラマに出てくる弁護士の敵役」程度の認識しか持っていない。
さらに公安だとか言われても理解が到達しないのだ。
「犯罪者が逮捕されたあと、警察が捜査した結果を検察に送って、検察はそれを受けて改めて事件を調べるだろ。容疑者を起訴するかどうかはこの検察の調べを踏まえて、検察官が判断するのが普通。検察公安部ってのは、その中でも公安事件を担当する場所だよ。
ほかにも公安部の場合は警察と検察のパワーバランス問題とか色々あるけど、それはいいや」
「なるほど、なるほど」
秋は相槌を打ったついでに鍋へ視線を落とした。具材の間から小さな空気の泡がポコポコと出ている。
「ところで素朴な疑問なんだけど、弱火のところを強火にしたら時間短縮できたりしない?」
「悲惨なことになるから絶対やめろよ」
「経験あるの?」
「親友が同じことをやったんだ。そいつは料理のさしすせそすらロクに言えなかったけど、今では料理が得意になってるよ」
「ふーん、この私と同じ発想をするなんてさぞかし優秀な人なんだろうね」
秋はドヤ顔で言い放った。すでに普段の調子を取り戻している。
彼女が反応に困る言動をするはいつものことなので、スコッチは慣れた様子で話題を変える。
「ていうか、なんでそんなふわっとした理解で黒の組織でやってけたんだ?」
「NOCの始末や各国捜査機関の相手は私の仕事じゃないしー。なんとなくで事足りるんだよ。殺されない程度の働きをするのが目標だからね。むしろ組織のために勉強するとか癪にさわる」
「ふーん。じゃあアドニスの仕事って?」
「ほら私、そこにいるだけで充分だから」
「やっぱり教えてくれないかー」
スコッチはケラケラと笑った。
* * *
次に伊達殺害防止メンバーで集まったのは三月半ばだった。前回から今回までの間、萩原や松田と別々に落ち合うことはあったが、全員の予定が合う日は皆無だったのだ。それもこれも米花町の事件発生率のせいである。
松田と初対面のときに利用した居酒屋の個室。キャベツの代わりにネギを使ったお好み焼きのようなものを食べて、秋は首を傾げた。
「このねぎ焼き、前よりもおいしくなってない?」
「そうか? 変わらねえだろ」
ねぎ焼きだけでなく他の料理も美味しくなっている気がするのだが、二人ともピンと来ていない様子だった。
注文した最後の品が届いたところで萩原が口火を切る。
「んじゃ、さっそく情報の整理を始めようぜ。六月一日以降に班長の命を狙ってくる犯人がやっとわかったんだから」
萩原に視線を向けられて秋は箸を置いた。
「前会った時に軽く説明したけど、偶然を装って伊達と定期的に接触してる人がいたんだよ。萩原に確認したら公安刑事の風見裕也だって判明した。
二人が落ち合うのは月に一回くらい。国営公園の決まったベンチで背中合わせになるように座ることで、他人同士にカモフラージュして会話してる。なにせ私は非常に優秀だから、これは何かあるだろうってことでベンチの裏に録音型盗聴器をしかけてみた。いやー、この動きの早さ我ながらすごいよね」
萩原と松田は白けた目を向けてきた。
この様子だと盗聴器を手に入れた手段に言及されなさそうだ。言及された場合に備えて、安室透の名前を出す許可を取り付けておいたのに。
「その音声がこれね」
安室透の名前を出さなくてもいいならそれに越したことはない。秋はさっさとスマホを操作して、スマホに移しておいた音源を再生する。
遠くから聴こえる子供たちの笑い声をBGMに、風見の硬い声がした。
『米花町のゲーム会社社長殺人事件に関われ。容疑者として浮かび上がっている人物は、おそらくNAZU不正アクセス事件の犯人だ。ふざけてアクセスした証拠を見つけられ、口封じ目的で衝動的に殺したんだろう。犯人が不正アクセス事件にも関与していたのが確定すれば、あの事件は公安の管轄になる』
『そうすれば監視対象に接触する機会が得られる、と』
『ああ』
『よし来た、上手いことやってみる』
『頼んだぞ。次に「彼」と「彼女」の動向だが──』
『今のところ不審な動きはないぜ』
『そうか。引き続き監視を続行するように』
ガサリと盗聴器が音を拾った。風見が立ち上がろうと身じろぎしたらしい。そのタイミングで伊達が声をかける。
『なあ、あいつらは元気にやってるか?』
『……必要以上の情報は教えられない』
今度こそ風見が立ち上がる音が聞こえた。続けて遠のく足音。
秋は停止ボタンを押して、音声から読み取れた内容を羅列する。
「別の日の会話内容も似たり寄ったりだし、風見、伊達の間で交わされる会話パターンは二種類だけなんだよね。
一、特定の殺人事件の調査に携わるよう、風見が伊達に指示を出している。二、伊達が監視対象の動きを風見に報告している。その監視対象ってのが『彼』『彼女』って呼ばれている人物。別の報告では『彼女』の情が『彼』に移ってるとかなんとか話してたよ」
秋は一呼吸置くと確信を持って尋ねた。
「……今までの周で、萩原は伊達と風見の接触に気づいていなかった。そうだよね?」
「ああ」
「つまりこの新事実と、今まで尻尾すら掴めなかった伊達航殺害犯とには関係があると考えて間違いない」
「『彼』と『彼女』の正体が割り出せりゃ真相にグッと近づくな。萩、公安が協力者に監視を命じそうな経歴を持った人物、班長の近くにいたか?」
協力者。松田は伊達のことをそう呼んだ。
萩原もその呼び方に引っ掛かりを覚えたそぶりを見せない。
相談するまでもなく、三人は各々でその答えにたどり着いたのだ。人目を偲んで公安から指示を出される立場なんて一つしかない。
互いに相手の実力はある程度把握している。この件で意見のすり合わせを行う必要はないだろう。
全員がそう判断したため伊達が協力者である事実はサラッと流され、話題は監視相手の心当たりへと移った。
「一人だけいるぜ。羽場二三一 。裁判官を志していた司法修士生だったけど、不採用を言い渡された際に所長に食ってかかり、その態度が自己満足な正義感の暴走であるとして、裁判官はおろか弁護士になる道も断たれた過去がある。二度目の暴走を懸念した公安にマークされててもおかしくない。
現在は弁護士事務所の事務員として働いてるから裁判関連で頻繁に班長と顔を合わせているけど、班長殺害ラッシュ前に自殺しているため容疑者から外されてた」
「なるほど、これが『彼』か。そういや萩、お前、羽場は拘置所で自殺するって言ってなかったか? 逮捕された理由は?」
「窃盗のためにゲーム会社に不法侵入したところを現行犯逮捕。でもなぜか公安警察による取り調べが行われて、その直後の五月一日に自殺、ってのが表向きの説明だけど……」
「本当は公安が関与するだけの理由があったんだろうな」
「ああ、それに現行犯逮捕なんてタイミングが良すぎる」
「班長のリークがあったから逮捕に漕ぎ着けたって?」
「そうかもしれないし前々から公安が羽場を見張っていただけかもしれない。でも、問題なのはそう考えても筋が通るってことだ。羽場の逮捕、ひいては自殺の原因が班長だと考えた犯人が班長殺害を決意してもおかしくない。
しかも羽場の命日は五月一日で班長が殺されるのは毎月一日。月命日だ」
萩原の指摘で疑惑は確信に変わった。動機は羽場の自殺で間違いない。
人物相関図を頭に思い描いてみる。
伊達航は公安警察の協力者で、羽場二三一を監視していた。後に羽場が自殺して、伊達が彼の監視を公安警察から命じられていたことを何かしらの理由で知った犯人が伊達を殺害。
あらかじめスコッチの解説を聞いていなかったら話の内容を理解できていなかっただろう。なにせ協力者だとか公安警察だとか、普通に生活する分には知らなくても問題ない単語ばかりが出てくるのだ。
そこまで考えたところで松田に声をかけられる。
「ところで羽場が逮捕されたってゲーム会社、盗聴した会話に出てきた場所と同じじゃねえか? ほら、殺人事件現場の」
「だよね。羽場に接触するために伊達が事件に携わるよう命令されてたわけだけど……」
口に出しながら釈然としなさが深まっていった。
刑事の伊達と事務員の羽場とを殺人事件がつなぐとすれば、接点は裁判所しかない。
羽場の職場が犯人の弁護を担当し、初期の捜査に携わっていた伊達が証言台に立てば、そこで接点が生まれる。逆に言えばそれ以外の接点はないはずだ。
しかし羽場の職場が公安事件の弁護を頻繁に行うと言っても、警察が捜査している段階では、どの法律事務所が犯人の弁護を行うかなんて分かりっこない。
そんな不確定な状態で公安が指示を出すとは思えなかった。
秋がその疑問をこぼせば松田も肯定する。
「捜査段階で、誰が被疑者を弁護することになるかなんてわかりっこねえよな」
「……弁護する人間を公安が斡旋してない限りは、な」
確信をにじませた声がした。
萩原は真剣な表情で告げる。
「もう一人の監視対象であり、羽場の上司でもある橘 境子 は公安の協力者だ」
「はあ!?」
松田が大きな声を出し、秋は口に運んでいた卵焼きをポトリと落とした。
突拍子もない主張に度肝を抜かれたが萩原が言うのだから根拠があるのだろう。秋はひとまずそう自分を納得させて、橘境子のプロフィールを思い返す。
橘境子。十人にも満たない容疑者の中にいた人物だ。
公安事件を担当することが多い、基本的に負け続けの弁護士である。
橘法律事務所の所長で、部下は事務員の羽場二三一のみ。彼とは恋人関係でもある。
頼りない笑顔をよく浮かべている彼女にはへっぽこ弁護士の印象しかない。どれだけ想像を働かせても、公安の協力者として暗躍する彼女の姿は思い浮かばなかった。
「橘境子ってほぼほぼ裁判で負けてるだろ」
「うん」
「だな」
容疑者の情報はひとしきり共有してある。
秋と松田はそろって頷き返した。
「さらに調べてみると彼女が担当して負けた──つまり被告人に有罪判決が出た事件は、公安警察が有罪に持って行きたかったであろう事件ばかりなんだ」
「おいおい、じゃあなんだ? 橘境子は公安に指示された通りわざと負けてるって言いてえのか?」
それは、いささか発想が飛躍していないだろうか。
異議を唱えた松田と同じく秋も眉をひそめた。
訝しむこちらの反応は想定内だったらしい。萩原は二人の反応にたじろぐでもなく、その結論に至ったわけを話す。
「ああ、根拠は二つだ。まずは『前回』以前のすべての周で、俺が誤認逮捕された時の橘境子の行動。『サミット会場爆破を事故として処理させないためにひとまず用意したでっち上げの犯人を有罪にしないよう、送り込まれた協力者の弁護士』としか思えない行動を彼女はとっていた。
その時点で察してはいたけど、今回改めて彼女を調べて、さらなる新事実が判明したぜ。これが次の根拠。羽場が橘法律事務所に就職するのに、公安が誘導した形跡が見られた。羽場の監視役はもともと橘境子の役目だったんだろうな」
「……しかし橘が羽場と恋人関係になってしまい監視能力に不安が出た。だから班長が投入された、って?」
「ああ」
確かにそれだけ証拠が揃っていれば、橘境子は協力者なのだと納得するほかない。
「公安警察が担当した事件の犯人を橘境子が弁護することになって、初期に事件の捜査をしていた班長も裁判に関わったりする。結果、班長と橘境子、羽場二三一の接点が作られる」
萩原の締めの言葉で全てがつながった。
(そうやって伊達が二人を監視できる状況を作り上げてるのか……!)
公安警察から目をつけられている羽場二三一。
彼の監視を命じられていた公安の協力者が橘境子。監視だけでなく、公安警察の思い通りに裁判を進める手助けもしている。
しかし二人が恋人関係になり監視能力に不安が出たため伊達が投入された。
伊達が新たな監視員なのだと橘境子が気づく可能性は十分にある。自身も協力者なのだ。風見と伊達が落ち合っているところを目撃すればすぐにピンとくるだろう。
そして羽場の逮捕と自殺の原因は伊達なのだと思い込んだら、犯行に及ぶ動機ができる。
「萩原、伊達はどの周でも『今回』と同じくらい公安事件に関わってるって言ってたよね」
「ああ。言い換えると被告人の弁護を担当する橘境子と毎回関わりがあるってことになる」
「しかも橘境子と伊達の関係性は薄いから今までの周では容疑者として扱っていなかった。当然、伊達殺害時にアリバイがあったかどうか調べていない」
「そうだな」
初めて三人で集まった日に導きだした犯人の特徴。
一つ、伊達を殺す強い意志がある。
二つ、すべての周で伊達との関わりがある。
三つ、ループ中に起こった伊達殺害の際にアリバイが確認されていない。
橘境子はすべてを満たしていた。
小学校低学年の時に出された宿題だ。
幼なかった秋には、その宿題が一条の光に思えた。
小走りで児童養護施設に向かいながら、過度な期待を抱かないよう自分に言い聞かせる。それでも胸が浮き立ち、自然と下校の足が軽くなっていた。
秋は親の顔を知らない。物心ついた時には児童養護施設にいた。だから秋は、自分は捨てられたのだと漠然と考えている。
それでも、もしかしたら施設に赤ん坊の自分を置いていく時、母親が「この子の名前は秋です」と職員に伝えていたかもしれないじゃないか。名前にはこんな願いを込めていて、こんな子供に育ってほしい。だからどうぞこの子をよろしくお願いしますと職員に頭を下げていたかもしれない。
今日、自分が愛されていた証拠が見つかるかもしれない。
砂だらけの玄関で靴を脱ぎ散らかす。
秋は一直線に施設長の部屋に向かった。
施設長は毎日周囲に当たり散らしている酒浸りの駄目人間だ。極力近づきたくない相手だが、彼は最も施設に長くいる人物であり、秋の親と会っている可能性がある唯一の職員でもある。背に腹は変えられない。
廊下を歩きながら、ランドセルを体の前へ移動させプリントを取り出す。無理やり取り出したせいで少しよれた。
施設長室の扉を開ける。施設長は椅子に座って酒瓶を仰いでいた。
彼はこちらに向かってギョロリと目玉を動かす。血走った目も相まって恐ろしい形相だ。
いつもなら腹いせに殴られる前に逃げ出すところだが、秋はグッと恐怖を堪えて足に力を入れた。
「えっと、学校から宿題が出されて。みんなの名前には素敵な願いが込められてるって先生が……」
気持ちがはやって言葉がとっ散らかる。要領を得ない秋の説明が終わる前に、施設長は立ち上がってズカズカと扉まで歩いてきた。
机に置かれたままの酒瓶は空っぽ。新しい酒を取りに行くのだろう。
施設長は部屋を出るついでに、秋が握りしめているプリントを覗きこむ。
「名前の由来だァ? んなもんお前が施設の前に捨てられてた季節が秋だからに決まってるだろうが」
秋は凍りついた。先ほどまで熱を帯びていた頬が急激に冷める。
施設長は様子が百八十度変わった秋を一瞥すらせず部屋から離れていった。
秋はその場に立ち尽くして、しばらく動けずにいた。ずっとぼんやりしていた気がする。記憶が曖昧だ。
飛ばした意識が戻ったのは、横から声をかけられたからだった。
「ああ、その宿題が出される頃か。だからあんなに期待を顔に滲ませて帰ってきたのかい」
いつの間にか秋の横に立っていたのは中年の女性職員だった。手にはモップを握っている。掃除に来たのだろう。
秋はゲッと顔を歪めた。彼女は意地が悪く、人を落ち込ませるのを生きがいにしているような人間だ。できるだけ近づきたくない職員の一人である。まあ、この児童養護施設には近づきたくない大人しかいないのだが。
女性職員はニィっと意地の悪い笑みを浮かべて、楽しそうに問いかけた。
「知ってるかい? 赤ん坊が捨てられる時期で一番多いのは春なんだよ。暖かくなってきた頃合いで、暑すぎて熱中症になる危険もないから、見つけてもらえるまで赤ん坊が生き延びやすいって親は考えるんだろうさ。
だからね、朝晩の冷えが強くなった時期に捨てられたアンタは、そういった些細な気遣いすらしてもらえなかったんだよ」
一番初めに訪れた自分の転換期を挙げろと言われたら、秋はこの出来事を選ぶだろう。
幼いときに自分は誰からも必要とされていない人間だと突きつけられたからこそ、彼女は自分を大きく見せることを覚えた。
偉そうにふんぞり返って自画自賛していれば幾分か息がしやすくなる。意味もなく攻撃されたり蔑まれる機会はグッと減るし、そう振舞っていれば自分は素晴らしい人間なのだと思い込める。
そうやって思考を停止させるのは何よりも楽だった。
* * *
伊達殺害ラッシュ阻止のために他メンバー二人と顔を合わせた際に、とんでもない事実が発覚した。萩原も松田も割と自炊をするタイプだそうだ。料理の腕もそこそこだという。
秋は慌てた。
なにせ、彼女の料理スキルは初心者も同然。得意料理はカップラーメンで、レトルト食品を温めるのすら面倒がる人間だ。
まずい。非常にまずい。
もしも話の流れで最近作った料理の話になって、写真を見せ合うような事態にでも発展したら完璧人間という自分のイメージが崩れてしまう。どうせそんな事態にはならないだろうが、万に一つでも可能性があるのなら潰さなくてはならない。「間宮秋」のイメージを守るのは何よりも大切なのだ。
秋は苦渋の決断の末、スコッチに助けを仰いだ。
一緒に生活している以上彼には情けない部分も見られてしまっている。今さら取り繕っても意味がないし、教えを乞う相手としては最適だろう。さらに言えば、イメージが崩れそうな事態に何度も直面しているのに、彼が態度を変えないのも後押しの要因となっていた。
他人に弱みを晒すのは身が裂けるほど嫌な行動の一つだが、萩原と松田が持っている「間宮秋」のイメージが崩れる方が怖い。
もしもそれが原因で、今まで必死に取り繕ってきた幻影が解けたらどうする。彼らは秋に失望して距離を取るかもしれない。
二人はたったそれだけのことで馬鹿にしてくる人間ではないと分かってはいるが不安は増す一方だった。だって本当の自分は何の価値もない薄汚い犯罪者──
ダァン!
秋は勢いよく包丁をまな板に叩きつけた。必要以上の力を込めて切られた白菜が真っ二つになる。
現在、秋はスコッチによる料理の監修を受けている最中だった。
こうなった経緯を思い返していたら嫌な考えがよぎったので、思考を切り替えようと力いっぱい包丁を振り下ろしてみたが、そう簡単には切り替わってくれないらしい。マイナスな思考は依然として頭の片隅に居座り、精神を蝕んでくる。
(人間は同時に二つのことを考えられないって言うし適当に雑談するか)
記憶をたどって話題を探す。公安の詳しい解説を聞きたかったのを思い出した。
秋は包丁を動かしながら尋ねる。
「ところでさー、公安って結局なんなの? いろんな意味がありすぎて訳わかんないんだけど」
「公安? そりゃまたなんで」
「個人的に調べてる事件に公安が関わってるっぽいんだよね」
「……へえ、それってどんな事件?」
「組織とは一切関係ないよ。具体的にどんな事件かって聞かれると何から話せばいいのかわからないけど」
言外に相手はバーボンではないと伝えると、スコッチはあからさまにホッとした。緊張による強ばりが消えて、普段のやわらかい表情に戻る。
「あそこらへんの用語ってややこしいもんな」
その言葉を皮切りにスコッチは説明を始めてくれた。
彼はすでに作業を終わらせており、タオルで手を拭いている段階だ。
歪な形の白菜の切れ端を量産している秋とは大違いである。
「ええっと、まずは公安警察からな。一般的に公安警察ってのは警察庁公安部と警視庁公安部をひっくるめた言い方なんだ」
「へー」
風見裕也とスコッチの所属が警視庁公安部。バーボンは警察庁公安部だ。
公安=やばい事件を担当するところ、くらいにしか理解していないせいで違いがわからない。
「警察庁と警視庁って何が違うの?」
「県警はわかるか?」
「県ごとに置かれてる警察機関」
「そう。長野県警や大阪県警ってやつだな。全部で四十七個ある。その東都版が警視庁で、すべての県警をまとめ上げているのが警察庁」
「なるほど。すっごく簡単に言うと警察庁公安部のほうが警視庁公安部よりも偉くて、色々と指示を出したりしている、と」
つまり警察庁公安部なんちゃらかんちゃら所属のバーボンの方が、警視庁公安部所属のスコッチよりも偉いのか。
ついでに伊達との接触が確認された公安警察官、風見裕也はスコッチと同じ所属先。
「まあそうだな。で、公安部の意味はわかってる?」
「……ほら、なんか、あれだ。一般的な事件じゃなくって黒の組織とかを担当するようなところでしょ」
「大体合ってる。公安部ってのは公共の安全の維持を目的とする部署のことな。国家の秩序を脅かす事案を担当したり、そういった事件を未然に防ぐために動いたりしてる」
「ああ、だから黒の組織。規模も幹部も頭おかしいし」
「幹部のアドニスがそれ言うか?」
「まともなのは私くらいなんだよ」
やれやれと言いたげに肩をすくめてから、スコッチの指示通り鍋に具を敷き詰め始める。一番下に肉類、その上に豆腐や野菜。
「あとは味付けして煮るだけ。簡単だろ」
事もなげに言い放ったスコッチに、秋は信じられないものを見る目を向けた。包丁を使う料理は総じて面倒だという自明の理を彼は知らないのだろうか。
(にしても)
公安の解像度が上がった今、風見と伊達の関係性はますます不明になった。
公安部と捜査一課の仕事はかけ離れている。定期的に接触するとは思えない。
(それに二人の接点を隠しているから別人のフリしてたんだろうけど……なんで?)
そこまで考えて思い当たった。
秘匿性が高い大事件を担当している公安警察は、所属している警察官だけで手が足りるとは思えない。特に専用の知識、立場が必要になることもあるだろう。
「……もしかしてだけど、公安警察が一般人や別の部署の人間──例えば捜査一課の刑事──に協力を仰ぐことってあったりする?」
「ああ、公安刑事に協力する民間人はいるよ。協力者って呼ばれてるんだ。特殊な技術や知識、立場を持ってる人とか。後は調査対象と親しい人なんかも協力者だったりするな。捜査一課のほうは分からないけど、公安刑事が動くよりも捜査一課の人間を足にするほうが適している場合なら、協力を仰ぐこともあるんじゃないか?」
協力者。きっと伊達航の立場はそれだ。
伊達と風見の接触を確認してすぐ、秋は彼らが使用しているベンチ裏に録音型盗聴器をしかけた。その盗聴器が拾った彼らの会話は二パターンのみ。
特定の殺人事件に関わるよう風見が指示しているか、伊達が監視相手の経過報告をしているかのどちらかだけだ。
伊達が公安の協力者なら、あの会話内容にも納得がいく。
(伊達が監視してる相手の正体とかは、萩原、松田との作戦会議で考えればいっか)
彼らと話し合うときに知識が不足していると大変なので、秋は再び質問を投げかける。
「公安警察が監視するとしたらどんな人物?」
「国家を揺るがすような大事件を起こしそうな不穏分子や、放っておくと面倒そうな団体。ようするに黒の組織みたいなやつだよ」
なるほど。
伊達が団体全体を監視しているとは考えにくい。
せいぜい団体に所属しているうちの一人か、公安に危険視される経歴がある人物の監視を請け負っているはずだ。
伊達航周辺に該当する人物はいなかっただろうか。
秋は尾行によって確認した伊達周辺の人物を思い浮かべ、すぐに諦めた。最終的に絞られた容疑者はともかく、周辺の人物となると膨大な数だ。いちいち覚えていない。
その代わりに、容疑者の一人である日下部誠の存在を思い出した。
彼の職業は東京地検公安部所属の検事だ。ここでも公安が出てきているが、名前の響きからして公安警察とは別物な気がする。
もしも彼に焦点が当たっても今のままでは話についていけない。
秋は次の質問をぶつけた。
「次のしつもーん。東京地検公安部ってなに?」
地検──地方検察庁。日下部の職場は東都の検察庁だ。検察庁とは検察官の職場である。そこまでは分かる。
が、秋は検察官に対して「弁護士ドラマに出てくる弁護士の敵役」程度の認識しか持っていない。
さらに公安だとか言われても理解が到達しないのだ。
「犯罪者が逮捕されたあと、警察が捜査した結果を検察に送って、検察はそれを受けて改めて事件を調べるだろ。容疑者を起訴するかどうかはこの検察の調べを踏まえて、検察官が判断するのが普通。検察公安部ってのは、その中でも公安事件を担当する場所だよ。
ほかにも公安部の場合は警察と検察のパワーバランス問題とか色々あるけど、それはいいや」
「なるほど、なるほど」
秋は相槌を打ったついでに鍋へ視線を落とした。具材の間から小さな空気の泡がポコポコと出ている。
「ところで素朴な疑問なんだけど、弱火のところを強火にしたら時間短縮できたりしない?」
「悲惨なことになるから絶対やめろよ」
「経験あるの?」
「親友が同じことをやったんだ。そいつは料理のさしすせそすらロクに言えなかったけど、今では料理が得意になってるよ」
「ふーん、この私と同じ発想をするなんてさぞかし優秀な人なんだろうね」
秋はドヤ顔で言い放った。すでに普段の調子を取り戻している。
彼女が反応に困る言動をするはいつものことなので、スコッチは慣れた様子で話題を変える。
「ていうか、なんでそんなふわっとした理解で黒の組織でやってけたんだ?」
「NOCの始末や各国捜査機関の相手は私の仕事じゃないしー。なんとなくで事足りるんだよ。殺されない程度の働きをするのが目標だからね。むしろ組織のために勉強するとか癪にさわる」
「ふーん。じゃあアドニスの仕事って?」
「ほら私、そこにいるだけで充分だから」
「やっぱり教えてくれないかー」
スコッチはケラケラと笑った。
* * *
次に伊達殺害防止メンバーで集まったのは三月半ばだった。前回から今回までの間、萩原や松田と別々に落ち合うことはあったが、全員の予定が合う日は皆無だったのだ。それもこれも米花町の事件発生率のせいである。
松田と初対面のときに利用した居酒屋の個室。キャベツの代わりにネギを使ったお好み焼きのようなものを食べて、秋は首を傾げた。
「このねぎ焼き、前よりもおいしくなってない?」
「そうか? 変わらねえだろ」
ねぎ焼きだけでなく他の料理も美味しくなっている気がするのだが、二人ともピンと来ていない様子だった。
注文した最後の品が届いたところで萩原が口火を切る。
「んじゃ、さっそく情報の整理を始めようぜ。六月一日以降に班長の命を狙ってくる犯人がやっとわかったんだから」
萩原に視線を向けられて秋は箸を置いた。
「前会った時に軽く説明したけど、偶然を装って伊達と定期的に接触してる人がいたんだよ。萩原に確認したら公安刑事の風見裕也だって判明した。
二人が落ち合うのは月に一回くらい。国営公園の決まったベンチで背中合わせになるように座ることで、他人同士にカモフラージュして会話してる。なにせ私は非常に優秀だから、これは何かあるだろうってことでベンチの裏に録音型盗聴器をしかけてみた。いやー、この動きの早さ我ながらすごいよね」
萩原と松田は白けた目を向けてきた。
この様子だと盗聴器を手に入れた手段に言及されなさそうだ。言及された場合に備えて、安室透の名前を出す許可を取り付けておいたのに。
「その音声がこれね」
安室透の名前を出さなくてもいいならそれに越したことはない。秋はさっさとスマホを操作して、スマホに移しておいた音源を再生する。
遠くから聴こえる子供たちの笑い声をBGMに、風見の硬い声がした。
『米花町のゲーム会社社長殺人事件に関われ。容疑者として浮かび上がっている人物は、おそらくNAZU不正アクセス事件の犯人だ。ふざけてアクセスした証拠を見つけられ、口封じ目的で衝動的に殺したんだろう。犯人が不正アクセス事件にも関与していたのが確定すれば、あの事件は公安の管轄になる』
『そうすれば監視対象に接触する機会が得られる、と』
『ああ』
『よし来た、上手いことやってみる』
『頼んだぞ。次に「彼」と「彼女」の動向だが──』
『今のところ不審な動きはないぜ』
『そうか。引き続き監視を続行するように』
ガサリと盗聴器が音を拾った。風見が立ち上がろうと身じろぎしたらしい。そのタイミングで伊達が声をかける。
『なあ、あいつらは元気にやってるか?』
『……必要以上の情報は教えられない』
今度こそ風見が立ち上がる音が聞こえた。続けて遠のく足音。
秋は停止ボタンを押して、音声から読み取れた内容を羅列する。
「別の日の会話内容も似たり寄ったりだし、風見、伊達の間で交わされる会話パターンは二種類だけなんだよね。
一、特定の殺人事件の調査に携わるよう、風見が伊達に指示を出している。二、伊達が監視対象の動きを風見に報告している。その監視対象ってのが『彼』『彼女』って呼ばれている人物。別の報告では『彼女』の情が『彼』に移ってるとかなんとか話してたよ」
秋は一呼吸置くと確信を持って尋ねた。
「……今までの周で、萩原は伊達と風見の接触に気づいていなかった。そうだよね?」
「ああ」
「つまりこの新事実と、今まで尻尾すら掴めなかった伊達航殺害犯とには関係があると考えて間違いない」
「『彼』と『彼女』の正体が割り出せりゃ真相にグッと近づくな。萩、公安が協力者に監視を命じそうな経歴を持った人物、班長の近くにいたか?」
協力者。松田は伊達のことをそう呼んだ。
萩原もその呼び方に引っ掛かりを覚えたそぶりを見せない。
相談するまでもなく、三人は各々でその答えにたどり着いたのだ。人目を偲んで公安から指示を出される立場なんて一つしかない。
互いに相手の実力はある程度把握している。この件で意見のすり合わせを行う必要はないだろう。
全員がそう判断したため伊達が協力者である事実はサラッと流され、話題は監視相手の心当たりへと移った。
「一人だけいるぜ。羽場
現在は弁護士事務所の事務員として働いてるから裁判関連で頻繁に班長と顔を合わせているけど、班長殺害ラッシュ前に自殺しているため容疑者から外されてた」
「なるほど、これが『彼』か。そういや萩、お前、羽場は拘置所で自殺するって言ってなかったか? 逮捕された理由は?」
「窃盗のためにゲーム会社に不法侵入したところを現行犯逮捕。でもなぜか公安警察による取り調べが行われて、その直後の五月一日に自殺、ってのが表向きの説明だけど……」
「本当は公安が関与するだけの理由があったんだろうな」
「ああ、それに現行犯逮捕なんてタイミングが良すぎる」
「班長のリークがあったから逮捕に漕ぎ着けたって?」
「そうかもしれないし前々から公安が羽場を見張っていただけかもしれない。でも、問題なのはそう考えても筋が通るってことだ。羽場の逮捕、ひいては自殺の原因が班長だと考えた犯人が班長殺害を決意してもおかしくない。
しかも羽場の命日は五月一日で班長が殺されるのは毎月一日。月命日だ」
萩原の指摘で疑惑は確信に変わった。動機は羽場の自殺で間違いない。
人物相関図を頭に思い描いてみる。
伊達航は公安警察の協力者で、羽場二三一を監視していた。後に羽場が自殺して、伊達が彼の監視を公安警察から命じられていたことを何かしらの理由で知った犯人が伊達を殺害。
あらかじめスコッチの解説を聞いていなかったら話の内容を理解できていなかっただろう。なにせ協力者だとか公安警察だとか、普通に生活する分には知らなくても問題ない単語ばかりが出てくるのだ。
そこまで考えたところで松田に声をかけられる。
「ところで羽場が逮捕されたってゲーム会社、盗聴した会話に出てきた場所と同じじゃねえか? ほら、殺人事件現場の」
「だよね。羽場に接触するために伊達が事件に携わるよう命令されてたわけだけど……」
口に出しながら釈然としなさが深まっていった。
刑事の伊達と事務員の羽場とを殺人事件がつなぐとすれば、接点は裁判所しかない。
羽場の職場が犯人の弁護を担当し、初期の捜査に携わっていた伊達が証言台に立てば、そこで接点が生まれる。逆に言えばそれ以外の接点はないはずだ。
しかし羽場の職場が公安事件の弁護を頻繁に行うと言っても、警察が捜査している段階では、どの法律事務所が犯人の弁護を行うかなんて分かりっこない。
そんな不確定な状態で公安が指示を出すとは思えなかった。
秋がその疑問をこぼせば松田も肯定する。
「捜査段階で、誰が被疑者を弁護することになるかなんてわかりっこねえよな」
「……弁護する人間を公安が斡旋してない限りは、な」
確信をにじませた声がした。
萩原は真剣な表情で告げる。
「もう一人の監視対象であり、羽場の上司でもある
「はあ!?」
松田が大きな声を出し、秋は口に運んでいた卵焼きをポトリと落とした。
突拍子もない主張に度肝を抜かれたが萩原が言うのだから根拠があるのだろう。秋はひとまずそう自分を納得させて、橘境子のプロフィールを思い返す。
橘境子。十人にも満たない容疑者の中にいた人物だ。
公安事件を担当することが多い、基本的に負け続けの弁護士である。
橘法律事務所の所長で、部下は事務員の羽場二三一のみ。彼とは恋人関係でもある。
頼りない笑顔をよく浮かべている彼女にはへっぽこ弁護士の印象しかない。どれだけ想像を働かせても、公安の協力者として暗躍する彼女の姿は思い浮かばなかった。
「橘境子ってほぼほぼ裁判で負けてるだろ」
「うん」
「だな」
容疑者の情報はひとしきり共有してある。
秋と松田はそろって頷き返した。
「さらに調べてみると彼女が担当して負けた──つまり被告人に有罪判決が出た事件は、公安警察が有罪に持って行きたかったであろう事件ばかりなんだ」
「おいおい、じゃあなんだ? 橘境子は公安に指示された通りわざと負けてるって言いてえのか?」
それは、いささか発想が飛躍していないだろうか。
異議を唱えた松田と同じく秋も眉をひそめた。
訝しむこちらの反応は想定内だったらしい。萩原は二人の反応にたじろぐでもなく、その結論に至ったわけを話す。
「ああ、根拠は二つだ。まずは『前回』以前のすべての周で、俺が誤認逮捕された時の橘境子の行動。『サミット会場爆破を事故として処理させないためにひとまず用意したでっち上げの犯人を有罪にしないよう、送り込まれた協力者の弁護士』としか思えない行動を彼女はとっていた。
その時点で察してはいたけど、今回改めて彼女を調べて、さらなる新事実が判明したぜ。これが次の根拠。羽場が橘法律事務所に就職するのに、公安が誘導した形跡が見られた。羽場の監視役はもともと橘境子の役目だったんだろうな」
「……しかし橘が羽場と恋人関係になってしまい監視能力に不安が出た。だから班長が投入された、って?」
「ああ」
確かにそれだけ証拠が揃っていれば、橘境子は協力者なのだと納得するほかない。
「公安警察が担当した事件の犯人を橘境子が弁護することになって、初期に事件の捜査をしていた班長も裁判に関わったりする。結果、班長と橘境子、羽場二三一の接点が作られる」
萩原の締めの言葉で全てがつながった。
(そうやって伊達が二人を監視できる状況を作り上げてるのか……!)
公安警察から目をつけられている羽場二三一。
彼の監視を命じられていた公安の協力者が橘境子。監視だけでなく、公安警察の思い通りに裁判を進める手助けもしている。
しかし二人が恋人関係になり監視能力に不安が出たため伊達が投入された。
伊達が新たな監視員なのだと橘境子が気づく可能性は十分にある。自身も協力者なのだ。風見と伊達が落ち合っているところを目撃すればすぐにピンとくるだろう。
そして羽場の逮捕と自殺の原因は伊達なのだと思い込んだら、犯行に及ぶ動機ができる。
「萩原、伊達はどの周でも『今回』と同じくらい公安事件に関わってるって言ってたよね」
「ああ。言い換えると被告人の弁護を担当する橘境子と毎回関わりがあるってことになる」
「しかも橘境子と伊達の関係性は薄いから今までの周では容疑者として扱っていなかった。当然、伊達殺害時にアリバイがあったかどうか調べていない」
「そうだな」
初めて三人で集まった日に導きだした犯人の特徴。
一つ、伊達を殺す強い意志がある。
二つ、すべての周で伊達との関わりがある。
三つ、ループ中に起こった伊達殺害の際にアリバイが確認されていない。
橘境子はすべてを満たしていた。