そしかいする度に時間が巻き戻るようになった

 伊達航の尾行は三人が持ち回りで行っている。基本的に誰か一人が伊達に張りつく形だ。
 しかし例外はある。
 ターゲットが一人でいると浮く場所にいる場合は、周囲に溶け込むために二人以上で尾行を行う。例えばクリスマスシーズンのデートスポットとか。


 ライトアップされた国営公園は人でごった返していた。大半が家族づれかカップルである。
 二十メートル先では伊達が歩いている。背が高く人混みから頭が飛び出しているので位置を確認しやすい。一方で彼の隣を歩いている恋人の姿はここからだと見えない。

 足元に注意してLEDランプで飾り付けられた並木道を歩いていると横から声をかけられた。松田だ。


「萩は予定があるって言ってたけど女と事件どっちだと思う?」


 今まで無言を貫いていたので話しかけられると思っていなかった。驚いて茶色のタイルを踏み外してしまう。右足は白のタイルの上に乗っていた。
 残念、ゲームオーバーだ。
 茶色のタイルは足場、白のタイルは底なしの淵。子供のころ誰もがやっていた遊びだろう。
 童心に帰ったわけではなく伊達に視線を送りすぎないための工夫の一環だったが、失敗すると普通に悔しい。

 秋はうつむいていた顔を上げると少し考えて答えた。


「7:3で女性」

「8:2じゃね? この前合コン行ったらしいし」


 会話はすぐに終わってしまった。再び無言が訪れる。
 話題を提供できない無能だと思われるのも癪なので、秋はイルミネーションを何気なしに目で追いながら話を振った。


「クリスマスイブにほぼ初対面の女と一緒に、デート中の友達の尾行をしている気まずい状態とはいえ、相手はこの私だよ。頭脳明晰、容姿端麗、眉目秀麗、才色兼備。全ての褒め言葉は私のためにあると言っても過言ではないってレベル。その割にはなんか浮かない顔してない?」

「お前その自信どこから来んの?」

「客観的事実から。そんなに佐藤刑事と出かけたかった?」

「お前の認識が歪んでるのはよーくわかった。……おい待て、佐藤刑事? 居酒屋での萩の言い方なら職業までわからないはずだろ」

「後日萩原から詳細を聞き出してね」

「あのおしゃべりめ」

「警視庁版の私みたいな人なんだって?」

「萩が何言ったのかは知らねえけどお前が話を歪曲しまくってるのはわかる。佐藤のほうが百倍いい女だぞ」

「それ本人に言いなよ。この私よりもいい女だってことは、宇宙で最も尊い存在であることと同義なんだから」

「お前の中ではな。で、萩からどんな話聞いたんだよ。おら、全部吐け」


 松田が凄んでくる。刑事よりもチンピラに近い風貌だ。
 秋が詳細を思い出そうと記憶をたどっていると、ライトアップされた花畑の前で尾行対象が立ち止まる。何か伝えてからナタリーが離れていったのが確認できた。あの方向は化粧室だ。
 先ほど見かけた、長蛇の列ができた女性用トイレが頭に浮かぶ。ナタリーが戻るまでしばらくかかるだろう。

 秋と松田はカモフラージュのために、花畑から少し離れた位置に停められた移動販売車で割高の飲み物を買い、その横の長ベンチに座った。

 コーヒーを飲みながら松田の問いに答える。


「萩原に何を聞いたかだったよね。えーと、確か……。
佐藤刑事は過激なファンクラブが結成されるほど美人。特に捜査一課の刑事の九割がファンクラブに所属していて、そのうちの三十人が精鋭中の精鋭。事件発生率が多すぎるから偶像崇拝でもしないとやってられないんだってね。そのため佐藤刑事といい感じに見える松田は捜査一課で針のむしろ、とまあこんな感じ」

「ファンクラブとか初耳だぞ……。え? 俺が捜査一課で疎まれてるのって態度じゃなくって佐藤が原因なのか?」

「態度悪い自覚あるなら改めなよ」


 松田の返事はなかった。改める気はないらしい。

 雑談しているとしても意識は伊達に固定したままだ。ナタリーを待っている彼は退屈そうにイルミネーションを眺めている。一人ではつまらないだろう。
 秋がそう考えていると伊達の隣に男性が移動した。近くに連れらしき人物はいない。こんな時期のこんな場所に男一人とは珍しい。
 こちらも背が高かった。特徴的な眉毛をした、二十代後半から三十代前半の男だ。

 やがて隣に座っていた松田が立ち上がる気配がした。彼の視線の先には小走りで駆け寄ってくるナタリー。もうすぐ移動開始だ。
 秋も松田にならって立ち上がる。空になった紙コップを備え付けのゴミ箱に捨てた。





 * * *





 国営公園を出た伊達たちは大通りを少し逸れた場所にあるレストランに向かった。

 相互監視アプリによって、伊達が専用のウェブサイトから予約した内容は筒抜けだ。二人が窓際に座るのは分かっている。移動中に検索したところ、その周辺の席は既に予約済みだった。
 さらに店内は広く、いくつかのテーブルごとに仕切りが設置されており、簡易的な個室のようなものが形成されている。
 つまり時間をおいて入店し、彼らから離れた位置に座れば伊達に見つからない。

 二人は来た道を戻って、ハイブランドのショーウィンドウが並ぶ煌びやかな大通りを適当にぶらつき、時間を潰してからレストランに入った。

 店員に案内されて通路を歩く。席が見えてくると松田の動きが急にぎこちなくなった。様子がおかしい。
 秋が問いかけるように目くばせをすると、松田は席に座ると同時にほとんど唇を動かさず言った。


「佐藤がいる」


 あたりを見渡せば、すぐに当たりはついた。萩原から聞いた特徴と一致する女性が二席先にいる。しかも男連れだ。
 オブラートに包んだ表現をすれば松田はワイルドなタイプだが、佐藤の連れはいかにも優男といった風貌である。ジャンルが真逆だ。

 佐藤と松田がいい雰囲気だというのはファンクラブの勘違いだったのだろう。人が失恋する瞬間に居合わせてしまった。


「おい、妙な勘違いしてるだろ。違うからな。今日、佐藤は仕事中のはずだしあの男も刑事だ。おそらく張り込みだろうぜ」


 松田が囁くのを聞き流しながら秋はメニューをパラパラとめくる。視線をそのままに端的に尋ねた。


「で?」

「どうにかしてくれ」


 佐藤たちの席は近い。向こうにも気づかれているはずだ。
 つまり松田はクリスマスイブに雰囲気のいいレストランでとんでもない美人(自称)と過ごしているのを意中の女性に目撃されているのである。

 そのうえ佐藤と一緒に張り込みをしている刑事はどう見ても彼女に気がある。中年が大部分を占めているファンクラブよりも脅威的な恋敵の出現だ。なにせ仕事中とはいえ聖なる夜に一緒に過ごしているのだから。

 さらにあの刑事はヘタレ感が漂っているものの素直そうである。好きな人に小学生男子みたいな態度を取りそうな松田とは大違いだ。

 これは下手したら横からかっ攫われるんじゃないだろうか。


 一番確実なのは後日伊達の尾行について打ち明けることだが、それはできない。伊達に尾行を知られる可能性がある。
 そうなれば隠し事があるらしい伊達に警戒されて調査が難航する。

 となると、秋と松田の間には何もないのだとアピールするしかない。
 幸い、耳をすませばお互いのテーブルの会話が聞こえる距離だ。
 注文した料理が届いたところで秋は演技を開始した。うさんくさい笑顔を作ってペラペラと話す。


「米花町って事件が多いでしょう。実は祟りなんですよ、あれ。由緒ある神社が取り潰されたせいで瘴気が充満しているんです。しかし、このストラップをつけていれば瘴気から守ってくれるバリアが自動で生成されます! 事件に巻き込まれなくなるし病気も治る、その上恋も成就します! お値段たったの二万円!」


 逆ナンされてホイホイついて行ったら怪しげなキャッチだったという設定である。
 松田は「あとで覚えてろよ」と唸った。





 しばらく胡散臭いトークを続けていれば、買い出しから戻ってきた店長が逮捕された。なんでも殺人事件の犯人らしい。
 佐藤たちは店長を逮捕するために張り込んでいたようだ。

 刑事二人と店長が覆面パトカーに乗り込んだのを窓越しに確認してから秋は意外そうに呟いた。


「本当に仕事だったんだ」

「だから言っただろ」

「いや、実はデートだったってオチかもしれないって感じてたからさ。そういえばあの二人も捜査一課ってことは伊達殺害の容疑者なの?」

「どっちにもアリバイがあるって萩が言ってたぜ。そもそもアイツらが伊達を殺すとは思えないけどな。特に高木は教育係の伊達に懐いてるし」

「ふーん」


 松田も高木も佐藤に好意を持っていて、松田は伊達の友人。高木は伊達が教育している後輩。
 伊達はどちらを応援するのだろうか。尾行中に垣間見える彼の性格から中立の立場を保ちそうではあるが、伊達の行動次第で結果が変わりそうな気もする。

 秋がビーフシチューを口に運びながら下世話なことを考えていると、松田が納得がいかないと言わんばかりの顔をした。


「ところでさっきの演技なんだったんだよ。お前のせいで佐藤たちに店出てくタイミングで可哀想な奴を見る目で見られたじゃねえか」

「ああ、いい案でしょ。詐欺まがいの商品の勧誘とカモ。私のような超絶ウルトラハイパー美人に声をかけられたら誰もがついてくるんだし、いくらクリスマスに怪しげな商品を勧められてるって状況とはいえマイナスイメージにはならないじゃん」

「お前の認識の歪みにはもうつっこまねえ。他にももっとマシな設定あっただろ。双子の兄妹きょうだいとか」

姉弟きょうだいにしては外見が違いすぎるじゃん」

「じゃあいとこ」

「いとこは結婚できるし。超絶美人ないとことクリスマスを一緒に過ごしてるとか、どう考えても下心あるでしょ」

「あー、まあ、うん……。いやでも勧誘はないだろ」


 一応は納得したらしく、松田は皿に残っていたパスタをフォークに巻きつける。
 数口で食べ終えると、取ってつけたような何気なさで疑問をこぼした。


「そういやお前、やけに尾行に手慣れてたよな」

「そう?」

「ああ。素人っぽさがゼロだった。捜査一課の刑事が全く尾行に気づかないのも納得がいく」


 何が言いたいのか尋ねる代わりに片眉をあげる。
 松田は続けた。


「それだけじゃねえ。伊達と親しくしている人物を見つけ次第、写真を撮って萩原に確認させてるだろ。つまり盗撮の技術もある」


 松田の疑念はもっともだ。どう考えても怪しい。
 しかしこうなることを見越して秋は設定を用意していた。


「どっちも知り合いの探偵に教えてもらったんだよ。私の天才的な能力の高さと探偵の教えさえあれば、それくらい普通にできるから」

「お前探偵の名前だしときゃ有耶無耶にできると思ってるだろ。言っとくけど普通の探偵は小学生のときに道路をスケボーで爆走してたりしないからな。将来毛利探偵事務所に転がり込んでくるっていうガキは特例中の特例だ」

「あー、やっぱり? この間宮秋様にトラウマを植え付けられるレベルの存在がゴロゴロいるわけないもんね」

「お前萩んとこに将来居候する坊主がトラウマなのかよ」

「んんっ。ともかく、まぁあれだ。私に色々教えてくれた探偵も特別能力が高いんだよ」

「へー」


 松田は生返事をした。人の弱みに意図せず触れたくせに、この話題にそこまで興味がないらしい。
 秋は拍子抜けする。肩透かしを食らった気分だ。もっと深く突っ込まれたら安室透の名前を出そうと思っていたのに。


「ま、これ以上追及する気はねえよ。不審な点は山ほどあるってのにお前を信用することにした萩の判断を信じてるからな」

「前から思ってたけど萩原のこと好きすぎない?」

「……腐れ縁だし」


 松田は照れ臭そうに視線を逸らして言った。
 そして露骨に話題を変えた。


「ていうか、なんでアンタは萩原にそこまで信用されてんだ?」

「それが私も不思議なんだよね。どれだけ考えても心当たりがない。つまり答えは一つだけ」


 言葉を切って一呼吸置くと、緊張をはらんだ静寂が訪れる。ただごとではない雰囲気を感じ取った松田が神妙な顔つきになった。
 秋は真剣な表情で重々しく告げる。


「私に一目惚れしたから対応が柔らかいとしか思えない」


 松田はずっこけた。


「んなわけあるか。萩は誰にでも優しいんだよ」

「えー、でもこの私だよ? あまりに美しすぎて神様から嫉妬されて楽園から追放された天使かと鏡を見るたびに思う顔面を兼ね備えた私だよ?」

「分かったわかった、お前の自己評価がぶっ壊れてるのはよーくわかった!」




 伊達とナタリーがレストランを出る。
 タイミングをずらして秋たちも会計を済ませ、夜道を歩く二人の尾行を再開した。
 ジングルベルが流れる大通りを歩いていると松田からレストランでの会話の続きを振られる。


「大体なぁ、毛利探偵事務所で助手やってる理由からしてお人好しだろ、萩のヤツは」

「ああ、そういえば気になってたんだよね。なんで萩原って毛利小五郎の助手なんかやってるの?」

「なんかってお前、あの人ああ見えて尊敬できるところあるんだぞ……」


 松田は癖毛をガシガシとかき乱すと問いかける。


「萩が未然に防ぐ事件と防がない事件の規則性、気づいてるか?」


 萩原はすべての事件を防いでいるわけではない。
 殺人事件を防いだと思ったら大規模な爆破事件はスルー。しかし数日後には似たような爆破事件を防いでいる。そのくせ同時期に起こる大臣暗殺事件には関与しようとすらしない。

 改めて振り返っても何も思いつかなかったので秋はモゴモゴと言った。

「あー、うん、これじゃないかってものはあるけど上手く言語化できないっていうか……」

「わからねえんだな。お前そういう場合は素直に認めろよ」


 ごもっともである。正論すぎて反論の言葉が出てこない。
 松田は呆れたようにため息をついてから答えを教えてくれた。


「毛利探偵事務所が関与してるかどうかだよ」

「ああ」


 言われてみれば確かにそうだ。

 事件現場に居合わせるきっかけの依頼が舞い込むとか、のちに事務所の居候となる死神少年が持ち込んでくる事件だとか、そういった「毛利探偵事務所が関与する事件」にだけ萩原は手を出している。
 伊達のような特例を除けば、探偵事務所が関わる事件は防ぐ。関わらないのならどんなに大きな事件でも防がない。これがルールだ。


「要するに防ぐ事件を決める基準として毛利探偵事務所を利用してるんだろうぜ」

「……っていうと?」

「偶然に判断をゆだねないと良心が壊れちまうだろ」

「……あー、なるほど」


 少し考えると納得がいった。
 例えば二箇所で同時に事故が起こるとする。一方を防ぐともう一方が防げない。どちらを選ぶのが正解なのか。
 この答えを出すのは命に価値をつけるのと同義だ。人間には荷が重すぎる。

 さらに片方が死に、もう片方が植物状態になる場合なら? 
 死ぬほうがひどいからとそちらを助けるのか。
 しかし見方によっては一思いに死ぬよりも意識がない状態で生きながらえる方が酷なのではないか。

 判断なんてできるわけがない。
 秋のように自分に利があるかどうかで決めるのならともかく、萩原は良心の呵責に襲われるだろう。
 なんとも生きづらそうな男だ。そうなる運命なのだと諦めて全部放っておけばいいのに。


「でも基準をわざわざ毛利探偵事務所にする意味ってある?」

「そりゃあ無理のない範囲かつ多くの事件が該当するからじゃねえの? 一人でも多くの人を助けたいから、刑事と同じくらいの事件遭遇率を誇る毛利探偵事務所に目をつけたんだろうし」

「でもそれなら探偵助手やらずに刑事やって、自分が関わった事件は防ぐってルールにしたほうが効率良くない? 松田の話だとよりスムーズに事件に介入できるように探偵事務所の助手になったってことでしょ? 刑事でも条件同じだしそっちの方が給料いいんだから、助手になるメリットが見当たらないんだけど」

「殺人が最も悲惨だってことで捜査一課に配属されるか、交通事故が悲惨だからと交通課に入るか。それとも威力が大きい爆死が最悪か。配属場所を選ぶ時点である程度命に優劣つけちまうじゃねえか」

「確かに。にしても、そこまで話す仲だなんてやっぱり二人とも仲良いんだね」

「いや、これただの予想だけど」

「はあ?」

「そういや萩が探偵助手やってる理由、ちゃんと聞いたことねえな」


 今度は秋が肩透かしをくらう番だった。
 それじゃあ松田が勘違いしているだけかもしれないじゃないか。


(そうだ、きっと松田の勘違いだ。萩原にそこまで高尚な考えがあるわけない)


 自分に言い聞かせるように心の中で唱えると、だんだんそんな気がしてきた。そういうことにしておこう。でないと自分と萩原の違いにやりきれなくなる。





 * * *




 伊達がナタリーと一緒に彼女の自宅に入っていったのを見届けて二人は解散した。ケーキ屋に寄ってからセーフハウスに戻る。
 購入したのは二切れのショートケーキ。クリスマスにケーキなんて買ったのは初めてだ。特段イベント事や食べ物に関心があるほうではないのだが、スコッチとクリスマスを祝ってみたかった。


「最近毎日のように出かけてるよな。任務?」

「いや、個人的な情報収集の一環で尾行三昧」

「あー、だから格段に外食が増えてるのか」

「ていうか聞いてよ。すべての褒め言葉は私のためにあると言っても過言ではないって周知の事実に異論を唱える輩が現れてさ」


 秋が怒りながら指揮棒のようにフォークを上下させると、スコッチは静かに首を振った。


「アドニス、残念ながらそれは完全に過言なんだよ」


 なんてことだ。生命線を握られているため強い否定はできないはずのスコッチにまで裏切られた。
 秋は打ちひしがれた。


「いやー、まあ、役になり切って嫌なことから目を背けてるのは楽だろうけどさ。やっぱりアドニスにはちゃんと前を向いて欲しいよ。まだやり直せるだろうし」


 彼はよくわからないことを言いながら、トッピングされた生クリームとイチゴを同時に口に運ぶ。一口が大きい。
 スコッチは咀嚼し終えると空気を払拭するように全く違う話題を振った。


「ところで記憶喪失の手がかりは見つかった?」

「うーん、全くないね!」


 というか、スコッチに指摘されるまで忘れかけていた。

 降谷の話によると、秋はスコッチの死体を見て絶望したらしい。心当たりはゼロだ。
 絶望の理由と記憶喪失とに密接な関係があるのではないかと考えてスコッチの軟禁を始めたわけだが、記憶喪失の手がかりを見つけようとしていただろうか。何も考えずに毎日を過ごしていた記憶しかない。

 きっと、記憶を取り戻したらこの生活が終わってしまうから、無意識のうちに考えないようにしているのだ。
 秋は存外スコッチを気に入っていた。


「まあ安心しなよ。仮に記憶を取り戻してもスコッチは殺さないから。公安の捜査官を保護していたとなれば、逮捕されたあと便宜を図ってもらえそうだし。だから自殺しようなんて考えないでね」


 本音を伝えるのは気恥ずかしいのでそれっぽい理由をでっち上げて伝えるとスコッチは呆れ声を出した。


「アドニスって俺が自殺したがってると思ってる節あるよな」

「違うの?」


 なにせ前例が山ほどある。
 足音がバーボンのものだと分かっても彼は自殺をやめないのだ。そのせいで十五年を無駄にした。

 しかしスコッチはきっぱりと秋の予想を否定した。


「意味もなく死ねないさ。というより、公安警察である限り無駄死にはできない。これでも大事な駒の一つだからな」


 それならどうしてループの度に死んでいたのだろう。


(もしかしてどの周でも、自分が死ぬに値する状況だと判断したとか? ……ま、いっか)


 今回のスコッチは死なないと言っているのだ。
 この日常はまだ続く。それだけで充分だった。
5/26ページ
スキ