そしかいする度に時間が巻き戻るようになった

 薄暗い廊下を歩く。
 地下のため窓からの光はなく、照明はセンサーによって人がいる周辺だけが照らされる仕組みなせいで、一寸先には闇が広がっている。

 ここは東都の外れに位置する研究所だった。表向きには烏丸グループの傘下に入っている研究所だが、実態は黒の組織が行っている研究の総本山だ。

 研究所の広大な敷地には二棟の建物がそびえ立っており、その片側がシェリーの勤務先である。彼女個人に与えられた個室もその地下にある。

 シェリーの個室、すなわち検査協力中の密談が行われる舞台。

 長い廊下の突き当たりにたどり着き、秋は足を止めた。突き当たりにある扉をノックする。
 首からかかった入館証明書を外してポケットに押し込む間に、扉は開いた。

 扉を開けたシェリーが一歩引いて空間を作る。秋はそこに進み出る。
 一ヶ月ぶりに彼女の個室に足を踏み入れた彼女は、後ろ手で扉を閉めると開口一番に尋ねた。

「諸星との顔合わせはどうだった?」

「問題は何も。話していた通り姉のことを頼んできたわ。分かりやすく組織の監視員が近くにいたし、後は勝手に接触を持ってくれるはずよ」

 シェリーはふいと目を逸らして答える。
 あまりこの話題を続けたくなさそうな雰囲気だ。諸星大へ向ける感情を決めあぐねているせいで、どんな態度を取るべきか決めかねているのだろう。

 元より、懸念していたのは赤井秀一とシェリーとの面識がなくなる展開だった。『彼らの関わりを以前の周と同様にする』という目的が筒がなく達成された以上、長々と話を続ける必要はない。
 秋はシェリーの意を汲んで、話を終わらせるべくさっさと次の話題へと転じた。

「そりゃあよかった。他に確認することはないし、ループ関連の情報提供に移ろうか」

 議論、話し合い、意見交換会、助言。形容の仕方はいくらでもあるが、要するに検査協力を隠れ蓑にして行うループ現象やあの方の陰謀に関する話題だ。

 姉を助けたいシェリーに出来る限りの助力をし、宮野明美が死ぬ未来を防ぐ代わりに、ループ現象やあの方の陰謀を明らかにするのを手伝ってもらう。二人の間でそういう取り決めがなされていた。


「って言っても、問題の全貌が見えてこないしシェリーがどこまで知っているのか判断がつかないせいで、何から質問すればいいのか決めあぐねているんだけどね」

 秋がそう続けると、シェリーは検査協力に使用する器具の準備をしながら言った。

「真っ先にやるべきなのは、私に何を質問するか考えることじゃないわ。アドニスから私への情報提供よ」

「え?」

「私がこなすのは頭脳役であって、元々組織から知らされている情報の伝達はあくまで副次的要素。つい二ヶ月前までループ現象の存在すら知らなかった私が持っている情報なんてたかが知れてるわ。第一に、私に必要な情報を与えて、専門的知見と組織が重宝する頭脳に基づく推察を引き出すべきよ」

 言われてみれば、彼女は自分よりもよほど知識が不足している。
 同時に、不足している分の知識を補えば目覚ましい活躍を遂げてくれるだろうという期待も生じる。

 シェリーの頭脳は驚異的だ。
 十代前半にして組織の研究の中核を担っている事実はもちろん、秋が宮野明美を助けることになった経緯もその裏付けとなっている。
 彼女はベルツリー急行で間接的に対面したあの一瞬で、秋を触媒にして『次』の自分へ伝言を伝える罠を編み出して実行に移した。
 そして伝言を伝えられた『この』シェリーは正しく『前』の自分の意図を読み取り、架空の現象だとしか思っていなかったループ現象を確信し、僅かな情報から次々と推論を展開していった。
 パズルのピースさえ与えれば、あの時のように次々と真実を見抜いてくれるだろう。


 こちらが考えに耽っている間に器具の準備を終えたシェリーが、試験官のような形をした細長い容器を差し出した。秋は無言で受け取ると蓋を外して口元に運ぶ。
 俯き加減で口を軽く開くと、自然に涎が流れ出てくる。しばらくそれを続ければ、やがて容器に唾液が溜まり始める。

 検査協力中に行われる唾液提供は、毎回この流れで行われている。頻繁に行われるので、今では無言で意思疎通が出来るほどだ。
 シェリーの説明によると、ループ者の体内に含まれているタキオンを検出するための工程らしい。

 唾液を容器に溜めている際は口が聞けないため、その間はシェリーが一方的に話すのが通例だった。
 容器を渡してきたのは、しばらく自分が一方的に喋るという無言の宣告だ。
 予想通り、シェリーは右側の壁に向かって歩きながら朗々と話し始めた。


「大前提として、現代の科学形態ではループ現象はあり得ないこととされているわ。よって、現代の科学に当てはめてループ現象の謎を解明していく方法は使えない」

 あと数歩で壁につく距離になるとシェリーは踵を返し、今度は左側の壁へと向かう。そうやって部屋の端から端を往復しながら彼女は話す。

「でも今の科学形態はまだまだ未発達だもの。人間は科学で世界の全てを解き明かせたわけじゃない。『科学』は二十万年間に提唱されてきた世界の構造を解き明かす数式の中で最も正解に近いだけであり、正しい数式とはかけ離れたものなんだと私は考えているわ。そして科学に携わる人は、皆多かれ少なかれ似たような感想を持っていると思う。
だから科学的に説明できないことがあったとしてもなんらおかしくはない。理論の先に観測的な事実があるのではなく、観測的な事実の先に理論があるんだもの。むしろ従来の学説と矛盾する事実を観測するところから科学は始まるわ。
科学とはすでにわかっている答えの集まりでなく、この自然界のはたらきに関する真相を突きとめようとする継続した研究よ。科学の歴史はたんなる事実の羅列でなく、それらを発見しようとした苦闘の歴史でもある」


 そこまで言い終えて一拍おくと、彼女は薬品棚に置かれた広口壜を一瞥した。
 「酸化第二鉄」のラベルが貼られた、コーヒー豆が入った瓶だ。ラベルの真意は分からないが、彼女はこのデザインをやけに気に入っている。


「例えば、月面で宇宙服を着た人間の遺骸が発見されたとしましょう。地球に運んで調べたところ、遺体は五万年前に死亡した地球出身のヒトで、現代の技術を駆使しても到底作れない持ち物を持っていた。この事実を受けて科学者が取る行動は何だと思う? ーー五万年前にそれほど高度な文明が地球にあったなどあり得ないと糾弾するのは科学ではない。現代の『数式』に照らし合わせることができない事実が観測されたのなら、新事実から理論を組み立て直して真実を究明していくのが科学者よ」

 熱弁しているうちに、彼女は少しだけ早口になっていた。
 こうして話を聞いていると、本当に科学が好きなのが伝わってくる。

 生まれた時から決められた運命や、唯一の肉親である姉が殺される未来のせいで憐れみに近い感情を持ちやすいが、心ゆくまで研究ができるこの環境を気に入ってるのも確かなのだろう。
 「シェリー」の人生は、チープな悲劇性と科学者としての幸福で成り立っているのかもしれない。


 基準線まで唾液が溜まっているのを確認すると、秋は容器から口を離した。
 彼女はシェリーが言わんとすることを察して言葉を引き継ぐ。

「つまり、現代の科学に当てはめてループ現象の謎を解明していくことは出来ないけど、生粋の科学者であるシェリーに情報を与えて、観測された事象から逆説的に真実をつまびらかにしてもらうのは可能。そのために観測された事象ーー私がループについて知ってることを教えろってことだね」


 こちらが組織の研究内容や専門的なことを何も知らないのと同じように、シェリーはループ現象の詳細を知らない。彼女の主張通り、まずは知識の共有をするべきだ。

 容器に蓋をして、試験官立てに似たラックに入れながら秋は話す。

「とりあえずループ能力の説明からしておこうか。というより、ループ現象を何度か経験するうちに私が体系的に理解した事柄の羅列だね。シェリーが知ってることも出てくるし、知らないことも出てくる。
まずは用語だけど、同じ時間が何度も繰り返される一つのパターンをループ、その現象をループ現象と呼んでいる。いや、どうだったかな……。割と他の意味合いの時にも同じ単語を使ってる気も……。ぶっちゃけ感覚で使ってるから特に気にしなくていいよ、うん」

 十三歳の少女が小難しい言い回しを多用して科学とは何たるかを語った直後なのもあり、妙に居た堪れない。
 しかし今までは考えを共有する相手がいなかったのだから、用語の定義があやふやでも仕方がないだろう。秋は開き直った。

「今度はループのルールだね。『巻き戻る』のは夜の零時ちょうどで、飛ばされる先は目を覚ますタイミング。繰り返される『幅』は毎回バラバラ。最短一日、最長が今回の十五年。ついでに言っておくと十五年のループは十回目に入ってる」

「この十五年間以外にも時間が巻き戻るケースがあるの?」

 シェリーが目を瞬いた。
 秋はその反応に虚をつかれた。
 当事者である秋にとっては当たり前の事実ですら彼女は知らないのだ。念頭に置いているつもりでいたが、自分よりも余程多くのことを知っているように見えるせいで本当の意味では意識しきれていなかった。

「ああ、ループは定期的に発生する現象だよ。私が子供の時から時折発生してる」

 動揺が悟られないよう平坦な声を心掛けて答えた。
 その後秋は次の説明に移る。

「いくつかのパターンを経験しているおかげで、ループ発生の条件であろう共通項も判明している。時間の繰り返しが始まる直前には、気持ちの強さに程度の差はあれど、可能なら時間を巻き戻したいと感じる出来事が必ず起こっているんだよ。雑な名付けだけど、私はこれを『後悔』って呼んでいる。かと言って、『後悔』が発生したら必ず時間が巻き戻るわけでもない」


 秋の話を受けて、シェリーが口を挟む。思考の整理も兼ねて言葉を紡いだ様子だ。

「『後悔』はループ発生の条件の一つだけど他にも条件がある。他の条件が満たされていない時はループが発生せず、他の条件が満たされた時にはループが発生する」

 言いながら、彼女は壁際にあるホワイトボードへと歩いていった。
 ホワイトボードの脚を掴み、引っ張りながら戻ってくる。二、三メートル離れた位置で立ち止まり、ボードの向きを微調整すると、張り付いていたペンのキャップを外す。

「図解するとこうなるわね」

 彼女は円を二つ書いた。大きな円のなかに小さな円がすっぽり入っている図だ。大きな円には「ループ」、小さな円には「後悔」と書かれている。

「ループが起こる条件には『後悔』も含まれているが、それだけではない。他の条件もあると考えるのが妥当だわ」

 言いながら、小さな円の外側を斜線で塗りつぶす。大きな円は斜線部分と小さな円に分かれた。斜線部分が他の条件だ。


「その他の条件に心当たりは?」

「あるけど、その前にループ終了条件に話を移そう」

 順番が重要だ。順番を間違えると、ただでさえ込み入っている話が余計にややこしくなる。
 秋は言葉を選びながら言った。

「こっちも経験則から分かってるんだけど、ループが終わるのは『後悔』を消した時。例えば壺を割って怒られる不安からループが起こったのなら、次の周では壺に近づかないだけでいい。大切な人が死んだのが後悔なら、その人が死なないしゅうに辿り着けば、その周で『ループ』が終わる。ループが終わったら『巻き戻り』地点が訪れても時間は巻き戻らない。時間の流れが正常になる」

「後悔や心残りがループ発生の原因であり、ループが終わるのも心残りを解決した時。フィクションにありがちな設定ね」

「まあね。仕組みは一生分からないだろうけど、何よりも強いのは意志や願いの類だってことなんだと思う」

「それじゃあ、十五年間の繰り返しだなんて途方もない現象を引き起こした意志はどんなものだったのかしら」

「さあ」

 秋はあっけらかんと答えた。
 無責任な発言にシェリーが胡乱な目を向ける。

「さあって……」

「残念ながら答えを持ち合わせていないんだよ。ループが開始する前ーーつまりオリジナルの周である一周目のラストに感じた感情の中で唯一それっぽいものはあったけど、釈然としないことも多いから保留にしてる」

「……」

「でもまあ、『後悔』が何なのかはどうでもいいや。問題は、私の『後悔』は解決しているはずってこと」


 何度目か数えるのも諦めたが、またもやシェリーが不審そうに目を細めた。
 その反応を受けて、秋は前提から確認することにする。

「私たちは不確かな情報を確かなものだと証明することができないなりに、薄氷の道を歩むような議論をしている。あの方から隠れて動く以上、仮説が正しいのかを確かめるのは不可能だから、土台にあるのは不確かな情報ばかりになる。不確かな情報を元にして出来上がるのは、どうしたって不安定な理論でしかない。
だから私たちが目指すのは、不確かな情報の中で信頼できそうなものだけを真実だと仮定して、仮定をつなげて、一番それっぽい結論を出すことだ」

「まあ、それはそうね。組織で進められているタキオンの研究に限定しても、判明している事実はとても少ない。適当な理由をつけてデータを確認したけど、意図的に隠されているわけでなく本当に判明していない印象を受けたわ。分からないことだらけよ。アドニスの言う通り、裏付けを取った要素だけを元に理論を構築するのは不可能だから、一種の思考実験だと割り切って理論を展開していくしかないわ」

「話を進めるには、『真実だと仮定する不確かな情報』が登場する。私の後悔が解消されてるってのも真実だと仮定する不確かな情報によるものだよ」

「証拠はないけど信用に足ると判断された情報とも言えるわね」


 どうして信用に足ると判断したのか言外に尋ねられたのを察して、真っ先に口から出たのは願望だった。

「いくつかの不確かな情報の中から正しいと仮定する情報を選ぶのなら、私は萩原の証言と洞察力を全面的に信じたい。ループに対する主観が私と萩原でかなり違うって発覚した時に、私が経験してきたループ現象のルールについて軽く説明したんだけどさ。ループ発生・終了のトリガーである『後悔』について話して、後悔は忘れた記憶を取り戻すことだろうと付け加えた時に、後悔は別のものだって強く否定されたんだよ。それから数ヶ月後には、今回でループは終わるだろうとも言われた」

 組織壊滅作戦真っ只中に、電話越しで軽く付け加えられた言葉だった。

「萩原は私の話を聞いて、『後悔』が何なのかを察して、もうそれは叶っていると断言したわけだ。だからループは終わるはずだと予想した」

「でもループは終わらなかった。……でしょう?」

「間違っていたのは私の話の方だった。ループが終わる条件は私の『後悔』が解消されることだが、それだけではない。ループ発生の条件と同じだよ」


 萩原の推理ミスや何らかの事情で嘘をついた線は考え出したらキリがないので除外する。
 萩原の発言が正しいと仮定するとーーそしてそれは自分の不確かな認知よりもよほど信頼できる意見だがーー、秋の『後悔』は解消されていたのにループは終わらなかったことになる。つまりループ終了にも裏条件があると考えられる。


「終了にも他の条件がある……」

「その通り。次はシェリーにループを打ち明ける前の私がしていたことについて話そうか。私の予測が正しければだけど、裏条件が何なのかを推察する上での大ヒントが登場する。最も、シェリーも太鼓判を押すほど完璧な予測だと自負しているけどね」


 秋はこれまでの行動を掻い摘んで説明する。「前」のシェリーに「自分が十三歳になってから話を聞け」と言われていたせいで、十年間の暇があった。その十年間、自分は他幹部からの情報収集に徹していた。とは言っても、あの方に目をつけられないよう、幹部との雑談中にさりげなく話を聞き出す程度だが。


「ロクに情報を得られなかったと思い続けてたよ。組織の目的やあの方の真意を話題に出したりしたけど、ラムですら知らなかったし。どの幹部に尋ねても大した答えを持ち合わせていないか、真実に掠ってすらいない想像を語られるだけで組織の目的には辿り着けないでいた。ただ、場を温めるための前振りに使っていた話題が重要なヒントだって最近気づいたんだよね。特にジンのようなタイプに見られる傾向なんだけど、本題に入る前にあの方の武勇伝について話しておくと気分が良くなって口が軽くなる」

「なんですって?」

「あの方の武勇伝。マフィア組織なんかにも多いよ。ボスの武勇伝を語り継がせることでボスへの忠誠と畏怖を強め、その偉大な人物が率いる組織に属しているという事実から、メンバーの間に自負心が生まれるのを目的とした仕組み」


 黒を象るこの組織も例外ではなく、あの方の偉業が出回っていた。

 ちょっと話題を振るだけで、あの方信者たちは自慢げに話してくれる。あの方の話をさせた後、気分が良くなった幹部は大概饒舌になる。
 あれは助かった。今までのような偉そうな態度は控えめにして友好的に振る舞うよう意識してはいたが、そう簡単に言動を変えられるものではない。嫌味の一つでも言われた時は反論してしまうことも多かった。が、あの方の話を振ればピリついた空気は消え失せてくれる。崇拝してやまないあの方の話ができるので相手の機嫌も戻る。


「その武勇伝ってのが問題でさ。巨大なマフィアを退けた、一度危機に陥ったものの見事に逆転して表社会でも成功を収めた、各国捜査機関によるしつこい追跡のせいで大被害を受けると思われたがあの方の先見の明によって被害を最小に抑えられた。などなど、多大な危機に見舞われたのに見事切り抜けたってのが大抵の語り種」

「こう言いたいの? あの方がある意味で偉大な功績を残しているのはやり直しただけだって」

「その通り。おまけに偉業が行われた時期は、揃いも揃ってループが発生した時期だしね。幹部に媚びてるうちにあの方に詳しくなるまで知らなかったよ」


 口を挟むことなく、シェリーの凪いだ双眸がじっとこちらに向けられている。話を聞くのに神経を集中させている証拠だ。
 シェリーが聞き手に回っているのをいいことに、秋は矢継ぎ早に喋り続ける。

「流れはこう。あの方が危機に見舞われて大打撃を受ける。あの方が『後悔』を感じる。場合によってはループ発生条件が満たされる。ーーシェリーの予想通り、あの方の『後悔』が裏条件だ。私とあの方が同時に『後悔』を感じた時だけループが発生する。
私とあの方、二つのループ発生条件が満たされて、同じ時間が繰り返されるようになると、あの方は次の周で『後悔』を解消する。偉業を成し遂げる。ループを抜け出した先にある未来と地続きの、最後の周しか覚えていない非ループ者の目には、あの方が神がかり的な能力で危機を切り抜けたように映る。こうして武勇伝が生まれる」


 ループが発生するのは決まって『後悔』を感じた時なのに、『後悔』を感じてもループが発生しないケースがあるのは、もう一つの条件が満たされていなかったからだ。
 秋とあの方の二人が同時期に『後悔』を感じた時だけ時間の巻き戻りが起こる。


 秋は立ち上がってホワイトボードまで歩いた。
 シェリーが書いた図を見る。「ループ」と題された大きな円の中に、「後悔」と書かれた小さな円が入っている。その外側は斜線で塗られている。
 秋は斜線部分に矢印を書いて、「あの方の後悔」と加えた。


「多分ループ発生の有無に影響を与えられるのは先天的なループ者だけなんだろうね。萩原は『後悔』の心当たりが無いようだったし、この十五年間のループが始まるまではループ現象のルの字も知らなかった。途中から時間の巻き戻りを観測できるようになっただけだと考えられる」


 本人の証言が正しいと仮定するなら、彼はループのトリガーにならない。これも証言が間違っている可能性を考え出すと話が進まないので、彼の人柄と洞察力を信じて話を進める。


「ループ発生・終了条件は私の『後悔』だけだと思われてきたが、『後悔』してもループが発生しないケースがあること、『後悔』を解消し終わったはずのこのループが続いていること、あの方の武勇伝の時期から、もう一つの条件にあの方の『後悔』があると予測できること。ここから導き出される答えは一つ。すなわち裏条件であるあの方の『後悔』!」


 振り返ってシェリーを確認する。彼女の瞳に反論の色は見られなかった。
 今まではぼんやりと心にあった予測だったが、説明しているうちに自分の中で明確になっていき、確信が持ててくる。


「例えば、私は長らく『後悔』を解消するとループが終わると認識していたんだけど、これは私よりも先にあの方がループ終了条件を満たしていたからだと思う。私は何度か繰り返さないと『後悔』を解消できなかったけど、あの方は一度か二度のやり直しで成功していたんだろうね。自由に動くこともできない子供だった私と、世界的犯罪組織のトップであるあの方じゃ取れる行動の規模も違う」


 ここまで話してやっと、シェリーが言葉を発した。彼女は秋の言葉を引き継ぐようにして言う。

「アドニスよりもあの方が『後悔』を解消するのが遅かったのは、この十五年間の『繰り返し』だけ。最長の『繰り返し』を利用して研究を進めるため、わざと問題を放置しているのね」


 あの方の『後悔』は状況証拠によって組織壊滅だと確定している。
 組織壊滅の数日後に時間の巻き戻りが発生したのだからタイミングも合っている。

 おまけに、あの方が組織壊滅を放置して、組織壊滅が近づいてくると一人で逃走するにとどめている理由に、より明確な説明がつく。
 その気になれば、組織に潜入して間もない降谷や赤井を殺して、有力な組織壊滅功労者を排除することもできるのにそれをしない理由。

 組織壊滅を防ぐとループが終わってしまうからだ。
 繰り返される十五年間を有効活用して研究を進めたいあの方は、なるべく組織壊滅の芽をつみたくないのだろう。


 脳内でここまで考えたところで、シェリーが口を挟んできた。

「それで、あの方の『後悔』って?」

「……ともかく、」

「ともかく、じゃないわよ」

 誤魔化そうとした途端言葉を被せられる。

「議論をしていく過程であの方の『後悔』が明らかになっていないと困るでしょう。一人で納得した顔をしているけど、私たちの関係で隠し事をしたら不信感につながってあの方に漬け込まれる確率が跳ね上がるわ。話しなさい」


 ごもっともだ。
 秋は目を泳がせた後、組織壊滅についてゲロった。




* * *



 シェリーはわりかしすんなり組織壊滅を受け入れた。
 確かに彼女にとっての組織とは絶対服従の相手であり、どうしたって敵わないと潜在意識に植え付けられている対象だが、組織壊滅によって色々と納得がいったらしい。
 むしろ、いくらループを利用したいあの方の思惑があるとはいえ、いずれ瓦解する組織は盲目的に恐れる対象ではなくなったのだろう。「あの方と敵対する立場にいる」という状況において、少し余裕が出てきたようにも感じられる。

 組織の瓦解について一通り話し終えると、秋はこれまでの総括に入った。

「結論だけまとめると、ループ発生とループ終了は私とあの方二人の『後悔』があって初めて成立する。これでいいよね」

「ええ。おまけにその可能性は極めて高いわ」


 科学者ではない秋と話すとき、彼女はなるべく断定口調を使おうと心がけてくれるが、今回は科学者特有の言い回しが思わず出てしまった印象を受けた。
 科学者が口にする「可能性が極めて高い」は、「可能性は百パーセント」と同義だ。


 話がひと段落した。
 秋は席に戻ると静かに言った。

「つまり、あの方を倒そうと思ったら二つの『後悔』を解消して時間の流れを元に戻さなくてはならない」

 静まり返った部屋に自分の声がやけに響く。

「あとはあの方を殺せば確実だ。ループ者がループの過程で死ぬとタキオンが消えてループ能力を失うのなら、あの方を殺せば彼のループ能力は消える。そのうえ『最後の周』で殺せば、それ以降時間の巻き戻りが起きないんだからあの方は二度と甦らない。最後の周を狙い撃ちできなくても、あの方を殺しさえすれば、『ループ者が死亡すると体内のタキオンが消えて、ループに関する一切の記憶が消える』というルールによって、あの方の記憶が消える。相手が何も覚えていなければ闇討ちだって可能になる」


 ループ者が死ぬと体内のタキオンが消えてループ能力を失うと知ってからは漠然とあの方を殺せばいいだけのつもりでいたが、そうすると第二の条件であるあの方の『後悔』がどうなるか分からない。
 最悪の場合、この十五年間を抜け出す手立てがなくなり、永遠とループに巻き込まれる羽目になる。
 ループを終わらせるために組織壊滅を防いでからあの方を殺すのが最善だろう。


 一見難しそうに聞こえるが、組織壊滅を防ぐのは簡単だ。『巻き戻り』の日までに組織を存続させておいて、時間の流れが通常に戻ったら組織壊滅作戦を始動させればいい。作戦決行日を少しだけズラすだけで終わる。

 宮野明美を助ける過程で公安から得られるであろう信用を利用して、ループから抜けた先の日付が決行日に向いているという情報を流しておけば完璧だ。この日に幹部が一斉に集まるとかなんとか。


「なんて言ったの……?」

 愕然とした表情でシェリーが問う。組織への恐怖心が薄れたと言っても、恐怖の対象であることは変わらないらしい。

「あの方を倒す方法だよ」

 秋はこともなげに答えた。

「私はあの方を倒すつもりでいる。この周であの方を殺し、二つの『後悔』を解消して時間の流れを元に戻せば全てが終わる」

 ずっと考えていたことを初めて口にしたと同時に、胸の内を妙な清々しさが通り抜けていった。
 一度腹を決めてしまえば存外楽なものだ。これまで暗闇の中を手探りで進んでいる感覚だったせいだろう。指針が示された安堵が大きい。
 秋は高揚感すら感じていた。

「この周が始まったばかりの時は、全てを解決してからもう一度余分にやり直して、私が犯した罪をリセットすることも考えていたけどね。シェリーの真の目的が宮野明美の生存だったからこれは無理になった。この周で明美を助けても、また時間が巻き戻って全てがリセットされたら困るでしょ。お互いに

 シェリーはあの方の奥の手を秘匿している。裏切り防止のために宮野明美の死を回避するまでは教えられないと主張しているが、何をもって明美の死を防いだとするのかは不明だ。
 『この周』で明美が死なない未来を掴んだとしても、またもや時間が巻き戻って全てがリセットされたら意味がない。

「前回の検査協力であの方の奥の手を秘匿すると主張した時はループの仕組みを知らなかったにしろ、姉を助けた後にまた時間が巻き戻って、姉を助けた意味がなくなる可能性を考慮していたはずだ。いざとなったら、最後まで取っておいた最も重大な情報を盾にして、どうにかするよう私に迫る腹づもりだったんでしょ。ああ、私にループの詳細を話すよう仕向けてきたのも、ループの仕組みを把握して全てがリセットされるリスクがあるかどうかを知るためかな」

「……」

 シェリーは無言のままだった。正解だと認めたようなものだ。

「だからこそ、私とシェリー二人の目的を達成するため、この周で全てを終わらせる。ループ終了条件を満たし、あの方を倒す。これを約束するから、シェリーは宮野明美生存が達成された時点で最後の情報を教えてほしい。全てを知った上であの方との対決に臨みたい」


 明美を本当の意味で助けるには、この周でループを終わらせないといけない。それにはあの方を無力化しないといけない。
 しかし、秋があの方を倒すと決めたのはこれが理由ではなかった。シェリーと自分の目的を達成する唯一の方法だからと言って、あの方との対決を覚悟するほどお人好しではない。


 彼を倒す本当の方法を知っているのは自分だけだ。
 赤井秀一が組織壊滅の銀の弾丸となっても、未来を知っているあの方は事前に逃亡できる。
 組織は潰れるが、逃げ延びたあの方は死刑執行されることなく次の巻き戻りを迎える。
 彼を倒せるのは正しい方法を導き出せる環境にいる自分だけで、だとしたらやらなくてはいけない。

(……いいや、『やらなくてはいけない』じゃなくて『やりたい』のか)


 自分が抱いているのは使命感でなく欲求だ。現実に追いつかれて自分の罪を自覚した今はただ、償って楽になりたい。

 使命感に掛けられているのではなく償いを渇望しているだけだとしても、本心からこの周で全てを終わらせようと思っている。
 口先だけの言葉ではないと分かってもらうため、秋は適した言葉を探りながら語った。


「……私はこれまで、受け入れ難い現実から目を逸らすためにまともに考えようとせず、流されるままぼんやり生きてきた。だから十周目になるまで、組織の研究とループの関係性にすら気づいていなかった。取るに足らない相手だとあの方から思われるに決まっている行動をしてきた。
こんな私だから何が正しいのかは分からないけど、確かなことが一つだけある。あの方と私は悪だ」

 あの方と自分を悪だと断じた彼女の声には、毅然とした響きがあった。

「あの方が研究のために九周目で誘拐した萩原は生粋の人たらしだったよ。凄くいい奴で、周りの人全員から好かれていた。こんな私でも彼らと一緒にいた時間は楽しかった」

 この辺りから、秋の意識が過去へと遡り始めた。本気であの方を討ち滅ぼすつもりでいることをシェリーに理解してもらうという目的が一時的に薄れ、過去に心を遊ばせる。

「本人は人探しのためだとか言っていたけど、あいつは探偵助手をやる傍らで本来起こるはずの事件を解決していて、私利私欲のためにしかループの知識を使っていない私とは全く異なる人種だった。今から思うと、呆れると同時に感心していたのかもしれない。
そんな萩原は八周目の終わりかけに、事故に見せかけてあの方に殺された」

 途端、秋の声のトーンが変わった。回想に細められていた目が虚ろになる。

「あとは知っての通り、九周目を迎えた途端にあの方は萩原を誘拐した。何も知らない私の目には、萩原が忽然と姿を消したように見えた。九周目になってすぐ、事前に教えられていた萩原の実家に行って、彼の姉に萩原が誘拐されたと伝えられた。これは正しかったけど、下手に『前の周』の出来事を知っていた私は『いずれかの周で死んだループ者は消失する』なんてぶっ飛んだ仮説を立てて……ここはまあいいや。忘れて。
萩原の誘拐を教えてくれた彼の姉は憔悴しきっていた。凄く顔色が悪くて、ろくに寝れていないようで、私ほどではないにしろ弟に似た綺麗な顔をしているのに、ストレスから肌が酷く荒れていた」

「うるさいわよ」

 ちょっと自分の顔を褒めてみたら非難がましい合いの手が飛んできた。
 秋は無視して話を続ける。

「それでも私を励ましてくるような人で、やっぱり萩原の姉なんだなと思った」

「……」

「萩原には親友がいた。ガラは悪いけど正義感の強い奴で、九周目の彼は消えた萩原を探すために人生を捧げた。親友を誘拐した犯人を探すために警察官になり、萩原の誘拐が黒の組織によるものだと突き止め、最終的に組織の幹部である『アドニス』と面会するところまで漕ぎ着けた。彼がいたから、私はあの方の暗躍を知ることが出来た」

 一介の警察官が黒の組織にたどり着く執念に、シェリーが目を見開いた。

「萩原はみんなに好かれていたから、私が知らないだけで他にもたくさん悲しんだ人がいたはずだ。あの方による萩原の誘拐は、萩原の人生をにして、彼の身近な人々にも濃い影を落とした」

 秋は両の手の指を重ね合わせて言葉を続ける。

「あの方はループを存続させて研究を続けるため、『前の周』の出来事をなぞる。そのためなら自分に忠誠を誓っている腹心を平然と殺すし、この十五年間で死ぬ予定のNOCも変わらず殺し続ける。シェリーが囚われの身で、このままだと宮野明美が殺されるのも元を正せばあの方のせいだし、組織のせいで不幸になっている人がたくさんいるのもあの方のせいだ。あの方はたくさんの不幸を呼び起こした諸悪の根源だと言える。
そして、あの方の行いと私の行いは同じ罪を抱えている。私がこれまでしてきた犯罪行為は萩原誘拐と同じ属性の不幸を呼び起こしていたし、あの方が踏みにじってきた数々のものと、私がぼんやり生きながら踏み躙ってきたものは全く同じだ。
だからあの方は討ち滅ぼされるべきだし、私は償わなくてはならないと思う」


 話しながら心によぎる光景があった。
 萩原消失の真相を知った直後。十周目が始まって、萩原の実家に向かった時に目にしたワンシーン。
 夕焼けで赤く染まる住宅街を二人の少年と一人の少女が歩いていた。
 松田が萩原の姉に勢いよく告白してバッサリ振られていた。一歩離れた場所で萩原が腹を抱えて笑っていた。
 平和な光景だった。
 あの方が壊した光景だった。
 人が異なるだけで、秋が何度も壊した光景でもあった。


「この周が始まった時に決めた。可能だったらもう一度余分にループして、自分の犯行をなかったことにする。無理だったらせめて、あの方を倒すことで贖罪とする。それにシェリーとの取引を成立させるには、この周でループを終わらせるしかない。
あの方を倒すと約束するから、元々の取り決め通り宮野明美を助けられたら最後の情報を教えてほしい。あの方との対峙には万全の状態で望みたい」

 真っ直ぐ相手の目を見つめて秋は言った。

 前回の検査協力で、なんの見返りもなく姉を助けてくれるほどお人好しではないだろうと指摘されたばかりだし、信用されきれていないのは分かる。
 シェリーとは一抹の警戒心を抱えながらも利用し合う間柄で、顔を合わせれば雑談程度はするが互いの心に踏み込むことはない、微妙な距離感を保っている。


「今すぐ答えろとは言わないよ。ただ、検討しておいてほしい」

 選択肢を与えるような口ぶりでいながら、最終的にシェリーは承諾するしかないと秋は確信していた。
 このまま情報を出し惜しみすれば、決行を迎えた秋が失敗するリスクが高まる。秋が失敗すればあの方の野望を止める者はいなくなり、繰り返される時間の中で明美は殺され続ける。
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