そしかいする度に時間が巻き戻るようになった
「諸星大との顔合わせはさっきの話通りでいいと思うよ。明言したわけじゃないけど、『前』のシェリーの反応を思い返すと、諸星に姉のことを頼んでいそうだったし。時間もないし次の話題に移ろうか」
次の話題。後天的ループ者──萩原研二に何が起こったのかについて。
と行きたいところだが、その前に確認しておきたいことがあった。シェリーの顔色の悪さだ。部屋に招き入れられた時から気になっていたが、彼女は青白い顔をしていて隈までこさえている。
「調子が悪そうだけど心配事でも?」
「そりゃあね。条件の複雑性によって私たちが手を組むのは予想外でしょうけど、どこからバレるか分からないもの。組織の構成員の目がある時は常に気を張っているわ」
シェリーが憔悴しきった顔で答える。
秋は電子ケトルが置かれた棚に向かって歩きながら言った。
「ループの存在を知っている組織の人間に怪しい動きを見咎められて、芋づる式に私たちの計画が露呈するのを恐れている、と」
「ええ」
「ループの存在を知っているのはあの方だけだから大丈夫だよ。この部屋に盗聴器やカメラの類がないことからも、組織の誰かに命じて私を監視する期間もとうに過ぎていると予想される。警戒するのはあの方だけでいいし、あの方自身も普段は姿を表さないからそこまで気を張る必要もない」
確かに、真っ先に警戒するべきはループの存在を知っているあの方の腹心である。しかし、これまで見聞きした情報はそのような腹心が存在しないことを示していた。警戒は不要だ。
結論だけを先に伝えてから、秋がケトルを持ち上げると確かな重みがあった。注ぎ口を確認すると湯気が出ている。すでにお湯が沸いているようだ。
振り向いてシェリーを確認すると、彼女は「沸かしておいたわよ」と告げた。
「電子ケトルに近づいたタイミングあったっけ」
「スマホで操作したのよ。ほら、それIoT家電だから。水さえ入っていれば席を立つことなくお湯を沸かせるわ」
「へー、最近多いよね」
秋は気の抜けた相槌を打った。コップを探しながら、ループの存在を知っているのはあの方だけだと断言した根拠を説明し始める。
「まず私が確認できた範囲でだけど、幹部は全員組織の目的を誤解している。嘘をついてる様子もなかった。あの方の徹底した秘密主義を考慮すると、誰にも教えてないんだろうね」
「研究の完成形が病的なまでに秘匿されているのは知ってるわ。私たち研究員にすら情報が降りてこないもの。でもだからと言って、幹部の誰にも情報を明かしていないと言える?」
「言える。二周前、八周目だね。私とループ者と目される萩原の監視につけられていた幹部がいたんだけど、その幹部がNOCだったんだよ。もちろん未来の知識を有しているあの方は幹部がNOCだと知っていた。能力と私を敵視している点を見込んでの抜擢だったんだと思うよ。でもNOCはNOCだ。完全な報告をしてくれる保証はない。もしもループの存在を教えている信頼のおける部下がいるのなら、そっちに私の監視を任せると思わない?」
ループの存在を明かすほど信頼がおける腹心がいるなら、その人物に秋の監視も任せるはずだ。
腹心に命じれば秋を監視する本当の理由を説明できるのだから、そちらの方がスムーズである。監視役と目的を共有できないと齟齬は起こるし、新しく何かを命じる際に、理論が破綻しない名目をいちいち考えるのも一苦労だろう。
何より、秋への恨みから躍起になって手柄を立てようとすると予測したにしても、NOCは所詮NOCだ。NOCが真に優先するのは組織の利益やあの方の意向でなく、本人が考える正義。
実際、バーボンは情報を十全に報告しなかったはずだ。彼は萩原の友人でもある。萩原と秋の接触に関する情報を意図的に握り潰した事は何度もあっただろう。
バーボンを秋の監視役に抜擢したのは、あの方の明確な失敗だった。彼が降谷零の友好関係まで把握しているわけがない。降谷が萩原と同期だったのは事故だ。
横目でシェリーの顔色がマシになったのを確認する。
彼女は脳波測定の準備に着手し始める。手を動かしながら彼女が言った。
「……NOC多くない?」
「まあ、うん……」
思わず言葉を濁してしまう。
NOCを放置することで未来を大きく変えず、組織に潜入できるほど有能なNOCに、捜査の一環として組織の仕事をさせることで利用している側面もあるが、NOCの多さは弁明のしようがない。
結局、秋は話をまとめることで誤魔化した。
「ともかく、ループを知っているあの方の手先はいない。万が一いたとしても私の監視を任せられる能力を有していない。よって警戒は不要。あの方だって滅多に表に出てこないし、そこまで神経質にならなくていいよ」
秋が語り終えると、シェリーの頬に徐々に赤みが戻ってきた。不安が解けたらしい。
シェリーの顔から前方へ目線を戻すと、秋は慣れた手つきで上の棚から二つの広口壜 を取り出す。酸化第二鉄のラベルが貼られた瓶には粉末状のコーヒー豆、リン酸水素二ナトリウムの瓶には砂糖が入っていた。意味は知らないがシェリーのこだわりだ。
コップに目分量でコーヒー豆とお湯を入れる。
湯気を立てるコーヒーを見ていると、テイクアウトした喫茶ポアロのコーヒーが連想された。続いてテイクアウトの品を持ち込んでいた毛利探偵事務所の内装が連想され、さらには伊達殺害防止計画をこなしていた日々が蘇ってくる。
二周前に伊達航殺害犯を三人で追っていたのが随分と昔のことに感じられた。当時は萩原に情報提供を頼んだら、代わりに伊達航殺害犯探しを手伝わされた。
あの時は煽り耐性の低さを見抜かれていたせいで、今回はシェリーに嵌められたせいで、本来死ぬ予定の人物を助ける手伝いをしている。似た状況だから思い出しやすいのかもしれない。
萩原研二は秋が初めて認識した同類であり、かつての友人だった。少なくとも秋はそう思っている。
シェリー用のコーヒーと砂糖瓶を彼女の横に置き、再び戻って自分のカップを手に取ると、秋は椅子に戻った。
検査の準備を終えたシェリーが、秋の頭にヘッドギアを載せる。脳波測定の目的を知らないことに気づいたが、本題に早く入りたいので秋は質問を控えた。
「約束通り後天的ループ者の記録を調べておいたわよ」
自身も腰掛けるとシェリーが口火を切った。
「後天的ループ者に関する記述は一つだけ見つかったわ。内容を要約すると、『タキオンを体内に保有する人間──タキオン保持者の身体が生命活動を終えるとタキオンは消失する、または量がごっそりと減って観測できないほど微量になる』。たったこれだけだけど、アドニスが求める答えを導くには十分でもある」
「萩原が誘拐された目的と、彼の身に何が起きたのかだね」
誘拐の目的は何か。どうして萩原は記憶を失ったのか。再び萩原が狙われることはあるのか。あり得るのなら今度こそ事前に対策を取れるよう、状況をなるべく把握しておきたい。秋の要望はこれだけだった。
口に出して要望を羅列すると、歯切れ悪くシェリーに尋ねられる。
「……その人の記憶を取り戻す方法は?」
「必要ない。前にも言った通り、萩原が忘れているのは喜ぶべきことでもあるんだよ。『知られている』という理由であの方に狙われることはないし、上手くいけば二度と巻き込まずに済む」
確かに彼に聞きたいことはたくさんあった。組織の任務で接触するよりも前に秋と萩原は知人だったという発言の真意なんかもそうだ。
しかし彼を危険に晒してまで知りたくはない。過去の記憶は自分でなんとかすると決めている。
シェリーは「そう」とだけ返した。目を伏せて横に逸らすと報告に戻る。
「まずは誘拐の目的だけど、研究記録がバッチリ残っているんだから、希少なループ者の研究が狙いだったと見て問題ないでしょうね。彼に何が起こったのかの答えも書いてあったわ」
「タキオン保持者の身体が生命活動を終えるとタキオンは消失する、または量がごっそりと減って観測できないほど微量になる。言い換えると、どこかの周で死んだループ者はタキオンを失う。ループ中の記憶を引き継げる原因であるタキオンを失えば、ループ能力もループに関する全ての記憶も消える。萩原が非ループ者と変わらない存在になっていたのは前の周で死んだからか」
「ええ。殺すにしても一通りデータを取ってから殺すはずなのに、データも取らずに生命活動を終えたのが確認されたのなら、おそらく拉致されてすぐに不慮の事故で……」
言いにくそうに言葉を濁された。
彼女の勘違いに気がつき、秋は端的に否定する。
「違うな。萩原は誘拐された周──九周目を迎える前に一度死んでいる」
忘れもしない、八周目の組織壊滅作戦時だ。
記憶喪失前の知り合いであることを言い当て、過去を教えてもらう約束を取り付けた途端、萩原がいた向かいの建物が爆発した。今から思えばあの爆発もあの方の差金だったのだろう。
秋の言葉に、シェリーは息を呑んで目を見開いた。真剣な表情で顎へ手を当てながら言う。
「なるほどね。八周目で死んだため体内のタキオンが消失した。時間の繰り返しを認識するのに必要なタキオンが消失したせいで、九周目が始まる時には非ループ者と変わらない存在になっていた、と」
仕組みは不明だが、同じ時間が繰り返される現象が時折起こる。時間が巻き戻ると世界の全てがリセットされる。しかしタキオンだけはリセットの影響を受けずに次の周へ持ち越される。
タキオンは特定の人間の体内にだけ存在する粒子だが、タキオン保持者のシナプスとも密接な関係にあるらしい。タキオンと結びついているループ者のシナプス──記憶も『巻き戻り』の影響を受けず、次の周へと持ち越される。
だからタキオン保持者はループを認識できる。これがループ現象の仕組みだった。
(簡単にまとめると、ループ者とはタキオンを持っている人間のことであり、タキオンがなくなったらループ者は非ループ者となる。私たちが話している萩原が死んだタイミングは、彼が非ループ者になったタイミングだとも言える)
頭の中で概要を確認し終えると、秋はそのまま話し始めた。
「誘拐された萩原はループ能力を失っていた。普通の人間と変わらない存在なんだし研究のしようがないよ。結局あの方が手に入れられたのは、『タキオン保持者の身体が生命活動を終えるとタキオンは消失する』という情報だけだった。とまあ、こういう流れだろうね」
「自分自身やアドニスと比較して、浮かび上がってきた相違点が死を迎えているかどうかだったんでしょうね。そして、萩原さんが八周目で死んだのを知っていたのは……」
シェリーは痛ましげに目を伏せた。想像がついたのだろう。
萩原を殺したのはあの方だ。
彼女が口に出来なかった続きを思い浮かべると、頭に取り付けられたヘッドギアがより一層重くなった気がした。
気まずさを誤魔化すように、シェリーがコーヒーに砂糖を加えた。
部屋に降り立った重苦しさを払拭するべく、秋は冗談めかして言う。
「流石頭の回転が早い。前の周で突発的に私を騙す作戦を考えて実行し、見事成功させただけある」
「結構根に持ってるわねさては」
「まさか。世界頭脳明晰大会が開催されたら上位十名の中には入っているであろう私を出し抜いたシェリーが味方になってくれて心強いって話だよ」
「何よその聞くからに馬鹿そうな名前の大会は」
秋は一拍置くことで誤魔化すことにした。
「……話をまとめると、萩原誘拐は研究を目的としたものだったことになる。この周で誘拐が起こらなかったのは、非ループ者と同じ存在になった人間をこれ以上調べても意味がないから。あの方は萩原への興味を失った。この認識で合ってる?」
「合ってるわよ」
シェリーは無事誤魔化されてくれた。突っ込むと堂々巡りになると理解しているからスルーしただけかもしれないが、その可能性は考えないでおく。
肯定を受けて、秋は続けざまに質問した。
「それじゃあ再びあの方が萩原へ関心を向けることは?」
「普通に考えて無いでしょうね。研究が進んで予想外の事実が判明したり状況が一転したりする、僅かな、本当に僅かな可能性もあるからゼロとは言い切れないけど、少なく見積もっても今から数周の間は大丈夫なはずよ」
理系が言う「否定できない」は「どう考えてもあり得ないけど、あり得ないという完璧な証拠はないから否定できない」という意味だ。シェリーの言う「ゼロとは言い切れない」も同等である。
シェリーの返事を聞いて、秋は初めてコーヒーを口にした。少し冷めている。
秋はコーヒーを飲み込むと次の問いに移った。気がかりはまだ残っている。
「だったらこの周で萩原が放置されている理由は? 研究目的による誘拐が必要なくなったにしても、私があの方の立場だったら『萩原がいない』という状況を維持するために彼を殺す」
秋の言葉を受けて、シェリーは顔を僅かに歪めた。
彼女の反応を見て初めて、自分が倫理に反した意見を口にしたのに気がついた。
シェリーの歪んだ目元を見ながら、非倫理的な発言を追求されたらどう答えるべきかと迷う。
友好的な協力体制を維持するために、シェリーの心証を良くしておきたいのだから、何かしらのフォローをしたい。
これまで通り、目的のためなら手段を選ばないバイタリティがあるだけだと開き直って見せるのは悪手だろう。
しかしそれだけではなかった。シェリーの心証などという表面的な問題ではなく、もっと心の奥底に迫る切迫感がある。
これまでの様に、自画自賛に転換して自分の悪辣さを誤魔化してはいけない。自分はこういう人間だ。超えたらいけない一線をとっくに踏み越えている。人間として選んではならない生き方を選択していて、それが普通だと錯覚するほど罪を重ねている。
あの発言がごく自然に出た事実は、自分の罪深さを象徴している。
自分の罪から目を逸らしてはいけない。
そこまでは分かるが、シェリーにどう言えばいいのかが分からなかった。
じっとりと背に汗がにじむ。心臓が耳の裏に移動したのかと錯覚するほど、大きく心臓が脈打つ。ヘッドギアが唸る。
しかし追求はされなかった。シェリーは口を硬く結んで、次の言葉を待っている。
杞憂が空振りに終わり、秋の意識は内面からシェリーとの会話に引き戻された。
これまで心中で渦巻いていた思考が四散する。核となる何かを言い表そうとかき集めた言葉が消える。装飾が消え去り、思考の本質だけが残る。途方もなく重い何かだ。
「それ」の重さをまざまざと実感しながらも、秋はこれまでの内面の変化をおくびにも出さずに、平然と次の言葉を紡いだ。
痩せ我慢だけは昔から得意だった。
「新たな周が始まると同時に萩原を殺して、遺体を処分するだけなら大した労力はかからないし、あの方が維持したがっている組織関連のおおよその出来事に影響を与えることもない。私が萩原生存に気付いてイレギュラーの九周目を疑う展開を潰すために殺しておくべきだ」
あの方の行動を説明すると、以下のようになる。
八周目で萩原がループ者であることを知り、九周目が始まると同時に萩原を誘拐。タキオンの研究に役立てようとする。
しかし八周目で一度死んでいた萩原の体内からはタキオンが消失しており、あの方の目論見は破綻。非ループ者と同列の存在になった萩原を調べる意義はなく、あの方は彼への興味を失う。
よって、十周目で萩原は放置され、萩原の誘拐が起こった九周目だけがイレギュラーとなった。
自分があの方の立場だったとして、真っ先に警戒するのは同類だ。ループ能力を持ち、萩原と面識がある間宮秋がいる。
だからあの方は、十周目でも九周目と同じ状況を作るべきだった。十周目以降で萩原を放置すると、秋に無駄にヒントを与えることになる。
あの方が萩原を放置せず、九周目以降ずっと萩原が姿を消していれば、秋は「そういうものだ」と思いこむだろうし、あの方もそれを予測できたはずだ。
特にループ現象は解明されていない事実が多く、秋にとって自分以外のループ者など萩原が初めてなのだから、自分の知らないルールによって萩原が消失したと捉えそうだ。現実逃避癖を考慮すれば、自らそう考えようとするのも予想できる。
実際九周目の秋は、「いずれかの周で死んだループ者は次の周から存在が消失する」という萩原消失説を盲目的に信じ込んでいた。
(あの方が十周目でも萩原を誘拐していたとしても、私は萩原が消えたのはあの方による誘拐のせいだってことも、全ての黒幕があの方であることも知っていただろうけど)
ただし秋が萩原誘拐を知り、あの方の暗躍に思い至ったのは、松田のファインプレーによるものだった。
萩原が消えた九周目の松田は、誘拐された親友の消息を突き止めるために組織を追い続け、最後には幹部である「アドニス」との面会に漕ぎ着けた。彼からもたらされた情報によって、秋は萩原消失の真相を知った。
彼がいなければ萩原誘拐の真相にも、あの方の暗躍にも気づかないはずだった。
そして親友を誘拐した組織を追い続けた刑事の存在など、あの方は全く想定していない。そのためあの方の中では、秋は今でも何も知らないままだ。
(だからこそ、せっかく何も知らずにいる私が何かに気づかないよう、この周でも萩原を始末しておこうと考えそうなものだけど)
あの方が恐るべきは秋に違和感を抱かせる行為、事柄だろう。
些細な違和感が真実へと到達する足掛かりになるのが世の常である。
特に慎重居士で知られるあの方のことだから、萩原と秋が偶然再会したりしないよう、巻き戻ってすぐに萩原殺害を命じるくらいするはずだ。
秋は目線を下に固定して考え込んだ。自分の思考へと意識が降りていく。
思考の欠片たちが渦巻き、濁流となる。欠片同士が合わさり、離れ、別の欠片とくっ付く。
やがて一つの解が浮かび上がってきた。
(私が舐められているからか)
おそらく、適当なカバーストーリーをでっち上げて辛い現実から目を背ける性質を熟知されているのだ。
十五年が何度も繰り返される間、秋は薄い壁一枚を隔てて真実の隣に置かれていた。ループ関係の研究の被検者をさせられ、タキオンと深い関わりのある薬を作らされているシェリーと親しい環境にいた。情報収集に最適な立場だ。
それでも秋は動かなかった。正確な事実を認識して対応するよりもぼんやり流され続ける方が楽だから、研究のきな臭さを薄々察しながらも、真実に繋がりそうな糸を無意識のうちに除外してきた。
それが秋の生き方だった。
知りたくない真実に到達しないよう、無意識の判断に基づいて作られた都合の良いカバーストーリーを盲信することも多々あった。
(こういった姿を見続けてきたからあの方は私を取るに足らない相手だと判断したし、いなくなった萩原に対しても同じ行動を取ると予想した)
彼の予想通り、秋は自分を慰めるために萩原消失説を瞬時に叩き出して、それを盲信してきた。
それでいて理性の深いところでは現実逃避を自覚しているから、ストーリーの破綻を防ぐために萩原の実家には絶対に近づかなかった。
(あの方は私が取る行動を予測していた。初めのうちは同じループ者を警戒して厳重に監視していただろうし、どう動くのかを観察する目的もあって被検者にしたのかもしれないけど、伊達に長いこと現実逃避を貫いていない。警戒を解いているどころか舐められまくってる。シェリーと二人きりになれるこの個室に盗聴器やカメラが一つもないのがその証拠だ)
そこまで考えたところで、シェリーの声が思考に割って入った。意識が現実へと引き上げられる。
「萩原さんが殺されずに放置されている理由に一つだけ心当たりがあるわ」
長い沈黙の後で口を開いたからか、彼女の声は少し掠れていた。
秋は軽く返す。
「ああ、私が舐められてるからでしょ。確かにムカつくけど敵が油断してくれているのは好機だとも言える。これなら宮野明美の件にも邪魔が入らないし、」
「いいえ」
言葉を続けようとしてシェリーに否定された。遅れて、彼女の顔に再び影が差しているのに気がつく。
「この周になるまで私とコンタクトを取ったことがない事実も関係しているかもしれないけど、それだけでは説明がつかないのも確かよ。ループだなんて非科学的な事象に対抗できるのは、同じくループを認識できるアドニスだけだもの。いくら侮っていたとしても、自分を脅かす可能性を秘めたただ一人の相手をみすみす放置する理由にはならないわ。アドニスが指摘した通り、保険をかけるべきよ」
巻き戻ってすぐに萩原を殺して死体を処分することで彼が存在しない状況を継続させ、秋が真実にたどり着く足掛かりを完璧に潰す。一般人の少年を人知れず殺すなど組織のトップにとっては朝飯前だし、デメリットもない。だというのに、あの方は萩原を放置している。慎重で有名なあの方にしては大胆な行動だ。
大胆と言えば自分を被検者に抜擢したのもそうだ。秋の頭がとてつもなく冴えていて逃避癖が現れなかったら、被検者になったがために組織の研究目的を察したかもしれない。同じ能力を有している相手は警戒して然るべきだし、なるべく情報を与えないようにするのが普通だ。
少し考えてから、秋は思いつきを口にした。
「私にわざと情報を与えることで何かを企んでる……わけではないよね、うん」
シェリーの白けた顔を見て慌てて付け加える。背筋を伸ばし、訳知り顔で腕を組んでから秋は言った。
「これはシェリーを試したんだよ」
「ったく、わざと情報を与えているのならもっと分かりやすくやるわよ」
ため息混じりに指摘される。秋の言い訳を全く信じていないのは明白だった。
シェリーに呆れられたまま終わるわけにはいかないので、今度はしっかりと考えてみる。
何かを企んでいるわけではないのなら、萩原を殺す必要はないとあの方が考えていることになる。しかしシェリーによると「秋を舐めているから」以外の理由があるらしい。
しばらく考えると一つの説が浮かんできた。あまり当たっていてほしくない仮説だ。秋は恐々と口にした。
「…………萩原殺害よりも効力のある保険をすでにかけている?」
「正解」
出来れば否定して欲しかった。
途端、脳波測定器が低く不気味な電子音を立てる。事態の不穏さを象徴しているかのような低い唸りだった。
こちらの気持ちなどお構いなしに、シェリーは血の気の引いた顔で続ける。
「仮にアドニスが真相を知ってもどうにかする手立てがあるから、あの方は余裕綽々でいられるのよ」
「その手立てって?」
思わず身を乗り出して尋ねると、彼女は一瞬思案する目をしてから、唇を歪めた。
「今は言えないわ。姉を助ける前に裏切られると困るもの。アドニスが強く求める情報は最後まで取っておきたい。元々はあなたが一番気にしていたであろう後天的ループ者の情報を取っておくつもりだったけど全部話しちゃったし」
本来伏せる予定だった萩原の情報を早々に聞き出せたことを喜べばいいのか、『手立て』を教えてもらえるまで時間がかかりそうなのを嘆けばいいのか判断しかねる展開だ。
「裏切らないよ。裏切って、私が気づいたことを密告されても困る」
「あらそう。ともかく、最後まで伏せておく手立て を知りたかったらお姉ちゃんを無事に助けることね」
シェリーは話は終わりだとばかりに冷めたコーヒーを手に取った。
秋は駄目押しでもう少し踏み込む。
「シェリーの気持ちは分かるし、それで安心できるなら別にいいけどさ。あの方の保険がどんなものなのか朧げな輪郭だけでも知っておかないと警戒のしようがないんだけど。宮野明美を助ける前に私があの方の毒牙にかかったりしたら、明美を助けるのは叶わなくなるんだし」
「アドニスが脅威となり得ると発覚してから使う代物だから大丈夫よ。計画に支障はきたさないわ」
言われてみればその通りだ。シェリーの目的は姉を助けることなのだから、計画に支障をきたす情報なら初めから共有している。
とりつく島も無いとはこのことだった。
シェリーが口にしたのは彼女の行動から推察できるものばかりで、目新しい情報は何もない。
これで宮野明美を助けなければならない理由がより強固になった。
次の話題。後天的ループ者──萩原研二に何が起こったのかについて。
と行きたいところだが、その前に確認しておきたいことがあった。シェリーの顔色の悪さだ。部屋に招き入れられた時から気になっていたが、彼女は青白い顔をしていて隈までこさえている。
「調子が悪そうだけど心配事でも?」
「そりゃあね。条件の複雑性によって私たちが手を組むのは予想外でしょうけど、どこからバレるか分からないもの。組織の構成員の目がある時は常に気を張っているわ」
シェリーが憔悴しきった顔で答える。
秋は電子ケトルが置かれた棚に向かって歩きながら言った。
「ループの存在を知っている組織の人間に怪しい動きを見咎められて、芋づる式に私たちの計画が露呈するのを恐れている、と」
「ええ」
「ループの存在を知っているのはあの方だけだから大丈夫だよ。この部屋に盗聴器やカメラの類がないことからも、組織の誰かに命じて私を監視する期間もとうに過ぎていると予想される。警戒するのはあの方だけでいいし、あの方自身も普段は姿を表さないからそこまで気を張る必要もない」
確かに、真っ先に警戒するべきはループの存在を知っているあの方の腹心である。しかし、これまで見聞きした情報はそのような腹心が存在しないことを示していた。警戒は不要だ。
結論だけを先に伝えてから、秋がケトルを持ち上げると確かな重みがあった。注ぎ口を確認すると湯気が出ている。すでにお湯が沸いているようだ。
振り向いてシェリーを確認すると、彼女は「沸かしておいたわよ」と告げた。
「電子ケトルに近づいたタイミングあったっけ」
「スマホで操作したのよ。ほら、それIoT家電だから。水さえ入っていれば席を立つことなくお湯を沸かせるわ」
「へー、最近多いよね」
秋は気の抜けた相槌を打った。コップを探しながら、ループの存在を知っているのはあの方だけだと断言した根拠を説明し始める。
「まず私が確認できた範囲でだけど、幹部は全員組織の目的を誤解している。嘘をついてる様子もなかった。あの方の徹底した秘密主義を考慮すると、誰にも教えてないんだろうね」
「研究の完成形が病的なまでに秘匿されているのは知ってるわ。私たち研究員にすら情報が降りてこないもの。でもだからと言って、幹部の誰にも情報を明かしていないと言える?」
「言える。二周前、八周目だね。私とループ者と目される萩原の監視につけられていた幹部がいたんだけど、その幹部がNOCだったんだよ。もちろん未来の知識を有しているあの方は幹部がNOCだと知っていた。能力と私を敵視している点を見込んでの抜擢だったんだと思うよ。でもNOCはNOCだ。完全な報告をしてくれる保証はない。もしもループの存在を教えている信頼のおける部下がいるのなら、そっちに私の監視を任せると思わない?」
ループの存在を明かすほど信頼がおける腹心がいるなら、その人物に秋の監視も任せるはずだ。
腹心に命じれば秋を監視する本当の理由を説明できるのだから、そちらの方がスムーズである。監視役と目的を共有できないと齟齬は起こるし、新しく何かを命じる際に、理論が破綻しない名目をいちいち考えるのも一苦労だろう。
何より、秋への恨みから躍起になって手柄を立てようとすると予測したにしても、NOCは所詮NOCだ。NOCが真に優先するのは組織の利益やあの方の意向でなく、本人が考える正義。
実際、バーボンは情報を十全に報告しなかったはずだ。彼は萩原の友人でもある。萩原と秋の接触に関する情報を意図的に握り潰した事は何度もあっただろう。
バーボンを秋の監視役に抜擢したのは、あの方の明確な失敗だった。彼が降谷零の友好関係まで把握しているわけがない。降谷が萩原と同期だったのは事故だ。
横目でシェリーの顔色がマシになったのを確認する。
彼女は脳波測定の準備に着手し始める。手を動かしながら彼女が言った。
「……NOC多くない?」
「まあ、うん……」
思わず言葉を濁してしまう。
NOCを放置することで未来を大きく変えず、組織に潜入できるほど有能なNOCに、捜査の一環として組織の仕事をさせることで利用している側面もあるが、NOCの多さは弁明のしようがない。
結局、秋は話をまとめることで誤魔化した。
「ともかく、ループを知っているあの方の手先はいない。万が一いたとしても私の監視を任せられる能力を有していない。よって警戒は不要。あの方だって滅多に表に出てこないし、そこまで神経質にならなくていいよ」
秋が語り終えると、シェリーの頬に徐々に赤みが戻ってきた。不安が解けたらしい。
シェリーの顔から前方へ目線を戻すと、秋は慣れた手つきで上の棚から二つの広口
コップに目分量でコーヒー豆とお湯を入れる。
湯気を立てるコーヒーを見ていると、テイクアウトした喫茶ポアロのコーヒーが連想された。続いてテイクアウトの品を持ち込んでいた毛利探偵事務所の内装が連想され、さらには伊達殺害防止計画をこなしていた日々が蘇ってくる。
二周前に伊達航殺害犯を三人で追っていたのが随分と昔のことに感じられた。当時は萩原に情報提供を頼んだら、代わりに伊達航殺害犯探しを手伝わされた。
あの時は煽り耐性の低さを見抜かれていたせいで、今回はシェリーに嵌められたせいで、本来死ぬ予定の人物を助ける手伝いをしている。似た状況だから思い出しやすいのかもしれない。
萩原研二は秋が初めて認識した同類であり、かつての友人だった。少なくとも秋はそう思っている。
シェリー用のコーヒーと砂糖瓶を彼女の横に置き、再び戻って自分のカップを手に取ると、秋は椅子に戻った。
検査の準備を終えたシェリーが、秋の頭にヘッドギアを載せる。脳波測定の目的を知らないことに気づいたが、本題に早く入りたいので秋は質問を控えた。
「約束通り後天的ループ者の記録を調べておいたわよ」
自身も腰掛けるとシェリーが口火を切った。
「後天的ループ者に関する記述は一つだけ見つかったわ。内容を要約すると、『タキオンを体内に保有する人間──タキオン保持者の身体が生命活動を終えるとタキオンは消失する、または量がごっそりと減って観測できないほど微量になる』。たったこれだけだけど、アドニスが求める答えを導くには十分でもある」
「萩原が誘拐された目的と、彼の身に何が起きたのかだね」
誘拐の目的は何か。どうして萩原は記憶を失ったのか。再び萩原が狙われることはあるのか。あり得るのなら今度こそ事前に対策を取れるよう、状況をなるべく把握しておきたい。秋の要望はこれだけだった。
口に出して要望を羅列すると、歯切れ悪くシェリーに尋ねられる。
「……その人の記憶を取り戻す方法は?」
「必要ない。前にも言った通り、萩原が忘れているのは喜ぶべきことでもあるんだよ。『知られている』という理由であの方に狙われることはないし、上手くいけば二度と巻き込まずに済む」
確かに彼に聞きたいことはたくさんあった。組織の任務で接触するよりも前に秋と萩原は知人だったという発言の真意なんかもそうだ。
しかし彼を危険に晒してまで知りたくはない。過去の記憶は自分でなんとかすると決めている。
シェリーは「そう」とだけ返した。目を伏せて横に逸らすと報告に戻る。
「まずは誘拐の目的だけど、研究記録がバッチリ残っているんだから、希少なループ者の研究が狙いだったと見て問題ないでしょうね。彼に何が起こったのかの答えも書いてあったわ」
「タキオン保持者の身体が生命活動を終えるとタキオンは消失する、または量がごっそりと減って観測できないほど微量になる。言い換えると、どこかの周で死んだループ者はタキオンを失う。ループ中の記憶を引き継げる原因であるタキオンを失えば、ループ能力もループに関する全ての記憶も消える。萩原が非ループ者と変わらない存在になっていたのは前の周で死んだからか」
「ええ。殺すにしても一通りデータを取ってから殺すはずなのに、データも取らずに生命活動を終えたのが確認されたのなら、おそらく拉致されてすぐに不慮の事故で……」
言いにくそうに言葉を濁された。
彼女の勘違いに気がつき、秋は端的に否定する。
「違うな。萩原は誘拐された周──九周目を迎える前に一度死んでいる」
忘れもしない、八周目の組織壊滅作戦時だ。
記憶喪失前の知り合いであることを言い当て、過去を教えてもらう約束を取り付けた途端、萩原がいた向かいの建物が爆発した。今から思えばあの爆発もあの方の差金だったのだろう。
秋の言葉に、シェリーは息を呑んで目を見開いた。真剣な表情で顎へ手を当てながら言う。
「なるほどね。八周目で死んだため体内のタキオンが消失した。時間の繰り返しを認識するのに必要なタキオンが消失したせいで、九周目が始まる時には非ループ者と変わらない存在になっていた、と」
仕組みは不明だが、同じ時間が繰り返される現象が時折起こる。時間が巻き戻ると世界の全てがリセットされる。しかしタキオンだけはリセットの影響を受けずに次の周へ持ち越される。
タキオンは特定の人間の体内にだけ存在する粒子だが、タキオン保持者のシナプスとも密接な関係にあるらしい。タキオンと結びついているループ者のシナプス──記憶も『巻き戻り』の影響を受けず、次の周へと持ち越される。
だからタキオン保持者はループを認識できる。これがループ現象の仕組みだった。
(簡単にまとめると、ループ者とはタキオンを持っている人間のことであり、タキオンがなくなったらループ者は非ループ者となる。私たちが話している萩原が死んだタイミングは、彼が非ループ者になったタイミングだとも言える)
頭の中で概要を確認し終えると、秋はそのまま話し始めた。
「誘拐された萩原はループ能力を失っていた。普通の人間と変わらない存在なんだし研究のしようがないよ。結局あの方が手に入れられたのは、『タキオン保持者の身体が生命活動を終えるとタキオンは消失する』という情報だけだった。とまあ、こういう流れだろうね」
「自分自身やアドニスと比較して、浮かび上がってきた相違点が死を迎えているかどうかだったんでしょうね。そして、萩原さんが八周目で死んだのを知っていたのは……」
シェリーは痛ましげに目を伏せた。想像がついたのだろう。
萩原を殺したのはあの方だ。
彼女が口に出来なかった続きを思い浮かべると、頭に取り付けられたヘッドギアがより一層重くなった気がした。
気まずさを誤魔化すように、シェリーがコーヒーに砂糖を加えた。
部屋に降り立った重苦しさを払拭するべく、秋は冗談めかして言う。
「流石頭の回転が早い。前の周で突発的に私を騙す作戦を考えて実行し、見事成功させただけある」
「結構根に持ってるわねさては」
「まさか。世界頭脳明晰大会が開催されたら上位十名の中には入っているであろう私を出し抜いたシェリーが味方になってくれて心強いって話だよ」
「何よその聞くからに馬鹿そうな名前の大会は」
秋は一拍置くことで誤魔化すことにした。
「……話をまとめると、萩原誘拐は研究を目的としたものだったことになる。この周で誘拐が起こらなかったのは、非ループ者と同じ存在になった人間をこれ以上調べても意味がないから。あの方は萩原への興味を失った。この認識で合ってる?」
「合ってるわよ」
シェリーは無事誤魔化されてくれた。突っ込むと堂々巡りになると理解しているからスルーしただけかもしれないが、その可能性は考えないでおく。
肯定を受けて、秋は続けざまに質問した。
「それじゃあ再びあの方が萩原へ関心を向けることは?」
「普通に考えて無いでしょうね。研究が進んで予想外の事実が判明したり状況が一転したりする、僅かな、本当に僅かな可能性もあるからゼロとは言い切れないけど、少なく見積もっても今から数周の間は大丈夫なはずよ」
理系が言う「否定できない」は「どう考えてもあり得ないけど、あり得ないという完璧な証拠はないから否定できない」という意味だ。シェリーの言う「ゼロとは言い切れない」も同等である。
シェリーの返事を聞いて、秋は初めてコーヒーを口にした。少し冷めている。
秋はコーヒーを飲み込むと次の問いに移った。気がかりはまだ残っている。
「だったらこの周で萩原が放置されている理由は? 研究目的による誘拐が必要なくなったにしても、私があの方の立場だったら『萩原がいない』という状況を維持するために彼を殺す」
秋の言葉を受けて、シェリーは顔を僅かに歪めた。
彼女の反応を見て初めて、自分が倫理に反した意見を口にしたのに気がついた。
シェリーの歪んだ目元を見ながら、非倫理的な発言を追求されたらどう答えるべきかと迷う。
友好的な協力体制を維持するために、シェリーの心証を良くしておきたいのだから、何かしらのフォローをしたい。
これまで通り、目的のためなら手段を選ばないバイタリティがあるだけだと開き直って見せるのは悪手だろう。
しかしそれだけではなかった。シェリーの心証などという表面的な問題ではなく、もっと心の奥底に迫る切迫感がある。
これまでの様に、自画自賛に転換して自分の悪辣さを誤魔化してはいけない。自分はこういう人間だ。超えたらいけない一線をとっくに踏み越えている。人間として選んではならない生き方を選択していて、それが普通だと錯覚するほど罪を重ねている。
あの発言がごく自然に出た事実は、自分の罪深さを象徴している。
自分の罪から目を逸らしてはいけない。
そこまでは分かるが、シェリーにどう言えばいいのかが分からなかった。
じっとりと背に汗がにじむ。心臓が耳の裏に移動したのかと錯覚するほど、大きく心臓が脈打つ。ヘッドギアが唸る。
しかし追求はされなかった。シェリーは口を硬く結んで、次の言葉を待っている。
杞憂が空振りに終わり、秋の意識は内面からシェリーとの会話に引き戻された。
これまで心中で渦巻いていた思考が四散する。核となる何かを言い表そうとかき集めた言葉が消える。装飾が消え去り、思考の本質だけが残る。途方もなく重い何かだ。
「それ」の重さをまざまざと実感しながらも、秋はこれまでの内面の変化をおくびにも出さずに、平然と次の言葉を紡いだ。
痩せ我慢だけは昔から得意だった。
「新たな周が始まると同時に萩原を殺して、遺体を処分するだけなら大した労力はかからないし、あの方が維持したがっている組織関連のおおよその出来事に影響を与えることもない。私が萩原生存に気付いてイレギュラーの九周目を疑う展開を潰すために殺しておくべきだ」
あの方の行動を説明すると、以下のようになる。
八周目で萩原がループ者であることを知り、九周目が始まると同時に萩原を誘拐。タキオンの研究に役立てようとする。
しかし八周目で一度死んでいた萩原の体内からはタキオンが消失しており、あの方の目論見は破綻。非ループ者と同列の存在になった萩原を調べる意義はなく、あの方は彼への興味を失う。
よって、十周目で萩原は放置され、萩原の誘拐が起こった九周目だけがイレギュラーとなった。
自分があの方の立場だったとして、真っ先に警戒するのは同類だ。ループ能力を持ち、萩原と面識がある間宮秋がいる。
だからあの方は、十周目でも九周目と同じ状況を作るべきだった。十周目以降で萩原を放置すると、秋に無駄にヒントを与えることになる。
あの方が萩原を放置せず、九周目以降ずっと萩原が姿を消していれば、秋は「そういうものだ」と思いこむだろうし、あの方もそれを予測できたはずだ。
特にループ現象は解明されていない事実が多く、秋にとって自分以外のループ者など萩原が初めてなのだから、自分の知らないルールによって萩原が消失したと捉えそうだ。現実逃避癖を考慮すれば、自らそう考えようとするのも予想できる。
実際九周目の秋は、「いずれかの周で死んだループ者は次の周から存在が消失する」という萩原消失説を盲目的に信じ込んでいた。
(あの方が十周目でも萩原を誘拐していたとしても、私は萩原が消えたのはあの方による誘拐のせいだってことも、全ての黒幕があの方であることも知っていただろうけど)
ただし秋が萩原誘拐を知り、あの方の暗躍に思い至ったのは、松田のファインプレーによるものだった。
萩原が消えた九周目の松田は、誘拐された親友の消息を突き止めるために組織を追い続け、最後には幹部である「アドニス」との面会に漕ぎ着けた。彼からもたらされた情報によって、秋は萩原消失の真相を知った。
彼がいなければ萩原誘拐の真相にも、あの方の暗躍にも気づかないはずだった。
そして親友を誘拐した組織を追い続けた刑事の存在など、あの方は全く想定していない。そのためあの方の中では、秋は今でも何も知らないままだ。
(だからこそ、せっかく何も知らずにいる私が何かに気づかないよう、この周でも萩原を始末しておこうと考えそうなものだけど)
あの方が恐るべきは秋に違和感を抱かせる行為、事柄だろう。
些細な違和感が真実へと到達する足掛かりになるのが世の常である。
特に慎重居士で知られるあの方のことだから、萩原と秋が偶然再会したりしないよう、巻き戻ってすぐに萩原殺害を命じるくらいするはずだ。
秋は目線を下に固定して考え込んだ。自分の思考へと意識が降りていく。
思考の欠片たちが渦巻き、濁流となる。欠片同士が合わさり、離れ、別の欠片とくっ付く。
やがて一つの解が浮かび上がってきた。
(私が舐められているからか)
おそらく、適当なカバーストーリーをでっち上げて辛い現実から目を背ける性質を熟知されているのだ。
十五年が何度も繰り返される間、秋は薄い壁一枚を隔てて真実の隣に置かれていた。ループ関係の研究の被検者をさせられ、タキオンと深い関わりのある薬を作らされているシェリーと親しい環境にいた。情報収集に最適な立場だ。
それでも秋は動かなかった。正確な事実を認識して対応するよりもぼんやり流され続ける方が楽だから、研究のきな臭さを薄々察しながらも、真実に繋がりそうな糸を無意識のうちに除外してきた。
それが秋の生き方だった。
知りたくない真実に到達しないよう、無意識の判断に基づいて作られた都合の良いカバーストーリーを盲信することも多々あった。
(こういった姿を見続けてきたからあの方は私を取るに足らない相手だと判断したし、いなくなった萩原に対しても同じ行動を取ると予想した)
彼の予想通り、秋は自分を慰めるために萩原消失説を瞬時に叩き出して、それを盲信してきた。
それでいて理性の深いところでは現実逃避を自覚しているから、ストーリーの破綻を防ぐために萩原の実家には絶対に近づかなかった。
(あの方は私が取る行動を予測していた。初めのうちは同じループ者を警戒して厳重に監視していただろうし、どう動くのかを観察する目的もあって被検者にしたのかもしれないけど、伊達に長いこと現実逃避を貫いていない。警戒を解いているどころか舐められまくってる。シェリーと二人きりになれるこの個室に盗聴器やカメラが一つもないのがその証拠だ)
そこまで考えたところで、シェリーの声が思考に割って入った。意識が現実へと引き上げられる。
「萩原さんが殺されずに放置されている理由に一つだけ心当たりがあるわ」
長い沈黙の後で口を開いたからか、彼女の声は少し掠れていた。
秋は軽く返す。
「ああ、私が舐められてるからでしょ。確かにムカつくけど敵が油断してくれているのは好機だとも言える。これなら宮野明美の件にも邪魔が入らないし、」
「いいえ」
言葉を続けようとしてシェリーに否定された。遅れて、彼女の顔に再び影が差しているのに気がつく。
「この周になるまで私とコンタクトを取ったことがない事実も関係しているかもしれないけど、それだけでは説明がつかないのも確かよ。ループだなんて非科学的な事象に対抗できるのは、同じくループを認識できるアドニスだけだもの。いくら侮っていたとしても、自分を脅かす可能性を秘めたただ一人の相手をみすみす放置する理由にはならないわ。アドニスが指摘した通り、保険をかけるべきよ」
巻き戻ってすぐに萩原を殺して死体を処分することで彼が存在しない状況を継続させ、秋が真実にたどり着く足掛かりを完璧に潰す。一般人の少年を人知れず殺すなど組織のトップにとっては朝飯前だし、デメリットもない。だというのに、あの方は萩原を放置している。慎重で有名なあの方にしては大胆な行動だ。
大胆と言えば自分を被検者に抜擢したのもそうだ。秋の頭がとてつもなく冴えていて逃避癖が現れなかったら、被検者になったがために組織の研究目的を察したかもしれない。同じ能力を有している相手は警戒して然るべきだし、なるべく情報を与えないようにするのが普通だ。
少し考えてから、秋は思いつきを口にした。
「私にわざと情報を与えることで何かを企んでる……わけではないよね、うん」
シェリーの白けた顔を見て慌てて付け加える。背筋を伸ばし、訳知り顔で腕を組んでから秋は言った。
「これはシェリーを試したんだよ」
「ったく、わざと情報を与えているのならもっと分かりやすくやるわよ」
ため息混じりに指摘される。秋の言い訳を全く信じていないのは明白だった。
シェリーに呆れられたまま終わるわけにはいかないので、今度はしっかりと考えてみる。
何かを企んでいるわけではないのなら、萩原を殺す必要はないとあの方が考えていることになる。しかしシェリーによると「秋を舐めているから」以外の理由があるらしい。
しばらく考えると一つの説が浮かんできた。あまり当たっていてほしくない仮説だ。秋は恐々と口にした。
「…………萩原殺害よりも効力のある保険をすでにかけている?」
「正解」
出来れば否定して欲しかった。
途端、脳波測定器が低く不気味な電子音を立てる。事態の不穏さを象徴しているかのような低い唸りだった。
こちらの気持ちなどお構いなしに、シェリーは血の気の引いた顔で続ける。
「仮にアドニスが真相を知ってもどうにかする手立てがあるから、あの方は余裕綽々でいられるのよ」
「その手立てって?」
思わず身を乗り出して尋ねると、彼女は一瞬思案する目をしてから、唇を歪めた。
「今は言えないわ。姉を助ける前に裏切られると困るもの。アドニスが強く求める情報は最後まで取っておきたい。元々はあなたが一番気にしていたであろう後天的ループ者の情報を取っておくつもりだったけど全部話しちゃったし」
本来伏せる予定だった萩原の情報を早々に聞き出せたことを喜べばいいのか、『手立て』を教えてもらえるまで時間がかかりそうなのを嘆けばいいのか判断しかねる展開だ。
「裏切らないよ。裏切って、私が気づいたことを密告されても困る」
「あらそう。ともかく、最後まで伏せておく
シェリーは話は終わりだとばかりに冷めたコーヒーを手に取った。
秋は駄目押しでもう少し踏み込む。
「シェリーの気持ちは分かるし、それで安心できるなら別にいいけどさ。あの方の保険がどんなものなのか朧げな輪郭だけでも知っておかないと警戒のしようがないんだけど。宮野明美を助ける前に私があの方の毒牙にかかったりしたら、明美を助けるのは叶わなくなるんだし」
「アドニスが脅威となり得ると発覚してから使う代物だから大丈夫よ。計画に支障はきたさないわ」
言われてみればその通りだ。シェリーの目的は姉を助けることなのだから、計画に支障をきたす情報なら初めから共有している。
とりつく島も無いとはこのことだった。
シェリーが口にしたのは彼女の行動から推察できるものばかりで、目新しい情報は何もない。
これで宮野明美を助けなければならない理由がより強固になった。