そしかいする度に時間が巻き戻るようになった

 訪れたのはセーフハウスのすぐ近くに位置する、安くて個室がある洋食店だった。テーブルが並んでいる賑やかな一階を通り抜け、二階の個室へ案内される。
 さっさと料理を注文し、盗聴器の類がないのを秋が確認すると、すぐさまシェリーが本題に入った。

「どんな質問に答えるのであれ、まずは前提となる知識を把握していないと話にならないわ。組織が行なっている研究についてどれくらい掴んでる?」

 問われて、秋は一瞬言い淀む。

 正直なところ、ほとんど情報は持っていない。
 シェリーに詳しい話が聞けるようになるまで情報収集をしてみたものの、あの方の目を気にして大きな動きはできなかったし、世間話に見せかけて話を聞き出した幹部は揃いも揃って別々の答えを口にした。
 組織の目的は永遠の命だとか、あの方が世界を牛耳ることだとか、我々は神でもあり悪魔でもあるだとか。答えは十人十色だったし、抽象的な話も多くて全貌を掴むのが困難な場合もあった。
 おそらくあの方が、持ってまわった口調によって意図的に相手の勘違いを引き出しているのだろう。もしくは単純に報連相が出来ていないか。どちらにしろ情報を集めたいこちらにとっては迷惑な話である。

 組織が行なっている研究についてどれだけ把握しているのかと問われても「全く知らない」としか答えようがない。
 しかし無知を認めるのは時として甚大な苦痛を伴うし、秋は甚大な苦痛を感じる側の人間だった。

 やや逡巡してから、かろうじて把握している基礎的な物事をあげつらう。

「……シェリーが中心に据えられたチームが薬を作らされていること。シェリーが勤務している棟の隣に同規模の棟が建てられているため、薬の研究と同じくらい力が入れられたプロジェクトがありそうなこと。組織が集めているプログラマーが関わっているかもしれないこと。何より、私が被検者として丁重に扱われている事からループ現象が大きく関わっていると予想できる。それくらいだね。……ほとんど何も知らないよ」

「そう」

 決死の覚悟で何も知らないと告白したにも関わらず、シェリーの反応は随分とあっさりしたものだった。秋がどれだけ知っているのかは、彼女にとってその程度のものらしい。
 いつの間にかスプーンを握る力が強くなっていた。シェリーが平然と話を続けるのを聞きながら、緩める。

「私たち製薬関係者が集められているアレウス棟と、対をなして建てられているクロノス棟。二つの棟で行われている研究は密接に関わっていて、二つを強固に繋いでいるのはとある粒子よ」

「粒子……」

「アドニスが被検者に抜擢された際に行った詳しい説明では、分かりやすいよう物質と表現したわね」

 最後に付け加えられた補足によって、どの周でも語られてどの周でも聞き流していた、シェリーによる被検協力に関する説明事項が蘇る。秋の体内には非常に珍しい物質──粒子が存在しており、その希少性から被検者として丁重に扱われるという話だった。

「その『物質』に関する説明ならどの周でもされてるよ。体に害があるかどうかにしか興味がなかったから表面的な説明しかされなくても気に留めなかったし、それ以上知ろうともしなかったけど」

「……ああ、なるほど。『これまでの周』ならともかく、『この周』でなされた研究の説明にも全く興味を示さなかったのに、今日のこの展開だったからどういう風の吹き回しなのかと疑問に思っていたのよ。アドニスが研究内容について根掘り葉掘り聞いてきた事が、手を組む前の私を通じてあの方に漏れるのを恐れたのね」

 彼女の指摘は当たっていた。
 今までとは異なる振る舞いを知られて、警戒を強められたら色々と動きづらくなる。かと言って、シェリーに口裏合わせを頼むのも難しい状況だった。

 ループ現象について何かを知っていると仄めかされ、次の周で自分に話を通すために必要な「シェリーは姉にゲノム創薬の専門書を貸している」という暗号を教えられた時に、暗号は十三歳以降のシェリーにしか通じないと言い含められていたためだ。
 十三歳以上のシェリーにしか伝わらないのなら、それ以前の彼女に対して暗号を持ち出しても話し合いにならない。
 だからこそ、指定されたこの日までは無言を貫いてきた。

「正解。は十三歳以上のシェリーにしか通じないって話だったから」

 答えながら頭の片隅で思考する。

 暗号はアメリカ留学の際に決めたものだそうなので、今から思えば十三歳未満だとしても「宮野明美が危険」の意味は正しく伝わったはずだ。
 だというのにシェリーが十三歳以降を指定したのは、諸星大との交際を止める猶予がある時期の中から、冷静に対処できるよう出来るだけ歳を重ねた状態を選んだだけか。もしくは組織の研究とループ現象との関連性を思いつけるだけの情報が出揃うのが十三歳以降なのか。
 この二つのどちらかだろうし、どちらにしろ瑣末な問題だ。

 この点の追求は控えることにして、秋は話を進めるために先ほど思いついた仮説を続けざまに口にした。

「もしかして私がループ者だと『前のシェリー』が断定したのは、組織の研究の中核に据えられるその粒子を、私が体内に有していると知っていたからだったり?」

 シェリーは微笑みで応える。白衣を着ているときによく見せる、学者然とした冷たい笑みだ。
 笑みを湛えたまま、彼女は歌うような調子で流暢に話し始めた。

「ご明察。その粒子は、千九百六十七年にジェラルド・ファインバーグ博士の論文によって存在を提唱されたものの科学的証拠がないと否定され、しかしその神秘性から人々を魅了してフィクションの中で生きながらえてきた、とある仮想粒子に準えて、私たち科学者の間でこう呼ばれているわ」

 一旦言葉が区切られた。笑みが一層深まり、自信に満ちた口元が弧を描く。前髪の下から覗く双眸が妖しい光を宿す。
 シェリーは一呼吸おくと、囁くようにその名を告げた。

「──タキオンってね」

 小音とは思えないほど凛とした響きを持つ声が空気を振るわせる。
 対して秋は、恐らく、確実に、シェリーの予想外の反応をした。

「? うん」

 シェリーのもったいぶりようからして驚愕にのけぞるべき場面だと理解しながらも、秋は首を傾げることしか出来なかった。初めて聞く名前だ。タキオンと言われたところで「へぇ」としか言いようがない。

 こちらの鈍い反応を受けて、シェリーの表情は三段回の変化を遂げた。
 初めに目を瞬き、状況を理解すると肩透かしを食らったような顔をし、最後にジトッとした目つきで睨みつけられた。

 彼女はジト目のまま「ったく」と溢してから、不承不承だと言わんばかりの態度で解説を付け加える。

「今となっては予知能力やサイコキネシスと同列に語られる仮想粒子・タキオンは時間を遡行する性質を持つ。だからこそ粒子Xはタキオンと呼ばれているのよ」
「!」

 真っ先に思ったのはおおよそ予測通りだ、だった。
 次に浮かんできたのは、今のシェリーって渾身のギャグを理解してもらえず自分で解説する羽目になった人に近い状況だよな、だった。
 秋は申し訳なく思ってビーフシチューの付け合わせのパンを恵んでやった。

「ちょっと、嫌いな食べ物押し付けないでくれる?」
「別にパンのことは好きでも嫌いでもないけど……」
「じゃあ何」
「せっかくキメ顔作ったのに自分で解説する羽目になって可哀想だなって」
「……」

 シェリーの目つきがより鋭くなった。


 いまいち締まらないやり取りが終わると、シェリーは無理やりシリアスな顔を作る。強制的に話を戻す気だ。自分も散々同じことをしてきたので、秋も表情を引き締める。こういうのはお互い様だ。というか、雰囲気をぶち壊しているのは毎回自分な気がしないでもない。

 気を取り直すように咳払いを一つして、シェリーが言う。

「タキオンは私たちの研究と密接に関わっているうえ、非常に貴重なものよ。自然界には存在せず、入手経路はたった一つなんだもの」

 彼女がこれまで語った内容を総括すると、タキオンとは時間を遡行する性質を持っており、秋の体内に存在する粒子だという話だった。
 となれば、彼女が言う入手経路とは自分だ。

「私の体内……」

「ええ、タキオンはあなたの体のそこかしこから検出されるわ。細胞はもちろん、体液関係──つまり血液、涙や汗、唾液などにも含まれていた」

「じゃあ定期的に唾液提供させられてるのって、」

「中に含まれているタキオンが目的よ。最も手軽にタキオンを採取する方法として、唾液提供の形をとっているわ。……時間が巻き戻ってすべての物質が前と同じ状態に戻るだなんておかしな現象が起きたとして、『戻った』時期よりも後に建てられたビルはなくなっているはずよね」

「うん」

「ビルだけじゃない。その時点で生まれていない人は居なくなっていて、逆に『戻った地点』以降に死んだ人は生き返ってる。シナプスにおける伝達効率の変化は起こらなかったことになっているから人々の記憶は消えて、誰も時間が巻き戻ったことに気がつかない。それでも時間を遡行する性質を持つタキオンだけはその場に留まり続けるから、時間が巻き戻る前の状態を維持するのよ。そして、あなたの体内にはタキオンが含まれている。特に脳に多くタキオンが見られ、シナプスとも密接な関係にある。この意味がわかる?」

「時間が巻き戻っても元に戻らないタキオンが記憶と結びついているから、私は記憶を継承できる」

 秋は静かに答えたが、真に理解したとは到底言えない状態だった。
 タキオンと記憶が結びついている事実と、記憶の継承とがイコールで繋がれる時点で意味不明だ。人に説明する事態になったら言葉に詰まるのが目に見えている。

 巻き戻る世界の中で変わらないのはタキオンだけであり、タキオンと結びついているループ者のシナプス──記憶も『巻き戻り』の影響を受けず、そこにあり続ける。
 穴だらけの認識だろうが、一先ずこれでいいだろう。


「所々理解しきれない部分があったとしても、タキオンが記憶を引き継げる原因であることを把握できていれば問題ないわ。時間の巻き戻りを認識できる人間をあなたに倣ってループ者と呼ぶけど、ループ者とはタキオン保持者だとも言えるわね」

 シェリーの説明を聞いていると、判明した一つの事実に触発されて、疑問が次から次へと湧き出てくる。
 そのタキオンをなぜ組織は研究しているのか。あの方が研究を行う目的は何なのか。
 知りたいことは無数にあった。

 しかし時間は有限だ。店に滞在できるのは長く見積もって一時間半。「買い物帰りに夕食を摂って帰宅」の名目を取るのだから、それ以上シェリーの帰宅が遅れては話の辻褄が合わなくなる。

 限られた時間の中で尋ねるべきことを吟味するべく、秋は思考を巡らせ始めた。

(組織の研究についてさらに突っ込んだことを聞いたとして、前提知識が全くないこの状況で研究内容を聞いても理解できるとは限らない)

 かつて、興が乗ったシェリーに専門的な話を滔々とされた事がある。彼女は夢中で語った後「電気信号を解析して記憶をデータ化するだなんて面白い研究もあるのよ」と締めくくっていたが、秋に分かったのは面白いどころか頭痛を誘発する作用しかないことだけだった。組織の研究について詳しく尋ねたら、あれの二の舞になるだろう。

(それに、シェリーだって『前の自分』からの暗号を聞いてやっと、ループ現象の存在を知ったくらいだ。これまで自分がさせられてきた研究と、ループ現象とを組み合わせて考えて、組織の研究が目指すものを予想する行程が必要になる。今聞いたところで考えがまとまっていないだろうな。時間を浪費して終わる)

 今日を逃したら次に話せるのは検査協力の日。二週間後だ。
 今聞いても明確な答えが返ってきて、緊急性の高い質問から済ませるべきなのは明白だった。

「組織が行っているタキオンの研究の詳細や、さらに詳しいタキオンの説明の要求は控えておくよ。その前に一つ二つ確認しないといけないことがあるからね。まずは一つ目。時間を遡行する性質を持つ粒子・タキオンの存在はどれだけ知られている? 研究内容の情報規制が徹底されすぎているし、タキオンの存在は組織内部ですら秘匿されていると考えていい?」

 秋の質問を受けて、シェリーは納得した様子で「ああ、そういうことね」とこぼした。

 専門的な知識に明るくない秋でも、タキオンがこれまでの常識をひっくり返す代物であることは分かる。フィクションの中にしか存在しないと思われていた『時間を遡行する物質』が存在し、条件さえ揃えば時間の遡行を可能にする人間がいると露呈したら、『タキオン』を多くの者が求めるだろう。
 タキオンが存在するのはループ者の体内だけで、検出も簡単であると広く知られればどれだけ大変な事態になるか。タキオンの希少性は身の危険に直結する。

「その点は安心していいわ。研究内容の秘匿性ゆえに、タキオンの存在を知っているのは私を含めたごく一部の研究者とあの方だけで、間違っても組織の外には漏れていないから。もしもタキオンの存在が表沙汰になれば、学会は上を下をの大騒ぎでしょうし」

「そりゃあ良かった。第二、第三の悪の組織につけ狙われるのは避けたいからね。ただ、この組織でしか研究が成されていない割には判明している事柄が多そうなのが気になるけど」

 シェリーが話した内容は、元々頭に入っていた研究概要やデータを元にして、ループ現象の存在を前提に構築したものだ。
 彼女の類稀なる頭脳はもちろんだが、下地となる研究データも膨大なのだろう。

 研究データが多い理由には想像がついている。もしも想像が正しければ、この話題は次の確認事項への布石になる。

「……タキオンについて判明している事柄が多いのは事実よ。文字通り判明していたの。初めから」

「と言うと?」

「私が研究に加わった時点で、不自然なほどに膨大な研究データが揃っていたのよ。今から思えば妙だったわ。タキオンの研究が本格的に始まったのはせいぜい十数年前なのに、それにしては判明している事実が多過ぎた。まるで現代の設備・環境で三百年以上研究がなされていたかのようにね」

 実際に流れた時間と釣り合わない結果。
 ループ現象を合わせて考えれば、答えはすぐさま思い浮かぶ。

「この十五年間のループの間に何度も繰り返されてきた『周』を使って研究が進められている」

 秋は断言口調で言った。
 シェリーも肯定の意を示す。

「でしょうね。組織の中心に近い何者かが、前の周で判明した事実を研究員たちに流して『一周前』で解明された以上の成果を出すよう誘導している。それが繰り返されれば研究はどんどんと進む。おまけに研究員たちはデータ量を多少不思議に思ったとしても詮索しない。詮索の先に待っているのは死なんだから、誰もが納得したふりをして思考を止めるはずよ」

 予想通りだった。
 あの方は、『以前の周』のデータを一部の優秀な研究者たちが閲覧出来る状況を作ることで、『周』を重ねるごとにより進んだ研究が成される仕組みを構築している。
 シェリーもその「優秀な研究者」の中に含まれており、『以前の周』のデータを閲覧できる立場にいる。

「分かりやすく具体例を挙げるなら、四周目前後の私の目には、タキオンに関する研究が『半世紀前から進められていた極秘プロジェクト』に映るわけね。組織に溜め込まれた研究成果が五十年分だから、ループ現象の存在を知らなければ、五十年前から研究が始まっていると誤解する」

「ああ、そうなるね、うん」

 秋は気もそぞろな返事をした。
 シェリーを通じて以前の周の研究データを確認できるのなら、萩原が誘拐された周に何が起きたのかを知ることができる。

 これまでは悉くあの方に先回りされてきたが、今になってやっと運が味方してきたように感じる。無意識のうちに唇がゆるい弧を描く。

「ともかく、実験Aの結果はこうだったとか、事実Bが既に判明しているなんていう記録が残っているのなら、そこから『昔』の出来事を辿れるわけだね」

「知りたいことが?」

 秋はいよいよ本題に入ろうとしていた。
 コーヒーカップを回す。冷めたコーヒーの水面が揺れる。
 特に意味のない行動だった。気がすむとカップをテーブルに戻して足を組み替える。

「一つ前の周で組織に誘拐された、後天的にループ能力を手に入れた人物がいてね。シェリーの話によると、後天的にタキオン保持者になったってことなのかな。名前は萩原研二。私とは友人関係にあった。
 研究員にループ現象の存在を秘匿している以上、何周目の記録かまでは載っていないはずだし、資料に名前までは記載されていないかもしれないけど、後天的にループ能力を得た人物に関係がありそうな資料を当たれば何か出てくるはずだ。彼が誘拐された目的、彼の身に何が起こったのかを知りたい。まあ、誘拐の目的は十中八九研究のためだろうけど」

「……その人は一般人なのよね」

「そう。しかもあの方に邪魔されなければ警察官になっていた善人だよ」

 ここぞとばかりに付け加えたら、狙い通りシェリーの瞳が揺れた。姉の影響なのか、彼女はこういった話に弱い。
 これで「アドニスの裏切り防止のために、最も価値が高そうな萩原研二の情報を教えるのは最後にしよう」と考えはしないだろう。


「彼の身に何が起こったのかと言ったわね。組織に誘拐された後何をされたのか知りたいという意味? ……それともその人に異変が起こったの?」

 言いにくそうに目をうろうろさせてから、シェリーは最後の言葉を付け加える。
 勘がいいことだ。秋は明るい響きを心がけて、「大正解」と笑った。

「──この周の萩原は、ループ中の一切の記憶を失っていた」
「……!」

 時間が巻き戻った直後、あの方をどう往なすかを思いつくよりも先に会いに行って、萩原を一目見た瞬間、すぐさま異変に気がついた。彼があまりにも普通に過ごしていたためだ。
 組織に誘拐された十五年間を過ごして、一時的にでも過去に逃げてきた人の態度ではなかった。あそこにいたのは普通の十五歳の少年だった。

 悲痛に顔を歪めるシェリーを見て、本心からの言葉を付け加える。

「別に悪いことじゃないんだよ。むしろ喜ぶべき変化でもある。組織に誘拐された『前回』の記憶もなくしているなら、『知られている』という理由であの方に狙われることはないんだから」

「……それを確認してアドニスはどうしたの?」

「その後、あの方が萩原に手出ししないかをしばらく見張っていた。萩原がどうして記憶を失っているのか、なぜあの方は萩原を放置したのか。シェリーから指定された情報提供の日まで十年待たないといけないあの状況では、全てが深い霧の中に包まれていたからね」

 今から思えば馬鹿らしい妄想だが、萩原が放置されているのも、彼が記憶を失っているのも、より凶悪なあの方の計画の前振りかもしれないと当時は考えていた。
 だからこそ、最終的に「警戒の意味なし」の結論が出るまで注意深く見張りをしていたわけだ。

「結局、あの方は何か企んでいるどころか、萩原に監視すらつけない杜撰ぶりだったよ。どうやら何かしらの理由で萩原はループ者ではなくなり、彼がループ者でなくなったからこそ興味をなくしたらしいと判断して撤退した。萩原の周りをうろちょろしすぎると、あの方が偽装した萩原消失の真相を見抜いていると向こうに知られるリスクが高まるし」

 それらしく語ってみたが、ここら辺の事情は憶測を多分に含んでいる。事実が確定するのは、『萩原誘拐が起きた周の研究データ』から読み解ける事情をシェリーに教えてもらった後になるだろう。

 その後、秋は以降の顛末を掻い摘んで説明した。
 状況証拠によりほとんど警戒を解いているとはいえ、シェリーと接触して真実が確定するまでは、依頼人を特定できない形で人を使って彼の無事を確認している。今では元気に警察官をやっているはずだ。等々。


 話し終えると、シェリーが悲痛な面持ちをしていることに気づいた。彼女に恐々と尋ねられる。

「接触は?」
「一度も。せっかくあの方が興味を失っているのに、わざわざ狙われる原因を新しく作る意味がない」

 シェリーはしばらく答えなかった。
 店内の小さなBGMがはっきりと聞き取れるだけの沈黙が訪れる。数秒だったのだろうが、秋には数分に感じられた。


 結局長い沈黙の後に返ってきたのは、「そう」という相槌のみだった。
 彼女は一度何かかける言葉を探す素振りを見せたが、結局言葉が見つからなかったらしく、事実を淡々と告げるだけに留める。

「『前回』、彼が非合法な実験を受けていたときの記録は残っている可能性が高いわ。何も知らない人間がそうだと理解できる形では保管されていないけれど、ループ現象を知っている私が見れば彼のデータかどうか見分けられるはずよ。そのデータが見つかれば彼の身に何が起きたのかも判明するし、次の定期検査までには答えを用意しておく」

「お願い。……もうそろそろ潮時だね」

 個室の壁にかかった時計を尻目に、言葉を付け加える。時刻は十九時を回っていた。
 二人がこうして話せているのは、シェリーの服を新調するための買い物の名目で外出したからだった。当初の想定よりも話が長引いたので、「シェリーが拘って店を梯子したところ夜になってしまったのでついでに夕食も済ませてきた」という設定を用いる予定でいる。
 これ以上店に滞在しては、この設定が通用する帰宅時間に間に合わない。
 他の情報は、検査協力の時間を使っておいおい聞き出していく形になるだろう。

 秋はレシートを手にして立ち上がった。

「出ようか。責任を持って自宅まで送るよ」



 * * *



 車の窓から見える外は真っ暗で、街並みは闇に塗りつぶされている。見えるのは灯りの残像のみ。電灯の光や住宅から漏れ出た光が、形を結ぶことなく流れていく。

 二人が乗っているのは国産車だ。組織の人間にしては珍しく、秋は国産車を利用している。それも大量生産されているなんの変哲もない自家用車。犯罪者たるもの、こだわりがないのなら市街に紛れ込みやすい大量生産品を使うに限る。
 普段はあえて目立つ車に乗ることで、一般的な車種に乗り換えた時に意表を突きやすくする方法もあるが、それはそれで面倒だ。

 助手席のシェリーが口を開いたのは、彼女の自宅へ向かい始めて二、三分が過ぎた頃だった。

「そういえば話し合いだけど、検査協力ではなく私の自室で行ったら駄目なの? 組織が用意した場所とはいえ、ごく普通のマンションよ。アドニスは場所を知っているし、ベルモット級の変装技術を持っているのなら監視カメラを誤魔化す方法はいくらでもあるわ。宅配業者に変装するとか、色々」
「流石に頻度が多すぎる」

 秋は車を走らせながら否定した。

「話し合う内容が入り組んでいて壮大な以上、初期は一ヶ月に数回ペースで話す機会を設けたい。そのペースで不審な宅配業者がシェリーのマンションを訪れているのは怪しすぎるでしょ。なんらかの疑念を持ったあの方がシェリーの周辺を調べたらすぐに目をつけられる。おまけに、ループ者であるあの方は私がベルモットに変装を教えてもらった周のことも覚えているんだから、不審な宅配業者と私とがすぐに結びついてしまう。シェリーの家に行く案は、検査協力を隠れ蓑にする方法が使えなかった時に改めて検討するよ」

「使えなかった時って?」

「例えばシェリーの個室が監視されていた場合とか」

「はあ!?」

 被検者に抜擢された直後の説明時に、『これまでの周』と同じように興味がなさそうな演技をしたのは、これも理由の一つだった。
 協力体制を築く前のシェリーから秋が研究内容に興味を示していたと報告が上がる恐れと合わせて、部屋が直接監視されている恐れまであったのだから、興味がなさそうな演技もする。

「とは言っても、完全に否定する証拠がないってだけで可能性は低いけどね。監視されていた場合のリスクが高すぎるから話し合いをする前にチェックするけど、ほぼほぼ監視されていないと考えて問題ないよ。やるならもっと前の周で散々調べ尽くしているはずだから」

 タイミングよく赤信号に捕まったので、秋はズボンのポケットから煙草の箱を取り出して、掲げて見せた。

「そして、監視されているかどうかを調べるためにこれを使う」
「煙草を?」

 口で答える前にシェリーへ箱を渡す。
 箱を片手で受け取った彼女は、ずっしりとした重みに目を大きくした。

「やけに重いわね」

「煙草の代わりに探知器が入ってるからね。……シェリーの個室が監視されているとしたら、盗聴されているかカメラが仕掛けられているか、あるいはその両方か。だからこの、盗聴器や隠しカメラが発する電波を察知して隠し場所を特定する探知機が入った箱を部屋に置いておけばいい。この探知機には室内の電波送信の履歴をオンライン上で確認できる機能がついてるから、次の検査協力までに不審な電波の有無をチェックできる」

「なるほど。今日の外出の際にアドニスの私物が私の鞄に紛れ込んでしまったから、返すのを忘れないよう研究室に置いておけばいいわけね」

「そういうこと。もしもシェリーの個室が監視されているのなら、使われているのはリアルタイムでデータを閲覧できる無線式の盗聴器やカメラの確率が極めて高い。そして無線型の盗聴器や隠しカメラは、電波を飛ばしてデータを転送する仕組みになっている。電波を感知する探知機で探し出せるんだよ」

「使われているのが無線式じゃなかったら?」

「据え置きタイプだね。データを送信しないから探知機で発見されない代わりに、録音・録画したデータを回収する必要があるやつ。あの方が探知機を警戒する理由がないし、リアルタイムの確認が不可能なのは使い勝手が悪いし、何より途方もなく面倒くさい。研究室のセキュリティを書き換えてまで部屋に侵入して、盗聴器やカメラを定期的に回収しないといけないんだから。
 もちろん完全に否定する証拠がない以上可能性はゼロではないし、念には念を入れて確認するけどね。探知機で探せないからこっちは手動で」

「私たちの様子をリアルタイムで確認できる盗聴器や隠しカメラがあった場合、電波で判別が可能だから事前に把握できる。電波を発さないため手動で探さなくてはならない据え置きタイプが使われていた場合は、盗聴器やカメラを探している様子が記録されるけど、あの方が確認する前にデータを壊すことが可能、と。ただし盗聴器やカメラが軒並み壊されていたら絶対怪しまれるわね」

「確かに。場合によっては音声や映像をそのまま残せるように一芝居打つ?」

「そうしましょう。当日までに口実を考えておくから、話を振ったら適当に合わせて」

「オーケー」


 話題に決着がついた。沈黙が訪れる。静寂のあまり、ザァと空気の音がする。
 シェリーは緩慢な動きで窓縁に肘をかけて頬杖をついた。暗闇ばかりが続く窓の外を熱心に眺めているふりをしているのが視界の端で確認できる。彼女は目線を闇に固定したまま小さく呟いた。

「……ねえ、本当に未来を変えられると思う?」

 蚊の鳴くような声だった。
 表情は確認できない。
 顔を背けたまま彼女は続ける。

「将来起こる出来事は決定していて、自分たちに介在する余地がないんじゃないかなんて心配はしていないわ。私たちがこうして手を組んだ事実が、未来を改変できる確固たる証拠だもの。私が心配しているのは、本当にあの方を欺けるのか」

 秋は咄嗟に左上を一瞥した。
 人が左上──相手から見ると右上──を見る時は嘘をついているだなんて俗説があるが、これは人が想像力を働かせるときに自然と左上を見てしまう事に由来しているらしい。何かを問われて想像力を働かせるイコール嘘を考えているという理論だ。
 しかし秋が咄嗟に左上を一瞥したのは、想像力を働かせるためではあったが、想像力を働かせて嘘を考えるためではなかった。
 シェリーの心理を想像し、どのような言葉をかけるべきかを考えたにすぎない。

 シェリーには組織──ひいてはあの方への恐怖心が刻み込まれている。計画の緻密さを説いたところで無意味だろう。そもそも現段階では不明瞭な点が多すぎるのだから、計画の緻密さもクソもない。

 結局考えるのが面倒になって、第一声はいつもの自画自賛にしておいた。
 秋はわざと明るい調子で言う。

「大丈夫だよ。存在そのものが規格外である私がついてるんだから。ほら、美貌とか」
「言動が規格外の間違いじゃなくて?」
「天才性が漏れちゃってたかな……」
「どうやら理解能力も規格外のようね。悪い意味で」

 ポンポンと言葉が交わされる。いつもの空気感に戻ってきた。
『この周』で検査協力のために定期的に顔を合わせる様になってからしばらく経つが、検査協力中の雑談ではこのようなやり取りが常だ。秋がボケるとシェリーが突っ込む。結構辛辣な物言いをされるせいで、「シェリーって私のことちょっと舐めてるんじゃないかな」と感じる事がままある。
 どの周だろうと、彼女との関係性はこんな感じだった。ベルツリー急行でシェリーがあの行動に出たのも、「アドニスなら騙せそうだ」と思われたせいな気がしなくもない。

 今回の応酬はシェリーの辛辣なツッコミで終わった。
 雰囲気を普段通りに戻すのが目的だったのだから反論は不要だ。
 反論をして、伝説の宝刀「でも一回り以上年下の私に嵌められたじゃない」を抜かれるのを恐れたのもある。


 車を走らせながら、秋は話を掘り返した。

「本当にあの方を欺いて未来を変えられるのかだったね。仮に、あの方にこちらの計画が露呈して失敗するリスクが一定以上あるとして、宮野明美を助けるのを諦める? 何もせずにじっと蹲ってる?」

「……いいえ」

「じゃああれこれ考えても仕方がない。思いつく限りの対策を念入りに取ったら、失敗してからの事なんか考えなくていい。考えるのは本当にあの方にバレてからにしよう」

 為さねばならないのだから失敗した場合など考えても仕方がない。失敗のリスクを極力取り除くのと、それでも僅かに残ったリスクを承知で一歩踏み出すのは別の話だ。

「………………そうね」

 シェリーは長い沈黙の後に同意を示した。
 それ以降、彼女が不安を口にすることはなかった。
 沈黙の中、低いエンジン音だけが響いていた。





割とどうでもいい裏話


原作のエピソードは全て一つの繋がりではなく、全ての周の出来事がごちゃ混ぜになっている設定を本作では採用しています。事件Aは七周目の出来事、事件Bは二周目の出来事、といった感じです。
そのためコナンの事件遭遇頻度は原作を読んで受ける印象よりも少なかったりします。(でも目暮警部に死神呼びされるくらいには事件に遭遇している)

今回の話にもチラッと出てきましたが、タキオンの研究が「半世紀前から進められていた極秘プロジェクト」に映るのは四周目あたりなので、灰原が「半世紀前から進められていた極秘プロジェクト」発言をしている原作回は四周目に起きた出来事です。

この設定は、原作の科学技術の発展の矛盾と一緒に本編で扱う予定でした。
新一が幼児化した年にポケベルが主流な描写があると思いきや、過去編では普通にスマホが登場していたりする矛盾を、「研究を進めたいあの方が世の中の科学技術の発展速度にも手を加えているから、周によって科学技術の発展速度はバラバラである。ポケベル原作回は一周目、数年前にスマホが登場している原作回は五周目の出来事」の様に説明するつもりでした。
しかし原作で、『十五年間のループ』の範囲外である十七年前にスマホが登場したので全てが破綻しました。

周によって科学技術の発展速度が違う設定を採用するかは未確定ですが、どちらにしろ本編で関わってくることはありません。
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