そしかいする度に時間が巻き戻るようになった
九回目の巻き戻りを迎えて十五年前の児童養護施設に戻ったあの日、記憶の濁流に呑まれながらも、心はある一点に留まっていた。とうとう現実に追いつかれたという痛切。脳が勝手に動き、記憶を取得し、整理する中で、冷え冷えとした実感だけが凝然としてそこにある。
受け入れ難い自分の姿や真実。様々なものから秋は逃げて、逃げた先に待っていたのは萩原消失の真相だった。
萩原は消えてなどいなかった。あの方が企てた誘拐によって姿を消しただけだった。
真実を知りたくないから真実に繋がりそうなパーツを避けて、自分を誤魔化すための暗示を信じ込んできたせいで、すぐそばで行われていたあの方の暗躍に気付こうともしなかった。
「第一に情報収集だ」
薄暗い自室に佇む一際濃い闇を見つめながら、秋は自分に言い聞かせた。
情報を得て対策を取らなければ、今度も萩原誘拐を企てるであろうあの方は止められない。
「まずはシェリーに会う」
シェリーはベルツリー急行でキッドを通じてループ現象の存在を知っていると明かした。時間がないから詳しいことは『次』の自分に聞くようにと言い、『次』の自分がループ現象を確信できるよう、秋が本来知らないはずの情報を自分に伝えるようにと言ってきた。いわば合言葉だ。
組織壊滅以降、降谷に頼んでシェリーと面会しようとしても拒否されたのが少し気になるが、何か事情があるのだろう。
「シェリーと会うために今回も組織に入る」
組織に入る選択は変えられない。組織に入らない限りシェリーと接触できないし、大きな行動の変化を起こせばあの方に疑念を抱かせてしまう。
あの方は秋が自分の暗躍に気がついていることを知らない。今でも都合の良い暗示を信じ込んでいると誤解しているだろう。
彼の想定に松田がいないからだ。
秋があの方の暗躍を知ったのは、十五年間消えた親友を探し続けた松田が『アドニス』との面会に漕ぎつけ、黒の組織による萩原誘拐を口にしたからだ。彼がいなければ秋は今でも萩原消失説を盲目的に信じていただろう。仮に萩原消失が間違いだと気付いたとしても、萩原消失の裏にあの方がいることや、あの方がループ者であることには一生たどり着けないはずだった。
松田のファインプレーを知らないあの方は、秋が気づいていると予想だにしない。
あの方は油断している。
せっかく油断してくれているのだから、秋はこれまでと同じく組織に入るべきだ。下手に行動を変えて疑念を持たせたくない。
「私は組織に入る」
決意を固めるため、もう一度繰り返す。
鳩尾がズドンと重くなった。
情報を満足に得られていない今の段階では正確なことが分からないが、あの方がどれだけ罪深い存在かは嫌と言うほど理解している。
彼は萩原の将来を理不尽に奪い取り、スコッチを殺し続けた。何より、あらゆる犯罪に手を染めている犯罪組織のトップだ。彼のせいで不幸になった人間は山ほどいる。
(あの方の罪深さを語るなら、私にも全く同じことが言える)
秋は組織の幹部として理不尽に他人の未来を奪い、大勢の人を不幸にしてきた。
組織に入って犯罪に手を染めるようになったのには悲劇的なきっかけがあったはずだと信じて、その過去によって許されたがっていた秋が、ずっと目を逸らし続けてきた事実だった。
十五年前の児童養護施設に『戻って』きた時から、身に染みて自覚している。
(そして私は、これからも同じことをする)
これまでも、これからも、秋は人を不幸にし続ける。
彼女の目的は萩原誘拐の防止だ。そのためにはこのままあの方が油断した状態を保ち、水面下で動かなくてはならない。
水面下で動くにはこれまで通り組織に入って、自然な形でシェリーに接触。ベルツリー急行で仄めかされた情報を彼女から得て、どうにか対策を考える。
これまで通り組織に入るのは、大勢の人を不幸にするのと同義だ。たくさん殺すし、殺さない場合も誰かが不幸になる。
あの方が見せた冷徹無慈悲な行いと全く同じことをする。
(私に犯罪を回避して立ち回る技量はない。疑われて粛清される危険を減らすために殺す必要がある)
(今まで通り組織に入ってシェリーから情報を得なくてはならない。でないと萩原誘拐の対策を取れないしスコッチの自殺すら防げなくなる)
秋は心の中で自分に言い聞かせた。
神がかり的な頭脳を持っていれば違う道を選べたのだろうが、自分にはこれしか思いつけない。重い感情を一緒に吐き出すようにして息を吐く。
一つだけ救いがあるとすれば、ループによるリセットだ。全てが解決してからもう一周分余計にループすれば、世界がリセットされて全てをやり直せる。罪は消えないにしろ、犯罪行為の結果は消える。
ただし、こうも上手く物事が進むケースは極めて稀だと秋は知っていた。経験則から自分が願う未来は訪れないだろうと半ば確信してもいる。
だからこそ、最後の条件を付け加える。
(もしも、もしもリセットが出来なかったらその時は──)
……とまあ、十周目はシリアスな様子でスタートした。しかし物事は予測通り進まないもので、超絶シリアスな決意とは裏腹に事態は予想外の展開を迎える。
まず、主にあの方の怠慢のおかげで萩原誘拐は起こらなかった。
そして秋はシェリーに嵌められていた。
* * *
シェリーから指定された時期を迎えるまで、秋は情報収集に勤しんでいた。
確かにシェリーからもたらされる情報が本命ではあるが、組織のトップであるあの方と敵対する立場にいる以上、組織の内情を知っているのはプラスに働く。
しかし敵はあの方だ。表立って動けばすぐさま悟られるだろう。出来ることと言えば、雑談に見せかけて組織の目的やあの方の真意を話題に出す程度だった。
(今夜も収穫なしか)
幹部の溜まり場になっているバーから帰る道中、秋は小さく息を吐く。
あたりが静まりかえっているせいで、静寂特有の小さな高音が耳についた。
月明かりすらない真っ暗な夜だった。数歩先の道すら見通せない。
捜査は難航していた。
どの幹部に尋ねても大した答えを持ち合わせていないか、真実に掠ってすらいない想像を語られるだけ。
下手に追求しても不自然だし大した成果も得られないだろうと計算して、僅かな落胆を覚えながら別の話題へ舵を切るのが常だ。もちろん今日も惨敗である。
(そりゃあそうか。ラムですら組織の目的やあの方の真意を知らないようだったし)
かなり前に探りを入れたところ、ラムはアポトーシスがどうのと言っていた。検討外れも良いところだ。あの方がループ者であり、研究者のシェリーがループ現象を確信していたのだから、どちらかと言えば量子力学方面だろうに。
ラムの回想がきっかけとなって、これまで探りを入れた、錚々たる顔ぶれの返答を思い返す。
ベルモットは若返り関連だと思い込んでいるらしいし、ジンの答えは「知らない」の四文字を長ったらしく引き伸ばしたものだった。
(多分あれだな。あの方がポエムしか言わないせいで部下の認識に誤解が生じてるんだろうな。私が懸念していた報連相の齟齬、やっぱり起きてるし……)
代わり映えのしない日々が流れていく中、何も成していない焦燥感が付き纏う。
暗澹とした気分になってくる。このような時は、決まってベルツリー急行で告げられた言葉を反芻するのが常だった。繰り返し唱えすぎて、今となってはつっかえる事なく一語一句違わずに誦じられる。
(残念ながら時間がないの。『次』の私に教えてもらいなさい。話を聞き出すのは十三歳になった私。それ以前のタイミングで尋ねても、あの現象を確信できる材料は揃っていないから不信感を持たれて終わるわ。十三歳の私に、あなたが本来なら知り得ないはずの指摘をして私の仮説を立証させるのよ。……そうね、シェリーはゲノム創薬の専門書を姉に貸している、がいいかしら)
一つ前の周で、シェリーはそう言った。
十三歳になったシェリーに言われた通りの言葉を告げれば、組織の中核に近い研究者から話を聞き出すチケットが手に入る。
電灯の下へ差し掛かったので秋は立ち止まって腕時計を確認する。零時を回っていた。シェリーの十三歳の誕生日だ。
* * *
数日後、シェリーは秋のセーフハウスの一つにいた。
彼女は腕を組み、訝しげに目を細める。
「一体全体どういう風の吹き回しかしら。サイズが合わなくなったから私の服を新調するのにあなたが付き合って、」
「ベルモットはシェリーを嫌っているしジンにやらせるわけにもいかないし、交流がそこそこある同性の私に白羽の矢が立ったんだよ」
「その帰り道に偶然私が気になっていた有名サンドイッチ店の前を通りかかり、テイクアウトのみ対応の看板を見たあなたが、自分のセーフハウスが近いから購入してそこで食べようと言い出すだなんて」
「悪の組織に囚われている未成年への憐れみが半分。コーヒー? 紅茶?」
「紅茶」
答えを聞くと、秋はビニール袋から紅茶のペットボトルを取り出した。シェリーが服を選んでいる間、サンドイッチ店の横を通りかかるよりも前にコンビニで購入しておいたものだ。
シェリーの視線が袋のロゴに注がれる。サンドイッチ店に差し掛かったあとで訪れる機会などなかったコンビニのロゴを確認して、隠すそぶりも見せない秋に辟易とした色を浮かべた。
しかし追及するだけ無駄だと思ったのか彼女は何も言わず、今度は差し出されたペットボトルへと視線を移す。
「せめてコップに移すとかできないの?」
「紙コップなら」
秋の答えに呆れたような半目を向けてから、シェリーは部屋をぐるりと見渡した。
「確かに物が少ないわね。本当にここに住んでるの?」
「セーフハウスだからね。利用頻度の低い拠点の一つってだけだよ。ここは来客用。重要度が低いから人に知られても一番問題ない場所とも言える」
「なるほど、だから幹部の住居にしては狭いのね」
「メインで使ってるセーフハウスもこんなもんだよ」
スコッチ軟禁のために購入したセーフハウスが特別だっただけで、秋の普段の生活はこの程度だ。趣味といった趣味もないし、適当に食べて寝るだけで一日が終わる。いつかのスコッチに言わせれば自分を大切に扱っていないらしいが、その理由が見出せないのだから仕方ないだろう。むしろコストパフォーマンスに優れた人間だと言って欲しい。
「おまけとして、シェリーを招いた理由のもう半分を教えてあげよう。ここなら盗聴対策もバッチリだからだよ」
「……誰かに聞かれたくない話がある?」
「大正解」
言いながら、秋はビニール袋から紙皿を取り出して一枚シェリーに渡した。
彼女は購入品のサンドイッチを取り出し、紙皿の上で口元へと運ぶ。
サンドイッチをかじる前に、秋の真剣な表情に気づいたシェリーが手を止めた。不思議そうに目を瞬かれる。
彼女の瞳をしっかりと見つめて、秋は言った。
「『前』のシェリーから、十三歳以降のシェリーへ伝言がある。シェリーはゲノム創薬の専門書を姉に貸している、だってさ」
シェリーの反応は予想外のものだった。
瞳を右上に彷徨わせ、記憶を辿る。ここまではいい。一つ前の周のシェリーに聞かされていた話では、本の貸し借りは彼女自身と明美しか知らないことであり、秋が知っているのなら『前』のシェリーが教えたとしか考えられず、よってループ現象が存在する証明になる。つまりシェリーは、ゲノム創薬の専門書を姉に貸したのを思い出し、それを知っている人物は自分と姉だけであることに思い至り、秋が知っているのを訝しみ、『前』の自分に教えられたから知っているのだと結論を下すはずだった。
しかし彼女は心当たりがなさそうに眉を顰めた。妙な反応だ。
じっと机の一点を見つめて考えこむ。違和感が膨れ上がる。
やがて彼女が小さく息を呑む音が、静まり返った室内に響いた。べちゃりと音を立ててサンドイッチが皿に落ちる。彼女の手は小刻みに震えていた。何かがおかしい。
目が極限まで見開かれている。瞳が思案するように揺らぐ。
秋は少し迷って、言った。
「同じ時間が繰り返される現象に心当たりがあるはずだ。なんなら私よりも多くのことを知っているかもしれない。洗いざらい吐いてもらおうか。……って続けるつもりだったんだけど、」
シェリーの顔は酷かった。頬の赤みは跡形もなく消えて、唇は固く結ばれ、目には恐怖しか映っていない。秋は理由を尋ねる言葉を続けようとしたが、血の気の引いた口からか細い声が出るのが先だった。
「お姉ちゃんの身に何かが起こるのね」
「うん?」
シェリーは思わず聞き返した秋を嘲笑うように唇の端を無理やり釣り上げたが、顔色の悪さは相変わらずだった。
「組織の意向で私がアメリカに留学することになった時から、姉と離れて暮らすことになって、おまけにコミュニケーションを取れる僅かな機会は全て監視付きだってことは知っているでしょう? だから事前にお姉ちゃんが暗号を考えてくれたのよ。暗号は簡潔かつ私達以外には解読不能なもの。ミステリーによくある意味合いを持たせた符牒ではなく、符牒と込めた意味に関連性のないものが望ましい。大量の暗号を分析されない限り第三者が意味を推察できないのなら、露呈するリスクはグッと下がるもの。
アドニスには特別に教えてあげるけど、私たちが使っているのは本の貸し借りになぞらえた暗号よ。本のジャンルが状況を表していて、本を貸してもらった人物がメッセージの主語となる。ジャンルごとの意味は色々あるけど医学書の場合は『命の危険』。『シェリーはゲノム創薬の専門書を姉に貸している』の場合、主語は解読に関係ないカモフラージュ用。重要なのは本のジャンルと本を貸してもらった側の人物──お姉ちゃんね。つまり直訳すると『お姉ちゃんの命が危険』」
今度は秋が驚く番だった。
次の周の自分に協力を仰ぐための合言葉だと伝えられ、律儀に信じてきたものは、姉の危険を知らせるメッセージだったらしい。
波紋のように広がり始める動揺を沈めるためにコーヒーを流し込み、話の続きに耳を傾ける。
「さっきも言ったように暗号を知っているのは私とお姉ちゃんだけよ。アドニスに暗号を教えた心当たりが私にはないし、姉が教えるとも思えない。となると、あなたが言った言葉と繋げて、『前』の私に伝えられたと考えるのが一番自然だし理にかなっているわ。よって、時間が巻き戻る摩訶不思議な出来事は実際に起こっていて、アドニスは『巻き戻り』が起こっても記憶を継承できる人間である。これが証明された」
「そうだね」
極力冷静な声色を心がけてではあるが、一言しか返す余裕しかなかった。
秋が固唾を飲んで次の言葉を待っていると、シェリーが細く長く息を吐く音が聞こえた。息を吐きながら目を閉じて、考えに集中している。必死に落ち着こうとしているように見える。
よくよく考えれば、メッセージを仕込んだのは一つ前の周のシェリーであって目の前のシェリーではない。彼女は今受け取った情報と状況から、『前』の自分の行動と真意を推察し、姉の危険を知ってどう動くか考えなくてはならないのだ。
秋は動揺の波が静かに引いていくのを感じた。むしろ動揺が大きいのはシェリーの方だろう。真面目な話をするときは大人ぶって「姉」と呼ぶのが常なのに、今はちょくちょくお姉ちゃん呼びが出ている。
秋はシェリーが落ち着くまで気長に待つことに決めて、ゆったりと構えた。
シェリーの瞑想は一、二分で終わった。ゆっくりと目が開かれる。存外しっかりした彼女の声が休息の終わりを告げる。
「状況もおおよそ理解できたわ。『前』の私はあなたを利用して、将来姉が危険に晒されると私に警告をしてくれた。内容から考えるに、姉は昏睡状態に陥ったか、あるいは死んでしまった。姉について詳しく聞きたいところだけど、まずは私の有用性を示すために、状況から推察できる『前』の私の行動を説明しておいた方がいいでしょうね」
理路平然と話しているが顔色は相変わらず悪い。
彼女は説明に入る前に一口紅茶を飲んだが、顔色は変わらなかった。
「私はほとんどの詳細を伏せられて、とある物質に関連する研究をさせられているわ。もちろん組織の目的も、その研究が何を目指したものなのかも知らされていない。下手に調べようとしても始末されるだけだから本気で知ろうと思ったこともない。時折暇潰しであの方が目指しているものについて考える程度よ。暇潰しだから真面目な考察なんかじゃなく、もっと自由で馬鹿げた、子供がベッドに入って思い描く空想に近いものだけどね。例えばあの物質が真価を発揮するのは、SF映画のように同じ時間が繰り返される世界だなとか。あの物質を体内に保持しているアドニスなら時間の巻き戻りを認識できるんだろうなとか。もちろんこんなものは根拠なんてまるでない、子供の無邪気な発想よ。私だって馬鹿馬鹿しいと切り捨ててきたわ」
やはりシェリーが携わっている組織の研究とループ現象には関連があるらしいが、彼女はループ現象の存在すら知らされていない。ループ現象の存在を知らされているのならより多くの情報が期待できたのは事実だが、秋は落胆しなかった。
確かに彼女がもっと詳しく知っていれば話はより早く進んだだろう。しかしあの方はループの存在を秘匿するに決まってるし、ループについて知っている研究員を秋に近づけるわけがない。もしもシェリーがループの存在を知っていたら真っ先に罠を疑うべきだ。
あの方の罠である線が消えたのだから良い知らせだとも捉えられる。
「そして、『一つ前の周の私』も全く同じ状況に身を置いていたはずよ。今の私と同じ研究をして、同じような疑問を抱き、同じような馬鹿げた空想をしていた。一つだけ違ったのは、時間の巻き戻りが本当に起こっていると知るきっかけがあったことね。理由は分からないけど、『一つ前の周の私』は時間の巻き戻りを知るというイレギュラーを経験した」
組織の研究でループ現象にたどり着く土台があったシェリーは、『きっかけ』によってループ現象を確信してしまった。
秋が頭の中で話を要約していると、対面に座る少女が不思議そうに漏らす。
「分からないのは、私がループ現象を知った理由ね。あなたがループ現象を仄めかすことを言いでもすれば確信したでしょうけど、あからさまに怪しい研究の関係者にそんな不用心なことするわけないし……」
顎に手を当てて考えるシェリーからそっと視線を逸らして、秋は遠い目をした。
(言ったな……)
一周前に、例え話だと枕詞をつけてではあるが、ループ現象についてシェリーに話してしまった。
思い返せば、あの時のシェリーは研究関連の何かに思い当たったらしき素振りを見せた。あれはループ現象を確信したものだったのだろう。
自分が下手を打ったのを理解した上で、秋はしらばっくれることにした。自分の株が下がるだけの情報は伏せるに限る。「なんでシェリー気づいたんだろう、不思議だなぁ」と言わんばかりの表情を取り繕っていると、すぐにシェリーの話が再開された。
「ともかく、『一つ前の周の私』はループ現象が本当に起きていると確信し、状況からあなたが時間が巻き戻っても記憶を引き継げる稀有な人間であることも察していた。そしてどこかのタイミングで、ループを利用して姉を助けることを思いついたんでしょうね。アドニスを介して『次の周』の──つまりこの私に情報を届けられれば、姉が死ぬ未来を回避させられる。だから私はあなたに気取られずに『次』の自分への伝言を託したのよ。そうね、まずはループ現象を知っていることを仄めかしてアドニスを動揺させ、『次の私』に話を信じさせるために必要だと言って、暗号化した自分へのメッセージを吹き込んだ。姉妹間で使われていた暗号を使って、姉の命が危険だってね」
「なるほど……」
秋は堂々とした態度を心がけて大きく頷いた。ここまでの話が指し示す真実はただ一つ。自分はシェリーに嵌められたのだ。
嵌められた人間とは思えない偉そうな態度を心がけながら、秋は『前のシェリー』の行動を頭の中で整理する。
つまりこうだ。
秋がついうっかり例え話として時間が巻き戻る現象に触れたせいでループ現象を確信。多少話の流れが不自然だったとしてもあのような突拍子もない話を検討するわけがないと考えてループ現象を仄めかしてしまったが、事前情報があったせいでシェリーは真実に至ってしまった。
その数年後に宮野明美が殺害され、シェリーは組織から脱走する。
脱走から数ヶ月後にベルツリー急行で、経緯はよく分からないがキッド達と共謀。キッドの変装を利用して自分が死んだと見せかけるための細工をする。
その時、ループしている秋を触媒とすることで、次の周の自分へ警告を出す作戦を思いついたのだ。上手いこと言いくるめて『次の自分』に伝言を伝えさせれば姉を助けられる。
明美殺害直後に秋を利用することを思いついていたのなら脱走前になんらかのアクションがあったはずなので、思いついたのはベルツリー急行内だろう。
おそらく秋が乗り合わせていると知ったタイミングで思いつき、実行に移した。とんでもなく頭の回転が早い。
ループ現象を知っていることを秋に明かし、『次の自分』から全てを聞くようにと言い含め、『次の自分』を納得させるための証拠だと偽って過去の自分へのメッセージを仕込む。
組織の目を掻い潜って姉と意思疎通をするために編み出された暗号をメッセージに使っているのだから、秋が不審に思うことはない。組織の監視員と同じく取るに足らない言葉だと気に留めないで終わる。
そうして騙された秋は、騙されていることに気づかないまま時間の巻き戻りを迎え、記憶を継承し、指定された通りの状況で『次のシェリー』へ証拠に偽装された警告を伝えてしまう。
『次』の──つまりこの周のシェリーは宮野明美が殺される前に将来起こる出来事を知り、姉の死を防ぐことができる。
上手いのが、秋視点では会話の数秒後にシェリーが爆死することだ。死んだ人間から話は聞けない。秋は次の周が訪れる前に話を聞き出そうなどと考えない。
実際には降谷のおかげでシェリー生存を知ることは出来たし面会希望も受理されたが、シェリー本人に面会を拒絶され続けた。どれだけ降谷を通して働きかけても『次の私』に聞けの一点張りだったのだ。
今から思えば、あれは『次のシェリー』を問い詰めさせるためだ。秋があの伝言を届けなければ、せっかく仕込んだ過去の自分へのメッセージが無駄になってしまう。
「『前の私』が立てた計画の詳細と、計画を成功させたという事実。ループの存在すら知らないこの周の私は、たった一つの暗号から真相を導き、『前の自分』の思惑を察して、交渉の場を整えた。有用性は示したはずよ。確かに組織が行っている研究の確信は知らされていないけど、情報の整理・考察は手伝えるし専門知識に基づく知見も教えられる。ループという未知の情報を紐解く相棒に最適な人材だと思わない?」
外見が全く違うのに、彼女の姿はスコッチを想起させた。顔はいまだに青白く頼りない印象を受けるが、力強い目をしている。戦うことを決めた人間の瞳だ。
「頭脳も知識も全部貸してあげる。だから代わりにお姉ちゃんを助けて。お互いに利用し合う関係の方が、裏切りの心配もないでしょう」
受け入れ難い自分の姿や真実。様々なものから秋は逃げて、逃げた先に待っていたのは萩原消失の真相だった。
萩原は消えてなどいなかった。あの方が企てた誘拐によって姿を消しただけだった。
真実を知りたくないから真実に繋がりそうなパーツを避けて、自分を誤魔化すための暗示を信じ込んできたせいで、すぐそばで行われていたあの方の暗躍に気付こうともしなかった。
「第一に情報収集だ」
薄暗い自室に佇む一際濃い闇を見つめながら、秋は自分に言い聞かせた。
情報を得て対策を取らなければ、今度も萩原誘拐を企てるであろうあの方は止められない。
「まずはシェリーに会う」
シェリーはベルツリー急行でキッドを通じてループ現象の存在を知っていると明かした。時間がないから詳しいことは『次』の自分に聞くようにと言い、『次』の自分がループ現象を確信できるよう、秋が本来知らないはずの情報を自分に伝えるようにと言ってきた。いわば合言葉だ。
組織壊滅以降、降谷に頼んでシェリーと面会しようとしても拒否されたのが少し気になるが、何か事情があるのだろう。
「シェリーと会うために今回も組織に入る」
組織に入る選択は変えられない。組織に入らない限りシェリーと接触できないし、大きな行動の変化を起こせばあの方に疑念を抱かせてしまう。
あの方は秋が自分の暗躍に気がついていることを知らない。今でも都合の良い暗示を信じ込んでいると誤解しているだろう。
彼の想定に松田がいないからだ。
秋があの方の暗躍を知ったのは、十五年間消えた親友を探し続けた松田が『アドニス』との面会に漕ぎつけ、黒の組織による萩原誘拐を口にしたからだ。彼がいなければ秋は今でも萩原消失説を盲目的に信じていただろう。仮に萩原消失が間違いだと気付いたとしても、萩原消失の裏にあの方がいることや、あの方がループ者であることには一生たどり着けないはずだった。
松田のファインプレーを知らないあの方は、秋が気づいていると予想だにしない。
あの方は油断している。
せっかく油断してくれているのだから、秋はこれまでと同じく組織に入るべきだ。下手に行動を変えて疑念を持たせたくない。
「私は組織に入る」
決意を固めるため、もう一度繰り返す。
鳩尾がズドンと重くなった。
情報を満足に得られていない今の段階では正確なことが分からないが、あの方がどれだけ罪深い存在かは嫌と言うほど理解している。
彼は萩原の将来を理不尽に奪い取り、スコッチを殺し続けた。何より、あらゆる犯罪に手を染めている犯罪組織のトップだ。彼のせいで不幸になった人間は山ほどいる。
(あの方の罪深さを語るなら、私にも全く同じことが言える)
秋は組織の幹部として理不尽に他人の未来を奪い、大勢の人を不幸にしてきた。
組織に入って犯罪に手を染めるようになったのには悲劇的なきっかけがあったはずだと信じて、その過去によって許されたがっていた秋が、ずっと目を逸らし続けてきた事実だった。
十五年前の児童養護施設に『戻って』きた時から、身に染みて自覚している。
(そして私は、これからも同じことをする)
これまでも、これからも、秋は人を不幸にし続ける。
彼女の目的は萩原誘拐の防止だ。そのためにはこのままあの方が油断した状態を保ち、水面下で動かなくてはならない。
水面下で動くにはこれまで通り組織に入って、自然な形でシェリーに接触。ベルツリー急行で仄めかされた情報を彼女から得て、どうにか対策を考える。
これまで通り組織に入るのは、大勢の人を不幸にするのと同義だ。たくさん殺すし、殺さない場合も誰かが不幸になる。
あの方が見せた冷徹無慈悲な行いと全く同じことをする。
(私に犯罪を回避して立ち回る技量はない。疑われて粛清される危険を減らすために殺す必要がある)
(今まで通り組織に入ってシェリーから情報を得なくてはならない。でないと萩原誘拐の対策を取れないしスコッチの自殺すら防げなくなる)
秋は心の中で自分に言い聞かせた。
神がかり的な頭脳を持っていれば違う道を選べたのだろうが、自分にはこれしか思いつけない。重い感情を一緒に吐き出すようにして息を吐く。
一つだけ救いがあるとすれば、ループによるリセットだ。全てが解決してからもう一周分余計にループすれば、世界がリセットされて全てをやり直せる。罪は消えないにしろ、犯罪行為の結果は消える。
ただし、こうも上手く物事が進むケースは極めて稀だと秋は知っていた。経験則から自分が願う未来は訪れないだろうと半ば確信してもいる。
だからこそ、最後の条件を付け加える。
(もしも、もしもリセットが出来なかったらその時は──)
……とまあ、十周目はシリアスな様子でスタートした。しかし物事は予測通り進まないもので、超絶シリアスな決意とは裏腹に事態は予想外の展開を迎える。
まず、主にあの方の怠慢のおかげで萩原誘拐は起こらなかった。
そして秋はシェリーに嵌められていた。
* * *
シェリーから指定された時期を迎えるまで、秋は情報収集に勤しんでいた。
確かにシェリーからもたらされる情報が本命ではあるが、組織のトップであるあの方と敵対する立場にいる以上、組織の内情を知っているのはプラスに働く。
しかし敵はあの方だ。表立って動けばすぐさま悟られるだろう。出来ることと言えば、雑談に見せかけて組織の目的やあの方の真意を話題に出す程度だった。
(今夜も収穫なしか)
幹部の溜まり場になっているバーから帰る道中、秋は小さく息を吐く。
あたりが静まりかえっているせいで、静寂特有の小さな高音が耳についた。
月明かりすらない真っ暗な夜だった。数歩先の道すら見通せない。
捜査は難航していた。
どの幹部に尋ねても大した答えを持ち合わせていないか、真実に掠ってすらいない想像を語られるだけ。
下手に追求しても不自然だし大した成果も得られないだろうと計算して、僅かな落胆を覚えながら別の話題へ舵を切るのが常だ。もちろん今日も惨敗である。
(そりゃあそうか。ラムですら組織の目的やあの方の真意を知らないようだったし)
かなり前に探りを入れたところ、ラムはアポトーシスがどうのと言っていた。検討外れも良いところだ。あの方がループ者であり、研究者のシェリーがループ現象を確信していたのだから、どちらかと言えば量子力学方面だろうに。
ラムの回想がきっかけとなって、これまで探りを入れた、錚々たる顔ぶれの返答を思い返す。
ベルモットは若返り関連だと思い込んでいるらしいし、ジンの答えは「知らない」の四文字を長ったらしく引き伸ばしたものだった。
(多分あれだな。あの方がポエムしか言わないせいで部下の認識に誤解が生じてるんだろうな。私が懸念していた報連相の齟齬、やっぱり起きてるし……)
代わり映えのしない日々が流れていく中、何も成していない焦燥感が付き纏う。
暗澹とした気分になってくる。このような時は、決まってベルツリー急行で告げられた言葉を反芻するのが常だった。繰り返し唱えすぎて、今となってはつっかえる事なく一語一句違わずに誦じられる。
(残念ながら時間がないの。『次』の私に教えてもらいなさい。話を聞き出すのは十三歳になった私。それ以前のタイミングで尋ねても、あの現象を確信できる材料は揃っていないから不信感を持たれて終わるわ。十三歳の私に、あなたが本来なら知り得ないはずの指摘をして私の仮説を立証させるのよ。……そうね、シェリーはゲノム創薬の専門書を姉に貸している、がいいかしら)
一つ前の周で、シェリーはそう言った。
十三歳になったシェリーに言われた通りの言葉を告げれば、組織の中核に近い研究者から話を聞き出すチケットが手に入る。
電灯の下へ差し掛かったので秋は立ち止まって腕時計を確認する。零時を回っていた。シェリーの十三歳の誕生日だ。
* * *
数日後、シェリーは秋のセーフハウスの一つにいた。
彼女は腕を組み、訝しげに目を細める。
「一体全体どういう風の吹き回しかしら。サイズが合わなくなったから私の服を新調するのにあなたが付き合って、」
「ベルモットはシェリーを嫌っているしジンにやらせるわけにもいかないし、交流がそこそこある同性の私に白羽の矢が立ったんだよ」
「その帰り道に偶然私が気になっていた有名サンドイッチ店の前を通りかかり、テイクアウトのみ対応の看板を見たあなたが、自分のセーフハウスが近いから購入してそこで食べようと言い出すだなんて」
「悪の組織に囚われている未成年への憐れみが半分。コーヒー? 紅茶?」
「紅茶」
答えを聞くと、秋はビニール袋から紅茶のペットボトルを取り出した。シェリーが服を選んでいる間、サンドイッチ店の横を通りかかるよりも前にコンビニで購入しておいたものだ。
シェリーの視線が袋のロゴに注がれる。サンドイッチ店に差し掛かったあとで訪れる機会などなかったコンビニのロゴを確認して、隠すそぶりも見せない秋に辟易とした色を浮かべた。
しかし追及するだけ無駄だと思ったのか彼女は何も言わず、今度は差し出されたペットボトルへと視線を移す。
「せめてコップに移すとかできないの?」
「紙コップなら」
秋の答えに呆れたような半目を向けてから、シェリーは部屋をぐるりと見渡した。
「確かに物が少ないわね。本当にここに住んでるの?」
「セーフハウスだからね。利用頻度の低い拠点の一つってだけだよ。ここは来客用。重要度が低いから人に知られても一番問題ない場所とも言える」
「なるほど、だから幹部の住居にしては狭いのね」
「メインで使ってるセーフハウスもこんなもんだよ」
スコッチ軟禁のために購入したセーフハウスが特別だっただけで、秋の普段の生活はこの程度だ。趣味といった趣味もないし、適当に食べて寝るだけで一日が終わる。いつかのスコッチに言わせれば自分を大切に扱っていないらしいが、その理由が見出せないのだから仕方ないだろう。むしろコストパフォーマンスに優れた人間だと言って欲しい。
「おまけとして、シェリーを招いた理由のもう半分を教えてあげよう。ここなら盗聴対策もバッチリだからだよ」
「……誰かに聞かれたくない話がある?」
「大正解」
言いながら、秋はビニール袋から紙皿を取り出して一枚シェリーに渡した。
彼女は購入品のサンドイッチを取り出し、紙皿の上で口元へと運ぶ。
サンドイッチをかじる前に、秋の真剣な表情に気づいたシェリーが手を止めた。不思議そうに目を瞬かれる。
彼女の瞳をしっかりと見つめて、秋は言った。
「『前』のシェリーから、十三歳以降のシェリーへ伝言がある。シェリーはゲノム創薬の専門書を姉に貸している、だってさ」
シェリーの反応は予想外のものだった。
瞳を右上に彷徨わせ、記憶を辿る。ここまではいい。一つ前の周のシェリーに聞かされていた話では、本の貸し借りは彼女自身と明美しか知らないことであり、秋が知っているのなら『前』のシェリーが教えたとしか考えられず、よってループ現象が存在する証明になる。つまりシェリーは、ゲノム創薬の専門書を姉に貸したのを思い出し、それを知っている人物は自分と姉だけであることに思い至り、秋が知っているのを訝しみ、『前』の自分に教えられたから知っているのだと結論を下すはずだった。
しかし彼女は心当たりがなさそうに眉を顰めた。妙な反応だ。
じっと机の一点を見つめて考えこむ。違和感が膨れ上がる。
やがて彼女が小さく息を呑む音が、静まり返った室内に響いた。べちゃりと音を立ててサンドイッチが皿に落ちる。彼女の手は小刻みに震えていた。何かがおかしい。
目が極限まで見開かれている。瞳が思案するように揺らぐ。
秋は少し迷って、言った。
「同じ時間が繰り返される現象に心当たりがあるはずだ。なんなら私よりも多くのことを知っているかもしれない。洗いざらい吐いてもらおうか。……って続けるつもりだったんだけど、」
シェリーの顔は酷かった。頬の赤みは跡形もなく消えて、唇は固く結ばれ、目には恐怖しか映っていない。秋は理由を尋ねる言葉を続けようとしたが、血の気の引いた口からか細い声が出るのが先だった。
「お姉ちゃんの身に何かが起こるのね」
「うん?」
シェリーは思わず聞き返した秋を嘲笑うように唇の端を無理やり釣り上げたが、顔色の悪さは相変わらずだった。
「組織の意向で私がアメリカに留学することになった時から、姉と離れて暮らすことになって、おまけにコミュニケーションを取れる僅かな機会は全て監視付きだってことは知っているでしょう? だから事前にお姉ちゃんが暗号を考えてくれたのよ。暗号は簡潔かつ私達以外には解読不能なもの。ミステリーによくある意味合いを持たせた符牒ではなく、符牒と込めた意味に関連性のないものが望ましい。大量の暗号を分析されない限り第三者が意味を推察できないのなら、露呈するリスクはグッと下がるもの。
アドニスには特別に教えてあげるけど、私たちが使っているのは本の貸し借りになぞらえた暗号よ。本のジャンルが状況を表していて、本を貸してもらった人物がメッセージの主語となる。ジャンルごとの意味は色々あるけど医学書の場合は『命の危険』。『シェリーはゲノム創薬の専門書を姉に貸している』の場合、主語は解読に関係ないカモフラージュ用。重要なのは本のジャンルと本を貸してもらった側の人物──お姉ちゃんね。つまり直訳すると『お姉ちゃんの命が危険』」
今度は秋が驚く番だった。
次の周の自分に協力を仰ぐための合言葉だと伝えられ、律儀に信じてきたものは、姉の危険を知らせるメッセージだったらしい。
波紋のように広がり始める動揺を沈めるためにコーヒーを流し込み、話の続きに耳を傾ける。
「さっきも言ったように暗号を知っているのは私とお姉ちゃんだけよ。アドニスに暗号を教えた心当たりが私にはないし、姉が教えるとも思えない。となると、あなたが言った言葉と繋げて、『前』の私に伝えられたと考えるのが一番自然だし理にかなっているわ。よって、時間が巻き戻る摩訶不思議な出来事は実際に起こっていて、アドニスは『巻き戻り』が起こっても記憶を継承できる人間である。これが証明された」
「そうだね」
極力冷静な声色を心がけてではあるが、一言しか返す余裕しかなかった。
秋が固唾を飲んで次の言葉を待っていると、シェリーが細く長く息を吐く音が聞こえた。息を吐きながら目を閉じて、考えに集中している。必死に落ち着こうとしているように見える。
よくよく考えれば、メッセージを仕込んだのは一つ前の周のシェリーであって目の前のシェリーではない。彼女は今受け取った情報と状況から、『前』の自分の行動と真意を推察し、姉の危険を知ってどう動くか考えなくてはならないのだ。
秋は動揺の波が静かに引いていくのを感じた。むしろ動揺が大きいのはシェリーの方だろう。真面目な話をするときは大人ぶって「姉」と呼ぶのが常なのに、今はちょくちょくお姉ちゃん呼びが出ている。
秋はシェリーが落ち着くまで気長に待つことに決めて、ゆったりと構えた。
シェリーの瞑想は一、二分で終わった。ゆっくりと目が開かれる。存外しっかりした彼女の声が休息の終わりを告げる。
「状況もおおよそ理解できたわ。『前』の私はあなたを利用して、将来姉が危険に晒されると私に警告をしてくれた。内容から考えるに、姉は昏睡状態に陥ったか、あるいは死んでしまった。姉について詳しく聞きたいところだけど、まずは私の有用性を示すために、状況から推察できる『前』の私の行動を説明しておいた方がいいでしょうね」
理路平然と話しているが顔色は相変わらず悪い。
彼女は説明に入る前に一口紅茶を飲んだが、顔色は変わらなかった。
「私はほとんどの詳細を伏せられて、とある物質に関連する研究をさせられているわ。もちろん組織の目的も、その研究が何を目指したものなのかも知らされていない。下手に調べようとしても始末されるだけだから本気で知ろうと思ったこともない。時折暇潰しであの方が目指しているものについて考える程度よ。暇潰しだから真面目な考察なんかじゃなく、もっと自由で馬鹿げた、子供がベッドに入って思い描く空想に近いものだけどね。例えばあの物質が真価を発揮するのは、SF映画のように同じ時間が繰り返される世界だなとか。あの物質を体内に保持しているアドニスなら時間の巻き戻りを認識できるんだろうなとか。もちろんこんなものは根拠なんてまるでない、子供の無邪気な発想よ。私だって馬鹿馬鹿しいと切り捨ててきたわ」
やはりシェリーが携わっている組織の研究とループ現象には関連があるらしいが、彼女はループ現象の存在すら知らされていない。ループ現象の存在を知らされているのならより多くの情報が期待できたのは事実だが、秋は落胆しなかった。
確かに彼女がもっと詳しく知っていれば話はより早く進んだだろう。しかしあの方はループの存在を秘匿するに決まってるし、ループについて知っている研究員を秋に近づけるわけがない。もしもシェリーがループの存在を知っていたら真っ先に罠を疑うべきだ。
あの方の罠である線が消えたのだから良い知らせだとも捉えられる。
「そして、『一つ前の周の私』も全く同じ状況に身を置いていたはずよ。今の私と同じ研究をして、同じような疑問を抱き、同じような馬鹿げた空想をしていた。一つだけ違ったのは、時間の巻き戻りが本当に起こっていると知るきっかけがあったことね。理由は分からないけど、『一つ前の周の私』は時間の巻き戻りを知るというイレギュラーを経験した」
組織の研究でループ現象にたどり着く土台があったシェリーは、『きっかけ』によってループ現象を確信してしまった。
秋が頭の中で話を要約していると、対面に座る少女が不思議そうに漏らす。
「分からないのは、私がループ現象を知った理由ね。あなたがループ現象を仄めかすことを言いでもすれば確信したでしょうけど、あからさまに怪しい研究の関係者にそんな不用心なことするわけないし……」
顎に手を当てて考えるシェリーからそっと視線を逸らして、秋は遠い目をした。
(言ったな……)
一周前に、例え話だと枕詞をつけてではあるが、ループ現象についてシェリーに話してしまった。
思い返せば、あの時のシェリーは研究関連の何かに思い当たったらしき素振りを見せた。あれはループ現象を確信したものだったのだろう。
自分が下手を打ったのを理解した上で、秋はしらばっくれることにした。自分の株が下がるだけの情報は伏せるに限る。「なんでシェリー気づいたんだろう、不思議だなぁ」と言わんばかりの表情を取り繕っていると、すぐにシェリーの話が再開された。
「ともかく、『一つ前の周の私』はループ現象が本当に起きていると確信し、状況からあなたが時間が巻き戻っても記憶を引き継げる稀有な人間であることも察していた。そしてどこかのタイミングで、ループを利用して姉を助けることを思いついたんでしょうね。アドニスを介して『次の周』の──つまりこの私に情報を届けられれば、姉が死ぬ未来を回避させられる。だから私はあなたに気取られずに『次』の自分への伝言を託したのよ。そうね、まずはループ現象を知っていることを仄めかしてアドニスを動揺させ、『次の私』に話を信じさせるために必要だと言って、暗号化した自分へのメッセージを吹き込んだ。姉妹間で使われていた暗号を使って、姉の命が危険だってね」
「なるほど……」
秋は堂々とした態度を心がけて大きく頷いた。ここまでの話が指し示す真実はただ一つ。自分はシェリーに嵌められたのだ。
嵌められた人間とは思えない偉そうな態度を心がけながら、秋は『前のシェリー』の行動を頭の中で整理する。
つまりこうだ。
秋がついうっかり例え話として時間が巻き戻る現象に触れたせいでループ現象を確信。多少話の流れが不自然だったとしてもあのような突拍子もない話を検討するわけがないと考えてループ現象を仄めかしてしまったが、事前情報があったせいでシェリーは真実に至ってしまった。
その数年後に宮野明美が殺害され、シェリーは組織から脱走する。
脱走から数ヶ月後にベルツリー急行で、経緯はよく分からないがキッド達と共謀。キッドの変装を利用して自分が死んだと見せかけるための細工をする。
その時、ループしている秋を触媒とすることで、次の周の自分へ警告を出す作戦を思いついたのだ。上手いこと言いくるめて『次の自分』に伝言を伝えさせれば姉を助けられる。
明美殺害直後に秋を利用することを思いついていたのなら脱走前になんらかのアクションがあったはずなので、思いついたのはベルツリー急行内だろう。
おそらく秋が乗り合わせていると知ったタイミングで思いつき、実行に移した。とんでもなく頭の回転が早い。
ループ現象を知っていることを秋に明かし、『次の自分』から全てを聞くようにと言い含め、『次の自分』を納得させるための証拠だと偽って過去の自分へのメッセージを仕込む。
組織の目を掻い潜って姉と意思疎通をするために編み出された暗号をメッセージに使っているのだから、秋が不審に思うことはない。組織の監視員と同じく取るに足らない言葉だと気に留めないで終わる。
そうして騙された秋は、騙されていることに気づかないまま時間の巻き戻りを迎え、記憶を継承し、指定された通りの状況で『次のシェリー』へ証拠に偽装された警告を伝えてしまう。
『次』の──つまりこの周のシェリーは宮野明美が殺される前に将来起こる出来事を知り、姉の死を防ぐことができる。
上手いのが、秋視点では会話の数秒後にシェリーが爆死することだ。死んだ人間から話は聞けない。秋は次の周が訪れる前に話を聞き出そうなどと考えない。
実際には降谷のおかげでシェリー生存を知ることは出来たし面会希望も受理されたが、シェリー本人に面会を拒絶され続けた。どれだけ降谷を通して働きかけても『次の私』に聞けの一点張りだったのだ。
今から思えば、あれは『次のシェリー』を問い詰めさせるためだ。秋があの伝言を届けなければ、せっかく仕込んだ過去の自分へのメッセージが無駄になってしまう。
「『前の私』が立てた計画の詳細と、計画を成功させたという事実。ループの存在すら知らないこの周の私は、たった一つの暗号から真相を導き、『前の自分』の思惑を察して、交渉の場を整えた。有用性は示したはずよ。確かに組織が行っている研究の確信は知らされていないけど、情報の整理・考察は手伝えるし専門知識に基づく知見も教えられる。ループという未知の情報を紐解く相棒に最適な人材だと思わない?」
外見が全く違うのに、彼女の姿はスコッチを想起させた。顔はいまだに青白く頼りない印象を受けるが、力強い目をしている。戦うことを決めた人間の瞳だ。
「頭脳も知識も全部貸してあげる。だから代わりにお姉ちゃんを助けて。お互いに利用し合う関係の方が、裏切りの心配もないでしょう」