そしかいする度に時間が巻き戻るようになった

 親友と最後の対面が叶ったのは、彼が人間の形状を保てなくなった後だった。
 床に散らばった骨のまわりにヌメついた液体がまとわりついている。かろうじて残った肉体は液状だった。組織で頻繁に用いられる死体を溶かす薬を使われたのだと理解するまでいやに時間がかかった。


「裏切り者は殺す。それが組織のやり方でしょ?」


 平然と言ってのけたアドニスの姿が忘れられない。
 あの日から僕は憎しみに囚われ続けている。





 * * *





 裏切り者は必ず始末するべきだと盲信しているジンが率先して殺そうとしているだけで、シェリー殺害が組織の総意だと考えるのは早計だ。あの方が完成を渇望している研究の詳細は不明だが、シェリーがその研究を大きく促進させる能力を持っていることは掴んでいる。あの方からすれは、シェリーが大人しく従ってくれるに越したことはないはずだ。

 シェリーには使い道があるし、僕の話術を用いれば彼女を殺さない方向に導くのも可能。となれば、シェリーを生きたまま連れて帰ろうと考えるのは当たり前の話だった。

 シェリーが乗るというベルツリー急行内で彼女を炙り出し、貨物車へ誘導して殺すのがベルモットの計画。それを利用し、生きたままシェリーを捕らえて組織に連れ帰るのが僕の計画だ。

 しかしベルツリー急行に乗り込んだ段階で想定外の事態が起こった。列車内にアドニスもいたのだ。
 シェリー殺害に一枚噛ませてほしいというのが彼女の主張だったが、もちろん邪魔をしないよう言い含めて部屋から追い出した。

 彼女について考えるだけであの日の憎悪と失望が蘇ってくる。頭がカッと熱くなる。身体中を怒りに支配され、目つきが険しくなりかけた。
 しかし「バーボン」にしては少々不自然な反応だ。バーボンはアドニスを煙たがっているとはいえ、わざわざ思い出して怒りをあらわにするほど憎悪を抱いているわけではない。
 ベルモットが視線を窓へと放ったほんの一瞬で表情を取り繕う。いつも通りの胡散臭い笑顔を貼り付けて彼女と計画の最終確認を続ける。
 幸い、言葉が途切れることはなかった。ベルモットの裏をかくために何度も計画を思い起こしてきた甲斐があって、ボヤ騒ぎを起こしてシェリーを炙り出す手順など他ごとを考えながらでも誦じられる。


 やがて確認が終わった。
 次に行うのはベルモットの変装だ。変装道具を用意するために立ち上がろうとしたタイミングで声をかけられ、僕は重心を元に戻す。


「アドニスだけどシェリー殺害には加わらせないほうがいいわよ」

「言われなくとも。ご存知の通り、僕は彼女のことを嫌っていますから。……と言いたいところですが、その上で忠告されたとなれば気になりますね。わざわざ何故?」

「彼女、シェリーを殺したいだなんて微塵も思ってないもの。本人に自覚はないけどね」


 あっさりと告げられた言葉を簡単に信じることはできなかった。
 あの悪魔みたいな女が? シェリーには情けをかけるって? 


「へえ、なんでそんな事がわかるんです?」

「アドニスの演技には感情が乗っていないのよ。上っ面を真似ているだけ。自分の感情に蓋をしているせいで必要に応じて感情を引き出せなくなっているのね。だからあの子の演技は簡単に見抜けるの」

「……シェリーを殺したいと主張していたのは演技だったと?」

「本心と乖離しているのは確かだけど、嘘をついているのかと問われれば即答はできない」

「煮え切りませんね」

「そもそもアドニスの偉そうな態度は全部演技なのよ」


 ベルモットの表向きの顔はハリウッドの大女優。当然演技に関しては右に出る者がいない。言葉や振る舞いが本心からのものなのか見極めるなど、彼女にかかれば造作もないのだ。

 彼女の慧眼は組織で絶大な信頼を寄せられていると言えば精度の高さが分かるだろう。
 僕以外の人間が揃いもそろって赤井秀一の死亡を信じて疑わないのも、奴が死ぬ間際に漏らした「まさかここまでとはな」の言葉が本心からのものだとベルモットが断言したのが大きい。

 その彼女が言うのだから真実なのだろう。しかし釈然としないのも確かだ。僕が懐疑心を覗かせたのを見て、ベルモットは付け加えた。


「直視したくない真実があるから、本当の気持ちには蓋をして意識を嘘で塗り固めている。結果としてアドニスは自分の感情に対して鈍感となり、演技によって作り上げられた自分が本当の自分だと思いこんでいる節がある。ごっこ遊びにのめり込みすぎた子供みたいなものよ。だからこそ『自分は唯我独尊を絵に描いたような人間だ』という設定と行動とが食い違ったら、自分を納得させるために新たな設定を付け加える。今回だって本心ではシェリーが気になったから乗車したんでしょうけど、その感情は設定と食い違うからシェリーを殺したいだなんて新しい設定を付け加えたし、それが真実だと思い込んでいる」

「それは……滑稽ですね」


 やっとのことで吐き出した相槌は冷笑を含んでいた。

 まだ景光ヒロが生きていた時、アドニスとスコッチの間には奇妙な絆があった。
 詳しいことは知らない。景光を問い詰めても同じ幹部として普通に接しているだけだとしか言わなかったし、実際に何かが起こったわけではないのだろう。
 しかしアドニスが景光に向けていた感情には恋情が含まれていたし、景光は景光でアドニスをやけに気にかけていた。幼馴染として景光の隣に立ち続けた僕だからこそ分かる。
 二人の間には名前をつけるのが難しい何かがあった。スコッチがNOCだと判明してもアドニスに殺されることだけはないだろうと思える程だった。

 それなのにアドニスはスコッチを殺した。
 だからこそ僕は怒りと混乱に支配され、やがて失望と憎悪だけが残ったわけだが──


(自分の恋心にすら気づけないのか)


 ある意味アドニスは可哀想な女だ。ベルモットの話を聞いた後では一縷の憐れみすら覚える。

 もちろん相手にどれだけ同情の余地があったとしても犯した罪は軽くならないし、一度犯した罪は何があろうと覆らない。
 僕は意識を引き締め直した。アドニスの背景に何があろうともやることは変わらない。彼女諸共、組織の連中を牢獄に押し込むため任務を続行するだけだ。





 殺人事件というアクシデントはあったが作戦は予定通り進み、ついにシェリーとの対峙が叶った。
 拳銃を突きつけて八号車の奥にある貨物車に移動させる。発煙筒の白い煙が立ち込めているせいで見晴らしは良くない。
 火事を理由に乗客を前車両に追いやったおかげで僕ら以外の乗客はいない。車両は静まり返っている。

 だから、第三者の足音はよく響いた。
 わざとらしく足音を立てて近づいてきた女がいつもの小憎らしい笑顔で言う。


「久しぶりだね、シェリー」


 アドニスだった。
 シェリーの生死が気になったから乗車したというベルモットの予想は当たっていたらしい。
 景光のことは殺したくせに。
 そう頭をよぎった瞬間、全身の血が沸騰しそうになる。抑えようとした怒りが低い声へと形を変えた。


「……僕たちの邪魔はするなと言い含めたはずですが」

「邪魔? まさか! バーボンの手伝いをしにきたんだよ。ていうか二人のコンパートメントまで出向いて話を通そうとしたってのにバーボンが追い出したせいで、」

「ちょうど良かったわ。アドニス、あなたに言っておきたいことがあったの」

「あの時の文句を言おうと思ったけどまぁいいか。シェリーの話を優先してあげるよ。なにせ私はどこぞの銀髪ポエムやスカした探り屋と違って大人だからね」

「もしかして僕のこと言ってます?」


 このまま勢いに任せて言い負かすのは簡単だが本来の目的を見失っては行けない。僕はグッとこらえた。全く、どっちが大人だ。

 シェリーも僕と同じことを思っているのは明白だった。額に手を当ててため息をついている。アドニスが余計なことを言って相手を怒らせる展開に慣れているのだろう。彼女の顔には諦めがありありと浮かんでいた。
 ……表情の変化は少しぎこちなかった気がするが。

 シェリーが視線を上げる。瞳がまっすぐアドニスを射抜く。
 そうして「言っておきたいこと」とやらを口にした。


「──あなたは知っていたんでしょう? お姉ちゃんが殺されること」


 しばらく二人の会話が続く。


「言い訳に聞こえるかもしれないけど、宮野明美殺害は事前に通達されてなかったよ。言っちゃ悪いけど彼女みたいな一般人の始末なんて日常茶飯事だし、特別取り上げられる話題でもないから」

「そうじゃなくって……『前回』も同じことが起こったんだからお姉ちゃんが死ぬのは分かってたでしょう? ああ、前々回も、それよりずーっと前もかしら。……どうしてお姉ちゃんのことは助けてくれなかったの?」

「なん、で」

「残念ながら時間がないの。『次』の私に教えてもらいなさい。話を聞き出すのは十三歳になった私。それ以前のタイミングで尋ねても、あの現象を確信できる材料は揃っていないから不信感を持たれて終わるわ。十三歳の私に、あなたが本来なら知り得ないはずの指摘をして私の仮説を立証させるのよ。……そうね、シェリーはゲノム創薬の専門書を姉に貸している、がいいかしら」


 何の話をしているのかさっぱりだがアドニスはひどく混乱していた。シェリーが何か言うたびに青ざめていく。
 僕だけが会話についていけていない。前提となる情報を知らないと理解できない内容なのだろう。
 それよりも気になるのはシェリーの言葉。


(どうしてお姉ちゃんのことは助けてくれなかったの、ねぇ。まるで別の誰かは助けたかのような物言いだ。アドニスが助けそうな人物なんて──)


 まさか、と思う。
 都合のいい妄想だとも思う。
 それでも理性とは裏腹に期待が膨れ上がっていく。
「スコッチ」の死体は原型を止めていなかった。その上アドニスが公安の犬を庇う理由など存在しないからと彼の死は深く調べられなかった。
 遺体が入れ替わっていても誰も気づかない状況だった。


 貨物車の至るところに爆弾が仕掛けられていると話すシェリーへの受け答えをしながらも、僕はどこか上の空でいた。もしかしたら親友が生きているかもしれないという期待に頭を支配されて、周囲への警戒が疎かになっていた。そのせいで何者かに不意をつかれてしまう。
 あの男そっくりな影が、貨物車に手榴弾を投げ込んだ。
 熱気と暴風。それに火薬の匂い。
 僕は咄嗟に体を物陰へ隠し、爆風から身を守る。

 しばらくすると火薬の匂いが流れて、代わりに新鮮な空気が入り込んできた。
 目を開ける。空の青と山の緑が広がっていた。
 貫通扉が跡形もなくなっている。最悪なことに貨物車は列車から切り離されていた。


「くそっ!」


 叫ぶ間にもシェリーが取り残された貨物車との距離が離れていく。
 ──そして、さらに大きな爆発音。貨物車は吹き飛んだ。中にいた人間がどうなったのかなど確かめるまでもない。

 不思議な心境だった。
 恩師の忘れ形見にして組織で確かな地位を築く一手を失った落胆と、期待から来る高揚感。

 アドニスを見つめる。僕の視線に気づいた彼女が不審そうに眉を寄せた。
 本来貫通扉があった場所から風がなだれ込んでくる。僕らの髪をかき乱す。
 緊張で舌が痺れているなどと気取られないように、普段通りの笑みを貼り付けて僕は言った。


「スコッチは生きているんじゃないですか?」
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