そしかいする度に時間が巻き戻るようになった

 スコッチには定期的な外出を許可している。強いストレスを溜めて精神に支障をきたされては本末転倒だからだ。

 外出のルールは二つのみ。一つ、必ず秋が同行すること。二つ、外出前に変装を施すこと。
 変装と言っても髪型を変えたり眼鏡をかけたりする程度のものではなく、性別や年齢が異なる相手にも成りすませるほど本格的なものだ。あそこまでレパートリーは多くないものの、ベルモットが行う変装に近いと言えるだろう。
 なにせ、スコッチに変装術を伝授した秋が学んだ相手は『何度か前』のベルモットなのだから。


 学んだ相手は何度か前の周のベルモット。当然『今回』の彼女は秋に変装術を教えた記憶を持ち合わせていない。
 それどころか『今回』、スコッチ以外に変装術を披露したことはないので、秋の隣を歩く男の顔が作られたものだと思い至る人間は皆無。もしかしたら似たような技術を持っているベルモットや怪盗キッドなら見抜けるかもしれないが、偶然彼らと出くわす確率など限りなくゼロに近い。

 ゆえにスコッチ外出の危険性は低く、さほど警戒する必要はないというのが秋の見通しだった。


 しかし米花町の治安の悪さには敵わなかった。
 スコッチは通り魔に刺された。




 * * *





 近頃無差別に人を刺して回っているとニュースになっている男に遭遇したのは、帰路についた時だった。

 通り魔の手に握られたナイフが、スコッチの脇腹を目掛けて迫ってくる。一切の無駄がなく、驚くほど俊敏な突きだ。通り魔よりも傭兵上がりの犯罪者だと言われた方が納得できる。
 いくら体術に優れたスコッチでも不意を突かれた以上、咄嗟に相手を制圧するのは難しい。一度避けてから反撃の機会を窺うべきだ。

 秋はスコッチが避けると信じて疑わなかった。現に彼の実力なら問題なく避けられたはずだ。

 しかしスコッチはあの一瞬を、自身の背後に立っていた秋を確認するのに使った。
 秋がナイフの軌道上にいるのを確認した直後、彼の瞳が覚悟の色をのせる。ナイフを避けるために動かしていた足の重心を元に戻す。
 スコッチはその場にとどまり、左脇腹を刺された。秋を庇ったせいだった。
 ここ数年間で最悪の気分だった。





「そんなにスマホが大事?」


 セーフハウスに戻るなり秋の口から冷たい声が出た。


「私が死んだらスコッチが持っていたスマホのデータを組織に流すって脅してあったから私を助けたんでしょ。いくら防刃ベストを着ていたとはいえ、刺された場所が悪ければ死んでいたかもしれない。出血すらなかったのは良かったけど、自分の命を危険に晒す必要はなかったはずだ」


 スコッチを刺したあと通り魔はフラフラと立ち去った。秋は無言でスコッチの手を引いてセーフハウスまで帰ってきた。その間二人に会話はなかった。
 玄関の扉を閉めた途端言葉が堰を切ったように溢れてくる。


「こっちがどれだけ大変な思いをして助けたと思ってるの? いくら記憶を取り戻すためとはいえ人間ひとりを始末したように見せかけるのも骨が折れるんだけど。この最高に優秀で素晴らしい存在である私がわざわざ助けた命をそう易々手放すなんて許されると思ってる? それも精神がガキのまま止まっているどうしようもなく面倒で価値のない人間を助けるために!」


 矛盾した主張をしているなぁと頭の片隅で感じた。
 慟哭にも聞こえる引きつった笑いを漏らしてから、秋はやぶれかぶれな態度で問いかける。


「スコッチがNOCだとバレたときに私が助けなかったらどうなっていたか考えてみようか。最初の問題。NOCであることが組織中に通達されてスコッチは逃げ回っています。なんのために?」

「……生き残るため?」


 白々しい答えに口角が動く。鏡を見なくても歪な笑いが深まったのが分かった。


「すっとぼける必要はないよ。自分が組織の手に落ちても情報を死守するためだ。仲間や家族の情報が入っているスマホと自分自身をどうにかして始末しなくてはいけない。いくら口を割るつもりがなくても自白剤を盛られたら終わりなんだから、自殺する必要がある。それじゃああの日の装備を思い出してみよう。スコッチはあの日、自殺に使えそうなものを持っていた?」

「……持っていない」

「だったらどうやって死ぬ?」

「……飛び降り自殺かな」

「スマホを破壊できるか怪しいのに? もっと確実な方法があるよ。組織の追っ手から拳銃を奪って、心臓と胸ポケットに入れたスマホを同時に撃ち抜くんだ。そうすればスマホから意識を逸らせる」

「そんな状況そうそう訪れるもんじゃないだろ」

「この話では訪れたんだよ。飛び降り自殺のために廃ビルの屋上へ逃げ込んだところで組織の幹部が現れた。ジャケットの内側に拳銃を入れている。スコッチなら最後の抵抗に見せかけて襲いかかり、わざと投げ飛ばされて拳銃を奪い取れるはずだ」

「そうかもしれないな」

「銃口を胸に当てた瞬間、その幹部がシリンダーを掴んで言った。俺はFBIのNOCだ。スコッチはどうする? 警戒を続けながらも引き金を引こうとした指を止める。一応は話を聞く体勢になる。と、そこに! 階段を駆け上る足音が! 続いて一般人の声。一般人はスコッチたちのやり取りを遠くから見ていて、階段を駆け上がっている人物に危険を伝えるために叫んだ。そこの金髪のお兄さんってね。一緒に潜入している幼馴染の特徴だ。足音の正体は幼馴染だ。
さて、この状況でスコッチはどうする? 別の幹部の襲来に驚いてシリンダーを掴む手を緩めた自称FBI。スコッチを助けたい一心で走ってくるバーボン。……スコッチはその一瞬で引き金を引いた。スコッチはそういう人間なんだよ」


 彼がどんな顔をしているのか秋は知らない。視界に入っているはずなのに何も見えない。

 これがスコッチを助けようとした最初の周の顛末だった。
 偶然通りかかった一般人に扮して足音の正体を伝えてもスコッチは迷わず引き金を引く。

 一見不可解な行動だ。しかし何度もループを重ねる中でスコッチがどのような人間なのか知っていくにつれて、困惑は納得へと変わっていった。
 今となっては彼の心境を筋道立てて説明できる。


 あの時ライの正体を裏付ける方法はなかった。ライは本当にFBIなのか、口からの出まかせではないのか。実際にFBIだったとしても利用されるのが目に見えている。助かりたい一心で彼の手を取るのは如何なものか。

 それに親友の命を救うために必死で走ってきた降谷はスコッチの自殺を止めてしまう。そうなれば芋づる式にバーボンもNOCだとライに知られる。
 下手をすれば降谷まで命を失いかねない状況だ。

 ライの言葉を信じて自分が助かる期待値とそれによるメリットは、降谷までをも危険に晒すデメリットに打ち勝てなかった。

 スコッチはあの一瞬でそれだけを判断する能力を持ち合わせているし、正義のために自分の命を天秤にかけられる人間だった。天秤が傾いたら迷わず自分の胸を撃ち抜く胆力も持ち合わせていた。

 だからスコッチは自殺を選ぶ。
 一瞬で最適解を導き出す能力が異様に高い彼は一秒ですら躊躇ってくれない。

 スコッチは自殺をやめてくれない。


「あの場面で自殺を選び取るスコッチが! 優しくてポヤポヤしてて正義のために非情になるのに強い抵抗感を持っていてどうしようもなく潜入捜査に向かない性格にも関わらず、一切躊躇せずに自分の命すら投げ出す冷徹さという適性が上回ってたから潜入捜査官に選ばれたであろうスコッチが! それほど最適解を選び取る能力がずば抜けているくせに! 私なんかを助けるために自分の命を危険に晒した! ふざけるなよ」


 どんどんと声が怒りを孕んでいく。
 自分が何に怒っているのかもよくわからないまま秋は口を動かす。


「一方でさっきの状況だ。スマホの情報を守りたいだけなら、むしろあそこでナイフを避けるべきだった。スコッチと同じく防刃ベストを着ていた私がナイフひと突き程度で死ぬ確率なんて微々たるものだ。それなら二度目、三度目の攻撃を確実に避けて私を死に至らせないために、戦闘に優れたスコッチが無傷で残ったほうがいい。なんなら私が刺された隙をついて通り魔を制圧してもよかった。あの場面で自殺を選べて、『今回』でも私に対して最も有効な一手を打ってきたスコッチが取った行動だとは思えない。スコッチの行動は極めて矛盾している」

「していないさ」


 スコッチが静かに、力強く言い切った。


「そもそも俺はデータ流出を防ぐために君を庇ったんじゃない。あの一瞬でそこまで気は回らなかった」

「じゃあどうして、」

「君に死んでほしくなかったからだ」


 頭が真っ白になった。
 彼が何を言っているのか分からない。数秒間は耳に届いた情報をうまく処理できなかった。

 秋が感情を整理し終える前に、スコッチが続ける。


「アドニスはずっと逃げ続けてるだろ。忘れてる記憶とか重ねてきた罪とか自分の感情とか、そういったものから。俺にもそういう時期があったから少し気持ちがわかるんだ」


 俺の父さんと母さんは六歳の時に目の前で惨殺された。
 彼は夕飯の献立を告げるのと同じ雰囲気で口にした。


「事件直後はショックで一時的な記憶喪失になっていたし声も出せなかったよ。平常心でいようと心がけていても、ふとした時に息が詰まるんだ。その時は決まって、強大で全貌の見えないとてつもなく恐ろしいものが一度に襲いかかってくる感覚があった。ふとした時にアドニスが見せる表情は、きっとあの時期の俺が時折浮かべていたのと同じなんだ」


 秋の足は棒になったかのように動いてくれない。必死で隠していたものが暴かれてしまうと頭が警報を鳴らしているのに、黙って聴き続けることしかできない。
 スコッチの声は穏やかだった。


「これでも俺は犯罪者に囚われた潜入捜査官だからね。気取られないようアドニスを観察していたし雑談に見せかけてブラフをかけたりもした。何より寝る時はもっと気をつけたほうがいい。隣で寝ている俺にはうなされている声がバッチリ聞こえていたよ。味覚障害の気もありそうだ。自分の感情に鈍感で好きな食べ物すらよくわかっていない。心因性による症状の一種だと思われる。高い自己評価を口にするときは瞳孔が開く。嘘をついている自覚があるからだ。あの自画自賛は本心からのものではない。あれは威嚇だ。自分を騙すための方便だ。君は自己評価がとんでもなく低い。それに加えて自分のことが嫌いだろ。

環境に起因するものだと片付けるのは簡単だけど、それ以外の情報とつなぎ合わせると別の原因も見えてくる。犯罪行為への罪悪感、犯罪者になった経緯を全く覚えていないことへの不安。自責の念。深い絶望と自己嫌悪の中、これ以上苦しみたくなくて諸々から目を背ける。自分の感情を押し殺して別の設定を強く信じ込む。低い自己肯定感や自己嫌悪を忘れるために自画自賛を、犯罪行為に手を染めた理由を思い出したら次の段階へ入ることになるから、過去を知った上で罪とどう向き合うのか考えなくてはならないと勘づいているから、思い出さないための行動をとる。自分の罪悪感を認めず過去を知りたがっていると思い込んだまま思い出さなくて済むように、記憶を追い求めるポーズだけとって有効な手を打たないまま過ごしている。
そうやって自分の感情に蓋をして都合のいい設定を演じて過ごすうちに、自分の感情まで見失いがちになったんじゃないか? 君はずっと逃げ続けている」


 自分はずっと逃げ続けている。スコッチに指摘されるまでもなく、心の奥底では理解していたことだった。


「事件の犯人を捕まえるまで、俺の中の時計の針は凍りついていたんだ。だから向き合わないといけないものから逃げ続けていて、そのくせ完全に吹っ切れるほど器用じゃないから結局一歩も動けなくなっている君と、過去の自分とが重なった。いつの間にか君を昔の俺と重ねるようになっていた。
そういうわけで通り魔が握りしめたナイフを見た時、咄嗟に思っちまったんだろうな。俺は逃げなかったんだからアドニスも逃してやるもんかって。あそこで死なれたら前に進む機会は一生失われる」


 スコッチの瞳に何かがチラついた。何度も前の周で飛び降り自殺を図る直前に見えたものと同じ。
 あの力強い炎は、意志とか信念とかそういった類のものだ。


 どの周だろうが彼はこういう人間だった。冷徹なほど理性的な判断ができるくせに変なところでお人好しで、なにより真実から逃げ出すのを良しとしない。

 確実に一人潜入捜査官を残して目的の達成へ繋げるために自決を選び続けた。
 一度前の周では、自分の罪を正当化しようとしていた秋にどんな理由があろうと罪は軽くならないと断言してきた。
 そういう時、彼の瞳では決まって激情が渦巻いていた。


 今までと今回のスコッチは同一人物と言えるのかだなんて悩んでいたのが馬鹿らしくなる。多少行動の変化はあれど彼の本質的な部分は何も変わらない。それでいいじゃないか。


「アドニスが気にしていた答えは極めて単純なんだよ。俺が君を庇ったのは身勝手な同一視によるもの。ただ死んでほしくなかっただけだ」


 随分と優しい声で告げられた。秋はその言葉を心の中で繰り返す。


(死んでほしくなかった……)


 胸の中のモヤが晴れた心地がする。自分を庇ったスコッチの行動にあれほど苛立っていた理由がわかった気がした。





 * * *





「それで、結果は?」

『貴方の予想通りよ。最も人を狂わせる強烈な衝動、恋愛感情』


 古い洋館の一室。暖炉の炎が踊り、目の前にある大ぶりな肘掛け椅子を照らす。
 そこに座る部屋の主には密かなこだわりがあった。どれだけ科学技術が発展しようと使用するのは慣れ親しんだガラパコス携帯だけ。スマートホンが主流になったせいでメールアドレスの“遊び心“が無駄になってしまったのは残念だった。
 こちらの未練がましい気持ちなどいざ知らず、二つ折りの携帯電話から聞こえる女の声は続ける。


『わざわざ無差別殺人をさせて、末端の人間を通り魔に仕立て上げるまでもなかったわ。アドニスが一緒にいた男を好いているだなんて、刺された時の反応を見るまでもなく道中でのやり取りだけで分かったもの。それどころか変装させた私を監視につけることもなかったんじゃない? 私じゃなくても見抜けるわよ、あれは』

「問題ない、知りたかったのは男へ向けられている感情の詳細。特に男を失うかもしれない状況になった時の反応だ。何をどれだけ大切に思っているのか。行動の指針は何か。どういったときに裏切るのか。この辺りを抑えておけば人を掌の上で転がすのはたやすいのだから」

『つまり刺された男を目にしたアドニスの様子ね。ひどく混乱してたわよ。強い恐怖と怯えがありありと確認できた。あの男に相当強い感情を向けているんでしょうね』

「なるほど……」

『報告は以上よ。それにしてもアドニスの隣にいた男、顔に違和感があった。そこいらの人間は誤魔化せるでしょうけど、他の誰でもない私の目は誤魔化せないわ。どうしてアドニスは変装した男と外出していて、あなたはその二人を探っているのかしら。ねえ、ボス?』

「さあな。理解していると思うが今回の任務のことは、」

『ええ、もちろん他言しないわ。もう一人のキャストなんて口封じされた後でしょうし。じゃあね』


 リップ音を響かせてベルモットが通話を切る。
 老人は一昔前の携帯を折り畳むと小さく息を吐いた。察しのいい女だ。

 続いて自分が腰かける椅子から少し離れた場所へ視線を投げる。視線の先には、眉間を銃で撃ち抜かれた通り魔の死体があった。

 死体を肴にワイングラスを傾ける。ワインの芳醇な香りが漂い、部屋に立ち込めた血の匂いと混じり合う。


「全く、銀の弾丸を正しく発射できる唯一の撃針ファイアリングピンだからこそここまで対策を講じているが……やったことと言えばせいぜいスコッチを匿う程度。やはり哀れなマリオネット止まりか」


 転がった男の死体と彼女の姿とが重なる。
 幻視した「彼女」に向かって老人は嗤った。


「そもそもアドニスはたかが人間。クロノスの力は使いこなせぬし『アレウスの牙』にかかれば呆気なく敗れる。有象無象の人生を操り、いずれ時の神クロノスの力を完全に手にする私とは格が違うのだ」
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