そしかいする度に時間が巻き戻るようになった

※R15。15歳未満の方の閲覧には注意が必要な内容が含まれています。



 バチリと視線がかち合う。心臓が大きな音を立てた。重ねられた手が熱い。

 徐々に近づいてくるスコッチの瞳の奥で何かが煌めいているのが見て取れた。崇高で尊い何かだった。



 * * *



 やっべえな、と秋は思っていた。
 どうしようかな、とも思っていた。
 顔を合わせるの気まずすぎだろ、とも思っていた。

 スコッチとセックスした。
 なんかいい感じになってそのまま、そんな感じの展開になった。


(どうしよう、これ)


 秋は遠い目をしながら水っぽいコーヒーを流し込む。これで三杯目だ。そろそろカフェインの取りすぎを心配する頃かもしれない。

 組織が所有する薬品会社内の研究施設に秋はいた。そこに併設された食堂で、ドリンクバーのコーヒーを流し込む作業をひたすら続けている。

 スコッチの部屋で目を覚ますとすぐにシェリーへ電話をかけ、研究施設で行う用事を無理やり前倒ししてもらったのが早朝の出来事だった。
 前倒ししてもらったというか、拒否するシェリーに「とにかく今日行くから!」と叫んで電話を切り、折り返しの電話がいくらかかってきても気づかないふりをして押し切った。

 着信を伝えるためひっきりなしに震えていたスマホはやがて止まり、代わりにロック画面にSNSのプッシュ通知を次々と表示するようになった。
「なんで出ないの」「はっ倒すわよ」「この対応ジンのことボロクソ言えないわよ」「これからジン未満って呼ぶわ」
 この辺りで、秋はようやっとSNSアプリを開いた。「ジン未満はやめて」と送る。
 その後少し考えて、気の利いた自分への賛辞でも付け加えてはどうかと思い付く。自分がどれだけ素晴らしい存在かを讃え、ジン未満発言を撤回させてやろう。

 しかし秋が気の利いた賛辞を思いつくよりも早く、シェリーの長文メッセージが届いた。
 文面はこうだ。
 私は用事あるから対応できません。どうしても前倒ししたいなら、何も知らない臨時の研究員に対応してもらうことになります。そのため普段の研究施設じゃなくて薬品会社の方の研究所に行ってください。
 急に敬語になっているのが恐ろしい。
 メッセージに添付されたURLを開くと地図アプリに飛ぶ。示されていたのは、組織が所有する薬品会社だった。


 ……というのが、秋がここに居座っている経緯である。
 研究施設で行う用事は早々に終わってしまい、今は昼食を取るという名目で食堂に居座り続けている。
 目覚めたスコッチと顔を合わせるのが気まずくて言い訳用の用事をねじ込み、その用事が終わってもなお帰るのが気まずくて食堂でグズグズしているとも言い換えられる。

 いい歳した大人がする行動ではないのかもしれないが、昔から逃げの姿勢を貫いてきたのだ。簡単に変えられるものではない。
 自画自賛だって見たくない現実から逃げるための行動だし、萩原が消えたと知った後、全てを諦めて今まで通りの行動を取ると決めたのも逃げだ。
 逃げることに慣れきっているせいで、秋は一周まわって開き直っていた。

(あと数時間は帰宅を遅らせたいけど、このままずっと食堂にいましたは無理がある。早いところ口実を見つけるべきだ)

 方針を決めると勢いよく残りのコーヒーを流し込んで立ち上がる。プラスチック製のテーブルの間を移動していき、食器回収場所へたどり着いた。
 使っていたカップを回収場所に置いたタイミングで見覚えのある茶髪を発見する。シェリーだ。

(……無視しようかな)

 秋は日和った。数時間前のやり取りがやり取りなので流石に気まずい。
 しかし一瞬の迷いが命取りだった。踵を返す前にシェリーが振り向いてしまう。彼女の視線が秋を捉える。

(見つかった)

 秋は思わず嫌そうな顔をしそうになったがグッと堪えた。一方でシェリーは露骨に嫌そうな顔をしている。
 もちろん普段から露骨に嫌そうな顔をされるほど険悪な関係性ではない。むしろ組織の中では割と親しい相手だ。やはり今朝の対応が良くなかったのだろうか。

(どんな理由にしろ、バッチリ目が合っちゃったし無視することは出来ないけど。ここでスルーしたら逃げたと思われる)

 秋は腹を括って、ひらりと片手を上げた。

「やっ、シェリー。気持ちのいい天気だね。私と出会ったんだからもっと気持ちのいい日になるね!」
「今日曇りよ」
「気持ちのいい天気かどうかは心持ちで変わるんだよ。あまり知られていないけどね」
「じゃあやっぱり気持ちのいい天気じゃないわね。……それと、その呼び方やめてくれる? コードネームの存在を知らされていない姉がいるから」

 シェリーは途中から音量を落とした。姉に聞かれないためだろう。
 彼女が気遣わしげに視線を送っている方向を確認すると、すぐ近くの席に座った黒髪の女性を発見する。話に聞いてこそいたが宮野明美を実際に見るのは初めてだ。

(面会日か。組織に許可された日だけ、表向きシェリーが勤務していることになっている薬品会社のラウンジで会っていると聞いたことがある)

 同時に、秋を見て露骨に嫌そうな顔をした理由に当たりがついた。姉と会っている時に、組織の人間と遭遇するのは嫌だろう。

 シェリーの都合がつかなかったのも、数少ない姉との面会日と被ったからだと考えれば納得できる。
 シェリーがここにいる理由も同様だ。普段はアレウス棟だかクロノス棟だか、よく分からないカタカナ名がついた研究施設にいる彼女だが、その研究施設の存在はごく一部の人間にしか知らされていないので、末端構成員や明美のようにほぼ一般人と接触する時はここを使う。


 秋はすぐに視線を戻してシェリーとの会話に戻った。


「じゃあ何て呼べば? 志保? 志保ちゃん?」
「…………シェリーでいいわ」
「だよね。私も呼ぶとき据わりが悪かった」

 彼女のことはシェリーと呼び捨てにするのが一番しっくりくる。

「ところで今日前倒しで行った検査の詳細は?」
「脳波測定と唾液検出。後はいつものセットだね」
「ふーん。脳波は取ったばっかだし、唾液のストックも十分にあるのよね。わざわざ今日検査をする必要はなかったんだけど、朝っぱらから電話をかけてきたあなたが前倒ししてほしいって言って聞かないから。担当者である私に予定が入っているから無理だって断る前に切られるし……。おかげで代役を立てる羽目になったわ」
「ごめんごめん」

 ここは素直に謝っておく。シェリーは大きく息を吐いただけに留めてくれた。

 そこまで話したところで、移動してきた宮野明美が遠慮がちに尋ねた。話がひと段落したと判断したのだろう。


「ええっと、志保。そちらは?」
「話によく出てくるアドニスよ」

(話によく出てくるんだ)

 秋は少々驚いたが、すぐに納得のいく解釈を思いついた。

(『アドニス』は人名に使われる名前だし、コードネームの存在を知らない明美に対して話しやすいのか。近況を知りたがる身内がいる場合、一番話題に出しやすいのかもしれない)

 ジンもそこそこ人の名前っぽいが、彼の話を姉にするのは嫌なのだろう。その心情はよく分かる。

 口を挟まずに話のいく末を見守っていると、シェリーが「定期的に雑談をする関係ってところかしら」と続ける。
 当たらずとも遠からずな説明だったが、秋は訂正しなかった。自分とシェリーとの関係はあまり公言していい類のものではない。


 ごく一部の人間しか知らない情報だが、秋は組織の研究に被検者として協力している。「被検者」なのだから実験体のように非合法な実験のモルモットにされるわけでもなく、倫理的かつ道徳的な範疇で検査協力をするだけだ。
 なんでも非常に珍しいナントカという物質が秋の体内に存在しており、それを調べれば組織の研究が著しく前進するらしい。

 そしてこれが組織で優遇される立場になるための裏技である。
 秋の体を調べれば研究が飛躍的に進むと発覚した途端、どの周だろうとあの方直々に検査協力が命じられる。
 同時に、極めて貴重な被検体を失いたくないというあの方の意向によって危険な任務を免除される立場になれるのだ。

 さらにあの方は組織の全貌を幹部にすら教えないほどの秘密主義。組織の目的を突き止めるヒントを与えたくないのか、秋が被検者である事実に緘口令をひく。
 結果、秋が特別扱いを受ける真の理由は広まらず、得体の知れない幹部としての地位をゲットできる。
 不当に特別扱いを受けていると主張してジン一派が突っかかってくるというデメリットこそあれど、メリットが大きすぎるので秋は毎回この立場に収まっていた。

(私の検査を担当しているのがシェリーなわけだけど緘口令が敷かれている以上公言するわけにはいかないし、ああ言うしかないのが現状だ。にしても、なんの研究してるんだっけ。シェリーが関わってるんだし製薬関係だとは思うけど……)


 パチン。宮野明美が両手を合わせた音で、明後日の方向に向かい始めていた思考が打ち切られた。

「あら、あなたが!」

 明美は本当に嬉しそうな顔で笑った。組織の幹部を紹介されたとは思えない表情に、秋は思わず目を瞬いた。

「宮野明美です、妹がお世話になっています。志保、彼氏でも作ったらどうかって言ったの覚えてる? あれは彼女のことを言ってたのよ。名前からして男性だと思っていたものだから」

「おあいにくさま。余計な気遣いだし私がお世話してるのよ」


 なんだか失礼な物言いをされた気がするが空耳だろう。
 秋はそう自分を納得させてから、さりげなく近くのテーブルを確認した。宮野姉妹がいる場所を取り囲むように点在している大柄な男たちが目につく。非戦闘員ばかりの研究棟には不釣り合いな体つきだ。
 監視員だろう。シェリーはその特殊な立場ゆえに、監視なしでの外部の人間との接触を認められていない。外出するのだってコードネーム持ちの幹部の監視か、ネームレス複数人の監視がなければままならない状態だ。


(……新しい用事が見つかった)


 面倒な手続きと幸運がなければ姉妹で遊びに行くこともできない二人を哀れに思った優しい自分が手を差し伸べる。完璧な筋書きだ。これなら帰宅が遅れるのも納得できる。


「シェリーさぁ、物騒な監視員なしでお姉ちゃんと出かけたい〜ってよく愚痴ってるよね」

「……それが?」


 不審そうに眉をひそめるシェリーに向かって、秋は魅力的な笑顔を浮かべた。シェリーの眉間の皺がより一層深くなる。「まさかこの腹立たしい表情が魅力的だとでも思ってるんじゃないでしょうね……?」とでも言いたげな顔だ。


「逐一姉に自慢したくなるほど魅力的だとか、性別という括りを超越するほどの美形だなんて至極当然の褒め言葉をかけられちゃサービスしないわけには行かないからね。私が監視役になってあげよう」

「一言も言ってないのよ」

「ネームド一人の監視はネームレス複数人の監視に匹敵する。美人で美形で美しいお姉さんと行動するだけなら息苦しさもないんじゃない? 外出許可は取れてないだろうけど、そもそも許可が必要なのはそれ相応の監視役を事前に用意するためだ。ネームドが一人いるんなら突然外出予定をねじ込んでも許されるはず。事後報告ばっかのジンって奴が居るくらいだし怒られることもないでしょ」

「まあいい、まあいいわ。いつものことだし現実を歪曲しまくった言動には目を瞑りましょう。それよりあなた、その申し出の真意ってまさか私がお世話してるって発言を撤回させるためじゃないでしょうね……?」


 どうやら空耳ではなかったらしい。秋はしばし言葉に詰まってから、「シェリーって私のこと割と舐めてるよね」とだけ返した。



 * * *



 カフェにショッピング。宮野姉妹の行き先は極めて一般的なものだった。
 何より印象に残ったのはシェリーの様子である。普段ほとんど笑顔を見せない彼女は、姉の横で普通の少女のように笑っていた。
 監視員である秋を除けば、親しい姉妹の休日を体現した光景だった。

 秋は壁に寄りかかって化粧室の前にできた長蛇の列を見やる。どうして女子トイレとはこうも混むのだろうか。宮野明美が戻ってくるまで時間がかかりそうだ。
 秋が軽く息を吐いたタイミングで、隣に佇むシェリーから話しかけられる。ショッピングモールに流れる軽快な音楽とはアンバランスな、皮肉げな口調だった。


「それで様子がおかしい理由は? 私たちの外出に付き合うだなんて気まぐれを起こした理由とも言い換えられるわね。初めは私の発言を撤回させたいのかと思ってたけど、それにしては上の空になっている時間が長い。さらにあなたの性格を踏まえると、何かから逃げるための口実が欲しかったんでしょう?」

「……」

「目を背けたい現実があるのか、このあと気が進まない予定が入っているから私たちに付き合うことで先延ばしにしているのかは知らないけど、ダシにされてるこっちはたまったもんじゃないわ。それにこのままダラダラしてても状況が変わらないまま時間が経つだけよ。誰かに相談して道が開ける可能性に賭けた方がいいんじゃない?」


 そうは言われても未成年に話せる内容ではない。秋はシェリーの視線から逃げるようにリノリウムの床を熱心に眺め始めた。
 しかし横からの視線は一向に無くなってくれない。口を割らない限り諦めてくれなさそうだ。適当な相談をして誤魔化すしかないだろう。
 秋は言葉を選びながら口にした。


「……これは例え話なんだけど、何度も時間が繰り返される不思議な現象にシェリーが巻き込まれたとしよう。シェリー以外の人は繰り返しを知覚できずに毎回記憶がリセットされる。もちろん宮野明美もだ。記憶を引き継いでいない宮野明美の行動が『前回』と『今回』で食い違った場合、シェリーは同一人物だと判断する? それとも姿形が同じなだけの別人として扱う?」


 秋がここまで動揺している大きな要因として、例のあれが前回では起こり得なかった出来事だからというものがある。
 冷静な計算によるロミオトラップにしろ雰囲気に流されるだけにしろ、スコッチ軟禁を決めた時点であの展開が訪れる可能性は織り込み済みだったというのに、『前回』では何も起こらなくて意外に感じていたほどだ。

 だからこそ考えてしまう。
 前回と今回でスコッチの行動が異なるのは何故か。今に至るまでの些細な積み重ねに変化が生じているのではないか。その場合、人格にも僅かな差が出ているのではないか。『前』と『今』の二人は姿形が同じなだけの別人で、自分が憎からず思っていた彼はどこにも存在しないのではないか。


「……………………映画や小説でよくある設定ね」


 かなりの間を置いてシェリーが言った。
 彼女はあごに手を持っていき、床を睨みつけるようにして深く考え込んでしまう。
 またもや沈黙が訪れた。そこまで真剣に考えられると居た堪れない。


「あー……、無理して答えようとしてくれなくても……」

「気にしないで。あなたの言葉で馬鹿げた仮説が一気に現実味を帯びてきただけだから」

「?」

研究こっちの話よ」

「ふーん?」


 一般人の何気ない会話がきっかけで探偵が事件の真相を見抜くのと似た現象だろうか。シェリーはこう見えて優秀な科学者である。きっと先程の例え話がヒントとなって研究が進展しそうだとか、そんな所だろう。

 秋が納得すると同時に考え事が終わったらしく、シェリーは理知的な瞳を細めて話し始めた。


「その思考実験には明確な欠陥がある。対照実験は確認したい物事以外の条件を全て揃えないと成立しないのよ。同一性が不明瞭なお姉ちゃんAとお姉ちゃんB以外の条件が全て揃っている状態で別の未来が訪れて初めて、二人のは異なる存在だと言える。でも『前』と全く同じ状況を作り上げるのは不可能だわ。まず何よりもイレギュラーなのはループしている。『前』の知識がある時点で異なる存在と言えるもの。そんな状態じゃお姉ちゃん以外の要因で異なる未来が訪れた可能性を否定できないし、なんなら可能性はかなり高い。
 蝶の羽ばたきによる小さな撹乱が竜巻を起こすように、少しの差異が大きな未来への変化となり得る。
『今回』の私が『前』の私と寸分違わぬ動きをするわけないでしょう。起きる時間、あくびをするタイミング、食べるもの。全部を『前』と合わせるだなんて芸当できないわよ。それよりももっと大きな変化──お姉ちゃんへ話す内容が微妙に違うとか──も出てくるでしょうね」


 言われて、スコッチと関わったタイミングを順に思い返してみる。
 第一に、軟禁が比較的スムーズにいくよう組織でそこそこ友好的な関係を築く。その時期に交わした雑談の内容が『前』と全然違うことは疑いようもない。
 次に本来よりも少し早いタイミングでNOCバレしたと偽ってセーフハウスに連行。あの日の彼に話す内容はほぼ変わらないはずである。
 記憶を取り戻す手がかりだと睨んでいる彼に死なれては困ると説明した上で、大人しく軟禁されていて欲しいと伝える。もちろん抵抗されないように脅しもする。抵抗の意思を見せたらスマホデータを組織に流出させるぞとか手を出したらどうなるかわかってるんだろうなとか。……ん? 


(……今回は手を出すなって言い忘れてない?)


 絶対にそれだ。スコッチの性格からして前回は律儀に約束を守っていたのだろう。
 壮大に考えすぎていたのが馬鹿らしくなる結論だった。秋は遠い目をして力なく笑う。

 依然として店内では軽快な音楽が流れていた。音楽を聞き流しつつ、会話がこれ以上必要なくなったことをどう伝えようかと思案する。しかし答えが出る前にシェリーが穏やかな声で言った。


「ところでお姉ちゃんだけど頻繁にメールをくれるのよ。私が組織の意向で留学させられた時からの習慣なの。たぶん少しでも寂しい思いをさせないために組織にかけ合ってくれたんだと思う。もちろん検閲されるから暗号なんかも決めたっけ。──仮に別人だとしても同じように私に寄り添ってくれるなら、私が好きな優しさを持っているのなら、そのお姉ちゃんのこともきっと好きになる。これが私の答えよ」


 言い終えた途端恥ずかしさを誤魔化すようにシェリーはそっぽを向いてしまう。

 軽快な音楽が途切れた。
 胸にぽっかりと穴が空いた。そこを冷たい風が吹き抜けていく。

 はじめてシェリーとの断絶を意識した瞬間だった。

 シェリーは愛想がないしひねくれているし変に達観している。組織への恐怖を隠すために強がっているのが原因だろう。
 その息苦しさには心当たりがある。自分に自信がないから自己暗示をかけて偉そうな態度を取るのと構造は同じだ。

 秋はシェリーと自分を重ねていたし、シェリーも同じ感情を自分に向けていると直勘していた。二人の間に仲間意識が横たわっていたからこそ気安い関係を築けたのだと思う。

 だから余計に、彼女との断絶を目の前に叩きつけられて頭をガツンと殴られた気分になる。

 シェリーには心を許せる人がいる。秋にはいない。
 萩原は消えて松田とは関係が絶たれた。『前回』の義理で殉職の原因となる爆破事件を起こさないために手を回しはしたがそれだけだ。直接会ったことはない。
 スコッチはスコッチで行動の変化の明確な理由こそ判明すれど、彼が同一人物である確証はないと来た。

 孤独が浮き彫りになったせいか、隣に立つシェリーがやけに遠く感じられた。



 * * *



 スコッチを助けると決めてから二回目の周では、スコッチが拳銃を手に入れられない状況を作り出した。一般人のふりをして足音の正体を伝える作戦は失敗に終わったためだ。

 あの日は廃ビルの屋上でスコッチと対峙していた。冬の冷たい空気が頬を突き刺してきたのをよく覚えている。

 緊迫した面持で互いを注視する状態が続く。先に視線を外したのはスコッチだった。彼は秋の右胴体をすばやく確認した。いつも拳銃をしまっている場所だ。


「残念ながら拳銃は持ってきてないよ。奪われて自殺されたら敵わない」


 乱入者が現れないよう手は回してある。そこそこ親しくしておいた自分が助けてやると持ちかければ話を聞く姿勢にはなってくれるだろう。勝機はある。


「助けてあげるって言ったらどうする?」

「……ッ!」


 スコッチは信じられないと言わんばかりに目を見開いた。


「本当に?」

「もちろん」


 短く言葉を交わしてから手を差し出す。吸い寄せられるようにスコッチが一歩、二歩と近づいてくる。この瞬間、秋は成功を確信した。

 廃ビルにライやバーボンが向かってくる様子はない。屋上は静けさに包まれている。
 冬の太陽が冷然とした光を発している。日差しに目がくらんで秋は目を細めた。

 ──衝撃。
 世界がひっくり返った。違う。自分がひっくり返ったのだ。スコッチに投げ飛ばされた。


 驚きこそすれど咄嗟に受け身を取ってその勢いで体を起こす。体に痛みはない。手加減されたのか。
 今はどうでもいいはずのことを頭の片隅で考えつつ、慌ててスコッチがいた場所に目を向けた。いない。
 代わりに少し離れた先に影があった。視線を上げる。屋上のフェンスの上にスコッチが立っていた。


「ごめんな」


 彼の姿が見えたのは一瞬。
 それでも彼の瞳に宿った力強い何かが見て取れた。

 少しして人間がコンクリートに叩きつけられる音がした。





 どうしてこんな昔のことを思い出したのかといえば、あのとき彼の瞳に宿っていたものをつい最近目にしたからだ。
 ロミオトラップを仕掛けてくる直前の彼も同じ目をしていた。軟禁初日のスコッチもだ。

 あの目は何なのか、『前』と『今』のスコッチは本当に同一人物と言えるのか。
 これらの疑問に蹴りがついたのは、近頃世間を騒がしている通り魔に遭遇した時だった。
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