そしかいする度に時間が巻き戻るようになった

※R15。15歳未満の方の閲覧には注意が必要な内容が含まれています。

※合意があるのか無いのか微妙なラインで性行為に至ったことを匂わせる描写があります。苦手な方はご注意ください。



 朦朧とする意識の中まぶたをこじ開ける。いつの間にか寝てしまったのだろうか。スマホを探そうとして腕を動かせないことに気がついた。腕だけではなく両足も胴体も全く動かない。唯一動かせるのは頭だけだ。


「あ、起きた?」

「アド、ニス……?」

「正解」


 いつも通りのドヤ顔に似た笑顔を浮かべる彼女を認識すると共に、徐々に意識が覚醒し始めた。彼女が座っているのは黒いソファー。
 ソファーにも、その後ろに広がっている殺風景な内装にも見覚えはない。知らない場所だ。
 混乱しつつ視線をおろすとベルトで椅子に拘束されている自身の体が見えて、やっと状況が把握できた。俺は組織の幹部に拘束されている。


「公安の潜入捜査官なんだってね。組織中に知れ渡ってるよ。スコッチを見つけ次第殺せって命令が幹部に一斉送信されてから一時間くらいかな」

「一時間前ってなると……」

「そう。私とスコッチが二人で任務をこなしていたとき。任務が終わってからスコッチを気絶させてこのセーフハウスまで運んだんだよ」


 アドニスの説明を聞いて思わず舌打ちしたくなった。組織に長いこと属している幹部と行動しているときに連絡がまわるだなんてタイミングが悪い。

 俺はこれから取れる行動をいくつもシュミレートする。最高の結末は何事もなく逃げ切ること。しかしこれは不可能に近い。現実的であり公安警察として最も国益に貢献する方法を打ち出すべきだ。
 考えだしてから数秒にも満たないうちに答えへ辿り着いた。自殺だ。せめて|降谷《ゼロ》の情報が組織に知られないようスマホを破壊する形で自殺を遂げなくては。

 決意を固めた俺の心情など知らずにアドニスは悠々と足を組み替えて言う。


「まぁでも私は優しいからね。助けてあげるよ。大幹部の私が殺したって言えばロクに裏取りもされずにスコッチの死亡は確定する。生きていようがバレるわけがない」

「……なんて?」


 思わず聞き返してしまった。
 アドニスは俺から視線を外し、顎に手を当てて何やら考え始める。


「理由を説明してあげたいのは山々だけどその前に舐められない程度に脅しとかなきゃだしなぁ……。よし、巻きでいこう」


 俺に聞こえない音量でブツブツ言った後、彼女は親指と人差し指とを擦り合わせた。空気を切る虚しい音がする。
 どうやら指を鳴らそうとして失敗したらしい。彼女は恨めしげに自分の指を見てから誤魔化すように腕を振り、綺麗な笑顔を貼り付け、説明を再開した。


「もちろん条件はあるよ。私と一緒にこのセーフハウスで過ごすこと。もちろん反抗の意思がないって私が納得するまでネット類や外出は禁止。公安への連絡なんてもってのほかだ。つまりまぁ、好きなだけ娯楽品は支給するから引きこもりしててよ」


 言いながら彼女はズボンのポケットからスマホを取り出す。見覚えのあるフォルム。俺のスマホだ。
 いくら抜けているように見えても彼女は組織の幹部。油断ならない相手だと再確認する。現に先回りされているのだ。家族や仲間の情報が、何よりバーボンの正体を示す手がかりが入っているあのスマホを奪われるのは最悪の展開と言える。
 ポーカーフェイスすら忘れて睨みつける俺の焦りとは正反対に、彼女は自信ありげに胸を張った。ゆるりと弧を描いた唇を釣り上げる。


「このスマホに入ってるデータ、組織に流されると困るんじゃないかなあ」

「……俺に見せたってことは脅しに使うつもりなんだな」

「そう。スコッチが自殺したら組織にデータを流す。さらに私が死んだ場合もデータが組織に流れるように手を回してある。つまり相打ち覚悟で私を殺してデータを始末する手段も消えたわけだね。どうせ見られたら困るんでしょ?」

「あー、要するにそれが嫌だったらさっき言ってたようにこのセーフハウスで過ごせって? どうして?」

「スコッチに死なれると困るから」


 答えを聞いてもより混乱しただけだった。
 釈然としない様子の俺を見てアドニスは視線を斜め上に放る。どう説明したものか迷っている様子だ。
 やがて、ややそうしていた後で口を開く。


「部分的な記憶喪失なんだよ、私」


 彼女はその呟きを皮切りにポツポツと言葉を捻り出した。
 アドニスは一部の記憶があやふやらしい。
 例えば組織に入った理由を覚えていない。どのような手順を踏んで組織に入ったのかは覚えているが、当時の感情がすっぽりと抜け落ちているそうだ。過去を思い返すと他人のホームビデオを見ている気分になるとか。
 まるで整合性を整えるためにそれらしい記憶をあとから埋め込まれたようだと言っていた。


「で、私はスコッチが記憶を取り戻す鍵だと睨んでる。うーん、なんて言うかスコッチに関する件で体が勝手に動いたことがあった、みたいな」


 視線をさまよわせて急にしどろもどろになる。アドニスが隠したがるようなことが起こったのだろう。
 よく分からないが一つだけ確定したことがあった。


「わかった。記憶を取り戻す唯一の手がかりである俺に死なれると困るんだな」

「そーそー」


 返事は上滑りしていた。
 彼女からは記憶を取り戻したいという気持ちが一切読み取れない。そういうポーズを取っているだけで実際は記憶など心底どうでもいいように見える。
 むしろ忘れている現状に安堵すら覚えているような──。

 そこまで考えて思考を打ち消す。自由に体が動けば両頬を叩いていただろう。


(とにかく今考えるべきなのはアドニスの真意じゃない。公安警察官としてどう行動するかだ。国益という大きな括りで今の状況を俯瞰しろ。潜入捜査を任される程度には優秀な捜査官が二人、危険な状態にある。諸伏景光と降谷零だ。諸伏が死ねば降谷がNOCであると情報が流されてしまう現状では、降谷の安全を確保するためにも諸伏が生存を目指すべきなのは間違いない)


 ……方針は決まった。
 俺はスコッチの仮面をかぶる。快活な笑顔、言葉はちょっとぶっきらぼうに。


「理由はわかったよ。今日からよろしくな」


 握手のために手を差し出そうとして拘束されたままであることに気がついた。





 * * *





 そうして始まった同居生活の中、俺はさりげなく情報を集め続けた。おかげで判明した事実がいくつかある。

 一つ、俺たちが住んでいるのはタワーマンション。窓から見える景色から判断して二十階目前後の部屋だろう。

 二つ、アドニスの金回りはすこぶる良い。
 成人男性一人が突然生活に加わっても問題ないだけの広さを持つセーフハウスを所有していたのもそうだし、人一人が生活するのに必要な物資を躊躇なく購入できたことからも予想はついた。
 それに共同生活が始まってしばらくの間は俺を監視するためのカメラやマイクも必要だったはずだ。逃亡対策でセーフハウスのセキュリティも見直しただろう。その上で彼女は金銭面を気にするそぶりを一切見せなかった。
 おまけに探りを入れてみても「私ほどになると未来を見通すのもわけなくてね。株や宝くじ、競馬でもいいか。その気になれば適当な方法で簡単に大金を手に入れられるんだよ」と煙に撒かれる始末だ。

 三つ、これは時間の経過によって自然と判明したことだが、アドニスには俺の尊厳を踏み躙る意思はないらしい。
 極めて利己的な理由による軟禁なので道具のように扱われるのも覚悟していたが、彼女の態度は同じ組織のコードネーム持ちとして任務に当たっていた時と変わらなかった。

 それに加えてこちらの精神面を気にかけている様子も見受けられる。俺に反抗の意思がないと証明されてからの話だが、インターネットを始めとした気を紛らわせる道具の支給、条件付きではあるものの外出の許可も出された。

 何より助かるのが、言い出しにくい困りごとができたタイミングで毎回声をかけてくれること。あまりにもタイミングが良すぎて、その時期に些細な問題が起こることを知っていたのではないかと少し疑ってしまったほどだ。

 毎日のように気を張り詰めている必要はないと判断するのに時間はかからなかった。


 そして半年が経過した今ではアドニスがどのような人物なのかもおおよそ掴めている。一言で表すと、大人になるまでに必要な過程をいくつかすっ飛ばしてここまで来た人間。劣等感や恐怖、低い自己肯定感、悲しみなどから目を背けるために自画自賛をする癖がある。あれは一種の自己暗示だと思う。
 行き過ぎた自己暗示は内部まで浸透して本心と暗示との境目をなくす。同時に自分の感情に鈍くなる。彼女はまさにそれだった。感情から目を逸らしすぎたせいで自分の好物すらロクに把握していない。

 だからまあ、好意を向けてる相手がいるのに自分の感情に気づかないなんてことも大いにあり得るわけだ。

 そして自分が置かれている状況。


(記憶を取り戻すためか、記憶を取り戻したがってるフリをするためか、どちらだろうがそれだけの理由で男と一緒に寝食を共にするわけがない。特に自信のなさの裏返しでプライドが高いアドニスのことだ。つまらない相手と“そういうこと“が起こる可能性は極力排除するはずで、それなのにこの状況になってるってことは……)


 自惚れだと思う。とてつもなく恥ずかしいことを考えている自覚はある。
 だが考えれば考えるほどこの結論が強化されるのだ。


(少なくとも好意は持たれているし間違いが起こってもまあいいかくらいには思われているんじゃないか……?)


 復習しよう。
 俺が第一に目指すべきは生存。
 次に考えるのがアドニスの籠絡。成功すれば一気に動きやすくなるし、古くから組織に在籍している幹部と公安との司法取引も見えてくる。やがてそれが黒の組織壊滅の契機となるかもしれない。
 そして先ほど導き出した前提条件。

 これらの情報から最適解を導き出せ。倫理観や道徳心は後回しだ。スコッチとして組織に潜っている間に何度も闇に葬った。それらを後生大事に抱えるよりも組織の幹部を寝返らせるチャンスのほうがよっぽど重要なのは考えるまでもない。

 解はすぐに見つかった。
 そもそも対象がこちらにそこそこ好意を抱いていて一つ屋根の下という状況で選ぶ答えは決まっている。ロミオトラップ。色仕掛けだ。

 しかし問題が一つだけある。


(俺、ロミトラの適正ないんだよなぁ。成功した試しがないし)


 どうやら俺は相手のことが好きだとアピールするのがめっぽう下手くそらしい。落とそうとした女性には口を揃えて「他に好きな人がいるよね」「忘れられない人がいるでしょう?」と言われ続けてきた。
 任務で利用しようとした相手どころか本命にすらこれだ。恋人ができても他に好きな人がいると勘違いされてすぐに振られてしまう。
 もちろん今までの人生を振り返っても忘れられない人なんていない。彼女たちとは自分ながらに恋人として精一杯向き合おうとした。それでも信じてはもらえなかったし、彼女たちは口を揃えてこう言うのだ。「ずっと誰かを探してるんだもん」

 きっと自分は恋愛方面に関して淡白なのだと思う。
 どうにも恋人らしい触れ合いをしたり愛を囁いたりする気になれないのだ。いざやろうとしても座りの悪さを感じてしまう。


 だから相手に恋愛感情を持っていることを匂わせ、逆に向こうから好意を持たれるよう仕向ける方法は使えない。愛を囁き続けて相手が折れるのを待つだなんてもっての外だ。
 俺がかろうじて出来そうなのはもっと強引なロミオトラップ。肉体関係を持つ方法だ。
 公安で行われた研修の受け売りだが、女性は一度体の関係を持った男性に心を開きやすくなる傾向があるし、好意を持ちやすくなる傾向もある。目的達成において強力な一手だ。勝機もある。これが一番合理的な選択だと思う。



 俺は普段通りの顔をしてリビングへ立ち入った。
 ソファーに座って映画を観ているアドニスの元へ向かう。彼女はいつも通りリモコンを片手に早送りしたテレビ画面を見つめていた。
 画面の移り変わりが早すぎて、中身がごっそり抜け落ちたパラパラ漫画を眺めている気分になる。これではストーリーを理解できないが、彼女に物語を楽しむつもりはないので支障はない。
 目的のシーンをくり返し見て演技の参考にするのだとか。裏社会で生きていく以上本心を悟られない手段は必須となる。


 俺は彼女の隣、少し顔を動かせば互いの息がかかるほど近い位置に腰を下ろした。
 チラリと視線を向けられたので笑顔を向けておく。不思議そうにしながらも彼女の視線がテレビに戻った。不快感は見られない。

 宙を睨みつけるようにして気合を入れ直してから、ソファーに投げ出されたアドニスの指に自身の指を絡める。隣でピクリと身じろぐ気配がした。無骨な俺のものとは全然違う女性の指だった。





 * * *





 アドニスは俺が起きるよりも前に出かけていて、玄関から鍵を開ける音がしたのは夜九時をまわった頃だった。珍しい音に目を瞬く。
 普段彼女はチャイムを鳴らすのだ。俺が出迎える時の表情からして、家に鍵を開けてくれる誰かがいるのが嬉しいのだと思う。


(昨日の今日で気まずいから顔を合わせるのを少しでも遅らせたかったってところか)


 すでにアドニスの性格は把握しているので心情も簡単に予測がつく。俺はささやかな抵抗をしっかりと理解した上で玄関へ出迎えに行った。

 彼女は靴を脱ぎ終わったところだった。俺の顔を見て気まずそうに目を逸らす。


「おかえり」

「……ただいま」

「にしても起きたら居なくなってたのには驚いたよ。急用が入ったんだっけ?」

「そう。シェリーにどうしてもって頼まれて研究所にね」

「それでこんな遅くまで? いくらなんでも時間がかかりすぎじゃないか?」

「その後シェリーに付き合ってたんだよ。なんでも今日は姉との面会日だったらしくて、大勢の監視員なしで外出したいから代わりに幹部であるアドニスが見張り役をしろって。結局夕飯にまで付き合わされてさ」

「あれ? でもシェリーは面会がある日は必ず一日中休みを取るって前に言ってなかったっけ。研究所にいるシェリーに頼まれて外出したんだよな」


 俺に指摘されてアドニスの肩が大きく跳ねた。言い訳を探すこと数秒、思いつかなかったらしく「さーて! 手洗いするか!」と言い残して洗面所に向かう。
 俺と顔を合わせるのが気まずくて予定を捻じ込んだのは一目瞭然だった。変なところで律儀なのでまるっきりの嘘ではなく実際に予定を入れたのだろう。
 彼女が逃げ込んだ扉を見ていると少し笑えてきた。反応がいいのでついつい揶揄ってしまうのだ。



 数分後にアドニスがリビングへ入ってきた。俺を視界に入れた瞬間スッと目を逸らされたので彼女に近づいてみる。


「なんかよそよそしくないか? もしかして昨日のこと意識してたり……」

「ま、まさか。完璧を体現している私があれだけのことで動揺すると思う!?」


 近づいていたおかげで瞳孔が動く様子をしっかりと確認できた。目を見れば大抵のことがわかる。訓練して意図的に動かすことができないパーツだからだ。故に一流のスパイなんかは目を見られること自体を避ける。
 裏社会に身を置いている以上アドニスも知っているはずだが、そこまで頭が回らないほど動揺しているのか。というか、あの台詞のせいで瞳孔を確認するまでもなく動揺していることは明白だった。


(それにしても……)


 なんだか喉に小骨が引っかかったような違和感を覚えた。アドニスが何か早口で言っているのを聞き流して考え込む。


「動揺ねぇ。たったあれだけのことで動揺するほど純情でもないよ。セックスする友人がいるんだからセックスする同居人がいてもいいはずだし何もおかしくないでしょ。この関係を始める時だっていい歳した男女が一緒に住むんだからこの展開も織り込み済みだった。この状況で動揺するだなんて相手が好きな人だからくらいしか…………ん? なんか変な方向に思考が逸れてたような……まあいいか!」


 完璧。この単語が引っかかったんだ。


「むしろ隙だらけのところが味だと思うけどなぁ、俺は。実際完璧って言われて違和感すごかったし」


 しばらく考えてやっと答えに辿り着いた達成感からか、つい口にしてしまった。
 何気なしに零してからハッとする。確実に墓穴を掘った。あれはプライドを傷つける発言だ。

 最近気づいたことだが、彼女は自分を過剰に褒め称える時に周りから向けられたい評価を口にしている。つまり完璧だと思われたかったわけであり、そこを指摘してしまえば気分を害するのは想像に難くない。


「あーっと、そうじゃなくて……」


 俺は慌てて言い訳をしようとして、アドニスの顔を見た瞬間考えていた言葉が全部吹き飛んだ。
 彼女の顔に浮かんでいたのは驚き。目を丸くして口をポカンと開けている。それからワンテンポ遅れてほんのり頬が色づいた。


(……喜んでる、のか?)


 彼女の反応を意外に思う。同時に強烈な既視感が襲ってきた。
 ……前にも同じようなことがなかったか? 確かに似たようなことが以前あった。……気がするような、しないような。
 途端に自信がなくなる。時間が経てば経つほどただの勘違いだと思えてきた。
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