そしかいする度に時間が巻き戻るようになった

 銃弾が日下部のスマホを吹き飛ばしたのと同時に、萩原と松田が走り出した。
 彼らは驚くほど速く階段を駆け上がり、吹き上げの廊下に出る。そこから日下部を拘束するまでは一瞬だった。
 日下部の身動きが封じられたのを階下から確認して、秋は小走りでエントランスホールに向かう。
 エントランスホールでは予想通り混乱が起こりかけていた。先ほどの銃声のせいだ。

 初対面同士だろう。偶然居合わせた宿泊客たちがひそひそと話している。
 少し離れたフロント付近ではスタッフたちが困惑しきった顔を突き合わせている。あまりこういったことに慣れていないのか、話し合いが堂々巡りしているのが見受けられた。
 非日常でもなお、自分の判断に自信が持てる人間はごく僅かだ。スタッフたちは大多数側の人間の集まりらしく、責任を負いたくないとばかりに対応への明言を避けている。宿泊客の話に耳をそばだて、彼らが口にする突拍子のない予想にいちいち肩をビクつかせてもいた。

 この様子なら、客同士の会話を誘導してやれば、その結論がそのままスタッフの結論になるだろう。
 秋は自然な顔で宿泊客の輪に入りこんだ。
 あとは簡単だ。効果的なタイミングで適切な言葉を発すれば、話の流れを誘導できる。

 無事、思い通りの結論──エンジンの中で燃焼しきらなかったガスが引火して起こった自動車の小規模爆発によって、発砲音そっくりな音が出たという予想──を客に導き出させたのは数分後だった。
 聞き耳を立てていたスタッフ一同の雰囲気も和らぐ。

 あれは銃声ではなくバックファイアーによるものだと人々が信じきったのを確認して、秋は小広間に戻った。
 小広間の端にある階段へ向かう途中、日下部のスマホを拾う。銃で吹き飛ばしたときに上の廊下から落ちたのだ。
 回収したスマホをポケットにねじ込み、小広間端にある階段を登った。

 吹き抜けの廊下へ出ると、取っ組み合っている三人が見えた。手錠をかけられてもなお盛大に暴れる日下部、それを抑える萩原と松田。
 どこかから鳴っている着信音をかき消すほど大きな声で、日下部が怒鳴った。


「離せ! 私にはまだ無人探査機を警視庁に落下させて公安の権威を地に落とす使命があるんだ!」

「ずっと思ってたけどポテンシャル高いな!? なんで一介の検事が数ヶ月でハッキング覚えてんだよ! あ、間宮ちゃんいいところに! 腕押さえるの代わってくれ! 固定するだけで力はそんなに必要ないから!」


 言われた通り、萩原がやっていたように日下部の両腕を拘束する。
 萩原は離れた場所に移動してポケットからスマホを取り出していた。くぐもっていた着信音がはっきりと聞こえる。着信を告げていたのは彼のスマホだったようだ。
 彼は画面をタップして電話に出た。なにやら話し込んでいるが日下部の騒ぎ声でなにも聞こえない。


「私は薄汚い公安警察に鉄槌を下さなければならないんだ! あいつらのせいで羽場は、羽場は……!」

「あー……、その羽場だけどさぁ」


 スマホを手に持ったまま、こちらに戻ってきた萩原が気まずそうな顔で言った。
 彼はスマホ画面を日下部に見せる。


「騒いでたから会話聞こえなかっただろうけど、公安が取り繋いでくれてこの人からビデオ電話がかかってきたんだ」


 言われて、秋もスマホ画面に目をやる。
 画面の向こう側には長い髪をひとくくりにした男がいた。
 男は様々な感情が混じり合った顔で協力者の名前を呼ぶ。


『日下部さん……』

「………………羽場?」


 呆然と日下部がつぶやく。これでもかというほど見開かれた目蓋から瞳がこぼれ落ちそうだった。

 羽場は眉を下げて、形容しがたい感情が渦巻いていると一目でわかる表情をする。
 それから、ゆっくりとこれまでの経緯を語り出した。

 窃盗罪で羽場が逮捕された直後。公安検事が協力者を使っていたという事実を隠蔽するため、公安警察は羽場の自殺を偽装することにしたそうだ。
 そして協力者の逮捕を防げなかった日下部には協力者を満足に使いこなす能力がないと判断され、同じことが二度と起きないよう彼にも真実が伏せられた。
 名前を変えた今は公安警察の協力者として動いているらしい。


「ただしアンタの執念を考えれば羽場が生きてることを知らせない限り抵抗し続けるだろうからって俺の友達が手を回してくれたわけだけど……聞こえてねえな」


 萩原が付け加えた通り、日下部は完全に放心しきっていた。一言も発さずに脱力し、拘束を振りほどこうと暴れることもない。

 秋はおそるおそる日下部を押さえる手を離してみた。日下部はピクリとも動かない。
 今度は彼の目の前で手をふる。視線すら動かさない。
 これなら大丈夫だろうと、最後に日下部の右手を持ち上げ、ここに来る途中で拾った彼のスマホのホームボタンに人差し指を押し付けた。スマホの指紋認証が解除されても、日下部は動こうとしなかった。

 いくつか操作をして、Norを使った不正アクセスの痕跡が残っているのを確認する。これを証拠に逮捕できるはずだ。
 データが破損するほどの損傷がなかったことに安堵の息をついたタイミングで横から声がかかった。松田だ。


「なんか色んなことが空回ってたんだな」

「だね。羽場が生きてただなんて盛大な肩透かしを食らった気分だよ。にしても、昨夜の様子からしてもっと感情をあらわにするかと思ってたのに意外と冷静なんだね。説教の一つや二つかますかと」

「正義を大義名分に好き勝手やってもロクなことにならないって実例が目の前にあるだろーが」

「ふーん?」

「俺たちの役目は終わってんだ。ここからは公安の管轄だぜ」


 そういうものなのだろうか。よく分からない。
 分からないが、彼の言葉に引っかかりを覚えた。


「……公安?」


 なにか、とても大事なことを忘れている気がする。


「忘れてることがある気がするんだけど」

「奇遇だな俺もだ」


 互いに首を傾げ合う。
 しばらく考え込んでも答えは一向に出そうになかった。
 諸々のやり取りを終えてテレビ通話を切ったばかりの萩原に、しびれを切らした松田が声をかける。


「おーい萩、お前なにか心当たりねえか?」

「風見さんじゃね? マンションに置いてきたままだろ」

「「あ」」

「俺も今気づいたわ。犯人引き取ってもらうために顔合わせるの気まずいなぁ」


 言いながら、萩原は笑顔を浮かべていた。
 肌はボロボロ、目の下には濃い隈があるくせに、彼の顔には疲労よりも達成感の色が強く出ている。
 松田も同じ表情だった。
 これはあれだ、徹夜明けに変なテンションになる現象だ。

 そこまで考えて自分の口元がほころんでいるのに気づいた。


「お前笑ってんぞ」

「そっちこそ」

「やっと解決したからなぁ」


 言い合いながら三人で笑い合う。屋内なのに、爽やかな風が吹き抜けていった気がした。
 だんだんと笑い声が大きくなり、しまいには辺りに三人の馬鹿笑いが響きわたる。
 ガラス張りの天井から、まるで屋外にいるように燦々と日光が降り注ぐ。


 何がおかしいのかひたすら笑い続けて、頬の筋肉が痛みだした頃に、伊達とその恋人が小広間に足を踏み入れた。


「あ、班長」


 真っ先に伊達を見つけた松田が、みるみる悪ガキそっくりな笑顔を浮かべる。彼は手すりに駆け寄り身を乗り出して、ワンフロア下を歩く伊達に大声で叫んだ。


「バーカ! 式場の下見にくるのが早すぎんだよ! そのせいでとんだ手間かかったんだからな!」

「は!? え? 松田?」


 萩原もニッと笑って松田の隣に駆け寄る。


「おーい、班長ー! これだけ苦労したんだから結婚式には呼べよー! 絶対だぞ!」

「そりゃあ呼ぶけど……そもそもなんでお前らここにいるんだよ!?」


 流れに乗っかった萩原にも伊達が怒鳴り返す。しかし言葉とは裏腹に、伊達は気安い友人へ向ける顔をしていた。

 完全に部外者である秋はそのまま、へたり込んでいる日下部の隣で三人の応酬を眺める。

 平和な光景だ。日下部の犯行を阻止した今、この日々がずっと続いていくのだと思えた。
 どういうわけか、また笑いが込み上げてきた。





 * * *





 秋は髪の付け根に指をさしこんでからガンッと勢いよく自室の机に肘をついた。
 そのまま髪をぐちゃぐちゃにかき回す。それでも羞恥心は消えてくれないどころか増す一方だ。


(なんっだ、あの青春さわやかストーリーみたいな雰囲気は!?)


 萩原たちと別れたあと仮眠をして冷静な思考を取り戻した今、秋は数時間前の行動を激しく後悔していた。
 失敗した。完全に失敗した。徹夜明けの謎テンションのせいでかなり恥ずかしい行動を取ってしまった気がする。


(なに、あの、なに!? あんな年甲斐もなく子供のようにはしゃいで……もうやだ……消えたい……)


 思い出すだけで顔から火が出そうだ。
 常に余裕を崩さないクール美女という自分のイメージが崩壊したらどうしようと秋は思った。残念ながら彼女の自己認識を正してくれる人間はこの場にいない。


「まあいいや、思考を切り替えよう、うん」


 ぐちゃぐちゃになった髪を整えながら深呼吸する。少しだけ気分が落ち着いたので、記憶をたどって気を紛らわせそうなネタを探し始める。
 真っ先に出てきたのは日下部誠のことだった。


(なんか色々言われてたけど、もしも羽場二三一が本当に死んでたら日下部がやったことってそこまで悪くなくない?)


 ずっと引っかかっていたことだ。
 何度も友人を殺されていた萩原と松田の手前口に出すことはできなかったが、どんどんとその考えが肥大していく。日下部は別に悪くないだろう。


(第三者の意見を聞きたいな。スコッチでいっか)


 秋は思いつくなり立ち上がると、くるりと百八十度回転した。今まで背中を向けていた壁に向かって声を張る。


「スコッチー。話があるからリビングに来てー」

「今行くー」


 すぐに隣にあるスコッチの自室から返事がかえってきた。
 一緒に住むようになってはじめのうちは律儀に部屋の前まで移動していたが、やがて用事がある時は壁越しに呼びかける習慣がついたのだ。いちいち部屋前まで移動するのは面倒くさい。



 リビングで合流して、どちらともなく食卓テーブルの定位置に腰かけてから、秋は話を切り出した。


「ほら、今まで追ってた事件が解決したって仮眠前に話したじゃん。その犯人が大切な人の仇を取るために復讐に走っててさ。結局復讐の内容は勘違いだったんだけど、もしも勘違いじゃなくて本当に大切な人が自殺に追い込まれてたんなら、犯人そこまで悪くなくない?」

「いや悪いだろ。どんな理由があっても罪は軽くならないし償うべきだと俺は思ってるよ」

「うわー、生真面目」


 一瞬表情が削ぎ落ちてしまったが、すぐにヘラりと笑っておちゃらけた態度をとる。鉛が胸に落とされた気分になったと知られたくない。
 しかしスコッチは隠したかった秋の本心にめざとく気づいてしまう。


「その反応……。そうか。アドニスはさっきの犯人と自分を重ねてたんだな」

「は? 何言って、」

「……言いにくいけど、心構えがあるのとないのとでは全然違うから言うよ。
忘れてる記憶を取り戻すために俺を軟禁するとか言ってたけど、記憶を取り戻そうとするポーズを取りたいだけで、本当に思い出したいわけじゃないんだろ? いや、少し違うか。失っている記憶の内容が望みと違ったら立ち直れなくなるから、色々と理由をつけて行動しないでいるんだ」


 スコッチは言いづらそうに少しのあいだ目を伏せた後、覚悟を決めたように秋の目を見つめる。


「自分が犯罪に手を染めたのは致し方ない理由があったからで、だから許されるはずだって希望に縋ってる。違う?」


 心臓がミシリと嫌な音を立てた。
 嫌だ、それ以上聞きたくない。
 これは自分が求めていた答えではない。


「……思考を停止させるのは楽だし、苦しい現実と向き合うつらさも理解しているつもりだから、逃げるスタンス自体は否定しない。
でも君は組織にいるのが不思議なくらい平凡だろ。仮にアドニスが求めている致し方ない理由ってのが見つかったとしても、君が、犯罪を犯すだけの境遇だったんだから仕方がないって完全に自分を納得させられるわけがない。そうするには不器用すぎるんだ」


 分かったような口をきくなと怒るべきなのに、唇は縫い付けられたように開いてくれなかった。図星だからだ。


「断言するけど、望み通りの過去が見つかったとしても、自画自賛して恐怖心を紛らわしてる今みたいに、あんな過去があるから仕方ないんだって必死で自己暗示をかけるだけになるよ。罪悪感から目を背ける口実ができるだけで、罪悪感そのものがなくなるわけじゃない。それでいて君は今の時点で許されたがってるんだから、罪悪感から目を逸らし続けられるわけがない。
アドニスは罪と向き合わない限り楽になれないんだ」


 心が丸裸にされる。
 見たくない部分を強制的に見せられる恐怖と、隠していた部分を暴かれる羞恥心で身体がすくむ。


「なんで、」


 秋は蚊の鳴くような声で言った。


「どうして、スコッチがそんな指摘、」


 あの質問をした時、スコッチなら肯定してくれるはずだと秋は確信していた。だからこそ相談相手に彼を選んだのだ。

 秋とスコッチは対等な立場ではない。軟禁する側とされる側。一方的に命を握る側と握られる側。

 そしてスコッチは公安の捜査官。国益のために動く立場だ。今の最優先事項は黒の組織幹部である秋の籠絡あたりだろうか。

 だからスコッチは、どれだけ本心と乖離していても秋が望んでいる耳障りのいい言葉をかけるべきなのだ。
 今からでも、思ってもいない気休めの言葉をかけてほしい。そうすれば現実逃避していられる。

 しかしスコッチは秋の願いをバッサリと切り捨てた。先ほどの言葉を撤回せずに話を続ける。


「公安警察官としての最適解を選ぶだけなら、今のはどうしようもない愚行だってのはわかってるよ。その上で指摘した。だって、」


 彼は懐かしさと悲しさが見え隠れするほほえみを浮かべ、て、



 思考にノイズが走った。
 スコッチが消えた。
 代わりに、秋の目の前には確かに知っている誰かが立っていた。
 その人物が口を動かす。

 ────君は昔のオレと似てるんだ

 幻覚が現れたのは刹那。瞬きにすら満たないほんの僅かな時間だった。
 何者かの幻影は、泡のように一瞬でかき消える。


「──ッ!」


 すぐに意識が現実に戻った。
 全力疾走した直後のように心臓がバクバク言っている。
 激しい心音は何かを思い出したからで…………何を思い出したんだ? 
 やがて不思議に思う気持ちすら忘却の彼方へ消えていった。


「じゃ、そういうことだから。ちょっと変な空気になっちゃったな」


 スコッチがいつも通りの笑顔を浮かべたことで、話題が終了した空気になった。
 秋は先ほどのやりとり全てを頭の片隅に追いやって蓋をした。嫌なことは忘れるに限る。
 スコッチの指摘通り目を逸らしても根本的な解決にはならないのだろうが、今が楽ならそれでいい。

 最後の仕上げだ。
 スゥと小さく息を吐いて頭の中で唱える。


(私は素晴らしい私は素晴らしい、間宮秋様サイコー、そういえば植物に美しいものの名前を聞かせるといいって聞いたことあるな。シェリーが育ててるサボテンに間宮秋って唱え続けてあげよう…………よしっ)


 思考が完全に切り替わった。
 自然と普段通りの笑みが浮かぶ。尊大で偉そうで常に自信満々な、計算され尽くした『間宮秋』の顔だ。

 秋の突然の変わりようにスコッチは目を丸くした後すぐに納得した様子を見せた。いつものやつか、と言いたげな表情だ。
 彼は気を遣っているのか普段よりも明るい調子で尋ねてくる。


「そういえば今まで調べてた事件ってアドニスだけで調べてたわけじゃないんだろ? 他の人たちとどんな関係性だったんだ?」

「うーん、なんだろ」


 改めて考えてみてもしっくりくる答えは全然思い浮かばない。
 元々は利害の一致で結ばれた間柄だったが、それとは違う気がする。
 改めて彼らとの関係性をラベリングしようとしても何も思い浮かばなかった。





 * * *





 萩原、松田と再び集まったのは、日下部誠逮捕から一ヶ月後だった。
 期限までに犯人逮捕が叶わず八月一日にも伊達の命が狙われた場合に備えて松田が有給を取得していたため、三人の予定が噛み合ったのだ。

 全員で集まった目的は二つある。一つは伊達殺害犯探し終了のお疲れ様パーティー。しかしこれはついでに過ぎない。
 メインは失恋した松田を慰める会だ。

 そう、松田は失恋した。
 なんでも佐藤は高木とくっついたらしい。奥手そうな高木がアプローチを始めた原因は伊達。
 萩原が教えてくれた話によると、松田の思いを知らなかった伊達が高木の背中を押したせいで二人はゴールインしたそうだ。


「ていうか失恋した松田を慰める会の会場が毛利探偵事務所って、上司がいないとはいえ流石にどうなの? 助手が私用で使ってるってまずくない?」

「間宮ちゃんもしかして今までも無許可で使ってると思ってた?」

「違うの?」

「んなわけねえだろ。小五郎さんに許可もらってたんだよ。事務所が閉まってても問題ない日に席はずしてくれたりとかさ。今回だって、事件かなんか解決したみてえだし今日は事務所使わないから打ち上げにでも使え、だってさ。深く聞かれたことはないけど、なんとなく俺の行動に気づいてたっぽいんだよな、小五郎さん」

「あのオッサン意外と鋭いもんな」


 松田が口を挟んだ。元刑事の先輩に対して随分な物言いだ。失恋の傷をごまかすために憎まれ口を叩いているのかもしれない。
 秋は松田の肩にポンと手を置いた。


「あー、ほら、なんだ。恋愛だけが全てじゃないし、ね?」

「ね? じゃねえよ。変な同情しやがって」


 松田が半目になってぼやいたところで、萩原が軽い調子で割って入った。


「間宮ちゃんもそんな深刻にならなくて大丈夫だって。恋にも満たない淡い気持ちだったから失恋って感じでもないし。じゃなきゃ俺も囃し立てたりしねえよ」

「でも昔、『佐藤のほうがお前よりも百倍いい女だ』とか言われたけど……」

「知ってるか? 被乗数がゼロに限りなく近い数なら解は小せえんだよ」


 被乗数の意味はわからないが貶されたのはわかった。


「目ん玉腐ってるの?」

「あの時のお前の印象、後ろ暗いことがありそうな上にずっと自画自賛してるヤバい奴だったんだよ」

「後ろ暗いって尾行のこと? だからあれは知り合いの探偵に教えてもらったんだってば」

「言っとくけどお前の中の探偵像、相当おかしいからな。盗聴や尾行ばかりか躊躇なく発砲する言い訳になってねえんだよ。班長を助けてくれた恩があって、ダチだから見逃してるってだけで、そうじゃなきゃ普通にしょっぴいてるぞ」

「とも、だち……?」


 驚きすぎて声がひっくり返る。
 同時に、妙にしっくり来る響きだと思った。
 そうか、友達か。


「ダチじゃなけりゃ怪しさ満載のお前なんてすぐに突き出してるに決まってるだろーが。相変わらず萩がはじめからお前を信用していた理由はわからずじまいだけど」

「あったねー、そんな謎」


 松田が何事もなかったかのように話を続けてくれたおかげで、大きな動揺を見せてしまった気恥ずかしさはしぼんでいき、すぐに消えた。

 普段通りの気軽さで言葉を返してから、なんとなく二人して萩原に目をやる。彼はにっこりと笑って立ち上がった。そのままこちら側のソファーの背後にまわり、勢いをつけて松田の肩を抱く。


「にしても騒いでるうちに元気になってきて安心したぜ。とにかく佐藤ちゃんのことは気にすんなよ、俺たちがいるじゃねえか。ま、俺彼女いるけど」

「テッメエ……」


 松田が青筋を浮かべて言い返したのが後押しとなって話の流れが完全に変わる。


「たしか付き合い始めたばっかだろ。どうせ三ヶ月後には振られてっぞ」

「振られ文句は『事件と私どっちが大事なのよ!』だね。賭けてもいい」

「ひっでー」


 萩原がケラケラと笑いながら言った。恋愛のスパンが短い自覚はあるのだろう。
 なまじモテるので恋人には困らないようだが彼はすぐに振られる。探偵という職業が死ぬほど恋愛に不向きなせいだ。


 和やかな空気の中ノック音がした。探偵事務所の扉からだ。


「お、来た来た。ポアロでハムサンド注文しといたんだよ」


 萩原が言いながら扉に向かう。
 何気なしに視線を向けていると開けられた扉の奥に金色が見えた。
 立っていたのは男性店員だった。ハムサンドを持ってポアロのエプロンをつけているので間違いない。噂に聞いていた頭の切れる店員とは彼のことなのだろう。
 やけに見覚えのある男だ。
 というかバーボンだった。

 秋はピシリと固まった。

 本来なら彼がここにいるはずがない。
 なにせ今までのどの周でも、バーボンが安室透としてポアロで働き始めるのは一年後。まだまだ先のはずだ。
 確実に未来が変わっている。

 未来が変わった心当たりに考えを巡らせていると、バーボンがこちらに気づいた。
 二人の視線が交わる。秋の姿を捉えたバーボンの目が少し丸くなり、スッと冷たく細められた。一瞬、不穏な空気が流れる。
 表向きスコッチを殺したことになっているせいで、バーボンは何かと秋を目の敵にしてくるのだ。正直、顔を合わせると面倒な相手である。

 いつ均衡が崩れてもおかしくないピリついた雰囲気を変えたのは、またしても萩原だった。彼は軽い調子でバーボンに話しかける。


「てかなんで安室ちゃんがポアロにいるの? 今日シフト入ってないだろ」

「そうですけど……。どうして僕のシフトを把握してるんですか」

「常連の女子高生によく聞かれるからさー。女の子の質問にはできるだけ答えてあげたいだろ?」

「はあ、まったく……。この前事件でシフトに入れなかったのでその埋め合わせですよ」

「あー、よくバックれてるもんな」


 前回までのバーボンはポアロでアルバイトをするかたわら毛利小五郎に弟子入りしていたはずだが、今回もそうなのだろうか。


(助手と弟子だからあんなに親しいとか? 萩原はともかく、バーボンが相手を懐に入れるなんて初めて見たけどなあ)


 秋が考えているうちに、彼らの話題はいつの間にか松田の失恋に移っていた。
 松田が失恋した原因を熱心に話し合っている二人と、失礼な物言いの数々に文句を挟む松田という構図ができあがっている。
 その様子を、秋は一人ソファー席から眺めていた。

 バーボンの表情は普段よりも子供っぽかった。優しいお兄さんで売っている安室透や、秘密主義者特有のミステリアスさを纏っているバーボンとはえらい違いだ。きっとあれは降谷零の顔なのだろう。

 秋は、萩原が言っていた公安の友人の正体をなんとなく察した。
 知り合いとはいえ公安の人間に、ただの探偵助手がどう接触したのかとずっと不思議に思っていたが、相手が職場の下のフロアに潜入していたのなら説明がつく。


「やっぱり一緒に過ごした時間が圧倒的に足りなかったんですよ。聞けば伊達刑事にべったりだったそうじゃないですか」

「わかるー」

「テメエら好き勝手言いやがって……。特に安室! お前に俺を分析できるほどの恋愛経験ないだろーが! 合コン行っても食事に夢中になってるか男連中とばかり話す様子が目に浮かぶようだぜ」

「そういえば知らない方がいますね。挨拶させてください」

「話を逸らすな」


「うわ、こっち来た」


 白々しい言葉を吐いたと思ったら、いつの間にかバーボンが目の前まで移動してきた。
 彼は胡散臭い笑顔を貼り付けて言う。


「はじめまして、安室透です。毛利先生の一番弟子で下のポアロで働いています。ところであなたは二人とどういう関係で?」


 バーボンは二人、と言いながら背後に視線を向ける。その先には玄関付近にいる萩原と松田がいた。

 彼の問いで、いつしか彼らと一緒にいるのが当たり前になっていたのを思い出した。それに先程の松田の言葉。

 答えは決まっていた。
 バーボンの目をしっかりと見つめて告げる。


「間宮秋。二人の友人だよ」


 予想外の答えだったのか、バーボンが少し眉を寄せた。
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