トリップ先のあれやこれ
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改造を受けて殺せんせーの二倍のスピードを手に入れた死神と、体内の重要器官のほとんどに触手細胞を埋め込んだ柳沢が現れた。
死神と殺せんせーにより、一撃一撃が衝撃波を生む規格外の戦いが開始される。
両者の動きは全く見えないが、殺せんせーが圧倒的に押されている事だけは分かる。
この一年間殺せなかった担任の倍の速さで動く死神と、文字通り超人となった柳沢のサポート。
次元が違いすぎる。
銃やナイフを構えていた生徒達は武器を握る力を緩める。
希望がこぼれ落ちるかのように皆が握っていた武器が地面に落ちる。
一方菜々は目を見開いた。
バトル漫画のような光景を見たからではない。
十三歳の時から助け合ってきた友達が獲物を狩るような目で殺せんせーを見据え、ナイフをくわえていたからだ。
ソラの横には、戦闘の巻き添えを食らわないように距離をとったのであろう沙華と天蓋がいた。
彼らは対先生BB弾が大量に入った箱を抱えている。
──いざとなればあの世の住人が人間に見えないよう、地獄の入り口に設置されている特殊な光を浴びていない状態で殺せば良い。相手には姿が見えないので簡単に殺せるだろう。
イリーナが赴任してくる直前に地獄で開かれた会議の内容をとっさに思い出す。
菜々が生徒として超生物を監視するのに、殺せんせーに倶生神をつけた理由がやっと分かった。
少しすると殺せんせーは攻撃をかわし始めた。
最小限の力で攻撃を逸らし、土を使って圧力光線を防ぎ、間合いを詰めて威力を殺す。戦力差を工夫で埋め始めたのだ。
しかし柳沢は生徒達を攻撃するよう指示を出し、この前の姿は見る影もない死神が目の前に現れる。
とっさに顔を腕でガードし目をつぶるが、一向に受けるはずの衝撃がなかった。
菜々は自分の体を確認する。超体操着は壊れていないし怪我だってしていない。皆も同じだ。それは殺せんせーが全ての攻撃を受けた事を物語っていた。
次々と死神は生徒に攻撃を仕掛け、その度に殺せんせーは傷を負う。
烏間が銃口を向けたが、柳沢が一発殴っただけで吹き飛ばされる。彼が着ている服の隙間から見える真っ黒な触手がコードのように張り巡らさせた肌は、烏間では到底かなわない事を顕示していた。
自分のせいで皆が真実を知ってしまった事、クラスの楽しい時間を奪ってしまった事をずっと後悔していた。
だから生徒として守らせてほしい。
そう告げて誰かが止める間もなくあかりは死神に勝負を挑んだが、胴体をぶち抜かれる。
宙に放り出された教え子を見て、殺せんせーの全身が真っ黒になった。
渚があかりを抱え、この場を離れるように提案する。
刹那、死神が仕掛けた攻撃を殺せんせーは受け止めていた。
白くなったかと思えば黒に戻り、黄色になる。赤、緑、青、白。
全ての感情を、全ての過去を、全ての命を混ぜて純白のエネルギーを身にまとっている。
「教え子よ。せめて安らかな卒業を」
呟き、殺せんせーが両手で巨大なエネルギーを放つ。辺り一面、エネルギーの光で真っ白になった。
柳沢は死神のついでに吹っ飛ばされ、対触手用のバリアに思い切りぶち当たった。彼はほとんどの重要器官に触手を埋め込んでいる。この先どうなるのかは明白だ。
一方死神は四肢を持っていかれたが、まだ生きていた。このまま放っておけばすぐに再生するだろう。
殺せんせーはすかさず飛び上がり、彼の胸に対触手用ナイフを刺す。
「触手が僕に聞いてきた。どうなりたいのかを」
刺された衝撃で吐血したため、血でベトベトになった口を死神は開いた。
彼はもう短いのだろうと殺せんせーは悟る。
「あんたに認めて欲しかった。あんたみたいになりたかった」
涙を流し、かすれた声で訴えてくる教え子に、殺せんせーはかつての面影を見た気がした。
「今なら君の気持ちがよくわかります。あっちで会ったらまた勉強しましょう。お互いに同じ間違いをしないように」
安らかな顔で光となった死神を見て、誰も歓喜の声を上げなかった。
悔しそうに唇を噛む者、目に涙を溜める者、泣きじゃくる者。
「茅野……」
渚が悔しそうに呟く。
「とにかく降ろそう。敷くもの持ってくる」
千葉は踵を返したが殺せんせーの言葉に足を止める。
「降ろさないで渚君。あまり雑菌に触れさせたくない」
あかりの血液や体細胞を落ちる前に全て拾い、無菌に保った空気に包んで保管していたと告げ、一つ一つの細胞をつなげ始める。
二度と同じ過ちをしないと誓ったため、この一年で能力を高めてきたのだ。
修復できない細胞の代わりに粘液で穴埋めし、血液を生徒から借りる。
手術が終わってすぐ、あかりは息を吹き返した。
皆が歓喜する中、殺せんせーは倒れ込んだ。限界だったのだろう。
ターゲットが無防備に倒れ込んでいる今なら殺せる。
どうするべきか生徒達が決めあぐねている中、地獄からの暗殺者達も絶好の機会だと判断した。
しかし誰も動かなかった。
万が一ということがあるので、機会があれば率先して殺せんせーを殺すようにと倶生神達とソラは指示されていた。この際現世の出来事に関わってはいけないという法律には完全に目をつぶるとまで言われている。
──ここで殺したら三十人近くもの現世の住人の前で心霊現象を見せる事になる。
──現世で用意された対触手レーザーで充分殺せるだろう。
しかし、理由をつけて三人は一向に動こうとしなかった。
この一年間、最も近くでこの殺意渦巻く教室を見てきた。
二十九人の殺し屋達とターゲットの絆は暗殺だ。
最後まで絆を守るため、彼らに殺して欲しかった。
ここにいる暗殺者達なら必ずやり遂げる。そう信じてソラは咥えていたナイフを、沙華と天蓋は抱えていた対先生BB弾が入った箱を置く。
「分かりませんか? 殺しどきですよ」
明日は椚ヶ丘中学校の卒業式。しかし、三年E組だけは一足早く卒業しようとしていた。
皆が一斉に空を見上げる。レーザーの光が膨れ上がっていく。
殺せんせー暗殺期限まで後三十分を切っている。
自分達自身で決めなくてはならない。そう前置きしてから磯貝が尋ねる。
「手を上げてくれ。殺したくない奴」
皆が手を上げる。
「下ろしてくれ。殺したい奴」
いつだって銃とナイフと先生がいた。
皆が顔を伏せて震えた手を上げる。
彼らは殺し屋。ターゲットは先生。恩師に何をするべきか。皆が痛いほど分かっていた。
殺せんせーの弱点、全員で抑えれば捕まえられる。
皆で手分けして大きな体を押さえつけた。
「こうしたら動けないんだよね。殺せんせー」
「握る力が弱いのが心配ですけどね」
中村の問いの答えを聞いて、皆が殺せんせーの触手を強く握りなおした。理由は深く考えなかった。
「お願い皆。僕に殺らせて」
名乗り出た渚が殺せんせーにまたがり、目の前のネクタイをめくろうとする。
「ネクタイの上から刺せますよ。貰ったその日に穴を開けてしまったので」
これも大事な縁だ。そう言ってから、最後に出欠を取りたいと殺せんせーは申し出た。
「一人一人先生の目を見て大きな返事をしてください」
出欠確認が終わり、渚がナイフを抜く。
心臓に狙いを定めた時、ナイフを握った手が震えだした。震えを止めようと左手で右手をナイフごと握る。
息が荒くなり視界が歪む。手の震えは全く収まらず、視界の端でナイフが揺れているのを捉える。
歯がガチガチといっているなか、無理矢理力を込める。
「うわあああああああああ!!」
ナイフを振り下ろそうとした時、首筋に一本の触手が当てられ意識の波長が安定する。
「そんな気持ちで殺してはいけません。落ち着いて、笑顔で」
殺せんせーの言葉で、皆の意識の波長が安定した。
声を出さずに泣いていた渚だったが顔を上げ、笑顔を見せる。
「さようなら。殺せんせー」
「はい、さようなら」
全ての気持ちを込めて礼をするように、渚はナイフを差し出した。
殺せんせーの心臓から光の粒が出始める。全身が眩しく、優しく弾け飛んだ。
光の粒子となって皆が握っていた手からすり抜けていく。
卒業おめでとう。そんな言葉が耳に届いたような気がして菜々が空を見上げると、殺せんせーから出た光の粒子が星と混ざり合って、どれが殺せんせーだったのか分からなくなっていた。
渚が声を上げて泣き始める。それにつられたかのように皆が涙を流す。
そんな中、菜々は全く涙を見せずに二つの影を見据えていた。
「早速ですが先生達は死にました。今はいわゆる幽霊という状態になっています。で、私は鬼です。地獄に連れていくんでついてきてください」
霊体となった時人間の姿に戻った死神をソラに捕らえてもらい、パニックに陥っていた殺せんせーの首根っこを掴んで人目につかないところに連れて行ってから菜々は言い放った。
「ソラ、あとはお願い」
菜々が声をかけると狐が彼女そっくりになった事に、殺せんせーと死神は面食らう。
クラスメイト達はまだ外に出たまま号泣しているので、入れ替わっても気がつかないだろう。
「え、ちょっと待ってください……」
死神とは違い未だに黄色いタコのような姿の殺せんせーは必死に頭を動かす。
「地獄に連れていくということは私達は地獄行きですか? 私はいいですが彼は」
「違います。いや、地獄には行くから間違ってはないか。説明めんどくさいんでこれ読んでおいてください」
菜々は殺せんせーの弁解を遮ったのはいいものの考えるのが面倒になり、昔沙華に貰った「簡単あの世入門書」を二冊渡した。
*
超生物二人を引き渡した後、菜々は閻魔殿の廊下をぶらついていた。
今、あぐりを見た途端人間姿に戻った殺せんせーと死神は獄卒になって欲しいという旨を閻魔達から聞いている最中であり、その場に居ても仕方がないため彼女は抜けて来たのだ。
日付が変わる頃なので残業で忙しい者以外はとっくの昔に帰宅しており、彼女の足音だけが廊下に響いている。
菜々はふと足を止めた。
自販機にある「金魚草エキス配合、栄養ドリンク」なるものを見つけたのだ。
十中八九鬼灯の独断で入れられたものだろう。
缶には大きく口を開けて鳴いている金魚草の絵が書かれていて、「これ一本でハイになる!」というロゴがついている。
どう考えてもヤバいものだ。
これは買うべきだろうかと菜々が真剣に悩んでいると、沙華と天蓋がやって来た。
彼らは基本飛んでいるが羽音がしないため、気配を消されると近づいて来ていることに気がつけない。
いきなり現れたことに驚きはしたがいつものことなので気に留めず、暇だから世間話でもしようかと提案しようとした。しかし、その前に沙華が口を開く。
「私達退職する事にしたの」
「殺せんせーの事がひと段落ついてからだけどね。隙があれば殺せっていう命令に背いたわけだし」
鳩が豆鉄砲食らったような顔を菜々がしたのを見て天蓋が付け加えると、途端に彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「元々そのつもりだったのよ。本当は退職しなくちゃいけないってわけじゃないし。あぐりさんからの紹介で浅野塾って塾に転職が決まったの」
「私達」というのが気になったが、天蓋もなんだかんだ言って沙華の手伝いをしていたし講師に向いているのだろうと自分を納得させる。他に気になることがあるからだ。
「浅野塾?」
「池田陸翔さんって人が開いたみたいだよ。なんで浅野塾なんだろうね」
知っている名前だ。
菜々は鬼灯から學峯が私塾をたたんだと聞いて、個人的に調べてみた事がある。
そこで池田陸翔という自殺に追い込まれた生徒にたどり着いたのだ。
会ったことはないが、彼が開いた塾ならいい職場でありいい学び舎なのだろうと菜々は判断した。
獄卒のトップが事件を解決するのに魅せられて獄卒を目指す者がいる。
殺し屋の技に魅せられて殺し屋を目指した少年がいる。
自分の価値観を変えた塾の講師に出会った中学生の亡者が、わざわざ地獄に住み込んでまで塾を開いたのは彼らと同じ理由なのだろう。
「菜々さん。一通りの説明は終わりました。これからマスコミへの詳しい対応について話すので来てください」
廊下の曲がり角から姿を現した鬼灯に声をかけられ、菜々は足を踏み出す。
倶生神達も一緒について来た。
異変が起こったのは菜々が数歩歩いた時だった。
「何……これ」
菜々は目を見開いている一同に疑問を感じ、自分の手を見て思わず呟く。
透けていた。おそらく全身が透けているのだろう。服まで透けていく。
何が起こったのか全く理解できず顔に焦りを浮かべた途端、菜々の視界は暗転した。
*
「何か知っているんですか?」
鬼灯は菜々が目の前から消えてすぐ倶生神達に尋ねた。
確証がないわけではない。彼らは自分に比べてそこまで驚いていないと感じたのだ。
鬼灯と菜々は上司と部下というだけの関係だが、倶生神達は違う。
彼らは菜々が生まれた時から行動を共にして来た。
本来倶生神とは観察対象の人間に情を抱かないものだが、彼らは観察対象とかなり親しい。
第二の親のような、教師のような立場で二人とも菜々を見ている。
実際、どの番組を見るのかで揉めたり、宿題を後回しにするかで揉めたり、部屋を片付けるかどうかで揉めたりと親しかった事が伺える。これらは菜々が地獄に迷い込んだ事により浄玻璃鏡で調べた結果だ。
「信じられないような話ですが……」
しらばっくれるのは無理だと悟ったのだろう。沙華が口を開いたが天蓋に同意を求めるかのように視線を送る。
「あの日から君は僕の先生でしょ? 僕は君の判断に従うよ」
あ、この人絶対将来尻に敷かれるタイプだ、という感想は飲み込んで鬼灯は沙華の言葉に耳を傾ける。
「菜々は元々この世界の住人ではなかったと思うんです」
「は?」
わけが分からなかったが鬼灯は口を挟まない事にした。
「菜々は『前世の記憶がある』って言っていたんです。でもあの世で調べてみたら、菜々の魂は新しいものでした」
新しい魂。それは文字通りのものだ。
亡者は基本的に六道のどこかに行く。例外といえば解脱して天国に行く者くらいだ。
六道の一つがいわゆる現世。しかし、おかしくはないだろうか。
亡者の全てが転生して現世に行くわけではない。
地獄に落ちた者は刑期を終えてから転生できると言っても、地獄の呵責は一番短くても九一二五万年だ。
ほとんどの亡者が刑期を終えていない。つまり転生していない。
虫や動物など生前人間でなかった者が人間として転生することもあるが、それは稀な例だ。
本来なら魂の数が足りなくなりそうなものだが、そうならないのは定期的に新しい魂が発生しているからだ。
どのような原理で魂が発生するのかは解明されておらず、神が生まれた理由と一緒にあの世の二大謎となっている。
つまり、新しい魂の持ち主ならば前世の記憶なんてあるはずがないのだ。
「すると謎が生まれます。なぜ菜々はあんなにもあの世のことについて詳しかったのか」
「それでこの世界の事が物語や伝説など何らかの形で知られている世界から来たと思うんですか?」
「そうです。前世の記憶が戻ったと言っていた日に別の魂が入り込んだとしたら? それに菜々はよく遠くを見ていましたし、信じられないような事が起こった時もこうなる事は分かってたって感じだったんです」
彼女の前置き通り、到底信じられるような内容ではなかった。
しかし、鬼灯はその仮説が正しいと直感した。そうでなくてはいきなり菜々が消えた事の説明がつかない。
「分かりました。すると菜々さんは戻ってこないんですね? では彼女に任せる手はずだったマスコミの対応を誰がするのか至急決めなくてはなりません」
このような事態になっても鬼灯はペースを乱さない。
内心では混乱しているが表情に出さないのは精神が強いからなのか、ただ単に表情筋が仕事をしていないだけなのか。どちらにしろ、部下にとって彼の対応は心強いものだ。
「菜々ちゃんは戻って来ますよ。あの子はどんな困難が降りかかって来ても気合と根性でなんとかしちゃうんです。今まで何度も死にそうになって来たのにしぶとく生き残ってますし」
天蓋が反論するが、鬼灯は眉をひそめる。元の世界に戻れたというのに、わざわざこの世界に戻ってくるとは思えない。
「殺せんせーに初めて会った日、菜々は下の名前で呼んで欲しいって頼んだんですよ。将来獄卒となって地獄に住む時に下の名前で呼ばれるのに慣れておきたいって理由で」
彼女はクラス全員の女子に同じように頼んでいた。
男子に頼まなかったのは、「中高生男子が下の名前で呼ぶ女子は幼馴染か恋人だけでなくてはならない」という謎の信念があるからだ。
渚が普通に菜々を下の名前で呼んでいたのは、彼女に男子と見られていなかったからだったりする。
「だから絶対戻ってきます」
そう言い切った沙華の目は自信に満ちていた。
*
意識が浮上する。
今まで閻魔殿の廊下を歩いていた事を思い出してから、自分の体が透けていた事を思い出して菜々は跳ね起きた。
自分の部屋だった。
あれは悪い夢で、倒れたかなんかで部屋に運び込まれたのだろうか。
しかしすぐに仮説を否定する。自分の部屋である事は間違いないのだが、違和感がある。
まさかと思いながら今まで寝転んでいたベッドから出ようと手を動かした時、菜々は凍りついた。
手に当たったものを確認してみる。
漫画だ。表紙には「鬼灯の冷徹」と書かれていた。
勢いよく布団から飛び出て扉に向かう。
扉を開けると洗面所に駆け込み、取り付けてある鏡の前に立つ。
九年近く見ていなかった自分の顔が映っていた。
「菜々!!」
懐かしい声が聞こえ、勢いよく扉を開ける音がする。
狭い家の中を走ってきたのだろう。不自然なほど息が上がっている母親が扉の前に立っていた。
フラフラと近づいてくる母は昔の面影が全くない。ふっくらとしていたはずの頬はこけ落ちており、萎びた手には血管が浮き出ている。
そういえばこの世界でどれほどの時間が経っているのか、自分はどのような扱いになっていたのかと菜々はぼんやりと思いながら、母に抱きしめられていた。
仕事中だった父がすぐに駆けつけてきた。
両親の話から、自分は今まで行方不明となっていた事、この世界ではトリップしてから数ヶ月しか経っていない事が分かった。
娘が無事だった事にひとしきり喜んだ後両親は今までどうしていたのかと尋ねたが、菜々は答える事が出来なかった。
「分かんない。……もうすぐ夏休みが終わりそうで、夜に漫画を読んでいた日から全く記憶がない」
頭を抑えながらそう答えると、気まずそうに母に尋ねられた。
「……その格好はどうしたの?」
そういえば、と菜々は思い出す。
超体操着を着ているばかりか、自分の見た目は完全に鬼だ。
「分かんない」
そう答えるとすぐに病院に連れていかれた。
診断は奇病。医者は全く原因が分からないとしか答えられず、大きな病院に行く事を勧めてきた。初めから近所で一番大きな病院にかかったのにだ。
ただしこうなった原因を知るには菜々の記憶を戻すのが一番手っ取り早いと言われ、脳神経外科に連れていかれた。
しかし特に異常がなかったため精神科に移る事になり、定期的に病院に通うこととなった。
元の世界に戻らなくてもいいかもしれないと思い始めていた。
ただ、それは元の世界に戻る方法が見つからなかった場合の話だ。
ずっと目をそらしていた。どちらかの世界を選ばなければならない時どうするべきかを。
そのため、この世界に戻ってきて、またトリップしたいのか一生この世界で暮らしていきたいのかすぐに答えが出なかった。
そんな事はどうでもいい。
菜々は開き直った。今は泣いている場合でもなければ悩んでいる場合でもない。
もしも将来またトリップしたくなった時のために、トリップする方法を探せばいい。そうしていればいずれ答えが出るだろう。
*
元の世界に戻ってから一年が経とうとしていた。
しかし、なぜトリップしたのか、なぜ戻ったのかなどの理由は一向に分かっていない。
夜、布団に潜り込んでからも考えてみたが全く仮説を思いつかず、「もう神様の気まぐれとかでいいや」と投げやりな考えを持ち始めた頃、睡魔が襲ってきたので菜々は意識を手放した。
意識が覚醒し、違和感を覚えて自分の体を見下ろしてみる。
布団に入った時は確かに服を着ていたはずだが、何も着ていなかった。パンツすら履いていない。
周りに人がいないので服についてはひとまず置いておき、自分がどこにいるのかを確認する。
明るい靄のようなものの中にいるようだ。雲のような水蒸気が辺りを覆っているのではなく、むしろ靄そのものがこれから周囲を形作っているようだった。
菜々が横たわっている床は真っ白で、温かくもなければ冷たくもない。
辺りを見渡していると、菜々の周りのまだ形のない無の中から足音が聞こえてきた。
彼女が急になにかを身にまといたいと思うと服がすぐ近くに現れた。どうやらここでは願うと物が現れるらしい。
服を着ながらここはどこだろうかと考えていると眩い光が急に出現し、とっさに目を覆う。
サングラスが欲しい。そう願ってから目をつぶったまま床をまさぐる。すぐに手に触れたものを持ち上げた。
サングラスをかけるとやっと目を開ける事が出来た。
男がいた。菜々は身構える。訳のわからない場所にいる事、素っ裸だった事は今のところこの男のせいである確率が高い。
「俺は神だ!!」
眩い光はこの男から発しているようだ。
怪しい事極まりないが菜々は男の話に耳を傾ける事にした。
情報がない今では動きようがない。
「それ、順番が逆じゃないですか? 普通神様が現れるのってトリップする前でしょ」
「え? 俺の髪と瞳が虹色の理由を聞きたいって? 俺の髪と瞳は透明なのだ。光の反射でこう見えている」
「それってハゲに見えるし、瞳に至っては光を一箇所に集めちゃうので焦げると思いますけど」
「なんで髪と瞳がこうなるのかって? 俺が選ばれし者だからだ!」
あ、この人左手が疼いちゃうタイプだ、と菜々は悟った。
頑張って考えたのであろう設定を自称神が話し始めたところで菜々が口を挟む。
「結局、なんで私がトリップしたんですか?」
話が長くなりそうなので話を逸らしたかった。多分神なら知っているだろう。
菜々の雑な予測は当たっていたらしく神は答える。
「二つの世界が繋がれた時、お前が『鬼灯の冷徹』を読んでいたからだ。漫画を読む事によって潜在意識があの世界に繋がったんだ」
「てことはあの時『鬼灯の冷徹』か『暗殺教室』か『名探偵コナン』を読んでいた人は全員トリップしたんですか?」
「よく考えろ。あれは憑依に近かっただろ?」
バカにしたようにため息をついて、神は説明を始めた。
菜々がトリップする前にいた世界を「世界A」とすると、世界Aの「加藤菜々」とトリップ先の世界の「加藤菜々」の魂は同じものだったらしい。
「は?」
「それを説明する前にこの世界の仕組みを説明する必要がある」
神が宙に何か書くように指を動かすと、指が通った場所に紫の線が残った。
指が行ったり来たりして不思議な文字が出来上がったと思ったら、いきなりスクリーンのようなものが現れた。
『世界の説明の前に俺、アクバルについて話そう! あれは数千年前、悪魔デビットがいた頃』
「すみません。早送りって出来ますか?」
銀髪の神のドアップが出てきたと思ったら、意味のない話を聞かされそうな流れになったのですかさず申し出る。
自分の話を聞きたくないと言われたようなものだったのでアクバルは衝撃を受けたがすぐに調子を取り戻した。
「なんで銀髪、オッドアイなのかって? 俺は特別だからな。毎日変わるのだ」
「うわっこの神めんどくさ」
本音が思わず漏れてしまったのをごまかすため、菜々は早送り出来ないのかと問い詰める。
渋々といった感じでアクバルが早送りをして、映像はやっと本題に入った。
『宇宙は大きくなっていると言われている。だとすると、宇宙の外にはなにかあるのだろうか。こんな疑問を持ったことがある奴は多いはずだ。宇宙の外には何もないかと言われればそうでもない。その空間には神がいる。便宜上「神」と呼んでいるが、一般的に、彼らは「意志」と呼ばれるものが体を得た状態のものだ』
要約すると、神達はいくつもの世界を作ったらしい。
その世界というのが菜々が生まれた世界だったり、菜々がトリップした世界だったりする。
中には菜々が深夜のノリで作ったシンデレラパロがアニメとして存在している世界もあるとの事だ。(しかし放送が始まってすぐ苦情が殺到し、早々に打ち切りとなった)
あの世がない世界の人間、またはあの世がある世界に生まれたがずば抜けて有能だったり、その世界のあの世には行きたくないと強く願った者が死ぬと魂がこの不思議な空間に来る。
そしてこの先どうなるのかを決められるのだ。ちなみに有能な者は問答無用で従業員としてこき使われるらしい。
その他の者はダーツで天国行きか転生か平の従業員としてこき使うかが決められ、転生に決まった場合はルーレットでどの世界に転生するのかが決まる。
「でも、私は死んでませんよね?」
「死んでないな」
アクバルは映像を止めて説明を始める。
「お前は二つの世界が繋がれた時、トリップ先の世界の『加藤菜々』の魂を追い出した。そしてあの世界の『加藤菜々』の魂はお前になった」
「は?」
「追い出された『加藤菜々』の魂はここに来て、お前が元いた世界のお前に転生が決まった。あの世がある世界のなんの特徴もない魂がここに来た時は驚いた。調べてみたところ俺のせいだと分かった」
そこはテンプレ通りな事になぜか安堵しつつ、菜々は次の言葉を待つ。
「お前がトリップした日に『頑張れ、新米サンタくん』が始まっただろ? お前が元々いた世界で『ドラえもん誕生日スペシャル』を見た後、『頑張れ、新米サンタくん』を見に行った。その時に時空が繋がっていたんだ」
時空が繋がった上に「鬼灯の冷徹」を読んでいた事、二人の魂が同じだった事により、菜々があちらの自分に憑依したのだろう。
そんな事を言われて菜々は頭がこんがらがった。
「とにかく、映像の続きを見ろ。今度は神々の歴史だ。俺が長年続いていた戦争を止めたのだ」
菜々が信じていなさそうな顔を隠そうとしなかったのを見て、アクバルは突っかかる。
「本当だぞ! たけのこ派かきのこ派かで争っていた神に俺がもっと良い娯楽を提供したと説明されたんだから」
その娯楽というのは毎回変わる髪と瞳の色なのではないだろうか。きっと他の神々はアクバルの珍妙な行動を見て笑っているのだろう。次はどんな外見になるか賭けて遊んでいるかもしれない。
アクバルの悲しき生態に一瞬思いを馳せた菜々だったが、正直どうでもいいのでさっさと頭を切り替えた。それよりも話を進めるべきだ。
「で、いきなりこんなところに連れてきたのはなんでですか? トリップ──憑依? 成り代わり? まあいいや。その理由を伝えるためではないですよね」
「お前に起こった現象はややこしいからこちらでは勝手にトリップと呼んでいる。そうだな。お前が連れてこられた理由は俺の武勇伝を聞かせるだけではない」
「それもあるのか……」
「お前はどちらの世界で一生を終えたい? 特別に選ばしてやる」
死神と殺せんせーにより、一撃一撃が衝撃波を生む規格外の戦いが開始される。
両者の動きは全く見えないが、殺せんせーが圧倒的に押されている事だけは分かる。
この一年間殺せなかった担任の倍の速さで動く死神と、文字通り超人となった柳沢のサポート。
次元が違いすぎる。
銃やナイフを構えていた生徒達は武器を握る力を緩める。
希望がこぼれ落ちるかのように皆が握っていた武器が地面に落ちる。
一方菜々は目を見開いた。
バトル漫画のような光景を見たからではない。
十三歳の時から助け合ってきた友達が獲物を狩るような目で殺せんせーを見据え、ナイフをくわえていたからだ。
ソラの横には、戦闘の巻き添えを食らわないように距離をとったのであろう沙華と天蓋がいた。
彼らは対先生BB弾が大量に入った箱を抱えている。
──いざとなればあの世の住人が人間に見えないよう、地獄の入り口に設置されている特殊な光を浴びていない状態で殺せば良い。相手には姿が見えないので簡単に殺せるだろう。
イリーナが赴任してくる直前に地獄で開かれた会議の内容をとっさに思い出す。
菜々が生徒として超生物を監視するのに、殺せんせーに倶生神をつけた理由がやっと分かった。
少しすると殺せんせーは攻撃をかわし始めた。
最小限の力で攻撃を逸らし、土を使って圧力光線を防ぎ、間合いを詰めて威力を殺す。戦力差を工夫で埋め始めたのだ。
しかし柳沢は生徒達を攻撃するよう指示を出し、この前の姿は見る影もない死神が目の前に現れる。
とっさに顔を腕でガードし目をつぶるが、一向に受けるはずの衝撃がなかった。
菜々は自分の体を確認する。超体操着は壊れていないし怪我だってしていない。皆も同じだ。それは殺せんせーが全ての攻撃を受けた事を物語っていた。
次々と死神は生徒に攻撃を仕掛け、その度に殺せんせーは傷を負う。
烏間が銃口を向けたが、柳沢が一発殴っただけで吹き飛ばされる。彼が着ている服の隙間から見える真っ黒な触手がコードのように張り巡らさせた肌は、烏間では到底かなわない事を顕示していた。
自分のせいで皆が真実を知ってしまった事、クラスの楽しい時間を奪ってしまった事をずっと後悔していた。
だから生徒として守らせてほしい。
そう告げて誰かが止める間もなくあかりは死神に勝負を挑んだが、胴体をぶち抜かれる。
宙に放り出された教え子を見て、殺せんせーの全身が真っ黒になった。
渚があかりを抱え、この場を離れるように提案する。
刹那、死神が仕掛けた攻撃を殺せんせーは受け止めていた。
白くなったかと思えば黒に戻り、黄色になる。赤、緑、青、白。
全ての感情を、全ての過去を、全ての命を混ぜて純白のエネルギーを身にまとっている。
「教え子よ。せめて安らかな卒業を」
呟き、殺せんせーが両手で巨大なエネルギーを放つ。辺り一面、エネルギーの光で真っ白になった。
柳沢は死神のついでに吹っ飛ばされ、対触手用のバリアに思い切りぶち当たった。彼はほとんどの重要器官に触手を埋め込んでいる。この先どうなるのかは明白だ。
一方死神は四肢を持っていかれたが、まだ生きていた。このまま放っておけばすぐに再生するだろう。
殺せんせーはすかさず飛び上がり、彼の胸に対触手用ナイフを刺す。
「触手が僕に聞いてきた。どうなりたいのかを」
刺された衝撃で吐血したため、血でベトベトになった口を死神は開いた。
彼はもう短いのだろうと殺せんせーは悟る。
「あんたに認めて欲しかった。あんたみたいになりたかった」
涙を流し、かすれた声で訴えてくる教え子に、殺せんせーはかつての面影を見た気がした。
「今なら君の気持ちがよくわかります。あっちで会ったらまた勉強しましょう。お互いに同じ間違いをしないように」
安らかな顔で光となった死神を見て、誰も歓喜の声を上げなかった。
悔しそうに唇を噛む者、目に涙を溜める者、泣きじゃくる者。
「茅野……」
渚が悔しそうに呟く。
「とにかく降ろそう。敷くもの持ってくる」
千葉は踵を返したが殺せんせーの言葉に足を止める。
「降ろさないで渚君。あまり雑菌に触れさせたくない」
あかりの血液や体細胞を落ちる前に全て拾い、無菌に保った空気に包んで保管していたと告げ、一つ一つの細胞をつなげ始める。
二度と同じ過ちをしないと誓ったため、この一年で能力を高めてきたのだ。
修復できない細胞の代わりに粘液で穴埋めし、血液を生徒から借りる。
手術が終わってすぐ、あかりは息を吹き返した。
皆が歓喜する中、殺せんせーは倒れ込んだ。限界だったのだろう。
ターゲットが無防備に倒れ込んでいる今なら殺せる。
どうするべきか生徒達が決めあぐねている中、地獄からの暗殺者達も絶好の機会だと判断した。
しかし誰も動かなかった。
万が一ということがあるので、機会があれば率先して殺せんせーを殺すようにと倶生神達とソラは指示されていた。この際現世の出来事に関わってはいけないという法律には完全に目をつぶるとまで言われている。
──ここで殺したら三十人近くもの現世の住人の前で心霊現象を見せる事になる。
──現世で用意された対触手レーザーで充分殺せるだろう。
しかし、理由をつけて三人は一向に動こうとしなかった。
この一年間、最も近くでこの殺意渦巻く教室を見てきた。
二十九人の殺し屋達とターゲットの絆は暗殺だ。
最後まで絆を守るため、彼らに殺して欲しかった。
ここにいる暗殺者達なら必ずやり遂げる。そう信じてソラは咥えていたナイフを、沙華と天蓋は抱えていた対先生BB弾が入った箱を置く。
「分かりませんか? 殺しどきですよ」
明日は椚ヶ丘中学校の卒業式。しかし、三年E組だけは一足早く卒業しようとしていた。
皆が一斉に空を見上げる。レーザーの光が膨れ上がっていく。
殺せんせー暗殺期限まで後三十分を切っている。
自分達自身で決めなくてはならない。そう前置きしてから磯貝が尋ねる。
「手を上げてくれ。殺したくない奴」
皆が手を上げる。
「下ろしてくれ。殺したい奴」
いつだって銃とナイフと先生がいた。
皆が顔を伏せて震えた手を上げる。
彼らは殺し屋。ターゲットは先生。恩師に何をするべきか。皆が痛いほど分かっていた。
殺せんせーの弱点、全員で抑えれば捕まえられる。
皆で手分けして大きな体を押さえつけた。
「こうしたら動けないんだよね。殺せんせー」
「握る力が弱いのが心配ですけどね」
中村の問いの答えを聞いて、皆が殺せんせーの触手を強く握りなおした。理由は深く考えなかった。
「お願い皆。僕に殺らせて」
名乗り出た渚が殺せんせーにまたがり、目の前のネクタイをめくろうとする。
「ネクタイの上から刺せますよ。貰ったその日に穴を開けてしまったので」
これも大事な縁だ。そう言ってから、最後に出欠を取りたいと殺せんせーは申し出た。
「一人一人先生の目を見て大きな返事をしてください」
出欠確認が終わり、渚がナイフを抜く。
心臓に狙いを定めた時、ナイフを握った手が震えだした。震えを止めようと左手で右手をナイフごと握る。
息が荒くなり視界が歪む。手の震えは全く収まらず、視界の端でナイフが揺れているのを捉える。
歯がガチガチといっているなか、無理矢理力を込める。
「うわあああああああああ!!」
ナイフを振り下ろそうとした時、首筋に一本の触手が当てられ意識の波長が安定する。
「そんな気持ちで殺してはいけません。落ち着いて、笑顔で」
殺せんせーの言葉で、皆の意識の波長が安定した。
声を出さずに泣いていた渚だったが顔を上げ、笑顔を見せる。
「さようなら。殺せんせー」
「はい、さようなら」
全ての気持ちを込めて礼をするように、渚はナイフを差し出した。
殺せんせーの心臓から光の粒が出始める。全身が眩しく、優しく弾け飛んだ。
光の粒子となって皆が握っていた手からすり抜けていく。
卒業おめでとう。そんな言葉が耳に届いたような気がして菜々が空を見上げると、殺せんせーから出た光の粒子が星と混ざり合って、どれが殺せんせーだったのか分からなくなっていた。
渚が声を上げて泣き始める。それにつられたかのように皆が涙を流す。
そんな中、菜々は全く涙を見せずに二つの影を見据えていた。
「早速ですが先生達は死にました。今はいわゆる幽霊という状態になっています。で、私は鬼です。地獄に連れていくんでついてきてください」
霊体となった時人間の姿に戻った死神をソラに捕らえてもらい、パニックに陥っていた殺せんせーの首根っこを掴んで人目につかないところに連れて行ってから菜々は言い放った。
「ソラ、あとはお願い」
菜々が声をかけると狐が彼女そっくりになった事に、殺せんせーと死神は面食らう。
クラスメイト達はまだ外に出たまま号泣しているので、入れ替わっても気がつかないだろう。
「え、ちょっと待ってください……」
死神とは違い未だに黄色いタコのような姿の殺せんせーは必死に頭を動かす。
「地獄に連れていくということは私達は地獄行きですか? 私はいいですが彼は」
「違います。いや、地獄には行くから間違ってはないか。説明めんどくさいんでこれ読んでおいてください」
菜々は殺せんせーの弁解を遮ったのはいいものの考えるのが面倒になり、昔沙華に貰った「簡単あの世入門書」を二冊渡した。
*
超生物二人を引き渡した後、菜々は閻魔殿の廊下をぶらついていた。
今、あぐりを見た途端人間姿に戻った殺せんせーと死神は獄卒になって欲しいという旨を閻魔達から聞いている最中であり、その場に居ても仕方がないため彼女は抜けて来たのだ。
日付が変わる頃なので残業で忙しい者以外はとっくの昔に帰宅しており、彼女の足音だけが廊下に響いている。
菜々はふと足を止めた。
自販機にある「金魚草エキス配合、栄養ドリンク」なるものを見つけたのだ。
十中八九鬼灯の独断で入れられたものだろう。
缶には大きく口を開けて鳴いている金魚草の絵が書かれていて、「これ一本でハイになる!」というロゴがついている。
どう考えてもヤバいものだ。
これは買うべきだろうかと菜々が真剣に悩んでいると、沙華と天蓋がやって来た。
彼らは基本飛んでいるが羽音がしないため、気配を消されると近づいて来ていることに気がつけない。
いきなり現れたことに驚きはしたがいつものことなので気に留めず、暇だから世間話でもしようかと提案しようとした。しかし、その前に沙華が口を開く。
「私達退職する事にしたの」
「殺せんせーの事がひと段落ついてからだけどね。隙があれば殺せっていう命令に背いたわけだし」
鳩が豆鉄砲食らったような顔を菜々がしたのを見て天蓋が付け加えると、途端に彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「元々そのつもりだったのよ。本当は退職しなくちゃいけないってわけじゃないし。あぐりさんからの紹介で浅野塾って塾に転職が決まったの」
「私達」というのが気になったが、天蓋もなんだかんだ言って沙華の手伝いをしていたし講師に向いているのだろうと自分を納得させる。他に気になることがあるからだ。
「浅野塾?」
「池田陸翔さんって人が開いたみたいだよ。なんで浅野塾なんだろうね」
知っている名前だ。
菜々は鬼灯から學峯が私塾をたたんだと聞いて、個人的に調べてみた事がある。
そこで池田陸翔という自殺に追い込まれた生徒にたどり着いたのだ。
会ったことはないが、彼が開いた塾ならいい職場でありいい学び舎なのだろうと菜々は判断した。
獄卒のトップが事件を解決するのに魅せられて獄卒を目指す者がいる。
殺し屋の技に魅せられて殺し屋を目指した少年がいる。
自分の価値観を変えた塾の講師に出会った中学生の亡者が、わざわざ地獄に住み込んでまで塾を開いたのは彼らと同じ理由なのだろう。
「菜々さん。一通りの説明は終わりました。これからマスコミへの詳しい対応について話すので来てください」
廊下の曲がり角から姿を現した鬼灯に声をかけられ、菜々は足を踏み出す。
倶生神達も一緒について来た。
異変が起こったのは菜々が数歩歩いた時だった。
「何……これ」
菜々は目を見開いている一同に疑問を感じ、自分の手を見て思わず呟く。
透けていた。おそらく全身が透けているのだろう。服まで透けていく。
何が起こったのか全く理解できず顔に焦りを浮かべた途端、菜々の視界は暗転した。
*
「何か知っているんですか?」
鬼灯は菜々が目の前から消えてすぐ倶生神達に尋ねた。
確証がないわけではない。彼らは自分に比べてそこまで驚いていないと感じたのだ。
鬼灯と菜々は上司と部下というだけの関係だが、倶生神達は違う。
彼らは菜々が生まれた時から行動を共にして来た。
本来倶生神とは観察対象の人間に情を抱かないものだが、彼らは観察対象とかなり親しい。
第二の親のような、教師のような立場で二人とも菜々を見ている。
実際、どの番組を見るのかで揉めたり、宿題を後回しにするかで揉めたり、部屋を片付けるかどうかで揉めたりと親しかった事が伺える。これらは菜々が地獄に迷い込んだ事により浄玻璃鏡で調べた結果だ。
「信じられないような話ですが……」
しらばっくれるのは無理だと悟ったのだろう。沙華が口を開いたが天蓋に同意を求めるかのように視線を送る。
「あの日から君は僕の先生でしょ? 僕は君の判断に従うよ」
あ、この人絶対将来尻に敷かれるタイプだ、という感想は飲み込んで鬼灯は沙華の言葉に耳を傾ける。
「菜々は元々この世界の住人ではなかったと思うんです」
「は?」
わけが分からなかったが鬼灯は口を挟まない事にした。
「菜々は『前世の記憶がある』って言っていたんです。でもあの世で調べてみたら、菜々の魂は新しいものでした」
新しい魂。それは文字通りのものだ。
亡者は基本的に六道のどこかに行く。例外といえば解脱して天国に行く者くらいだ。
六道の一つがいわゆる現世。しかし、おかしくはないだろうか。
亡者の全てが転生して現世に行くわけではない。
地獄に落ちた者は刑期を終えてから転生できると言っても、地獄の呵責は一番短くても九一二五万年だ。
ほとんどの亡者が刑期を終えていない。つまり転生していない。
虫や動物など生前人間でなかった者が人間として転生することもあるが、それは稀な例だ。
本来なら魂の数が足りなくなりそうなものだが、そうならないのは定期的に新しい魂が発生しているからだ。
どのような原理で魂が発生するのかは解明されておらず、神が生まれた理由と一緒にあの世の二大謎となっている。
つまり、新しい魂の持ち主ならば前世の記憶なんてあるはずがないのだ。
「すると謎が生まれます。なぜ菜々はあんなにもあの世のことについて詳しかったのか」
「それでこの世界の事が物語や伝説など何らかの形で知られている世界から来たと思うんですか?」
「そうです。前世の記憶が戻ったと言っていた日に別の魂が入り込んだとしたら? それに菜々はよく遠くを見ていましたし、信じられないような事が起こった時もこうなる事は分かってたって感じだったんです」
彼女の前置き通り、到底信じられるような内容ではなかった。
しかし、鬼灯はその仮説が正しいと直感した。そうでなくてはいきなり菜々が消えた事の説明がつかない。
「分かりました。すると菜々さんは戻ってこないんですね? では彼女に任せる手はずだったマスコミの対応を誰がするのか至急決めなくてはなりません」
このような事態になっても鬼灯はペースを乱さない。
内心では混乱しているが表情に出さないのは精神が強いからなのか、ただ単に表情筋が仕事をしていないだけなのか。どちらにしろ、部下にとって彼の対応は心強いものだ。
「菜々ちゃんは戻って来ますよ。あの子はどんな困難が降りかかって来ても気合と根性でなんとかしちゃうんです。今まで何度も死にそうになって来たのにしぶとく生き残ってますし」
天蓋が反論するが、鬼灯は眉をひそめる。元の世界に戻れたというのに、わざわざこの世界に戻ってくるとは思えない。
「殺せんせーに初めて会った日、菜々は下の名前で呼んで欲しいって頼んだんですよ。将来獄卒となって地獄に住む時に下の名前で呼ばれるのに慣れておきたいって理由で」
彼女はクラス全員の女子に同じように頼んでいた。
男子に頼まなかったのは、「中高生男子が下の名前で呼ぶ女子は幼馴染か恋人だけでなくてはならない」という謎の信念があるからだ。
渚が普通に菜々を下の名前で呼んでいたのは、彼女に男子と見られていなかったからだったりする。
「だから絶対戻ってきます」
そう言い切った沙華の目は自信に満ちていた。
*
意識が浮上する。
今まで閻魔殿の廊下を歩いていた事を思い出してから、自分の体が透けていた事を思い出して菜々は跳ね起きた。
自分の部屋だった。
あれは悪い夢で、倒れたかなんかで部屋に運び込まれたのだろうか。
しかしすぐに仮説を否定する。自分の部屋である事は間違いないのだが、違和感がある。
まさかと思いながら今まで寝転んでいたベッドから出ようと手を動かした時、菜々は凍りついた。
手に当たったものを確認してみる。
漫画だ。表紙には「鬼灯の冷徹」と書かれていた。
勢いよく布団から飛び出て扉に向かう。
扉を開けると洗面所に駆け込み、取り付けてある鏡の前に立つ。
九年近く見ていなかった自分の顔が映っていた。
「菜々!!」
懐かしい声が聞こえ、勢いよく扉を開ける音がする。
狭い家の中を走ってきたのだろう。不自然なほど息が上がっている母親が扉の前に立っていた。
フラフラと近づいてくる母は昔の面影が全くない。ふっくらとしていたはずの頬はこけ落ちており、萎びた手には血管が浮き出ている。
そういえばこの世界でどれほどの時間が経っているのか、自分はどのような扱いになっていたのかと菜々はぼんやりと思いながら、母に抱きしめられていた。
仕事中だった父がすぐに駆けつけてきた。
両親の話から、自分は今まで行方不明となっていた事、この世界ではトリップしてから数ヶ月しか経っていない事が分かった。
娘が無事だった事にひとしきり喜んだ後両親は今までどうしていたのかと尋ねたが、菜々は答える事が出来なかった。
「分かんない。……もうすぐ夏休みが終わりそうで、夜に漫画を読んでいた日から全く記憶がない」
頭を抑えながらそう答えると、気まずそうに母に尋ねられた。
「……その格好はどうしたの?」
そういえば、と菜々は思い出す。
超体操着を着ているばかりか、自分の見た目は完全に鬼だ。
「分かんない」
そう答えるとすぐに病院に連れていかれた。
診断は奇病。医者は全く原因が分からないとしか答えられず、大きな病院に行く事を勧めてきた。初めから近所で一番大きな病院にかかったのにだ。
ただしこうなった原因を知るには菜々の記憶を戻すのが一番手っ取り早いと言われ、脳神経外科に連れていかれた。
しかし特に異常がなかったため精神科に移る事になり、定期的に病院に通うこととなった。
元の世界に戻らなくてもいいかもしれないと思い始めていた。
ただ、それは元の世界に戻る方法が見つからなかった場合の話だ。
ずっと目をそらしていた。どちらかの世界を選ばなければならない時どうするべきかを。
そのため、この世界に戻ってきて、またトリップしたいのか一生この世界で暮らしていきたいのかすぐに答えが出なかった。
そんな事はどうでもいい。
菜々は開き直った。今は泣いている場合でもなければ悩んでいる場合でもない。
もしも将来またトリップしたくなった時のために、トリップする方法を探せばいい。そうしていればいずれ答えが出るだろう。
*
元の世界に戻ってから一年が経とうとしていた。
しかし、なぜトリップしたのか、なぜ戻ったのかなどの理由は一向に分かっていない。
夜、布団に潜り込んでからも考えてみたが全く仮説を思いつかず、「もう神様の気まぐれとかでいいや」と投げやりな考えを持ち始めた頃、睡魔が襲ってきたので菜々は意識を手放した。
意識が覚醒し、違和感を覚えて自分の体を見下ろしてみる。
布団に入った時は確かに服を着ていたはずだが、何も着ていなかった。パンツすら履いていない。
周りに人がいないので服についてはひとまず置いておき、自分がどこにいるのかを確認する。
明るい靄のようなものの中にいるようだ。雲のような水蒸気が辺りを覆っているのではなく、むしろ靄そのものがこれから周囲を形作っているようだった。
菜々が横たわっている床は真っ白で、温かくもなければ冷たくもない。
辺りを見渡していると、菜々の周りのまだ形のない無の中から足音が聞こえてきた。
彼女が急になにかを身にまといたいと思うと服がすぐ近くに現れた。どうやらここでは願うと物が現れるらしい。
服を着ながらここはどこだろうかと考えていると眩い光が急に出現し、とっさに目を覆う。
サングラスが欲しい。そう願ってから目をつぶったまま床をまさぐる。すぐに手に触れたものを持ち上げた。
サングラスをかけるとやっと目を開ける事が出来た。
男がいた。菜々は身構える。訳のわからない場所にいる事、素っ裸だった事は今のところこの男のせいである確率が高い。
「俺は神だ!!」
眩い光はこの男から発しているようだ。
怪しい事極まりないが菜々は男の話に耳を傾ける事にした。
情報がない今では動きようがない。
「それ、順番が逆じゃないですか? 普通神様が現れるのってトリップする前でしょ」
「え? 俺の髪と瞳が虹色の理由を聞きたいって? 俺の髪と瞳は透明なのだ。光の反射でこう見えている」
「それってハゲに見えるし、瞳に至っては光を一箇所に集めちゃうので焦げると思いますけど」
「なんで髪と瞳がこうなるのかって? 俺が選ばれし者だからだ!」
あ、この人左手が疼いちゃうタイプだ、と菜々は悟った。
頑張って考えたのであろう設定を自称神が話し始めたところで菜々が口を挟む。
「結局、なんで私がトリップしたんですか?」
話が長くなりそうなので話を逸らしたかった。多分神なら知っているだろう。
菜々の雑な予測は当たっていたらしく神は答える。
「二つの世界が繋がれた時、お前が『鬼灯の冷徹』を読んでいたからだ。漫画を読む事によって潜在意識があの世界に繋がったんだ」
「てことはあの時『鬼灯の冷徹』か『暗殺教室』か『名探偵コナン』を読んでいた人は全員トリップしたんですか?」
「よく考えろ。あれは憑依に近かっただろ?」
バカにしたようにため息をついて、神は説明を始めた。
菜々がトリップする前にいた世界を「世界A」とすると、世界Aの「加藤菜々」とトリップ先の世界の「加藤菜々」の魂は同じものだったらしい。
「は?」
「それを説明する前にこの世界の仕組みを説明する必要がある」
神が宙に何か書くように指を動かすと、指が通った場所に紫の線が残った。
指が行ったり来たりして不思議な文字が出来上がったと思ったら、いきなりスクリーンのようなものが現れた。
『世界の説明の前に俺、アクバルについて話そう! あれは数千年前、悪魔デビットがいた頃』
「すみません。早送りって出来ますか?」
銀髪の神のドアップが出てきたと思ったら、意味のない話を聞かされそうな流れになったのですかさず申し出る。
自分の話を聞きたくないと言われたようなものだったのでアクバルは衝撃を受けたがすぐに調子を取り戻した。
「なんで銀髪、オッドアイなのかって? 俺は特別だからな。毎日変わるのだ」
「うわっこの神めんどくさ」
本音が思わず漏れてしまったのをごまかすため、菜々は早送り出来ないのかと問い詰める。
渋々といった感じでアクバルが早送りをして、映像はやっと本題に入った。
『宇宙は大きくなっていると言われている。だとすると、宇宙の外にはなにかあるのだろうか。こんな疑問を持ったことがある奴は多いはずだ。宇宙の外には何もないかと言われればそうでもない。その空間には神がいる。便宜上「神」と呼んでいるが、一般的に、彼らは「意志」と呼ばれるものが体を得た状態のものだ』
要約すると、神達はいくつもの世界を作ったらしい。
その世界というのが菜々が生まれた世界だったり、菜々がトリップした世界だったりする。
中には菜々が深夜のノリで作ったシンデレラパロがアニメとして存在している世界もあるとの事だ。(しかし放送が始まってすぐ苦情が殺到し、早々に打ち切りとなった)
あの世がない世界の人間、またはあの世がある世界に生まれたがずば抜けて有能だったり、その世界のあの世には行きたくないと強く願った者が死ぬと魂がこの不思議な空間に来る。
そしてこの先どうなるのかを決められるのだ。ちなみに有能な者は問答無用で従業員としてこき使われるらしい。
その他の者はダーツで天国行きか転生か平の従業員としてこき使うかが決められ、転生に決まった場合はルーレットでどの世界に転生するのかが決まる。
「でも、私は死んでませんよね?」
「死んでないな」
アクバルは映像を止めて説明を始める。
「お前は二つの世界が繋がれた時、トリップ先の世界の『加藤菜々』の魂を追い出した。そしてあの世界の『加藤菜々』の魂はお前になった」
「は?」
「追い出された『加藤菜々』の魂はここに来て、お前が元いた世界のお前に転生が決まった。あの世がある世界のなんの特徴もない魂がここに来た時は驚いた。調べてみたところ俺のせいだと分かった」
そこはテンプレ通りな事になぜか安堵しつつ、菜々は次の言葉を待つ。
「お前がトリップした日に『頑張れ、新米サンタくん』が始まっただろ? お前が元々いた世界で『ドラえもん誕生日スペシャル』を見た後、『頑張れ、新米サンタくん』を見に行った。その時に時空が繋がっていたんだ」
時空が繋がった上に「鬼灯の冷徹」を読んでいた事、二人の魂が同じだった事により、菜々があちらの自分に憑依したのだろう。
そんな事を言われて菜々は頭がこんがらがった。
「とにかく、映像の続きを見ろ。今度は神々の歴史だ。俺が長年続いていた戦争を止めたのだ」
菜々が信じていなさそうな顔を隠そうとしなかったのを見て、アクバルは突っかかる。
「本当だぞ! たけのこ派かきのこ派かで争っていた神に俺がもっと良い娯楽を提供したと説明されたんだから」
その娯楽というのは毎回変わる髪と瞳の色なのではないだろうか。きっと他の神々はアクバルの珍妙な行動を見て笑っているのだろう。次はどんな外見になるか賭けて遊んでいるかもしれない。
アクバルの悲しき生態に一瞬思いを馳せた菜々だったが、正直どうでもいいのでさっさと頭を切り替えた。それよりも話を進めるべきだ。
「で、いきなりこんなところに連れてきたのはなんでですか? トリップ──憑依? 成り代わり? まあいいや。その理由を伝えるためではないですよね」
「お前に起こった現象はややこしいからこちらでは勝手にトリップと呼んでいる。そうだな。お前が連れてこられた理由は俺の武勇伝を聞かせるだけではない」
「それもあるのか……」
「お前はどちらの世界で一生を終えたい? 特別に選ばしてやる」