煙雨の恐怖
『煙雨の恐怖』
細い筋が江戸の町を煙らせる。視界は白く濁り、男の歩みを遮ろうとしているようだ。
そんなもので歩みを止められるのなら、男の足は何年も前に止まっている。
差した傘に細い雨粒が重なりあい、ぱたぱたと骨の先から垂れていくのが視界の隅で確認できた。
今日の任務は、男にとっては久しぶりの討伐任務であった。先の戦闘で負った肩の傷はとっくの昔に癒えていたが、傷を負う前の状態に戻ったかといえば否である。でも、男にはまだ右肩が残っている。斬るだけなら問題ないと何度も言っているのに、過保護で心配性な部下たちは「まだ駄目だ」と言って、刀を握る許可を出さなかった。
「困ったな」と男が笑えば、「困るくらいがちょうど良い」と男の妹は笑っていた。笑っていたが、目は怒っていた。
血の繋がりはないはずなのに、その様子が亡き妻の怒った顔によく似ていて、反省する前に懐かしくなったのは内緒だ。
けむる視界の中、ぴちゃぴちゃと足を進めていると、出来たばかりの血だまりを見つける。
男がここに来るまでの間に、任務は始まっていたようだ。
元々、男はここに来る手はずではなかったので当然と言えば当然である。
「屋敷で報告を待っていてください」と右腕に言われ、「絶対に来たらだめですよ!」と娘のような部下に言われたが、ずっと屋敷にいても身が鈍るだけなので、様子を見に来たのだ。
耳を澄ませると、威勢の良い声と金属のぶつかる音が鼓膜を震わせた。
威勢の良い声は男の狗だろう。あの狗は、敵陣へ飛び込む時に腹の底から声を出して、獲物をあの世へと送っていく。
男が足を止めて耳を澄ませていると、左手にあった茶屋から男が二人転がるようにして飛び出してきた。
顔を見れば、恐怖と怒りを顔に貼りつけている。
彼らの手には、その者たちが持つのは許されていない武器が握られていた。
男が見ていることに気づいた男の一人が「桃組だ!」と叫ぶ。
男の羽織りについている桃組の紋が目に入ったのだろうと察した。
敵だとわかるやいなや、男たちは武器を構えて男に突っ込んできた。
傘を差したまま、ひらりひらりと鈍い色の刃をかわし、隙が出来たところで男たちの足を崩し、往なしていく。
手応えがないと思うのは、先日の敵が厄介過ぎたからだろうか。
それとも、休みすぎたせいだろうか。
泥にまみれた男たちを、男は傘の下から冷めた目で見つめる。
傘を差したままの男を、男たちは睨めつける。
向かってくる意思はまだあるらしい。
「大人しく斬られる覚悟はできたか?」
男たちは「否」と解答する。
やはり、大人しく斬られる性分ではないようだ。
肩をすくめると同時に、男たちが再び突っ込んでくる。
数の利では男たちの方が勝っている。──そう思ったのだろう。
「甘いな」
三方向から、武器を携えた者が三人飛び出し、男たちを囲う。
男たちが息を呑む気配がした。
「私の部下は、どこの班よりも、どこの鬼よりも【オニ】なんだ」
さあ──狩りの時間だ。
傘の下で、男は…………オニの加宮班の班長は、口角をつりあげた。
細い筋が江戸の町を煙らせる。視界は白く濁り、男の歩みを遮ろうとしているようだ。
そんなもので歩みを止められるのなら、男の足は何年も前に止まっている。
差した傘に細い雨粒が重なりあい、ぱたぱたと骨の先から垂れていくのが視界の隅で確認できた。
今日の任務は、男にとっては久しぶりの討伐任務であった。先の戦闘で負った肩の傷はとっくの昔に癒えていたが、傷を負う前の状態に戻ったかといえば否である。でも、男にはまだ右肩が残っている。斬るだけなら問題ないと何度も言っているのに、過保護で心配性な部下たちは「まだ駄目だ」と言って、刀を握る許可を出さなかった。
「困ったな」と男が笑えば、「困るくらいがちょうど良い」と男の妹は笑っていた。笑っていたが、目は怒っていた。
血の繋がりはないはずなのに、その様子が亡き妻の怒った顔によく似ていて、反省する前に懐かしくなったのは内緒だ。
けむる視界の中、ぴちゃぴちゃと足を進めていると、出来たばかりの血だまりを見つける。
男がここに来るまでの間に、任務は始まっていたようだ。
元々、男はここに来る手はずではなかったので当然と言えば当然である。
「屋敷で報告を待っていてください」と右腕に言われ、「絶対に来たらだめですよ!」と娘のような部下に言われたが、ずっと屋敷にいても身が鈍るだけなので、様子を見に来たのだ。
耳を澄ませると、威勢の良い声と金属のぶつかる音が鼓膜を震わせた。
威勢の良い声は男の狗だろう。あの狗は、敵陣へ飛び込む時に腹の底から声を出して、獲物をあの世へと送っていく。
男が足を止めて耳を澄ませていると、左手にあった茶屋から男が二人転がるようにして飛び出してきた。
顔を見れば、恐怖と怒りを顔に貼りつけている。
彼らの手には、その者たちが持つのは許されていない武器が握られていた。
男が見ていることに気づいた男の一人が「桃組だ!」と叫ぶ。
男の羽織りについている桃組の紋が目に入ったのだろうと察した。
敵だとわかるやいなや、男たちは武器を構えて男に突っ込んできた。
傘を差したまま、ひらりひらりと鈍い色の刃をかわし、隙が出来たところで男たちの足を崩し、往なしていく。
手応えがないと思うのは、先日の敵が厄介過ぎたからだろうか。
それとも、休みすぎたせいだろうか。
泥にまみれた男たちを、男は傘の下から冷めた目で見つめる。
傘を差したままの男を、男たちは睨めつける。
向かってくる意思はまだあるらしい。
「大人しく斬られる覚悟はできたか?」
男たちは「否」と解答する。
やはり、大人しく斬られる性分ではないようだ。
肩をすくめると同時に、男たちが再び突っ込んでくる。
数の利では男たちの方が勝っている。──そう思ったのだろう。
「甘いな」
三方向から、武器を携えた者が三人飛び出し、男たちを囲う。
男たちが息を呑む気配がした。
「私の部下は、どこの班よりも、どこの鬼よりも【オニ】なんだ」
さあ──狩りの時間だ。
傘の下で、男は…………オニの加宮班の班長は、口角をつりあげた。