BL 恋人みたいなふりをして

Day7 引き潮 切れた糸の先

 地獄の底にある業火が、窓をほわほわと照らす。窓の外は明るくても、燈台の蝋燭に火をつけず、最近備え付けられた電球も切ったままの暗い部屋。
 その中で、美しい顔立ちをした獄卒は、寝台の上で膝を抱え額を押し付けていた。
 寝間着から覗く素足に、冥府までついて来てしまった猫又が、すりすりとたっぷりの毛を擦り付ける。
 獄卒は僅かに頭を上げ、自分にするりとまとわりつく獣を見下ろし、後ろ頭を撫でてやる。
 猫又は撫でられて満足したのか、四本の足にぐっと力を入れて立ち上がると、寝台から飛び下りて、出窓へとかけ上がった。
 窓の外に広がる冥府の景色に興味があるのだろう。尻尾をゆらりと揺らしながら、三角の目をガラスの向こうへ向けている。
 獄卒は、獣の背中から視線を外すと同時に、息を吐き出す。
 そしてまた、心を鎮めるように膝に額を押し付けた。
 息を吐いても、目を閉じても、あの菩薩の言葉が耳の奥で、頭の奥で響いてしまう。
 打ち寄せる波の如く、遠ざかっては押し寄せて、血潮に乗って幾度も幾度も、繰り返し流れる。

『それは君の、自業自得ってやつだよ』

 遠い昔に忠告は受けていた。『どうなっても知らないよ』と。
 男の声が何度も繰り返されるのも、自業自得故なのだろうか。

 ◇  ◇  ◇

「縁談を断りたい?」

 天照も月読も地獄の業火も届かない場所で、呼び出した男が首を傾げる。

「その為に、私に恋人のふりをしろと?」

 男の問いかけに、直(あたい)は迷いのない表情でしっかりとうなずいた。

「他の誰でもない。縁結びを司るあなたにしか頼めないお願いです」

 背筋をぴんと伸ばして、男を射抜く。
 隙を見せてはいけない。もちろん、油断もしてはいけない。
 直の目前に居るのは、閻魔大王と対になる存在、地蔵菩薩。
 鬼ではなく、もちろん亡者でもない。
 仏だ。
 地蔵菩薩の周囲には瞳と同じ色をした燐光がふわふわと漂っている。
 地蔵菩薩は、直の姿を上から下までしげしげと眺めてから、左手の小指へ視線を投げた。
 縁を結ぶ地蔵菩薩のことだ。彼の目には、直の結び糸の先がどこに繋がっているのが見えているのだろう。

「君の糸は、その縁談相手と繋がっているみたいだけど? もちろん、向こうの糸も君に繋がっている」

 直は、何も見える自分の手を見つめる。
 この手に、縁談相手の結び糸が結ばれている。そして、彼女の方に自分の結び糸がのびて、繋がっている。
 直は、糸を断ち切るかのように、広げていた手で拳を握る。

「縁談の相手が私だなんて、あまりにも不憫です。もっと別の……大事にしてくれる男(ひと)のところに嫁いだ方が良い。……俺ならそうする」

 地蔵菩薩を真っ直ぐに見つめ、直は再度縁談を断るよう願い出る。
 菩薩はしばらく黙ってから、「わかったよ」と呆れた口ぶりで了承した。

「一度は繋がった糸を切るんだ。……どうなっても知らないよ」

「構いません」

 地蔵菩薩の忠告を、直は了承した。

 ◇  ◇  ◇

「結び糸は、生まれた頃から相手に繋がっている。一本だけの者もいれば、二本三本と繋がっている者もいます。前者は一度の結婚で済み、後者は幾度も繰り返すのです」

 地蔵菩薩は寺子屋に通う子どもたちを前にして、結び糸の話を聞かせる。
 少女漫画好きな女の子たちが揃ってやって来て、「運命の糸は本当にあるのか」と問いかけて来たからだ。
 せっかくの機会だからと、菩薩は子どもたちを集めて自分が行っている仕事を交えながら、教えているのである。
 女の子一人が手を挙げて、口を開いた。

「糸が切れることはありますか?」

「基本的にはないよ。でもね、自分から願って切ることはできます。生まれた時からある糸を、結ばれる前に自分の手で切ることを選んだらどうなるのか……」

 菩薩は一度言葉を切り、自分の左手に繋がる一本の糸に視線を落とす。
 関ヶ原で戦があった頃に、切ってくれと願われて切れた糸だ。

「結び先を失った糸は、本人でも思いがけない場所に、再び繋がるのです」
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