BL 恋人みたいなふりをして

Day20 祭りのあと/Day21 缶詰

 お地蔵様の気配が完全に遠ざかってから、直は背中から倒れ込んだ。
 背中に隠れていた丹桂が、潰される寸前でびっくりした様子で飛び出し、主の腹へ移動する。
 直は「にゃあ?」と顔を近づける猫又の背に手を伸ばした。毛並みに沿って撫でながら、深く長く息を吐き出す。
 しばらくの間、黙々と猫又を愛で続け、ようやく心が落ち着いてきた所で、お地蔵様にされたことが脳裏を過ぎていった。
 こつんと当てられた額、掠めた鼻先、今にも触れそうだった唇。
 鼓動が走った後みたいに細かく胸を叩く。

「やり返されるのかと思った……」

 口づけを。
 随分昔の、糸を切った日の情景はきっと忘れる事はない。直の心を縛るように、ずっと絡み付いたまま、忘れるなと、締め付ける。
 地蔵菩薩の呪いに似た言葉と一緒に。
『どうなっても知らないよ』
【恋人だという証明をしろ】と言われた。縁談相手の女から。
 縁談の場の空気が凍りつく中、女の発言に呆けたお地蔵様の襟を直は掴み引き、彼の唇に己の唇を重ねた。あの場を切り抜ける為に、勢いでやった行為だった。それ以外に証明する術を直は持っていなかったから、恋人ならやっているであろう行いを、女に見せつけてやった。
 思えば、あの地蔵菩薩が直に構うようになったのは、糸を切ってくれと願ってからだ。縁談を断りたいから、恋人のふりをしてくれと頼みに行って、彼は文字通り恋人のふりをしてくれた。そして今も、そんなふりをさせてしまっている、気がする。
 それまでは、ただ冥府で働く獄卒と、閻魔大王の対になる地蔵菩薩という仕事仲間みたいな関係であった。
 その関係を崩したのは、彼と二人っきりで歩くことに他人の目を気にするようになったのは、他でもない自分だ。
 糸を切った後に訪れる変化なんて一欠片も気にせず、ただ縁談を断ればいいという安易な考えで、彼とのなんでもない関係を壊した。
 直ぐ、なんでもない関係に戻ると思っていた。

「丹桂。私はやはりおかしいみたいです」

 直の腹の上でぺったりとお腹をつけ、悠々と足を伸ばす猫又にぽつりとこぼす。

「あの人と会えないと思うと、酷く……寂しい……」

 直が倒れてから、恋人みたいに毎日のように顔を出していたお地蔵様。怪我をする前から顔を出す頻度は高く、その度に「来なくていい」と言っていた。にも関わらず、「明日は来れないよ」という言葉を聞いて、少しだけ胸が痛んだ。
 会えないのが、とても寂しい。ただでさえ姿が見えないのに、声を聴くことも我慢せねばならない。
 じわりじわりと、目の奥から熱が広がる。
 お地蔵様の言った通りだ。王太子様の符は本当によく効く。きっと数日のうちによくなる。
 目を潤す水もちゃんと出てきて、符を濡らした。せっかく交換してもらったばかりなのに、また換えなければ。

『その包帯が取れて、また見えるようになったら、一番最初に君の視界に入りたいな』

「私も早く、あなたの顔が見たい」

 いつものようにお地蔵様の顔を見て、いつものように悪態を吐けば、この胸にある寂しさも少しは紛れるはずだ。

「私にこんな思いをさせるあの人は、いったい何なのでしょうね」

 私とあなたはどういう関係なのだろう。
 いつか妹に出された質問の答えは、今もこれと納得出来るものが見つからないまま。
 目を押さえ、ぽつぽつとぼやく主人に猫又は言葉を返さない。そのかわりに「にゃあ」とひとつ鳴いた。

 ◆  ◆  ◆

 ちりん、ちりんと、山の奥に作られた石造りの舞台で女たちが舞う。
 舞台を囲むように敷かれた蓙(ござ)には多くの神や仏が並び座り、酒や秋に収穫された作物を食していた。
 人間が踏み入る事がないこの場で行われているのは、神と仏が集まって行われる秋の宴だ。この国の神は人間と同じで、集まって呑み交わすのが好きなのだ。
 例に漏れず、お地蔵様もこの宴に呼ばれて杯を手にしてる。
 が、その表情は宴に似つかわしいものではなく、今にも怒って帰りそうなほど険しいものであった。

「長い……」

 ぼそっと呟いた言葉を、隣に座っていた友人の仏が拾い、お地蔵様に視線を向けた。

「どうした?」

「宴が長いと言っている」

 据わった目をして答えるお地蔵様に、友人も遠い目をして「そうだな」と静かに返し、杯に注がれたものを喉の奥に流す。

「かれこれもう四日、ここにいるものな」

 途中で抜けようものなら、他の神や仏に何を噂されるかわからない。あいつは付き合いが悪いとか言われそうだ。
 もう帰りたいと思う神や仏はいるだろうが、年配の神や仏の手前、動くことが出来ずにいる。年配の神が率先して動いてくれればいいのだが、その神たちが宴を楽しみ、延長に延長を重ねているものだから、後輩たちは何も言えない。

「一日だけだと聞いていたのに……」

 お地蔵様は隠すことなく舌を打つ。
「そう怖い顔をするな」と、友人はお地蔵様の杯に酒を注ぎ入れる。
 帰りたいと思うのは自由だが、呑んでるふりはさせねば。年配者の小言は長い。ここで飲んでいない事に気づかれたら、さらに「呑め」と延長される。

「本当なら、もう会えてるはずなんだよ」

 お地蔵様は杯をお膳に置き、膝を抱えて不貞腐れる。
 一日だけだと聞いていたから、「明日は来れないよ」と言って、彼を一人にした。
「明日は来れない」と言った時に、彼の細い肩がぴくりと動いたのをお地蔵様は見逃していない。包帯が無ければ、寂しさで揺れた瞳が見えたはずだ。
 符を交換した時点で、直の怪我は治りかけていた。あれから何日も経ったから、包帯が取れていてもおかしくない。

「一番最初に会って、私を見ているはずなんだ」

 治ったら、君の視界に一番最初に入りたい。
 そう伝えておいたけれど、宴に参加しているこの数日で彼の目が治って、「そんなの知るか」と包帯を解いているかもしれない。
 でも、律儀で素直なところがある彼のことだから、解かずに待っているかもしれない。
 早く、あの赤紫色の綺麗な瞳が見たい。
 悠久の刻を生きるお地蔵様にとって、獄卒の瞳が見えない期間はほんの一瞬の出来事だが、普段見えている物が見えないのは例え仏でも寂しいものだ。
 深く吐き出しそうになった息を、酒と共に飲み込む。
 何事もなければ美味しく感じられる酒も、今の心境では泥水みたいで吐き出しそうになる。
 無理矢理喉の奥へ押し流して顔をしかめるお地蔵様に、友人は「そんなにそいつが好きなのか?」とぼやくように問うた。
 ちりんと、鈴の音が止む。
 お地蔵様と友人が舞台に視線を戻せば、舞を終えた女たちが、扇子で顔を半分隠しつつ、きゃらきゃらと笑いながらお地蔵様がいる席へと歩み寄る姿が視界に入った。
 顔の作りと物言いの柔らかさのせいか、お地蔵様は女たちに大層人気のある男であったことを、友人は今さら思い出した。
「腹の中は柔らかさの欠片もねえのにな」と呟く間に、女たちが酒を取り、お地蔵様の杯に注いだ。ついでとばかりに、友人の分も注ぐ。

「楽しんでいらっしゃる?」

「お地蔵様、宴が終わりましたら不動明王様の館へ遊びに来てくださいな」

「久しぶりにお話が聞きたいわ」

 すっと、お地蔵様の目が細められた。

「障らぬ神に祟りなし、障らぬ仏も罰無しだ」

「後半誰の言葉だい?」

「今俺が考えた」

 そっと腰を上げ、お地蔵様と人間一人分座れるくらいの隙間を作る。その隙間に女の一人が当然とばかりに滑り込んで、お地蔵様の腕に自分の腕を絡めた。
 お地蔵様は何も言わずに女を見下ろす。
 今度は友人が深いため息を吐き出す番になった。
 いつものお地蔵様なら、ここで優しく柔らかな言葉を紡いでいただろうが、今日のお地蔵様は、宴で無駄な時間を過ごし、会いたい奴に会えなくて苛立っているお地蔵様だ。あしらうこともせず、黙ったままでいる時点で普段と違う。

「口を開いたら毒が出るだろうな」

 友人が成り行きを見守っていると、頭上にある木々の枝から落ち着き払った猫の鳴き声が響いた。

「にゃあ」

 誰よりも早く、お地蔵様が顔を上げる。
 枝から顔を覗かせているのは、キジトラ柄の猫又だ。二本の尾をぴしりと振って、お地蔵様を見下ろしている。
 猫又は僅かに身を乗り出し、また一つ鳴いた。

「にゃあ」

 訳、約束の刻になっても来ないから何をしているのかと見に来れば……。地蔵菩薩とは名ばかりでうつけか何かか、貴様。
 らんらんと輝く猫の目に怒りの炎が灯る。
 友人は「どこのお猫様だ?」と首を傾げた。お地蔵様に尊大な態度をとる猫又は初めて見た。
「言われてるぞ」と友人が発すると同時に、猫又が再び口を開く。

「にゃあお」

 訳、貴様が呆けている間に、獄卒(しゅじん)の怪我は治りつつあるぞ。この此方(こち)がわざわざ知らせに来てやったのだ。一度ならず二度までも我が獄卒を泣かせたら許さぬ。此方の鬼火で焼き払ってやる。
 猫又の周囲に、青白い火の玉が浮かび出る。牙が見える口からも、ちらちらと炎が覗く。

「うにゃう」

 訳、これでもまだ帰らぬと言うなら、此方が先に帰って獄卒に愛でてもらう。そして、一番最初に視界に入るのだ。此方が先に入るのだ!
 お地蔵様の目が見開かれた。
 がつんと後頭部でも叩かれたかのような衝撃が、猫又の言葉にあり身を襲う。
 猫又はぴしりと尾を振ると、枝から軽やかに飛び降りる。
 微動だにしないお地蔵様を一瞥すると、つんとそっぽを向いて森の奥へと駆け出した。
 猫又の行く先から「たんたーん!」と名前を呼ぶ甲高い声が響いている。

「置いていくなんて酷いよ、たんたーん!」

 甲高い声に「にゃあにゃあ」と言葉を返す猫又の声も響く。
「なんだったんだ?」と、首を傾げる友人をそのままにして、お地蔵様は錫杖を片手に立ち上がった。
 絡み付いていた女は突然の動きに合わせられず、容赦なく腕から剥がされ、うろたえる。

「お地蔵様?」

「まあ、どうされたの?」

 次から次へと、答える間もなく問う女たちに、お地蔵様はいつもの微笑を顔に貼りつけて、堂々と告げた。

「すまない、もう行かねば。私のかわいい子を待たせてるんだ」

 女たちの顔と空気が凍りついた。
「どういうことか」と互いに目を交わし、口を開こうとしても言葉が出てこず、ただぱくぱくと赤く濡れた唇を開閉させる。
 お地蔵様は一歩踏み出す前に、友人に視線を向けた。

「さっきの質問の答えだけど、好きとか愛してるとか、そういう次元じゃないよ。私たちは」

 愛だの恋だのという言霊は、私と彼には軽すぎる。
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