first stage ワタリガラスの止まり木


 ◇  ◇  ◇

 就職する時、彼の事務所にほど良く近い会社を、私は〝選んだ〟。
 彼の事務所に近い企業はいくつもあった。彼の事務所ももちろんだが、CMで名前を見る大手企業はもちろん町の中でふとみかける中小企業も。
 彼の事務所に就職するのはとても魅力的で、好奇心を駆り立てられた。が、あまりにも近すぎると、見えなかったものまで見えてしまって不快だ。かといって、遠くなりすぎても困る。
 私は、周辺の企業と業務内容を洗いざらい調べて、私と彼の関係にあった企業を見つけた。中小企業のビルメンテナンスを中心に業務を展開している清掃会社だ。清掃会社から正社員やパートを派遣して、契約している事業所を清掃している。
 清掃会社は、その業務的に企業の社屋へ合法的に入り込める。清掃という作業はもちろんだが、各現場への備品の供給に、契約しているお客様との打ち合わせや、汚れの相談……。調べていく中で、彼の事務所はご近所さんともいえるこの清掃会社に、社屋の日常清掃を頼んでいることを知った。
「この会社だ」と、私の心が震えた。運命というものがあるのなら、今この瞬間のことを言うのだろう。
 私は私の思惑を隠して、出入りする作業員の制服と駐車されている車から会社を探し、粛々と就職の準備を進め、入社することに成功した。
 配属先は総務部だったが、この部は点在する各事業所を回って、出勤簿や業務日誌などの書類を回収する作業がある。
 もちろん、彼の事務所にも取りに行く現場の一つだ。
 SNSの噂や他のタレントの言葉の端々から、アイドルを辞めた彼がマネージャー職に異動したと察していた私は、どこかで彼と会えるのではないかと期待していた。
 が、清掃係の道具置き場や控え室は地下に設けられていたので、二階よりも上の階に行ける機会は少なかった。一階は地下へ行くまで必ず通る場所なので、顔を合わせるならエントランスだろうなと、薄い望みに賭けつつ、何事も悟られないように日々を送る。
 私は、アイドルが好きだという事も社内では公表せず、むしろ疎い態度を見せていた。
 アイドルに……彼に興味を抱いていると知られたら、彼に近づく機会が無くなると警戒したからだ。アイドルを多数抱える事務所に、アイドル好きな社員を送り込んで何事かあれば、契約を打ち切られかねない。現に、事務所の前で出待ちをしていたファンが面接に来た時も、採用を断っている。会社へ出待ちしているファンの情報を伝えたのは、もちろん私。
 あの事務所の前には、彼の出待ちが必ず居る。日中は近くにあるコーヒー専門店に身を潜め、彼が外出する時間や帰宅する時間を狙ってわさわさと出てくるのだ。
 私は、あいつらのような卑しい行いはしない。
 彼は、私の中でも特別なアイドルだ。孤独でありながら、気高く、美しく生き抜いたアイドル。
 あくまでも、偶然を装い、自然な形で彼と会う。
 彼は、決まりに背く者を干す男性(ひと)だから。
 私が私の欲と思惑を抱えたまま、数年の時が経った頃。

『兵藤です。よろしくお願いします』

 彼が出したイヤホンジャックをスマートフォンにぶら下げた女が、入社してきた。

 ◇  ◇  ◇

「ダメじゃない。気軽に〝アイドル〟にお電話したら」

 この夏。世間をざわつかせた女優の登場に、泉と夕陽は揃って呆ける。
 ぽかんと開いた口はなかなか閉じず、視線も繭に向けられたままだ。ようやく発した言葉も、繭の名前を呼ぶのみである。
 一方で、舞の方は苦い表情を見せていた。唇をぎゅっと引き結んで、繭から、そして泉と夕陽からも逃げるように視線をそらす。
 繭は、スマートフォンの通話が切れたのを確認してから、「どうぞ」と泉に返した。
 この場合「ごめんなさい」と返せばいいのか、それとも「ありがとう」と返せばいいのかわからず、曖昧な相づちを打ちながら、スマートフォンを受けとる。
 とんでもないところで、通話を切ってしまった。
 そして、電話の向こうに居た男に、繭の名前が届いてしまった気がする。
 冷たい汗が背筋に伝わる感覚がする中、思うように口を動かせるようになったのは夕陽だった。

「これは夢ですか?」

 目の前に、全国に名を轟かせ、数多の男と浮き名を流した女優が居る。
 美しい容姿とぞくりと人の心を撫でる声音。その中にある妖しい雰囲気が、彼女の長所であり武器だ。ドラマでも舞台でも、何を考えているかわからない。けれど、一挙手一投足が気になって、気づいたらのめり込んでいる。そういう演技が似合う芸能界の華。
 そんな人が違法な薬物に手を出したと聞いて、夕陽は未だに信じられずにいる。
 ぼんやりとした様子で繭を眺める夕陽に、繭は一歩距離を詰めて顔を寄せた。

「あらあら。あなたは、今しがた夢から戻ってきたのではなかったの?」

「朝田のライブは夢そのものだったでしょう?」と、繭の口の端がつり上がる。

「私には、夢を見せる力が失せてしまったから、これはちゃんと現実よ。お嬢さん」

 ずいっと、もう一歩距離を詰める。
 今にも、唇と唇が触れそうな距離なのに、夕陽は繭の瞳に囚われたまま、微動だにしない。
 ぱくぱくと口も動かず、ただただ呆然としている夕陽を背にする形で、泉が割って入った。
 両手を精一杯広げ、サングラスの奥にある瞳と相対した。
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