美女と野獣のティーパーティー
キッチンの方から、菓子の焼ける匂いが鼻に届く。
古びたの城の主人は、手にしていた本から視線を外して、キッチンの方へと移した。
小麦粉の焼ける匂いが、隣室にある書斎まで漂い始めると、一日の恒例となっているお茶の時間が来たことを知らせてくれる。
お喋りな召し使いが知らせるよりも、雰囲気にあった粋のある案内だ。
小麦粉の他に、卵と牛乳の匂いがする。バターと、ほんのりと薫るレモンの匂いも。
この甘い香りは、マドレーヌだろうか。一昨日もマドレーヌだった気がする。レパートリー不足か。調理師が怠惰なだけか。
ちょっとでも趣向を凝らそうと、レモンを加えたわけだ。前回は、アーモンド仕立てだったから。
人だった時よりも嗅覚が鋭敏になった獣の鼻は、漂うものから材料をわり当てる事が出来た。
パタンと音を立てて本を閉じ、サイドテーブルに置く。
座っていたソファーからゆっくりと立ち上がり、大きく背伸びをした。
ふるふると頭を振れば、首を一巡する鬣(たてがみ)に似た獣の毛が揺れた。
読書で凝り固まった太い首をごきごきと鳴らす。その次に肩。ついでに、腰もほぐしておく。
近頃、腰が痛むことが増えてきた。歳ではなく、大きな身体のせいだと思いたい。
腰よりもやや下から生えた、狼に似た尾を揺らして、主人は書斎からキッチンへと足を運んだ。
キッチンで用意されている皿とカップの数を見て、主人は片方の眉を吊り上げる。
いつもなら一人分用意されているところが、今日は二人分だ。
調理係のポール型のコート掛けが、自身を支える大黒柱から伸びるフックを器用に使い、夕食で使う野菜を手早く洗っている。
オーブンから出されたばかりのマドレーヌからは、白い湯気が立ち昇っていた。
つまみ食いをするには、まだ熱そうだ。
魔法で宙に浮かべられた照明代わりのろうそくが、ゆらゆらと巨体を照らす。
作り出された影は、二本足で歩く牛とも獅子とも言えない大きな獣の姿だ。
巨大な影に気づいて、コート掛けが主人に振り向いた。
「これは、これはご主人さま。今、お呼びしようかと」
「……この皿は?」
一人分、多く用意されている皿に目を向けつつ、調理係に問う。
調理係は、両手を叩くような仕草をフックでしてから、主人の質問に答えた。
「エクレルール達が、あの少女もお茶会に誘うという話を持って来まして……。ご主人さまの提案ではなかったのですか?」
逆に問われて、主人は首を振った。
「私は、そのような許可は出していないぞ。……エクレルールはどこだ」
「隣のダイニングにいると思いますが……」
言われてから意識を集中させて、耳でダイニングの様子を確認する。
厚い壁の向こう側から、召し使い達の愉快で楽しげな声音が、僅かながら鼓膜を震わせた。
分厚い胸から、大きく息を吐き出す。
あの燭台は、また余計な思い付きをしたのか。
思えば、少女を客人として迎えたと言い出したのもあいつだった。
嘆息しながら、のしりのしりと足を動かしてダイニングに移動する。
食事をするときに使っている長テーブルの上で、件の燭台と召し使いの一人であるポットが会話を交わしていた。
「あの女の子は何を飲むかな?コーヒーかな?紅茶かな?」
「お前は、茶出し係じゃないだろう」
呆れた声音で会話に口を挟む。
主人の声を聞き、二人が驚いた様子で振り返った。
「これはこれは、ご主人様!」
燭台が恭しく頭を下げる。
ポットも「ごきげんよう、ご主人様」と、お決まりの言葉を並べた。
ダイニングの長テーブルには、テーブルを囲むように、椅子が八脚置かれている。
上座にある一番端の椅子が主人の椅子だ。その椅子にどかりと腰を下ろして、手足を組む。
「聞いたぞ、エクレルール。あの娘を茶会に呼ぶそうだな」
至極迷惑だという雰囲気を顔に出して言う。
エクレルールは気づいているのかいないのか。言葉を弾ませて肯定した。
「お耳にしているなら話は早い!ご主人様、あの少女をお部屋から呼んで来て頂けませんか?」
「はあ?」
何でこの城の主人が、直々に客人を呼びに行かないといけないのか。
柄にもなく、呆れが混ざった間の抜けた声が口から出た。
組んでいた手足をほどいて椅子から身を乗り出し、テーブルにいる燭台に顔を近づける。
ずいっと獣の顔を近付けられても、燭台は調子を落とさない。
明るく音符が弾むような声音のまま、言葉を続けた。
「城の主人なのだから、当然の事でしょう。ご主人様主催のお茶会。あなたが行かずして、誰が行きますか」
ここまで一息で捲し立てた燭台である。
ふぅと軽く息を吐き出し呼吸を整えてから、主人の晴れ渡った夏の空と同じ色をした水色の瞳を真っ直ぐに見つめて、再び口を開いた。
「ご主人様が野獣になってから、みんなと決めたでしょう。『出来ることは自分でやる』『みんなで助け合って、暮らして行く』ね?ポワニャールが怖い顔をして纏めてたの、忘れちゃいましたか?」
おどけるように問われて、鼻から強く息を吹き出し、椅子に座り直して背もたれに背を預ける。
燭台に言われた取り決めは、記憶の片隅にしっかりと縫い付けられてる。忘れた事は一度もない。
我が事ながら、面倒な事を容認したものだ。
苦い表情をして、主人は舌打ちをすると、重い腰をあげた。
主人は黒い塗料が剥げ始めている扉の前に立ち、ノックをしようと拳を握る。
が、やはりやめようかという気持ちが胸に広がり、上げた拳をおろした。
肩に乗る燭台がそれに気づいて、早く扉をノックしろと急かす。
なんだかんだと言っていたのに、この召し使いは結局ついてきてるではないか。お前が誘えよ。
言いたい気持ちを息を吐き出すことで抑え、主人は扉と向き直った。
コツコツ。
長く鋭い爪がある手を握り、少女がいる部屋の戸を控えめに叩く。
一拍遅れて、中から少女の小さく細い声が聞こえた。
声音の中に、戸惑いと疑問が混ぜられている。
思えば、こちらから話しかけるのは初めてだ。
「なんでしょうか?」
「……茶会に来ないか?腹も空いて来る時間だろう」
少女は直ぐに答えない。
突然の誘いに、思考が停止してしまったのだろうか。
扉越しでも、なんとも言えない空気が流れる。
気まずさから逃げる為、一つ二つと数を数える。
八つを数えたところで、少女が言葉を返した。
「それは、私が参加してもいいものですか……?」
彼女なりに精一杯考えて出した言葉だろう。
食事は共にしているのに、何を今さら遠慮しているのかと思うが、遠慮してるなら無理に茶を出すこともないのではとも思う。
断ってくれるならそれはそれで有難い。こちらも気を使わなくて済む。
主人がそう考えている中、燭台が明るい声音で口を開いた。
「ぜひ、お越しくださいませ!マドモアゼル!お茶会の主催者も来ても良いと仰せになられているのですから!」
「楽しそうだな、お前……」
キンキンと耳に響く声に顔をしかめつつ、主人は呟く。
「何か言いましたか?」
おどけてくる召し使いに「なんでもない」と返した。
短い会話をしていると、ヒールが床を叩く音と、衣擦れの音が耳の奥に届いた。
二人でやり取りしている間に答えを出した少女が、扉の方へ移動してきたようだ。
ゆっくりとドアノブが動き、扉の隙間から少女が顔を覗かせる。
少女の瞳が大柄な主人の身体をとらえ、次に肩に乗る燭台に移された。
その瞳には、やはりというべきか。案の定というべきか。困惑の色が浮かんでいる。
「あの……」
「ごきげんよう!マドモアゼル!さあさあ、楽しいお茶会が始まりますよ!食堂へゴーゴー!」
燭台が主人の肩から床に下りて、少女の着ているスカートの裾を引っ張る。
本当に行って良いのかと、彼女がこちらに視線を飛ばした。
「興味があるなら……歩みを進めるといい」
少女に告げてから、ゆるゆると歩く召し使いと少女を大股で追い抜く。
曇りぎみだった少女の表情(かお)に、日差しが降り注いだ気がするが、見なかった事にしてダイニングへと先に戻った。