一章 エリートの夢
気付けばリリーは、暗い闇の中に居ました。
夜のような完全な闇ではありません。
その証拠に、自分の身体がはっきりと見え、目も闇に慣れていました。
「異空間に飛ばされた。久しぶりにやっちゃったわね」
小屋の窓枠に張り込められていた鏡は、異空間への入口だったようです。
狙いを定めた者の心を映し、反応した相手に光を放って、引き込む。昔から伝わる古い魔法。
あの悪魔、少女の姿をしてる割には、相当歳が上のようです。
悪魔に出し抜かれ、リリーは苛立ちを体内から逃すように舌打ちをしました。
とにかく、今は異空間から出る事が最優先。
アシュレイの仕事を手伝いに来たのに、足を引っ張るような真似は、リリーのプライドに反します。
「入口として使われた鏡が、どこかにあるはず」
その鏡を使えば、元の世界に戻れる。
リリーは杖を顔の前に出し、杖先を横に向け、呪文を唱えました。
「光よ我を導け 鏡の所へ」
杖から光が溢れ、杖の中央に集中し、闇の中に光の道を放ちました。
光は、リリーの居る場所から、そう遠くない所で途切れています。
途切れた場所に、鏡があるのです。
杖を下ろた彼女は、魔力を足に集中させて、一度の跳躍で鏡の場所へと移動しました。
「あった」
降り立ったリリーの足元に、窓枠にはめられていた鏡と同じ物が、置かれていました。
鏡を覗き込んで見ると、鏡の向こうで、アシュレイと例の悪魔が戦っていました。
早く戻って、加勢しなければ。
ここから出る方法を記憶の底から引きずりだそうとした時、背後からあの声が聞こえました。
「どうして、魔女になったの?」
ハッとして振り返ると、自分と瓜二つの幻影が、胸から血を流し、泣いていました。
「どうして、魔女なんかになったの? あなたが魔女にならなければ、私はこんなに傷つかなかったのに」
リリーの幻影は、リリーに恨みを持っているようです。
鏡は、人の心を映す。
鏡は、人の心を惑わす。
この幻影は、リリーの心そのものでした。
リリーが魔女にならなければ、リリーの心は傷つかなかった。
貴族達に蔑んだ目で見られず、傷付く事もなく、ただの庶民として平穏無事に過ごせていただろうに。
何故、貴族達がはびこる魔法の世界に足を踏み入れたのか。
貴族が絶対という社会に、庶民の居場所などないのに。
「どうして、魔女なの?」
両手を伸ばし、ひたりひたりとリリーに近づきながら、繰り返し同じ言葉を言います。
どうして、魔女になった。
どうして、魔女になった。
どうして、魔女になった。
どうして、どうして、どうして、どうして……!
リリーの頭を掻き乱すように、永遠と。
血と涙を流して、リリーに近付きます。
あと一歩でリリーに触れる位置まで来た時、リリーは杖を振って、幻影の手を払いました。
『どうして、魔女になったの?』
昔、魔法学校に通っていた時に、教師から問われた言葉です。
教師も例に漏れず、貴族出身。
貴族社会のこの国で、リリーの居る場所は、貴族至上主義思想が最も強い場所。
当時、リリーと同期の庶民出身の魔女や魔法使いは殆どおらず、教師が不思議がるのも、貴族出身派から見れば、当然の事でした。
当時、リリーは質問に答えられませんでした。否、答えなかった。
その答えは、貴族を完全に敵に回すものだから。
「どうして、魔女になったかですって?」
脳裏に浮かぶ、両親と兄、庶民出身の国民達。
貴族が庶民を虐げる姿を、リリーは何度も見てきました。
理不尽な事を、貴族から直接言われました。
魔女の仕事の待遇も、良いものではありません。
度重なる貴族の横行に、リリーの我慢も限界点を突破しようとしていました。
腕の半分程の長さの杖を、魔力を込めて、自身の背と変わらない長さにリリーは変えます。
魔力の込められた杖は、暗闇の中で白銀に輝き、溢れ出る魔力で彼女のローブや髪が翻りました。
「よく聞きなさい、私の幻影よ。私が魔女になったのはね」
逃げないように、魔法陣で幻影を縛り止め、杖を振り上げました。
「この腐った貴族社会を、ぶっ壊すためよッ!」
杖先に魔力を集め、貴族への鬱憤をぶつけるかのように勢い良く、幻影に杖を振り下ろしました。
◆ ◆ ◆
鏡の割れる音が辺りに響き、悪魔とアシュレイは動きを止めました。
少女の姿をした悪魔は驚きで目を見開いています。
一方のアシュレイは、こうなる事を予測していたらしく、余裕の笑みを浮かべていました。
「エリートの名は伊達じゃないね、リリー」
クスリと笑みを零して、アシュレイは呟きます。
彼の視線は、鏡がはめられていた窓枠に向けられていました。
窓の側に、もうもうと煙のような魔力が立ち込め、割れた鏡の破片を踏み締める音が、中から聞こえます。
そして、身の丈程もある杖を手に、リリーが煙の中から姿を現しました。
魔力を冷気へ変換させているのか、彼女の歩いた地面は凍り付き、場の空気も冷たい物に変えてます。
それ以上に冷たかったのは、彼女の目でした。
その目を見て、アシュレイは思いました。
これは確実に、怒ってる。
何に怒っているのかは分かりませんが、彼女が怒っている事は分かりました。
「そこの悪魔さん……」
リリーに問いかけられ、悪魔はびくりと体を震わせます。
なんなんだコイツは。さっきと雰囲気が全然違うじゃないか。
ここは逃げた方がいい。
そう判断しましたが、意に反して体が動きません。
足元を見ると、いつの間にか足と地面を氷で縫い止められていました。
「な……っ!」
「冥土の土産は、お持ちになって? ならば、逝け!」
言うのと同時に、リリーは地面を杖で叩きます。
魔力が吹雪へと変わり、悪魔を包み込むと、瞬き一つで氷漬けにしました。
それを確認し、足に魔力を集中させ、悪魔の頭上に跳躍し、杖先に魔力を溜めます。
怒号もろとも、リリーは杖を悪魔の頭上から突き刺し、悪魔は氷ごと砕け散りました。
「私を惑わそうなんて、百年早いのよ」
貴族社会の荒波に揉まれたこの精神、簡単に揺らいだりなどしない。
杖を一振りして元の大きさに戻し、ここでやっと、リリーは一息入れました。
「お見事。実に鮮やかなお手前だったよ、リリー。君を誘って正解だった!」
パチパチと笑顔で拍手をしながら、アシュレイは彼女に近づく。
リリーは杖をベルトにしまいながら「当然」と一言だけ返しました。
因みに、リリーが悪魔の相手をしている間、彼は何をしていたかというと、小屋の中に入って、悪魔と契約した魔女の確認をしていました。
老齢の魔女は既に息を引き取っており、魔女の魔力を得た悪魔が、魔女に成り代わっていたようです。
老齢の魔女が悪魔と契約する理由の大半が、永遠の若さとか不死を求めるもので、彼の調べではこの魔女も例に漏れずそれでした。
最も、自分の力量を超える悪魔と契約すると、望みを叶えるどころか逆に操られたり、魔力を奪われて殺されたりしてしまうのですが。
それが理由で、悪魔との契約は違法となったのです。
目先の利益に捕らわれ、法を犯した挙げ句の果てに殺されてしまうとは、哀れな老魔女だと、アシュレイは感想を言いました。
「それにしても、リリーは本当に強いね。将来、魔法大臣になってもおかしくないかも」
「それは無理ね。庶民は、要職に就けないから」
法律で、要職は貴族出身の者と決められているのです。庶民出身のリリーにはなれません。
なのにもかかわらず、アシュレイはケラケラと笑って「なれるよ」と返しました。
「僕が法律を変えてしまえばいいんだからさ」
「法律を変える? あんたに、そんなデカい権力あるの?」
「あるよ。だって僕……王子だからね」
この国の第一王子、現国王の正統な後継者。
朗らかに笑いながら、アシュレイは言い切りました。
間。
「はああああああああああああああああ⁉」
リリーが驚くのも無理ありません。
王子の存在は知っていましたが、放浪癖があって、城に居る事は殆どなく、道楽息子と呼ばれ、国民の前に姿を現さず、リリーも見たことがありません。
アシュレイの印象と王子の印象がかけ離れていて、気付くどころか、王子であるなどこれっぽっちも思ってませんでした。
「嘘でしょう⁉」
「嘘じゃないよ。前にヒントを言っただろう? 『だらしないと、他の貴族に怒られるんだよ。貴族の恥だ』ってね」
「そ、そもそも、名前が違うじゃない……!」
王子の名前は、シュエット・アマ・デトワールです。アシュレイ・オリオンではない。
リリーがその事を指摘すると、アシュレイは朗らかに笑って「うん、アシュレイは偽名だよ」と言い放ちました。
リリーの顎が外れそうになります。
なんて、自由な王子様なのか。
こんな人が、この国の世継ぎなのかと、恐ろしさで身震いしました。
「リリーなら気付くと思ったけど、やっぱりダメだったか。まあ、それはおいといて。今後の事なんだけどさ、僕と手を組まない? この腐った貴族社会を壊す為にさ。君も同じ事を思ってるんだろう」
一緒にぶっ壊そうよ。
右手を差し出して、アシュレイはリリーに言います。
貴族の頂点に立つ王子アシュレイと、庶民出身のエリート魔女リリー。
手を取り合えば、この国を変える渦の目となれるだろう。
リリーはしばらく考えた後、彼の手を取りました。
「…………裏切りは無しよ、道楽王子様」
「分かってるよ、エリートさん」
アシュレイはリリーにかしずき、裏切らない誓いとして、彼女の手の甲にキスを落としました。