二章 妖精とうたう少年


「まずいな」という呟きは、女の笑い声にかき消されて届きません。
 霧は一つに固まると、男と同じ姿の固まりに変化しました。
 その固まりの隣に、長身の女が立っています。
 地面に引きずる長さの黒いドレス。ドレスと同じ色をした髪は、ゆるりとした波をうち、唇には血の色に似た紅をさしていました。目は、通常白目の部分は黒く染まり、瞳孔は金色で縦長に切り裂いた形をしています。
 アシュレイは、「どこからわいて出てきたのか」という気持ちを押し込めて、剣を斜め下から振るいました。
 彼の魔力が含まれた真空の刃が、女に向かいます。
 女が首を僅かに傾けると、放った刃は届く寸前で霧散しました。

「…………⁉」

「それで攻撃したおつもり? まるで……そよ風」

 女が言い終える前に、ぼこりと地面が動く音がします。
 アシュレイの足元にある地面から髪が躍り出て、彼の体を絡め取りました。
 振りほどこうと腕を動かそうにも髪の力は強く、一部の髪が皮膚にめり込んでぴりぴりと切り裂きます。
 切れた部分から血が染みだし、アシュレイは痛みをやり過ごそうと唇を噛み締めました。
 アシュレイが苦しそうに顔を歪める様を、女は愉しげに笑いながら見ています。

「良いお姿ね。こちらの作業が終わるまで、少々お待ちくださいな」

 女は男の形になった固まりに手を伸ばします。
 男の胸にあたる部分を掴み、一気に自分の口へと引き寄せました。
 形のよい女の唇が開き、口角がめりめりと音を立てて裂けます。
 固まりはゼリー状の物体へと変わり、じゅるじゅると音を立てながら口の中へ吸い込まれていきました。
 あの霧の固まりは、呪いの固まりです。
 カケラの力も相まって、呪いの力は確かに強いですが、身体の中に入れるなど考えられない。
 自分から呪いにかかるものです。
 なんの迷いもなく呪いを飲み込んだ女に、アシュレイは信じられないものを見る目をして、言葉をなくしたまま、女を見つめました。
 呪いを全て食べきった女は、見せつけるように舌なめずりをします。

「ふーむ。ササミの唐揚げってところね。私は、もも肉の方が好きだわ」

「お前……」

「こっちの方は、どんな味がするのかしらね」

 女の視線が、倒れたままの男へと向けられます。

「やめろ!」

 アシュレイの言葉に耳をかさず、女は男の胸を手を伸ばしました。
 が、男の衣服に手が触れる寸前で、動きを止めます。
 アシュレイの反応を試してみたかったらしく、女は喉を震わせて笑いながら、手を引っ込めました。

「冷静な王子様も、そんな表情(かお)を見せるのね。だいじょーぶ。なぁーんにもしないわよ。なぁーんにもね」

 アシュレイを縛り付けていた髪がゆるゆると解かれ、地面の中へと消えていきます。
 自由を取り戻したアシュレイは、再び剣先を女に向けました。

「気がお強いのね。まるで……あなたのお姉さんみたい」

 するすると口にされた名前に、アシュレイの眉がつり上がりました。
 脳裏を駆け抜けるのは、二十年前の自分と任務へと赴く姉の姿。
 ちょっとした悪魔退治に行くのだと言って、部下を連れて城から出ていく黒い背中と、銀色に煌めく髪。
「すぐ帰るからね」と、アシュレイの頭を撫でた手の大きさと温かさを忘れた日はありません。

『すぐ帰るから』

 何度、その言葉が、頭の中を流れたでしょうか。
 その言葉に、幾度、胸を押し潰されたでしょうか。
 置いていかれた幼い自分を頭の隅に追いやって、口を開きます。

「なるほど……お前の正体、ようやくわかったよ」

「答え合わせで自己紹介しましょうか? 私(わたくし)はこの館で働くメイドで、」

「僕の姉を殺した、仇の悪魔だろ。やっと、見つけた……っ!」

 女の言葉を遮ったアシュレイから魔力が溢れ、風船が弾けるた時に似た音が、辺りに響き渡ります。
 女が感心した様子で、口笛をふきました。

「あら、変身解いたの? その姿もいいわね!」

「褒められたのに、全くといっていいほど嬉しくないね」

 身体の至るところから、湯気に似た魔力がアシュレイから流れ出ます。
 自分の素性を隠すために、行っていた変身術を解いたアシュレイは、元の姿を女に見せました。
 着ている衣服はそのままですが、目の色と髪の色が変わっています。赤かった瞳は銀色に。橙色の髪は胸の辺りまで伸ばした黒い髪に変わり、左胸に流して首の横で括っています。
 冷えた色をした目で、アシュレイは女を睨みました。

「ここで会ったが百年目って、こういう時に言うのかしら?」

「百年目じゃなくて、二十年目の間違いだよ」

「あら? まだそのくらいしか経ってないの? 時間の流れって不思議ねえ」

 アシュレイは隠す素振りも見せずに舌打ちをしました。
 とぼけた様子で頬に手をそえる彼女の言葉が、いちいち神経を逆撫でて来ます。
 募る苛立ちを抑え込みながら、口を開きました。

「今回現れた目的はなんだ。餌をあさりに来たのか?」

 アシュレイの問いかけに、女は誤魔化すことなくあっさりとした口調で返しました。

「そうなのよー。すこぉーし、お腹が空いちゃってね。でも、今の呪いでもうお腹ぱんぱん。肌も脂ぎってきたし、今日は帰ることにするわ」

「呪いを育て過ぎるのも考えものねえ」と続けながら、ふわりと女の身体が宙に浮きます。

 アシュレイが追いかけようとしますが、地面から噴き出した黒い霧に視界を遮られました。

「ごきげんよう、王子様。今度は【彼女】の魔力を食べさせてねえ」

 色濃く立ち込める霧の向こうから、女の笑い声だけを残して、悪魔の気配は遠ざかっていきました。
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