二章 妖精とうたう少年
妖精と歌う少年 13
その生活が、良いものか寂しいものかと聞かれたら、リルは迷わず寂しいと答えます。
まな板から窓の外に視線を移し、時間を確認します。
今日は重たい雲に覆われた一日だったので、太陽の光を見ることなく夜を迎えていました。
結露の跡が残った窓越しから、隣家の室内灯がぼんやりと見えます。
兄が帰ってくる前にスープだけでも完成させなければ、と、鍋に水を入れたところで、リルの視界に黄金色の光が飛び込んできました。
「何……?」
眩しいというよりも痛いと表現した方がいいほど、窓の外が黄金色に輝いていました。
台所にある小さな窓では、強い光りのせいで外の様子が見えません。
ぱたぱたとスリッパの底で床を叩き、家の中で一番大きな窓の方へ移動します。
庭へと続くその窓を開けて、リルはようやく空に広がっている物を確認できました。
林の方から村の上空に向けて、黄金色に輝く幕が厚い雲を切り開いて、広がっています。
オーロラにも似た光に、リルは呆けた様子で空を見上げました。
空の異変に気づいたのは、リルだけでは無かったのでしょう。
隣家や近隣の窓が開く音や、ドアを開ける音が聞こえてきました。
今にも生き絶えてしまうような静かな村が、息を吹き返したかのようにざわざわと動き出すのを肌で感じます。
リルは、村に広がる黄金色の幕を、じっくりと観察しました。
幕の中に、ぼんやりと映る姿が見えるのです。
それは、ノース広場にモミの木があった頃。在りし日の村でした。
モミの木を囲んで、村の人たちがお祭りの飾りつけをしています。
三角の形をした色とりどりの旗に、その年に獲れた野菜を並べる台。
広場の隅にはテントが並べられて、収穫した野菜と川で獲れたマスを具にしたスープが配られています。その隣では、パンを揚げてきな粉をまぶしたおやつが売られていました。
賑やかな様子が次々に流れていく映像に、リルは懐かしいと思うと同時に、胸をきゅうっと搾られる感覚に襲われました。
思い出すこともなくなってしまった時間を、頭の奥から無理矢理引きずり出される度に、胸がきゅうきゅうと悲鳴をあげます。
揚げたパンは幼いリルが食べるには大きくて、半分に割ってから兄と分けあって食べました。
スープの隣で売られていたウィンナーは、鉄板の上で香ばしい匂いと音を立てながら焼かれ、父や母にねだって買ってもらったこともあります。
温かいスープとウィンナーを頂いて、日が沈み出した頃に始まる聖歌隊の聖歌に聴き入るのが、リルの楽しみ方でした。
モミの木の下で歌う聖歌隊には、リルの兄マルコも十歳から加入して、リルに歌声を聴かせてくれました。
あの歌声が聴けなくなってから、何年の時が過ぎただろう。
あの歌声が慟哭に変わってから、季節は幾度移り変わっただろう。
モミの木が倒れた日から、兄が教会に足を運んで必死に祈っている姿を、リルは静かに見ていました。
兄の祈りが、願いが黒く染まっていくのを知りながら、リルは止めることも出来ずにただただ見ているだけ。
家族が減るにつれ、兄妹の会話というものもなくなっていきました。
会話が減るかわりに増えたのは、貴族への恨み節と悪い噂話です。
リルは口にすることはなかったのですが、家を出る前の母と隣に住むおばさん、おばさんの向かいに住むおじさんが集まって、こそこそと噂話をしているところを、幼かった頃のリルは見ています。
噂話は母たちだけではなく、商店街へ買い物に行ったときも、こそこそと流れてきました。
貴族が来てから、この村は変わってしまった。
モミの木が切られてから、この村は変わってしまった。
あの貴族さえ来なければ、モミの木さえ切られなければ、この村から妖精は消えることはなかったのに。山や川から、恵みが消えることもなかったのに。
本当に、そうなの……?
リルの口から、声音にならなかった呟きがこぼれました。
山や川から恵みが消えたのは、本当に貴族が来たからなの?
モミの木が切られてしまったからなの……?
黄金色の光が運んできた村の記憶、溢れてくる思い出が胸の奥に集まって、固まって、重たくなって、リルは顔を俯かせました。
もう、戻れないのだろうか。
光の中にあるあの頃のように、家族と共に村の人と笑い時に学び、山や川の幸を食し、聖歌隊の歌を聴く。
そんな日は、もう来ないのだろうか。
「もどりたい……」
村が活気で満ちていた頃に。
モミの木があったあの頃に。
家族が笑いあっていたあの頃に。
戻りたい。
もどりたい。
モドリタイ。
「もどりたい」
願った瞬間。
耳の奥で、ぱりんとガラスが落ちる音が響きました。
◆ ◆ ◆
その生活が、良いものか寂しいものかと聞かれたら、リルは迷わず寂しいと答えます。
まな板から窓の外に視線を移し、時間を確認します。
今日は重たい雲に覆われた一日だったので、太陽の光を見ることなく夜を迎えていました。
結露の跡が残った窓越しから、隣家の室内灯がぼんやりと見えます。
兄が帰ってくる前にスープだけでも完成させなければ、と、鍋に水を入れたところで、リルの視界に黄金色の光が飛び込んできました。
「何……?」
眩しいというよりも痛いと表現した方がいいほど、窓の外が黄金色に輝いていました。
台所にある小さな窓では、強い光りのせいで外の様子が見えません。
ぱたぱたとスリッパの底で床を叩き、家の中で一番大きな窓の方へ移動します。
庭へと続くその窓を開けて、リルはようやく空に広がっている物を確認できました。
林の方から村の上空に向けて、黄金色に輝く幕が厚い雲を切り開いて、広がっています。
オーロラにも似た光に、リルは呆けた様子で空を見上げました。
空の異変に気づいたのは、リルだけでは無かったのでしょう。
隣家や近隣の窓が開く音や、ドアを開ける音が聞こえてきました。
今にも生き絶えてしまうような静かな村が、息を吹き返したかのようにざわざわと動き出すのを肌で感じます。
リルは、村に広がる黄金色の幕を、じっくりと観察しました。
幕の中に、ぼんやりと映る姿が見えるのです。
それは、ノース広場にモミの木があった頃。在りし日の村でした。
モミの木を囲んで、村の人たちがお祭りの飾りつけをしています。
三角の形をした色とりどりの旗に、その年に獲れた野菜を並べる台。
広場の隅にはテントが並べられて、収穫した野菜と川で獲れたマスを具にしたスープが配られています。その隣では、パンを揚げてきな粉をまぶしたおやつが売られていました。
賑やかな様子が次々に流れていく映像に、リルは懐かしいと思うと同時に、胸をきゅうっと搾られる感覚に襲われました。
思い出すこともなくなってしまった時間を、頭の奥から無理矢理引きずり出される度に、胸がきゅうきゅうと悲鳴をあげます。
揚げたパンは幼いリルが食べるには大きくて、半分に割ってから兄と分けあって食べました。
スープの隣で売られていたウィンナーは、鉄板の上で香ばしい匂いと音を立てながら焼かれ、父や母にねだって買ってもらったこともあります。
温かいスープとウィンナーを頂いて、日が沈み出した頃に始まる聖歌隊の聖歌に聴き入るのが、リルの楽しみ方でした。
モミの木の下で歌う聖歌隊には、リルの兄マルコも十歳から加入して、リルに歌声を聴かせてくれました。
あの歌声が聴けなくなってから、何年の時が過ぎただろう。
あの歌声が慟哭に変わってから、季節は幾度移り変わっただろう。
モミの木が倒れた日から、兄が教会に足を運んで必死に祈っている姿を、リルは静かに見ていました。
兄の祈りが、願いが黒く染まっていくのを知りながら、リルは止めることも出来ずにただただ見ているだけ。
家族が減るにつれ、兄妹の会話というものもなくなっていきました。
会話が減るかわりに増えたのは、貴族への恨み節と悪い噂話です。
リルは口にすることはなかったのですが、家を出る前の母と隣に住むおばさん、おばさんの向かいに住むおじさんが集まって、こそこそと噂話をしているところを、幼かった頃のリルは見ています。
噂話は母たちだけではなく、商店街へ買い物に行ったときも、こそこそと流れてきました。
貴族が来てから、この村は変わってしまった。
モミの木が切られてから、この村は変わってしまった。
あの貴族さえ来なければ、モミの木さえ切られなければ、この村から妖精は消えることはなかったのに。山や川から、恵みが消えることもなかったのに。
本当に、そうなの……?
リルの口から、声音にならなかった呟きがこぼれました。
山や川から恵みが消えたのは、本当に貴族が来たからなの?
モミの木が切られてしまったからなの……?
黄金色の光が運んできた村の記憶、溢れてくる思い出が胸の奥に集まって、固まって、重たくなって、リルは顔を俯かせました。
もう、戻れないのだろうか。
光の中にあるあの頃のように、家族と共に村の人と笑い時に学び、山や川の幸を食し、聖歌隊の歌を聴く。
そんな日は、もう来ないのだろうか。
「もどりたい……」
村が活気で満ちていた頃に。
モミの木があったあの頃に。
家族が笑いあっていたあの頃に。
戻りたい。
もどりたい。
モドリタイ。
「もどりたい」
願った瞬間。
耳の奥で、ぱりんとガラスが落ちる音が響きました。
◆ ◆ ◆