鎌を携えし者
どんよりとした雲が空を覆う。
雲に阻まれ、逃げられなくなった湿った空気が、ねっとりと身体にまとわりつき、神也は眉間にしわを寄せた。
梅雨に入って間もなく、彼の通う高校では今日、この季節恒例の球技大会が行われている。
男子はサッカー。女子はバレーかドッジボール。
一回戦目で華々しく散った神也たちサッカー組は、まだ生き残っていた女子のバレーの応援をしに、一番大きいけれど一番風の流れが悪い第一体育館へと来ていた。
人が多いせいか。それとも梅雨独特の気候のせいか。何もしてなくてもじっとりと肌が汗ばむ。何度もタオルで拭っているが、汗は止まらない。
そのうち拭くのも面倒になって、タオルを首から下げた。
試合が行われている間、開いている窓の側に座り、勝負の行方を見守る。
相手は鈴那のクラスで、彼女もコートに立っていた。
持ち前の運動神経と胴体視力を駆使し、鈴那は点を積み上げていく。
その姿は、男の神也から見ても惚れ惚れとするほど格好良く、喜びで笑顔を見せた時は凄く可愛い。
自分のクラスではなく、彼女の方ばかり見てしまう辺り、自分はつくづく彼女に惚れているのだと実感した。
同じクラスだったら、どれだけ嬉しかった事か。
点が入り、鈴那のクラスと点差が開く度に、拓や勇翔たちの声援が大きくなり、耳に突き刺さって痛い。
それ以上に。
ピリッとした痛みが首筋に走って、思わず手で押さえる。
首を巡らせ辺りを見ると、先週クラスに転入して来た神谷太貴(しんたにたいき)が、怖い表情をして神也を睨んでいた。
それも一瞬の出来事で、太貴は直ぐ人当たりの良い笑顔を見せると、友人たちと一緒に声援を送り始めた。
何だったんだと、神也は訝しげる。
思えば、転入して来た日から事あるごとに視線を向けて来ている。
他の生徒にはそんな様子を見せていない。なぜ、自分にだけ。
考えれば考えるほど、眉間に皺が集まる。
「ありゃ?」
神也が難しい表情をしている。
声援を送っていた途中、ふと神也の方を見た拓が気づく。
素っ頓狂な拓の声が勇翔の耳に入り「どうした?」と尋ねた。
「神也が怖い表情(かお)してる」
「あらら、本当だ」
勇翔も神也の表情を確認し、苦笑する。
「鈴那に声援が集まってるからなあ。嫉妬してるんだろ」
「ちょっと見て来るわ」
「神也!」
名前を呼ばれ、神也は思考の海から浮上する。
声のした方を見ると、拓が駆け寄って来るのが見えた。
「どうした?すっげー怖い表情してるけど」
拓に問われ、神也はやっと眉間の皺が深くなっている事に気付いた。
「あ……ああ、なんでもない。ちょっと暑くて、イライラしてるだけだ」
不器用に笑って見せて、答える。
拓は、少々首を傾げていたが「そうか」と納得した。
「わかった。具合悪くなりそうになったら、保健室行けよ」
「了解」
そこで会話を終わらせ、拓は応援に戻る。
心配して、わざわざ様子を見に来てくれたのだ。
友人の気遣いに、神也は心の中で礼を言った。
◆ ◆ ◆
結局、試合は鈴那たちが勝ち、神也のクラスは女子ドッジボールの三位が最高順位だった。
夕暮れの中、カラカラと自転車を漕ぎながら、家へと続く道を進む。
汗で肌がべたついて、早くシャワーを浴びたい。すっきりしたい。
が、その為には難しい、否、面倒な関門がある。
それは、家の近くにある稲荷神社。帰る為には、必ずこの前を通らなければならない。
白い毛に銀色の瞳を持った白狐を思い出し、視線が遠くなる。
ここの神は、とても構ってちゃんなのだ。
彼は、神也の帰宅時間になると、必ずと言っていいほど彼を出迎えて、ご飯をねだる。
あげるまで粘るので、今日のような早く帰りたい日は、特に手ごわい存在である。
問題の神社の鳥居が見えて来て、神也は自転車の速度を緩める。
さて。気付かれないようにゆっくりと抜けるべきか、風のように颯爽と走り抜けるべきか。
むむむと思案していると、白真の切羽詰まった声が耳に届いた。
「神也、上!」
「あぁ?」
ペダルを止めて、上を見上げる。
大鎌の切っ先が、今にも振り下ろされようとしていた。
「うおおおおおお!」
神也は目を剥いて、切っ先を避けようと自転車ごと地面に倒れる。
鎌は獲物を仕留められず、残念そうに頭を上げた。
その間に、白真が軽やかな動作で鳥居と塀を伝って、神也の傍に降り立った。
「大丈夫か!」
「あ、ああ……」
呆然としながら、言葉を返す。
何で、大鎌が……。
あの鎌は、死神特有の物。
この地区の担当死神は、同級生の鈴那だ。
が、目の前にいる死神は、彼女ではない。
黒髪をきっちり七三分けにし、緑縁の眼鏡を掛けた同じ年頃の男が立っている。
眼鏡の奥にある紫色の瞳からは鋭い眼光が放たれ、神也を突き刺していた。
「神……谷……?」
「どーも」
神也に名前を呼ばれた転入生、神谷太貴は眼光を更に強くする。
身につけている物は同じ制服なのに、クラスで見る彼とは雰囲気が百八十度違った。
視線を向けられたまま、それに対抗するかのように、白真も負けじと歯を剥き出し睨み返す。
「あーあー。もうちょっとで頭から真っ二つに出来たのに……。さすが狐、すばしっこいなー」
残念そうに呟いてから、太貴は聞こえるように舌打ちする。
神也は乾いた笑みを浮かべた。
こいつ、本気だったのか。こっちは肝が冷えたぞ。
祖母が狐で良かったと、心から思う。
普通の人間なら、真っ二つまではいかなくても、肩は確実に斬られていた。
「こいつ!死神の分際で人間様に手を出すとは、一体どういう教育を受けてんだあ!」
「確かに、死神は人間の寿命を縮めたり、奪ったりする事は禁じられている。が……そいつは、人間じゃない」
神也は息を呑み、白真は目を見張る。
胸の内に、冷たい氷が張っていく。
それに構わず、太貴は言葉を続けた。
「人間でもなければ、神でもない。中途半端な存在さ。半神半人、半妖とも呼べるお前を、傷つけてはいけないと教わった事はない」
呆然とする神也を鼻で笑い、ふんぞり返る。
先ほどの無礼を詫びる様子は、太貴からは感じられなかった。
どこぞの王太子に負けず劣らずの尊大な態度に、白真の毛がさらに逆立ち、肌から千切れんばかりだ。
このままでは、神力勝負になってしまうだろうと神也は察して、白真を自分の背後に引っ込める。
一つ二つと呼吸を整えてから、太貴に対して口を開いた。
「俺に用があるんだろう、神谷。ただ殺しに来たんじゃなくてさ」
太貴の考えを見通すように、すっと目を細める。
察しがいい奴だと、太貴は感嘆の息を漏らした。
「今日はお前に勝負を持ちかけようと思ってな」
「勝負?」
白真が首を捻る。
「僕の婚約者が、君の事を凄い凄いと絶賛するもんだから、どの程度のものか見てみたいと思って」
神也を知っている死神は限られている。さらに言えば、「凄い」と絶賛する死神も限られている。
よくも悪くも、死神界のお偉い様の娘なだけあって、婚約の話は後を絶たないというわけだ。
そしてその婚約者は、彼女が絶賛する半妖に目を付けた。理由はおそらく、半妖が邪魔だから。
半妖を絶賛する死神は、婚約者から見ればそれはそれは恋する乙女のように見えただろう。
半妖の方もその死神に恋してるのだから、結婚の話を進めるには邪魔で邪魔で仕方ないはずだ。
どうしてか、目が半眼になって、じっとりと湿った視線を太貴に送ってしまう。
白真も何かを察したのか、目を据わらせてピシリと尾を振った。
「まずいぞ、神也。オイラなんか嫌な予感がする」
「奇遇だな。俺もだ」
苦い笑みがこぼれてしまう。
こそこそと二人で話していると、耳の良い太貴に筒抜けだったようで、わざとらしく咳をされた。
「続けていいかな?」
「ああ、どうぞどうぞ」
「勝負は簡単。あの世に逝くのを拒む子供を、どちらが先に説得できるか。勝負は明日、稲荷公園で」
鎌を振るい、太貴はその場から姿を消す。
それと入れ替わりで、死神姿の鈴那が稲荷神社の前に現れた。
道路に座り込み、呆けてる神也と白真を見て、彼女は紫色の瞳を不安げに揺らす。
「どうしたの?」