花と愛と
◆ ◆ ◆
花子と出会った日と同じく、穏やかな時間が稲荷神社に流れる。
世間では、闇鬼の襲撃が絶えないようだが、貴明が言った通り神社には近付けないようで、何事もない。
神社に避難している花子も安心しているようで、今も境内を意気揚々と散策している。
いつものように、お気に入りの木の下に居た白真は、大きな欠伸をした。
直後、ざわりと風が強く吹き、尻尾をピクリと振る。
閉じた目を開けて上を見ると、一人の男が幹に背を預け、枝の上に立っていた。
墨染色の狩衣と指貫を着用し、同じ色のサラシを顔に巻いている。サラシから覗く瞳は、血を溶かしたような赤い色。身を覆うマントも黒く、風に吹かれ靡いている。
彼こそが、鬼さえも畏れる鬼。
閻魔大王の孫にして、閻魔王太子。次期冥王。
ーー篁。
白真は再び尻尾を振り、静かに口を開いた。
「冥府の王が、このような辺境の神社に何用か?」
「偶々近くを通ったから、寄っただけだ。休息がてらな」
「まだ、討伐出来ないのか?」
何をとは言わない。
言わなくても、この男は何のことか分かっている。
彼は、人の心を読む術に長けているのだから。
篁は、笑みを零しただけで、質問には答えない。
答えないのが、質問の答えだ。
彼は、遠くで一人遊びをする花子に目を向け、口を開いた。
「子供は純粋だ。その純粋さ故に、鬼に狙われやすい」
「どういう意味だ?」
「言葉の通りだ、白狐よ」
「まさかとは思うが、あれを囮にして、闇鬼を呼ぶつもりじゃないだろうな?」
銀色の目を剣呑に光らせ、白真は言う。
篁は、黙って花子を見ている。
鬼さえも畏れる鬼。
鬼を討伐出来れば、手段は選ばない。
子供の一人や二人、どうなっても何とも思わないだろう。
人間など、彼にとってはその辺に転がっている石ころも同然なのだから。
篁が来た時と同じように、ざわりと風が吹く。
あまりにも強い風に白真は目を閉じる。
次、瞼を開いた時、篁の姿は消えていた。
「白真ー」
とたとたと、花子が白真に駆け寄る。
篁が居た場所から花子へ視線を移し、「どうした?」と答えた。
「都娘ちゃんに会いたいの」
可愛い花を見つけたから、見せたいのだと花子は言う。
良い提案なので賛同してやりたいが、篁が意味深な発言をした後なので警戒してしまう。
「でも、神社の外には怖い鬼が居るぞー」
「白真が居るから、大丈夫でしょう?」
神様だもん。鬼なんてあっという間に倒せちゃうわ。
そこまで言われてしまうと、頷いてしまう。
おだてには、つくづく弱いのだ。
「じゃあ……行くか。オイラ一人だと心配だから、途中で神也達も拾って行こうぜ」
「うん!」
満面の笑みで頷き、花子は白真と共に神社を出る。
最初に向かうのは学校だ。
神也達の学校は、都娘が住む神社の道中にあるのだ。
今の時間は放課後のショートホームルームだろう。学校に着く頃には終わっているだろう。
突然行ったら、二人共びっくりして怒るだろうねと話しながら、道を歩く。
今の所、変わった所はない。
いつもの夕方だ。
が、風が普段より冷たい気がする。
この時間の風は、こんなに冷たいものだったか。
何か、嫌な予感がする。
学校は直ぐそこだ。
今から渡る横断歩道の先に、それはある。
学校を終えた生徒達が校門を出て、駅や家に向かう姿も見えている。
神也達と合流して、一度神社に戻ろう。
「なあ、花……」
おしまいだ。
「ーーッ!」
背筋に寒気が走り、全身の毛が逆立つ。
恐ろしい声が聞こえた。
低く、冷たく、重い、恐ろしい声が。
花子も聞こえたのか、横断歩道の手前で足を止める。
幼い身体はカタカタと震え、顔から楽しげな表情が消え失せた。
おしまいだ。
再び、声がする。
花子と白真は、目を見開いて横断歩道の先を見る。
地面から、黒くドロドロとした物体が這い出ていた。
人一人呑み込める位の大きさをしたそれは目が無いのか、触手を二本出して地面を探っている。
コンクリートの間から生えた雑草にそれが触れると、瞬く間に生気を奪われ、枯れた。
生身の人間には興味ないのか、側を通り過ぎる生徒に触手は触れない。
おぞましい姿をするそれを目の当たりにし、花子は腰から力が抜け、地面に膝をつく。
その気配を察して、物体は花子達の方に触手を向け、身体を一気に膨張させると、何百もの触手を噴き出し、二人を襲った。
ぞくりと、背筋が粟立つ。
同時に、花子の叫び声が神也と鈴那の耳に届いた。
白真の神気が、空気を伝って二人に危険を知らせる。
自転車置き場に向かっていた神也は足を止め、神気が流れて来た方を睨んだ。
「白真……!?」
「神也君!」
背後から、自分の名を呼ぶ彼女の声がする。
駆け寄ってきた彼女と目で言葉を交わし、二人の所へと駆け出した。
「ぐ……ぅ……ッ!」
触手が触れる直前に、白真は神気を解放し、障壁を作る。
地面につけてる四本の足は、ぷるぷると震え、今にも崩れ落ちそうだ。
目の前の奴は、障壁ごと白真たちを呑み込まんと、触手の数を増やす。
障壁から神気を吸い上げ、相手の身体は更に大きくなっていた。
「この、ヤロウ……ッ!」
障壁にいくら神気を注ぎ込んでも、吸い上げられるの繰り返し。
神気は、白真の魂の源だ。
全て吸われれば、自分は消える。
神気を吸い取ったコイツは、更に強くなる。
そうなる前に手を打たなければ、おしまいだ。
だが、白真には倒せない。
何故なら、こいつが、こいつこそが、闇鬼だから。
鬼は鬼でしか倒せない。
神は、封印するのがやっとだ。
封印では、倒した事にならない。
「篁ー!」
先ほど出会った、墨染の鬼の名を呼ぶ。
「見てるんだろう!?近くにいるんだろう!?さっさと、仕事しやがれ!」
彼が近くに居る事は、自分達と闇鬼の周りに張られた結界で分かっている。
だから、何も見えていない一般人に、危害が及ぶ事はない。
この結界を通れる一般人は二人だけ。
「鈴那……!」
紫色の瞳を持った、死神界から来た半人前の死神。
いつも、白真が食べたい物を買って来てくれる優しい死神。
仕事熱心で、正義感の強い死神。
もう一人は……。
「(葛葉(くずは)様……!)」
三千年生きたと言われる空狐の葛葉よ。
この声が届いたなら、どうか。
どうかあなたの孫に、届けて下さい。
『もう、おしまいだ』
闇鬼の声が頭に響く。
それをかき消すように、白真は吠えた。
「おしまいになんかさせない……!来い!神也ァァァッ!」
刹那。
触手を切り裂く一閃が、視界に入る。
そして、求めていた二人の姿も。
触手を切られた事に驚いた闇鬼は、身を縮める。
その隙に、神也が崩れ落ちた白真を抱きとめ、白真の後ろで泣いていた花子の肩を抱いた。
「もう、大丈夫だよ」
二人を見て安心したのか、花子は神也に抱きつき、制服を強く握って、わんわんと泣く。
白真も大きく息を吐き出し、呟いた。
「おせーぞ、孫……」
「悪かったな。これでも、人生で一番早く走って来たつもりだけど」
「お前の人生なんて、たかだか18年じゃねーか。まあ、でも助かった。あとは……」
人の姿から死神に戻った鈴那が、大鎌を構えて、鬼と対峙する。
「ここは私がやる!あなたは二人を連れて、神社に逃げて!」
「その必要はない」
神也が答えるより早く、あの男の声が辺りに響く。
鈴那が舌打ちをして後退すると同時に、彼女の居た場所に篁が降り立った。
彼の手には、銀色の太刀が握られている。
刃は、狩ってきた鬼の血で朱に染まっていた。
墨染色の衣が、溢れ出る霊力で翻る。
白真の神気よりも研ぎ澄まされたそれは、闇鬼をその場に縫い止め、怯ませるには十分だった。
「遅かったな、篁」
「篁?この人が?」
初めて篁を見た神也は驚く。
鬼と対峙している男は、見た目だけなら、自分とさして歳が変わらない。
篁は、神也に近づきながら口を開いた。
「こいつを祓う準備に手間取ってな。お前たちを時間稼ぎとして、利用させてもらった」
神也の目の前まで来ると、彼の髪をむんずと掴み、持っていた太刀で切り取る。
そして、何事も無かったように、元の立ち位置に戻り、髪を地面に置いて太刀を突き刺した。