BL 恋人みたいなふりをして
お地蔵様と迷子の子 4
お地蔵様が作った雲に乗って、岩手の上空を移動する。
彼が巡る場所は多く、人の子が作った現世の乗り物では移動に時間がかかるそうで、持ち前の菩薩力を駆使して雲を高速移動させている、らしい。らしい、という曖昧な表現になってしまうのは、共に乗っている直としては高速移動しているように感じられないからだ。乗っている感覚としては、飛行機雲がすっと描かれるような、緩やかな動きに近い。
雲の上から流れていく景色を見ながら、飛行機に乗ったらこんな感じなのだろうかと、ふと思う。直は飛行機に乗った事がないので、乗り心地はわからないが、思い返せばあの鉄の塊も結構な速度で移動しているはずだ。
「地蔵菩薩(わたし)の立場で、贔屓とか特別扱いとかはしない方がいいんだろうけど……」
お地蔵様が、ゆるりと口を開く。
直は、ぱたぱたとはためくマフラーを押さえつつ、お地蔵様の言葉に耳を傾ける。
直の首に巻かれたマフラーはお地蔵様がつけていたものだ。浄土ヶ浜の子安地蔵を確認してから、花巻市にある子安地蔵尊のカツラの木を見に行ったのだが、直が「寒い寒い」としきりにぼやくので、マフラーを貸してくれたのだ。
巻いた頃は残っていたお地蔵様の体温も、今は直の体温で上書きされて失せているが、線香の匂いが僅かに香っている。これは間違いなく、目前に居る男の匂いだ。
直は、マフラーに落としていた視線を、男の後頭部に向ける。
お地蔵様は、地蔵菩薩の石像が安置される場所を巡れば巡るほど、口数が少なくなった。
直が知らない現世の名所やお店へ連れて行けば、うるさいほど蘊蓄を垂れ流す癖に、今日は驚くほど物静かで気味が悪い。
じっとりと湿った視線を向けてみるが、お地蔵様は気づくことなく淡々と言葉を続ける。
「一生懸命祈られたら、手を差し伸べてしまいたくなるんだよね」
「これは仏(わたし)の性かな?」と、柔らかくけれどどこか自嘲を含んだ笑みを直に向ける。
直は首を傾けてから、口を開いた。
「あなたが、お人好しなだけです」
つんとした言い方に、お地蔵様は「そっか」と愉しげに返す。
「そもそも、あなたは現世の子にも亡者にも優しすぎるんですよ。責め苦を負わせる獄卒(こちら)の身にもなっていただきたい」
きつく痛め付けているところに救いの手が
差し伸べられて、亡者は折れかけていた心を復活させる。お喋りなやつが静かになったと思ったら、再び喋りだす。きりがない。それが地獄というものだと言われたらそれまでだが……獄卒とて疲弊はするのだ。面倒くさい亡者の相手は、本当に面倒なのだ。
つらつらと愚痴をこぼすと、お地蔵様はいつもの微笑みを見せたまま獄卒の頭に手を伸ばした。
「ごめんね」
頭の形を確認するように撫でられ、直の眉間にしわが寄る。
「謝るくらいなら、最初から厳しく対応してください。閻魔大王と対になる御方なのですよ? あなたは」
「そうしたいのはやまやまだけど……。対になるからこそ、私は救う立場に居なければならないんだよ」
冥府へたどり着いた亡者を裁き、責め苦を負わせる立場が閻魔大王なら、六道を巡り救いを与えるのが地蔵菩薩だ。
お地蔵様は直の頭から手を離し、顔の向きはそのままにして視線を遠くへ向ける。
明るい色の瞳はいつもと変わらずそこにあるのに、視線が向いている場所は直でも流れ行く景色でもない。もっと違う場所、遠い昔に思いを馳せ痛みを抱える、そんな視線だ。
「お地蔵様……」
「この地に来ると、どうしても心折れそうになってしまう」
直が問いかけようとした矢先で、お地蔵様がぽつりと言葉をこぼす。
「これだけ化身を置いているのに【救いきれなかった】と、思ってしまう。私の力も、弱くなったものだ」
お地蔵様は、寂しそうな目で膝の上で広げた両の手のひらを見つめる。
「私も、忘れられた神や仏たちのように、いつかは消えるのかな?」
「そんなことないです」
直は、言葉を強く投げる。
伏せられていたお地蔵様の視線が上がり、瞼が僅かに開かれた。
「お地蔵様は消えませんよ……人の子が覚えている限り」
お地蔵様だけでなく、他の神も仏も人の子の心から生まれている。
人の子が忘れない限り、お地蔵様が消えることはない。
亡者や鬼では駄目なのだ。現世に生きる人の子の心でないと、神も仏も生きていけない。冥府の働きに必要不可欠な、直の心に必要不可欠なお地蔵様の命を人の子が握っていることに、獄卒は羨ましくもあり、憎たらしくもなる。人の子がお地蔵様を忘れた時は、どうしてくれようか。
お互いの視線がぶつかったまま、長く静かな時間が過ぎていく。
その時間を打ち破ったのはお地蔵様の方だった。
ふっと柔らかな笑みが顔に戻り、彼を覆っていた寂しさのかたまりが少しだけ薄れる。
「そうだね、そうだった」
お地蔵様は、ふふと肩を揺らしてひとしきり笑った後、直の肩をぽんと一つだけ叩く。
「予定よりも早く移動できたし、今日はもう遠野でゆっくりしようか」
「妖怪の里ですか?」
「そうそう。いつもお世話になっているいいお宿があるんだよ」
この土地を訪ねる度に利用する宿だと、お地蔵様は語る。
いつものおどけた調子が戻ってきたらしい。
獄卒は、ひとまずは大丈夫そうだと息を吐き出しながら、言葉を返した。
「河童、釣れるといいですね」
お地蔵様が作った雲に乗って、岩手の上空を移動する。
彼が巡る場所は多く、人の子が作った現世の乗り物では移動に時間がかかるそうで、持ち前の菩薩力を駆使して雲を高速移動させている、らしい。らしい、という曖昧な表現になってしまうのは、共に乗っている直としては高速移動しているように感じられないからだ。乗っている感覚としては、飛行機雲がすっと描かれるような、緩やかな動きに近い。
雲の上から流れていく景色を見ながら、飛行機に乗ったらこんな感じなのだろうかと、ふと思う。直は飛行機に乗った事がないので、乗り心地はわからないが、思い返せばあの鉄の塊も結構な速度で移動しているはずだ。
「地蔵菩薩(わたし)の立場で、贔屓とか特別扱いとかはしない方がいいんだろうけど……」
お地蔵様が、ゆるりと口を開く。
直は、ぱたぱたとはためくマフラーを押さえつつ、お地蔵様の言葉に耳を傾ける。
直の首に巻かれたマフラーはお地蔵様がつけていたものだ。浄土ヶ浜の子安地蔵を確認してから、花巻市にある子安地蔵尊のカツラの木を見に行ったのだが、直が「寒い寒い」としきりにぼやくので、マフラーを貸してくれたのだ。
巻いた頃は残っていたお地蔵様の体温も、今は直の体温で上書きされて失せているが、線香の匂いが僅かに香っている。これは間違いなく、目前に居る男の匂いだ。
直は、マフラーに落としていた視線を、男の後頭部に向ける。
お地蔵様は、地蔵菩薩の石像が安置される場所を巡れば巡るほど、口数が少なくなった。
直が知らない現世の名所やお店へ連れて行けば、うるさいほど蘊蓄を垂れ流す癖に、今日は驚くほど物静かで気味が悪い。
じっとりと湿った視線を向けてみるが、お地蔵様は気づくことなく淡々と言葉を続ける。
「一生懸命祈られたら、手を差し伸べてしまいたくなるんだよね」
「これは仏(わたし)の性かな?」と、柔らかくけれどどこか自嘲を含んだ笑みを直に向ける。
直は首を傾けてから、口を開いた。
「あなたが、お人好しなだけです」
つんとした言い方に、お地蔵様は「そっか」と愉しげに返す。
「そもそも、あなたは現世の子にも亡者にも優しすぎるんですよ。責め苦を負わせる獄卒(こちら)の身にもなっていただきたい」
きつく痛め付けているところに救いの手が
差し伸べられて、亡者は折れかけていた心を復活させる。お喋りなやつが静かになったと思ったら、再び喋りだす。きりがない。それが地獄というものだと言われたらそれまでだが……獄卒とて疲弊はするのだ。面倒くさい亡者の相手は、本当に面倒なのだ。
つらつらと愚痴をこぼすと、お地蔵様はいつもの微笑みを見せたまま獄卒の頭に手を伸ばした。
「ごめんね」
頭の形を確認するように撫でられ、直の眉間にしわが寄る。
「謝るくらいなら、最初から厳しく対応してください。閻魔大王と対になる御方なのですよ? あなたは」
「そうしたいのはやまやまだけど……。対になるからこそ、私は救う立場に居なければならないんだよ」
冥府へたどり着いた亡者を裁き、責め苦を負わせる立場が閻魔大王なら、六道を巡り救いを与えるのが地蔵菩薩だ。
お地蔵様は直の頭から手を離し、顔の向きはそのままにして視線を遠くへ向ける。
明るい色の瞳はいつもと変わらずそこにあるのに、視線が向いている場所は直でも流れ行く景色でもない。もっと違う場所、遠い昔に思いを馳せ痛みを抱える、そんな視線だ。
「お地蔵様……」
「この地に来ると、どうしても心折れそうになってしまう」
直が問いかけようとした矢先で、お地蔵様がぽつりと言葉をこぼす。
「これだけ化身を置いているのに【救いきれなかった】と、思ってしまう。私の力も、弱くなったものだ」
お地蔵様は、寂しそうな目で膝の上で広げた両の手のひらを見つめる。
「私も、忘れられた神や仏たちのように、いつかは消えるのかな?」
「そんなことないです」
直は、言葉を強く投げる。
伏せられていたお地蔵様の視線が上がり、瞼が僅かに開かれた。
「お地蔵様は消えませんよ……人の子が覚えている限り」
お地蔵様だけでなく、他の神も仏も人の子の心から生まれている。
人の子が忘れない限り、お地蔵様が消えることはない。
亡者や鬼では駄目なのだ。現世に生きる人の子の心でないと、神も仏も生きていけない。冥府の働きに必要不可欠な、直の心に必要不可欠なお地蔵様の命を人の子が握っていることに、獄卒は羨ましくもあり、憎たらしくもなる。人の子がお地蔵様を忘れた時は、どうしてくれようか。
お互いの視線がぶつかったまま、長く静かな時間が過ぎていく。
その時間を打ち破ったのはお地蔵様の方だった。
ふっと柔らかな笑みが顔に戻り、彼を覆っていた寂しさのかたまりが少しだけ薄れる。
「そうだね、そうだった」
お地蔵様は、ふふと肩を揺らしてひとしきり笑った後、直の肩をぽんと一つだけ叩く。
「予定よりも早く移動できたし、今日はもう遠野でゆっくりしようか」
「妖怪の里ですか?」
「そうそう。いつもお世話になっているいいお宿があるんだよ」
この土地を訪ねる度に利用する宿だと、お地蔵様は語る。
いつものおどけた調子が戻ってきたらしい。
獄卒は、ひとまずは大丈夫そうだと息を吐き出しながら、言葉を返した。
「河童、釣れるといいですね」