BL 恋人みたいなふりをして
お地蔵様と迷子の子 1
──おん かかか びさんまえい そわか
──おん かかか びさんまえい そわか
ふ……っと、お地蔵様は閉ざしていた瞼を開けた。
目に入るのは夏の太陽に照らされた路面と、きらきらと輝く夏の青葉たち。ざっと吹いた風が地を駆け抜け、草木を揺らし、お地蔵様の髪や衣を揺らす。
綺麗な夏だ。
夏の景色に見惚れてほぅと息を吐いていると、幼い子どもの拙い声が、お地蔵様を振り向かせる真言を唱えている。
お地蔵様は、遠くに向けていた視線を自身の足先に向けた。
頭の丸みにそって短く整えられた黒い髪と、ちらほらと地肌が見える白い髪が目に入る。
白い髪の持ち主は年配の女性で、手の皮がしわくちゃで顔の肌も同様である。これ以上しわを作りたくないだろうに、持ち主は目尻のしわを深くして、隣で懸命に真言を唱える黒い髪の持ち主に優しい目と表情を向けていた。
黒い髪の持ち主は、幼い男の子だった。この女性の最後の孫だ。まだ神様のものと言われる年齢の、幼き子。お地蔵様はこの女性を幼き子だった頃から知っており、女性の子も孫も見守ってきた。もちろん、彼女らはその事を知らない。彼女らはただの人の子なので、お地蔵様の姿が目の前にいても見えないのだ。
お地蔵様が見ている事に気づけぬまま、拙い声音が真言を唱え終えた。
「おん かかか びさんまえい そわか!」
全部言えた事が嬉しかったのだろう。
男の子は、ぱんっと柏手を打ってから、にっこりと音が聞こえる笑顔を祖母に見せた。「お地蔵様に柏手を打つ必要はないけどね」と、お地蔵様は微笑みつつ二人のやり取りを優しく見守る。
祖母は、目尻のしわをさらに深くして、骨と皮ばかりの手を孫の頭に置いた。
「よくできたねえ。じゃあ、お地蔵様にお礼を言って、お水とお菓子をあげようね」
「はーい」
男の子は、祖母から渡されたお菓子を置き、水筒に入れてきた水をとぽとぽと地面に垂らす。
お地蔵様の足元に水を注ぐと、水も飲めず苦行を強いられている餓鬼たちの口に届き、一時の救いを与えるという言い伝えがある。
知る人ぞ知る伝えだ。この男の子の祖母は、自身の親や祖父母から聞いて、自分の子どもや孫にも教えているのだろう。教えてもらった事を下の世代に伝えていく姿はとても立派なことで、微笑ましくもなる。
けれど、と、お地蔵様の瞳に僅かながら影ができる。
お地蔵様の目には見えてしまうのだ。二人が何歳まで生きるのか。天から与えられた、命の数が。
祖母の方はまだ猶予がある。男の子の方は驚くほど短い。
お地蔵様はそう遠くない未来に、この男の子を迎えに来なければならない。
夏の眩しい空気の中。
お地蔵様は、再び目を瞑る。
二人が垂らした水が、餓鬼道の業火で苦しむ餓鬼の口に届く様子が見えた。口にするもの全て火になる彼らからしてみれば、お恵みそのものである。
「さあ、そろそろ帰ろうね」
「うん。ばいばい、おじぞうさま」
幼き男の子は「またね」と手を振って、祖母と共にえっちらおっちらと去っていく。
二人の姿が完全に見えなくなってから、お地蔵様は自分の姿を模した石像と視線を合わせるように膝を折った。
古びた石像に、赤いよだれ掛けがかけられている。色はまだ濃く、褪せた様子もほつれた様子も見せていない。
お地蔵様は、優しい目でしばらくよだれ掛けを見つめた後、そっと手で触れる。
よだれ掛けから、色が消えた。
◆ ◆ ◆
三途の川にある賽の河原から程近い場所に、賽の河原に送られた子どもたちが過ごす寺子屋がある。三角の形をした茅葺き屋根が目印の、大きくも小さくもない小屋。
寺子屋からは、わいわいきゃらきゃらと笑う子どもたちの声が響いている。
お地蔵様はその声を聞きながら、錫杖を片手に廊下を進む。傍らには、昨日この冥府へやってきた子どもが二人、おっかなびっくりな様子で足を進める子どもが居た。地域は違えど、二人とも子ども用の病院で病死した。親よりも先に亡くなった子だ。歳は小学校三年生くらいだろうか。
亡者用の白い装束には慣れたようだが、頭にある三角頭巾は慣れないらしく、時おり手を伸ばしては気にする様子をみせている。
小学生が集まる部屋の前に着いてから、お地蔵様は二人と向き直った。
「大丈夫、みんないい子たちだから。小さな学校だと思って、過ごすといい」
「悪いことしたら、鬼に怒られるからね」と笑いかけてから、障子を開ける。
二人はお互いの顔を見合わせてから、畳敷きの部屋へ足を踏み入れた。