first stage ワタリガラスの止まり木

#ヴァンド

 泉は、携帯電話の向こう側に居る相手に対して、ぴいぴいと自分の思いを訴える。スタッフブログの存在に今の今まで気づかなかったことがよほど悔しかったらしい。普段の穏やかでちょっと冷静な判断をするおふぃすれでぃーの姿からは想像できない、ただ一人のファンの姿だ。
 泉の勢いに圧倒され、夕陽は「うわあ」と引きつつも感心した。
 泉からアイドルの推し方を聞いた時、ファンレターを送ったことがないと話されたことがあって驚いたことがある。確か、夕陽が入社してしばらくしてから行われた歓迎会で聞いたはずだ。
 夕陽は好きなアイドルや俳優に関わらず、漫画やドラマなどでも、気に入ったものには感想フォームからメッセージを送ったり、ファンレターを送ったりする質だ。公式のSNSがあれば、そこへコメントもする。その方が、番組なら継続になったりするだろうし、推している人へ向けてなら励みや向上心に繋がるかもしれない。
 泉からそれをしなかったと聞いたとき、夕陽は胸の内で憤慨しながら「どうしてしなかったのか?」と質問ばかりしたものだ。あの時は納得できる答えを貰えなかったから、てっきりそこまで熱い気持ちではないのかと勘繰ってしまった。
 が、今の泉の、相手を圧倒させるような勢いを目の当たりにして、生半可な気持ちではないと確信した。メッセージやファンレターを送らなかったのは、彼女なりに境目を決めていたからかもしれない。
 ファンの中には、行きすぎた気持ちのせいでアイドルと人間の境目がわからなくなり、ストーカーや自宅を特定して押し掛けるなど突飛な行動にでる者が時折現れる。それらは犯罪行為で、アイドルもステージから降りたらただの人間だということを忘れて自分本意な動きをするのだ。好きな人なら何をしてもいいと、勝手に思い込むのだ。
 泉は、そういう風にならないように、境目を決めていたのだろう。
 夕陽は泉ではないから、本当のところはわからないが、そんな気がする。
 殆ど衝動的ではあるが、こうして電話をかけることができているのは、鬼頭がアイドルではなく、ただの会社員になって一般の人に戻った事と、泉の弟たちが境界の役割を果たしているからかもしれない。
 アイドルとファンではなく、一般企業で働く会社員と会社員、もしくは、弟のマネージャーと弟の緊急連絡先。
 泉のぴいぴいとした訴えはまだ続いている。
「奇跡みたいな出会いと再会の仕方だよなあ」「これ誰かに話したいなあ」と思いつつ、電話が終わるのを待ちながら辺りに視線を送った。
 ライブに来ていたお客様は殆ど帰路へついたのだろう。駅前は着いた頃よりも閑散としていたが、人が居ないわけではない。ちらほらとではあるが、ライブ帰りの装いをした者もいる。
 そういえば、「ライブに出ていた練習生たちはこの駅から帰るのではないか」と、ファンの間で噂が流れていた。ちらほら居るのは出待ちだろか。何時に帰るかわからないのに、ご苦労なことである。
 アイドルが好きな夕陽だが、出待ちをする気持ちは持っていなかった。アイドルと出会う機会は、彼らから与えられる時間で十分だからだ。

「ファンも色々ですねえ」

 しみじみと呟くのと、駅の出入り口から見知った姿が出てくるのは同時だった。

「────舞さん⁉」

 夕陽の声が耳に届いたのか、同僚の舞がぴたりと足を止め、身体の向きを変える。
 職場で着ている私服姿と違って、今夜は頭を覆うようにつけたスカーフ姿とお洒落な夏の衣服。これからディナーにでも行けそうな装いだが、顔ははっきりと見えている為、舞だとよくわかる。
 夕陽がぶんぶんと手を振ると、舞は周囲を気にしつつ、ヒールの音を響かせて歩み寄る。
 泉も舞に気づき、耳に携帯と当てつつも視線は同僚二人に向けていた。
「こんばんは」と、舞は控えめな声で発する。

「こんなところで会うなんて奇遇ですねえ」

「──二人は?」

 舞は、どうしてこの駅にいるのかという問いを視線に混ぜて、後輩の顔を交互に視界へと入れる。
 質問には夕陽が答えた。

「私たち? 今日はライブで、今帰ってきたところなんです。ほら、この前、舞さんも誘ったじゃないですかー。用事があるから行けないって断られちゃいましたけど」

 夕陽に言われて、舞は「そういえば、そうだったわね」と今思い出したとばかりな反応を見せた。
 その間も、舞はきょろきょろと視線をあちこちへ飛ばしている。
 なんだか落ち着かない様子だ。
 夕陽は、周囲を気にする舞の姿に首を捻る。

「……舞さんは、どうしてここに?」

 用事があったところを呼び止めてしまっただろうか。
 それなら大変申し訳ないことをしてしまった。
 それとなく謝罪を入れると、舞は「いいの」と片手を振る。

「デートじゃないから。待ち合わせというか、なんていうか、会う約束があって……」

 はきはきと話す彼女にしては、歯切れの悪い答えである。

「じゃ、そういうことだから……もう行くわね。帰り道、気を付けて」

「あ、はい。舞さんもお気をつけて」

 舞が身体の向きを変える前に、かつんと一つ、ヒールの音が鳴る。
 刹那。泉の短い悲鳴が耳に届いた。
 夕陽と舞が息を呑むのと時を同じくして、泉の方へ視線を向けた。
 真夏にも関わらず、首回りに巻かれたもふもふとした毛皮のマフラーが目に入った。身につける真っ黒なワンピースはぴったりと身体のラインに沿っていて、素足は晒さない主義なのか、黒色のストッキングで肌を隠している。腕も、手先から二の腕まで布で包まれていた。つばの広い婦人用の帽子で、遠くからでは顔はよく見えないが、近くにいる三人はよく見えた。
 紫色の大きなサングラスで覆われた目。赤い紅をたっぷりと塗った唇は、三日月の形をしている。

「朝田繭(あさだ まゆ)……⁉」

 夕陽の口から、この姿に該当する人物の名前が発される。
 朝田繭は、舞台を中心に活躍し、数多くの男性芸能人と浮き名を流した女優だ。その男性芸能人には、鬼頭昴も入っている。そして、つい先月、違法薬物を扱ったことで逮捕された女でもあった。多額の保釈金を払い、警察署の前で謝罪する姿が報道された後は、メディアの前に姿を現していない。姿を見るのは久しぶりだ。
 そんな彼女が、ライブ会場の最寄り駅に居て、綺麗な手には泉のスマートフォンが握られている。
 紫色のサングラスの向こうで、繭の目が泉の顔を捕らえる。

「ダメじゃない。気軽に〝アイドル〟にお電話したら。ご迷惑よ」
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