first stage ワタリガラスの止まり木

#ヴァンド

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〖はい。それはもう、凄い早さでした〗

 そう語り出したのは、京夕陽(みやこ)だ。
 暗闇の中。一張羅のドレスを着て、頭上から降るスポットライトを浴びつつ、はっきりとした声音であの日の事を伝える。
 あの日とは、泉と共に朝田事務所所属のアイドルのライブを見に行った日のことだ。

〖二人でライブの感想を言いながら駅に向かっていたんです。そこで、また行きたいなって私が言って、次は誰がライブするんだろうって、二人で事務所の公式サイト開いて。そしたら泉さん、急に黙り込んでしまって〗

 その時の事を懐かしく思ったのだろう。
 夕陽は目を細め、柔らかな笑みをみえる。
 ひとつ、ふたつと数えてから、彼女は再び口を開く。

〖どうしたんだろう? って思う間もなく、急に着信履歴を開いて、昴くんに電話をかけたんです。それはもう、もの凄い剣幕で。私、あんなに熱くなった泉さん初めて見ました〗

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 先程、通話を切ったはずの携帯電話が、ダッシュボードの上でふるふると震える。
 これから、子どもたちを最寄りの駅に届けようと車を出した時のことだ。前方を気にしながら、画面に一瞬だけ視線を向ける。
 兵藤泉からだ。後部座席に乗せている、兵藤樹の姉の名前が出ている。
 通話を切った後で、彼女の方から時間をあけずにかけてくるのは珍しい。
 何かあったのだろうか。
 樹に緊急な用事でも入ったか。
 それなら、マネージャーの携帯よりも弟の方に入れる方が早いだろうに、弟は何事も無い様子で眠たそうに窓の外を眺めている。
 動いている時に出るのはまずい。せめて信号で止まってからと思っている隙に、助手席に乗っていた少年(なおや)が勝手に電話を取った。

「あ、こら!」

「泉さんからだよ」

「は?」

 樹の顔が、窓から助手席と運転席の間に向けられる。
 眠たそうな表情が、瞬き一つで怪訝なものに変わった。

「スピーカーにしていい?」

「その前に、出るんじゃねえ」

「携帯返せ」と勘で手を伸ばすが、ひらりと逃げられる。
 持ち主の意思を無視して、直哉は画面を後部座席にいる弟に見せてから、通話ボタンをタップした。
 キンと耳に響く彼女の高い声が、大音量でスピーカーから流れた。

〈昴さん! これどういうことですかっ⁉〉

 ギンギンギャンギャンと、スピーカーの向こうで彼女が吠えている。
 直哉は瞼をぱちぱちと瞬かせ、運転席の真後ろに居る大は片眉を上げる。弟は、片手で顔を覆っていた。
「何をやっているんだ、あの姉は」と、弟の空気が物語っている。
 そこは、俺が一番知りたい。
 彼女から糾弾されるような何かをした覚えが一切無い。無実だ。
 そもそも、彼女はどこから電話をかけているんだ。なんだか、背後がざわざわとうるさい気がする。
 むむむと思いつつも、車を走らせる。こういう時に限って、信号が赤にならない。急いでいる時はこれでもかと赤になるのに。
 悪態を吐きそうになる気持ちを抑え込んでいると、直哉がずいっと携帯を差し向けて来た。
 幼い頃から世話になっている女からの電話だというのに、珍しくまだ一言も発していない。いつもなら、俺に電話が入ると割り込み上等な勢いでべらべらと喋るのに。
 嫌な予感が、一回り大きくなる。
 ちらりと子どもの顔を見れば、にまにまと楽しげな表情をしていた。
 その表情で察する。
 この子ども、マネージャーと幼馴染み(姉の方)の会話を愉しむ気でいる。
 悪戯好きな少年の目が語っていた。
「出ないと可哀想だゾ」と。

「くそ餓鬼が……っ!」

「いいじゃん、いいじゃん」

 少年の笑みが深くなる。
「よくないわ!」と胸の内で突っ込みを入れながら、咳払いを一つして、ぎこちなく口を開いた。
 見られながら歌唱するのには慣れてるが、電話をするのは初めてだ。

「ど、どうした?」

〈スタッフブログやってるなんて聞いてないですっ! 私、さっき気づいたんですけど! しかも三年くらいやってるじゃないですか! 何で教えてくれなかったんですか⁉ アーカイブ殆ど消されてるしー!〉

 きいきいぎゃんぎゃんと、スピーカーから彼女から言葉が返ってくる。彼女の言葉の中に〈泉さん、落ち着いて! 声! 声が響いてます!〉と制する女の声がする。馴染みの無い声音から、彼女の知り合いだろうと推測できた。

「あのブログ……ついに見つかったか」

 長いこと朝田を追っている奴(ファン)なら気づいてるかもと思ってたが、彼女は知らなかったらしい。
 ついでに、この世界に入ったばかりのやつも知らなかったようだ。
「スタッフブログ?」と、大が首を傾げる。
 マネージャーが答えるよりも先に、樹が答えた。

「スタッフが、タレントの裏側だとか仕事の裏側だとかを綴ってる公式ブログだよ。タレント用のブログの下にあって、マニアックな奴じゃないと行かないような場所にある」

「姉ちゃん知らなかったんだなあ」と、独り言をぼやく弟に、大は感心した様子を見せ、直哉が眉を潜める。

「何で樹は知ってるの? マニアックな奴しか行かないような場所を」

「事務所からスカウトのメールが来た時に、どんな場所なんだろうと思って手当たり次第漁ったから」

「こわっ」

「怖くないわ。とりあえず、姉ちゃんどこに居るのか聞いてくれ。出掛け先なら、途中で合流して帰れるし」

「それもそうだな」と、直哉は同意してみせて、俺から携帯を離す。
 スピーカーの向こう側は多少落ち着きを取り戻したようだが、まだ興奮しているようだ。
 わあわあと、連れの女に熱くブログの事を語っている。
 もう何年も見ていないのだと。
 もう見ることはないと思っていたのだと。
 ずっと、読むのを楽しみにしていたのだ、と。
 膨れ上がる感情の、勢いに乗せた感想を直接貰ったのはいつ以来だろうか。本人の電話とまだ通話しているということは、彼女の頭から抜け落ちていそうだ。
 後部座席で、弟が恥ずかしさを混ぜた呆れた表情を浮かべている。
 直哉は、運転席と後部座席を交互に見てから、耳に携帯を当てた。

〈聞いてますか⁉ 昴さん!〉

「ねえねえ泉さん! 今どこにいるの? 俺と一緒に帰ろう!」

「俺〝たち〟な!」

 直哉の言い方に樹が直ぐさま口を挟む。
 少年は目を半眼にして、じっとりとした視線を樹に向けた。

「細かいこと言うなよ、しすこん」

「シスコン言うな」

 一方、スピーカーの向こう側は先ほどまでのギャンギャン騒ぎが嘘のように静まり返っている。
 直哉の声音で落ち着きを取り戻したか。それとも、夢から覚めた後の現実世界に驚いているのか。
 おそらく後者だろうと、頬を緩ませていると、スピーカーの向こう側が再び慌ただしくなる。
 連れの女が騒いでいるらしく、遠くから言葉が途切れ途切れに響いている。耳を澄ませて聞いていると、会社の同僚らしき名前を口にしている。
 泉と連れの女に加えて、三人目の声がスピーカーから届く。

〈舞さん──こんなところで──〉

【舞】という名には覚えがある。いつだったかに子どもが持ってきた、怪しい動きをしている女の名前で、会社近くの定食屋に泉とよく来ている女のものだ。

〈──二人は?〉

〈私た──? 今日はライブで──〉

〈ま──さんは?〉

〈今日は──会う約束が──〉

〈あ、朝田繭──〉

 そこで、ぷつりと通話が切れた。
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