first stage ワタリガラスの止まり木
#ヴァンド
息を深く吐き出しながら、樹は空いていたパイプ椅子にどさりと腰を落とした。
緊張の糸がプツリと切れると同時に、樹の背をピンと伸ばすように天から吊り下げられていたワイヤーも切れたようである。自分の身体はこんなに重力の影響を受けていたのかと実感した。
どっと押し寄せる疲労に辟易としながらも、ふわふわと浮いた気持ちもあって、今にも浮き上がりそうだ。
背もたれに背を深く預け、天井を見上げる。
頭がぼんやりとしている。
公演は終わったのに、まだステージの上に立っている気分だ。
樹たちがステージに上がったのは、公演の中ほどからだったが、既に会場は主役ユニットとファンの熱気で空気がぐらぐらと熱せられ、曲終わりの拍手も、曲の合間に入るコールレスポンスも両者狂いがなく、見事なものだった。暗闇に包まれた客席でゆらゆらと揺れるペンライトの灯りは、夜の海を漂うホタルイカを思い出させるほど優雅で、素直に綺麗だと呟いてしまったほどに。
また大きく息を吐き出して、視線を天井から正面の壁に移した。
ぼんやりとしたまま動かずに居ると、視界の端から直哉が歩み寄ってくる姿が入る。
樹が身じろぎをすると同時に直哉が口を開いた。
「緊張してたわりには、上手にできてたじゃん?」
「そう?」
場の空気に圧倒されてばかりで、上手に踊れてたかも、そもそも自分がどんな動きを見せていたかも朧気だ。
ぼーっと見つめていたいほどのまばゆい光を、じっくりと見る暇もなく曲が流れ、レッスンで倒れそうになるほど練習したダンスを披露したのは確かだが。
首を捻る樹に、直哉は口角をつり上げた。
「出来てなかったら、今ごろおっかない鬼さんに殺されてるでしょう?」
「おっかない鬼はお前だろ」
「違いますー。あそこにいるうちのマネージャーですー」
二人から離れた場所に、マネージャーが他のスタッフや練習生とクリーニングに出す衣装が全て戻っているか、帰宅時で使う移動車の振り分けを確認している。ライブは二十時過ぎに終わり、今は二十一時近い。夜の遅い時間帯だが、樹たちは、地元までの電車がまだ出ているので、会場の最寄り駅から電車での帰宅と事前に決められていた。
この時間帯。レッスン時なら、マネージャーが家まで車で送ってくれる。が、今日は人数も多く、樹たちよりも遠方から来ている練習生もいれば駅までは自力で帰れても、駅から家までが遠いという練習生もいるので、車での送りはそちらを優先するそうだ。樹たちのマネージャーも運転手としてかり出される手筈である。
そういえば、ライブが終わってからまだちゃんと会話を交わしていない。
「お疲れ」とは言われたが、それっきりだ。
「忙しそうだなあ、鬼頭さん」
「そう? そのわりには、開演前に待機列の様子を見に行ったりしてるけど」
「そういえば……」
『ちょっとおいで』と呼ばれて、樹たちも見に行った。五分ほど見て直ぐバックヤードに戻ってきてしまったが。
主役のファンが作り出した、入場待ちの列がずらりと並ぶ光景。
ライブにあわせて、各々グッズ販売されていたTシャツを着たり、バッグを提げて来たり、リード曲やライブのモチーフに似たアクセサリーを耳や指、手首や首につけている。主役の周年記念ツアーとあってか、メンバーの色を差し色にしてお洒落をしてきている人もいる。
右を見ても左を見ても、主役グループのファンだらけ。練習生目当てのファンも来ているそうだが、圧倒的に主役のファンが多く、大きな混乱は起きていなかった。
きゃいきゃいと、グループの番組や音楽の感想を交わしあうファンたち。
メンバーの顔写真が貼られた扇子を広げ、見せあいっこをするファンたち。
ライブを楽しみにしているという興奮が嫌でも伝わってきて、まだまだ新人の自分たちがステージに立ったらブーイングの嵐が巻き起こるのではないかと恐ろしい気持ちを抱いていたが、実際はあたたかく迎え入れてくれた。
「楽しかったね、ライブ。ペンライトがきらきらと揺れて、ちょっと手を振っただけでニコニコしてもらえる。樹とちょっと肩を組んだだけで、きゃーきゃー言われる」
直哉がステージの様子を思い返して、柔らかな微笑みを見せる。
「家に居るより……ずっと楽しい」
ぽつりと呟かれた感想に、樹は目を見開く。
直哉と彼の母親の仲は、夏の始まりから変わらず最低なままだ。家でどんな小言をぶつけられているのかは知らないが、いい気分でないのは確かである。直哉が妹たちを嫌っていないのが唯一の救いか。
ずしりと、気持ちが重たくなった樹とは違い、直哉は微笑んだままだ。
「俺たちも、ずっとステージに立てられるようなグループになると良いね」
「そうだな……」
ただ、ステージを見に来てくれる人たちが、冷たい視線でこちらを見て敵になった時の事を考えると、背筋がぞっとする。
ファンが敵になるなんて滅多にないと思いたいが、自分の気持ち次第では、敵に見えてしまうことがあるのかもしれない。
十年アイドルをやって、急に辞めたマネージャーは、そんな光景を見てしまったのだろうか。
鬼頭のところに届いた、誕生日プレゼントとみせかけた藁人形の記憶は、容易くさかのぼれるほど最近の出来事。あの藁人形が初めて届いたとき、マネージャーはどんな気持ちを抱いたのだろう。
樹はそこまで考えて、はたと我に返る。
あの藁人形の犯人、見つかったのだろうか。
人形には樹の姉の写真が釘と一緒に刺さっていた。これは弟としては由々しき事だ。
気持ち悪い事件を思い出すと同時に、ぼんやりとしていた思考がぎゅんぎゅんと動き出す。
声を潜めつつも直哉に掴みかかる勢いで、口を開いた。
「お前、藁人形の犯人誰か知ってる……⁉」
樹の唐突な問いに、直哉は僅かに瞼を広げる。
一瞬の沈黙の後、直哉は淡々とした口調で答えた。
「知ってるよ」
「誰だった?」
「朝田繭、鬼頭さんの元彼女。でも、写真の犯人は別に居るって本人が言ってた」
知らされた事実に、樹の思考回路が渋滞を起こしかけた。
息を深く吐き出しながら、樹は空いていたパイプ椅子にどさりと腰を落とした。
緊張の糸がプツリと切れると同時に、樹の背をピンと伸ばすように天から吊り下げられていたワイヤーも切れたようである。自分の身体はこんなに重力の影響を受けていたのかと実感した。
どっと押し寄せる疲労に辟易としながらも、ふわふわと浮いた気持ちもあって、今にも浮き上がりそうだ。
背もたれに背を深く預け、天井を見上げる。
頭がぼんやりとしている。
公演は終わったのに、まだステージの上に立っている気分だ。
樹たちがステージに上がったのは、公演の中ほどからだったが、既に会場は主役ユニットとファンの熱気で空気がぐらぐらと熱せられ、曲終わりの拍手も、曲の合間に入るコールレスポンスも両者狂いがなく、見事なものだった。暗闇に包まれた客席でゆらゆらと揺れるペンライトの灯りは、夜の海を漂うホタルイカを思い出させるほど優雅で、素直に綺麗だと呟いてしまったほどに。
また大きく息を吐き出して、視線を天井から正面の壁に移した。
ぼんやりとしたまま動かずに居ると、視界の端から直哉が歩み寄ってくる姿が入る。
樹が身じろぎをすると同時に直哉が口を開いた。
「緊張してたわりには、上手にできてたじゃん?」
「そう?」
場の空気に圧倒されてばかりで、上手に踊れてたかも、そもそも自分がどんな動きを見せていたかも朧気だ。
ぼーっと見つめていたいほどのまばゆい光を、じっくりと見る暇もなく曲が流れ、レッスンで倒れそうになるほど練習したダンスを披露したのは確かだが。
首を捻る樹に、直哉は口角をつり上げた。
「出来てなかったら、今ごろおっかない鬼さんに殺されてるでしょう?」
「おっかない鬼はお前だろ」
「違いますー。あそこにいるうちのマネージャーですー」
二人から離れた場所に、マネージャーが他のスタッフや練習生とクリーニングに出す衣装が全て戻っているか、帰宅時で使う移動車の振り分けを確認している。ライブは二十時過ぎに終わり、今は二十一時近い。夜の遅い時間帯だが、樹たちは、地元までの電車がまだ出ているので、会場の最寄り駅から電車での帰宅と事前に決められていた。
この時間帯。レッスン時なら、マネージャーが家まで車で送ってくれる。が、今日は人数も多く、樹たちよりも遠方から来ている練習生もいれば駅までは自力で帰れても、駅から家までが遠いという練習生もいるので、車での送りはそちらを優先するそうだ。樹たちのマネージャーも運転手としてかり出される手筈である。
そういえば、ライブが終わってからまだちゃんと会話を交わしていない。
「お疲れ」とは言われたが、それっきりだ。
「忙しそうだなあ、鬼頭さん」
「そう? そのわりには、開演前に待機列の様子を見に行ったりしてるけど」
「そういえば……」
『ちょっとおいで』と呼ばれて、樹たちも見に行った。五分ほど見て直ぐバックヤードに戻ってきてしまったが。
主役のファンが作り出した、入場待ちの列がずらりと並ぶ光景。
ライブにあわせて、各々グッズ販売されていたTシャツを着たり、バッグを提げて来たり、リード曲やライブのモチーフに似たアクセサリーを耳や指、手首や首につけている。主役の周年記念ツアーとあってか、メンバーの色を差し色にしてお洒落をしてきている人もいる。
右を見ても左を見ても、主役グループのファンだらけ。練習生目当てのファンも来ているそうだが、圧倒的に主役のファンが多く、大きな混乱は起きていなかった。
きゃいきゃいと、グループの番組や音楽の感想を交わしあうファンたち。
メンバーの顔写真が貼られた扇子を広げ、見せあいっこをするファンたち。
ライブを楽しみにしているという興奮が嫌でも伝わってきて、まだまだ新人の自分たちがステージに立ったらブーイングの嵐が巻き起こるのではないかと恐ろしい気持ちを抱いていたが、実際はあたたかく迎え入れてくれた。
「楽しかったね、ライブ。ペンライトがきらきらと揺れて、ちょっと手を振っただけでニコニコしてもらえる。樹とちょっと肩を組んだだけで、きゃーきゃー言われる」
直哉がステージの様子を思い返して、柔らかな微笑みを見せる。
「家に居るより……ずっと楽しい」
ぽつりと呟かれた感想に、樹は目を見開く。
直哉と彼の母親の仲は、夏の始まりから変わらず最低なままだ。家でどんな小言をぶつけられているのかは知らないが、いい気分でないのは確かである。直哉が妹たちを嫌っていないのが唯一の救いか。
ずしりと、気持ちが重たくなった樹とは違い、直哉は微笑んだままだ。
「俺たちも、ずっとステージに立てられるようなグループになると良いね」
「そうだな……」
ただ、ステージを見に来てくれる人たちが、冷たい視線でこちらを見て敵になった時の事を考えると、背筋がぞっとする。
ファンが敵になるなんて滅多にないと思いたいが、自分の気持ち次第では、敵に見えてしまうことがあるのかもしれない。
十年アイドルをやって、急に辞めたマネージャーは、そんな光景を見てしまったのだろうか。
鬼頭のところに届いた、誕生日プレゼントとみせかけた藁人形の記憶は、容易くさかのぼれるほど最近の出来事。あの藁人形が初めて届いたとき、マネージャーはどんな気持ちを抱いたのだろう。
樹はそこまで考えて、はたと我に返る。
あの藁人形の犯人、見つかったのだろうか。
人形には樹の姉の写真が釘と一緒に刺さっていた。これは弟としては由々しき事だ。
気持ち悪い事件を思い出すと同時に、ぼんやりとしていた思考がぎゅんぎゅんと動き出す。
声を潜めつつも直哉に掴みかかる勢いで、口を開いた。
「お前、藁人形の犯人誰か知ってる……⁉」
樹の唐突な問いに、直哉は僅かに瞼を広げる。
一瞬の沈黙の後、直哉は淡々とした口調で答えた。
「知ってるよ」
「誰だった?」
「朝田繭、鬼頭さんの元彼女。でも、写真の犯人は別に居るって本人が言ってた」
知らされた事実に、樹の思考回路が渋滞を起こしかけた。