first stage ワタリガラスの止まり木
#ヴァンド
ステージの裏からでも、開演を待ちわびる来場者の手拍子が聞こえる。一定の調子で刻まれる拍子は乱れがなく、会場の空気は主役が登場する前から既に一体感が生まれていた。
裏側では開演に向けて、人の動きが慌ただしくなっている。本日の主役も既にいつでも出られるよう着替えて、練習生が集まる通路を早足に過ぎていった。
樹も衣装に着替えて、直哉や大と共に練習生が控える通路へと移動している。このステージに出る練習生は全部で三十人。その内の十人は、ツアーの初日から帯同しているステージ経験者の練習生だ。
朝田事務所はデビューしているアイドルよりも、デビューしていない練習生の方が多い。練習生の間にユニットを組んで人気があると判断されればそのままデビュー。人気がないもしくはあったとしても先が短いと判断されれば、ユニットは解体されてソロ活動に専念するか、もしくは別のユニットを組むか。あるいは芸能活動から退くか、事務所を移籍するか、色々な選択肢を与えられる。
芸能家族やお金に威力のある家からは、朝田事務所はブランドという認識もされるらしく、塾やお稽古に通わせるのと同じ感覚で子どもを所属させ、進学や就職が決まったら辞めるという事もあるそうだ。〝朝田事務所で練習生をしていた〟〝国民的なあのユニットのバックについていた〟という経験は、この先どこで話しても興味をもってもらえるだろう。
メインのアイドルユニットは本年度デビュー五周年を迎えた。今日は全国のアリーナを巡るアニバーサリーツアーの折り返しだと聞いている。カツカツと鳴り響いた踵の音は重たく、長い年月と経験を重ねた背中は堂々としていた。
ユニットの単独公演は、まだ生まれて間もないアイドルグループにとってデビューと並ぶ目標の一つだ。生まれたての頃は、他の若いアイドルグループと合同でライブを行ったり、舞台公演を行うことが多い。
ヴァンドはまだ出来たばかりだが、そのうち大なり小なりの公演を行い重ねて、単独公演やデビューへと続いていくのだろう。
その時、樹は目の前を過ぎていったユニットのように、堂々と雄々しく後輩の前を過ぎ去って、ステージに立っているだろうか。
聞こえる手拍子が、肩にパラパラと降り注いで、重たくなっていく。
普段は聞こえない心臓の音が耳にうるさい。なんだか、呼吸も早くなっている気がする。
落ち着け、慌てるな。自分達の出番は中盤。まだ一時間は先である。
壁に向かって真っ直ぐ腕を伸ばし、細く長く息を吐き出す。
以前、鬼頭から教えてもらった力の抜き方だ。
幾度か繰り返してると、脇腹にとんっと手刀が入った。
「ぐえっ」
「まぁーーーーた緊張してるの?」
突然の小さな衝撃に呻き声が口から出る。
「一体誰に攻撃されたのか」と、手刀の主を確認すると、真っ黒な瞳と髪が見えた。衣装も黒いので、真っ黒な生き物に見える。
強いがどこか幼さが残る言葉遣いは直哉のものだ。同級生にもこのくらいの柔らかさで喋ればいいのに、本人は心を許した人間だけに使う。
そんなんだから、同級生たちから怖いと言われてしまうのだ。
樹が息を吐いていると、向こうも同じように息を吐き、腰に手を置く。
「相変わらず、緊張しいだねえ」
「お前が図太いんだよ」
運動会やら合唱祭やら試合やら、人の前に出ることは多かったけれど、大きな舞台……それもぐるりと人に囲まれ見下ろされるような場所に立つのは人生を見返してもやはり初めてなことで、緊張がついてまわる。
直哉は平気なのだろうか。
それを問うと、首を傾げられた。なにも感じてないらしい。
「いいな」
「羨ましい」と、ぼそりと呟く。
直哉の瞼が僅かに開かれるやいなや、彼の手が振り上げられ、ぺちんと頭を叩かれた。
力はほとんど込められておらず、痛みはさほどない。整えた髪が多少乱れただけだ。
樹は乱れた箇所を手で押さえながら、「なんだよ」と直哉を軽く睨む。
直哉は直哉で呆れた表情を見せて「お馬鹿」と言い放った。
「あのねえ。今、緊張してないだけで、俺だって緊張くらいするから。舞浜で新しいパレードとかショーとか始まる時とかドッキドキだから」
「それは期待と興奮の間違いじゃないか?」
「違うもん、緊張だもん。あーあ、泉さんが来るってなってたら、俺もいっぱい緊張してたのになあー呼べば良かったー」
「樹みたいにがっちがちに緊張してたかもなあ」と、わざとらしくぼやく。
樹の顔は見ていないし、口の端もつり上がっているし、何より意地悪をする時の表情をしている。やはりこの男、緊張なんてものをしていない。
樹は眉間に寄ったしわを伸ばしながら、口を開いた。
「お前なあ……そもそも、言ったところで来るとは限らないだろう。姉ちゃんだって忙しいんだから」
「樹がお願いしないからだよ」
「誰がするか!」
きゃんきゃんと、間の抜けたやり取りを交わしている間に、遠くの方から「円陣するぞー」と練習生を呼ぶ声が響いた。
開演前の手拍子が鼓膜を震わせる。
ステージにはまだ明かりが灯されたままだ。開演する時は一度電気が落とされて、会場は暗闇に包まれる。
そしてオープニングのムービーが流された後に主役のアイドルが登場するというのが、朝田事務所のライブの基本的な流れだ。どのグループも歴を問わず、この流れである。
「楽しみですねえ」
手拍子をしながら話しかけて来た後輩の夕陽に、泉は「そうだね」と曖昧な笑みを見せながら答えつつ、気づかれないように息を吐いた。
来てしまった。
結局、夕陽の圧に負けて、推し以外のライブに来てしまった。
「ごめんなさい、昴くん」
浮気ではない。これは決して違う。ただのあれ、物見遊山。
ちょっとした罪悪感に胸をちくちくと襲われるも、カラフルなステージを視界に入れ、懐かしいなあという気持ちが無いわけではない。
それに、今日ステージに立つ彼らは彼の後輩グループでもある。彼のバックで踊ったこともあるグループの一つだ。
泉もバックで踊っていた彼らをライブの映像で見ている。こうして直接見るのは、懐かしいような気恥ずかしいような、なんだか変な気分だ。
遠い場所から、円陣を組んだ声が揃って聞こえる。
この声を聞くのも久しぶりである。
ステージの裏からでも、開演を待ちわびる来場者の手拍子が聞こえる。一定の調子で刻まれる拍子は乱れがなく、会場の空気は主役が登場する前から既に一体感が生まれていた。
裏側では開演に向けて、人の動きが慌ただしくなっている。本日の主役も既にいつでも出られるよう着替えて、練習生が集まる通路を早足に過ぎていった。
樹も衣装に着替えて、直哉や大と共に練習生が控える通路へと移動している。このステージに出る練習生は全部で三十人。その内の十人は、ツアーの初日から帯同しているステージ経験者の練習生だ。
朝田事務所はデビューしているアイドルよりも、デビューしていない練習生の方が多い。練習生の間にユニットを組んで人気があると判断されればそのままデビュー。人気がないもしくはあったとしても先が短いと判断されれば、ユニットは解体されてソロ活動に専念するか、もしくは別のユニットを組むか。あるいは芸能活動から退くか、事務所を移籍するか、色々な選択肢を与えられる。
芸能家族やお金に威力のある家からは、朝田事務所はブランドという認識もされるらしく、塾やお稽古に通わせるのと同じ感覚で子どもを所属させ、進学や就職が決まったら辞めるという事もあるそうだ。〝朝田事務所で練習生をしていた〟〝国民的なあのユニットのバックについていた〟という経験は、この先どこで話しても興味をもってもらえるだろう。
メインのアイドルユニットは本年度デビュー五周年を迎えた。今日は全国のアリーナを巡るアニバーサリーツアーの折り返しだと聞いている。カツカツと鳴り響いた踵の音は重たく、長い年月と経験を重ねた背中は堂々としていた。
ユニットの単独公演は、まだ生まれて間もないアイドルグループにとってデビューと並ぶ目標の一つだ。生まれたての頃は、他の若いアイドルグループと合同でライブを行ったり、舞台公演を行うことが多い。
ヴァンドはまだ出来たばかりだが、そのうち大なり小なりの公演を行い重ねて、単独公演やデビューへと続いていくのだろう。
その時、樹は目の前を過ぎていったユニットのように、堂々と雄々しく後輩の前を過ぎ去って、ステージに立っているだろうか。
聞こえる手拍子が、肩にパラパラと降り注いで、重たくなっていく。
普段は聞こえない心臓の音が耳にうるさい。なんだか、呼吸も早くなっている気がする。
落ち着け、慌てるな。自分達の出番は中盤。まだ一時間は先である。
壁に向かって真っ直ぐ腕を伸ばし、細く長く息を吐き出す。
以前、鬼頭から教えてもらった力の抜き方だ。
幾度か繰り返してると、脇腹にとんっと手刀が入った。
「ぐえっ」
「まぁーーーーた緊張してるの?」
突然の小さな衝撃に呻き声が口から出る。
「一体誰に攻撃されたのか」と、手刀の主を確認すると、真っ黒な瞳と髪が見えた。衣装も黒いので、真っ黒な生き物に見える。
強いがどこか幼さが残る言葉遣いは直哉のものだ。同級生にもこのくらいの柔らかさで喋ればいいのに、本人は心を許した人間だけに使う。
そんなんだから、同級生たちから怖いと言われてしまうのだ。
樹が息を吐いていると、向こうも同じように息を吐き、腰に手を置く。
「相変わらず、緊張しいだねえ」
「お前が図太いんだよ」
運動会やら合唱祭やら試合やら、人の前に出ることは多かったけれど、大きな舞台……それもぐるりと人に囲まれ見下ろされるような場所に立つのは人生を見返してもやはり初めてなことで、緊張がついてまわる。
直哉は平気なのだろうか。
それを問うと、首を傾げられた。なにも感じてないらしい。
「いいな」
「羨ましい」と、ぼそりと呟く。
直哉の瞼が僅かに開かれるやいなや、彼の手が振り上げられ、ぺちんと頭を叩かれた。
力はほとんど込められておらず、痛みはさほどない。整えた髪が多少乱れただけだ。
樹は乱れた箇所を手で押さえながら、「なんだよ」と直哉を軽く睨む。
直哉は直哉で呆れた表情を見せて「お馬鹿」と言い放った。
「あのねえ。今、緊張してないだけで、俺だって緊張くらいするから。舞浜で新しいパレードとかショーとか始まる時とかドッキドキだから」
「それは期待と興奮の間違いじゃないか?」
「違うもん、緊張だもん。あーあ、泉さんが来るってなってたら、俺もいっぱい緊張してたのになあー呼べば良かったー」
「樹みたいにがっちがちに緊張してたかもなあ」と、わざとらしくぼやく。
樹の顔は見ていないし、口の端もつり上がっているし、何より意地悪をする時の表情をしている。やはりこの男、緊張なんてものをしていない。
樹は眉間に寄ったしわを伸ばしながら、口を開いた。
「お前なあ……そもそも、言ったところで来るとは限らないだろう。姉ちゃんだって忙しいんだから」
「樹がお願いしないからだよ」
「誰がするか!」
きゃんきゃんと、間の抜けたやり取りを交わしている間に、遠くの方から「円陣するぞー」と練習生を呼ぶ声が響いた。
開演前の手拍子が鼓膜を震わせる。
ステージにはまだ明かりが灯されたままだ。開演する時は一度電気が落とされて、会場は暗闇に包まれる。
そしてオープニングのムービーが流された後に主役のアイドルが登場するというのが、朝田事務所のライブの基本的な流れだ。どのグループも歴を問わず、この流れである。
「楽しみですねえ」
手拍子をしながら話しかけて来た後輩の夕陽に、泉は「そうだね」と曖昧な笑みを見せながら答えつつ、気づかれないように息を吐いた。
来てしまった。
結局、夕陽の圧に負けて、推し以外のライブに来てしまった。
「ごめんなさい、昴くん」
浮気ではない。これは決して違う。ただのあれ、物見遊山。
ちょっとした罪悪感に胸をちくちくと襲われるも、カラフルなステージを視界に入れ、懐かしいなあという気持ちが無いわけではない。
それに、今日ステージに立つ彼らは彼の後輩グループでもある。彼のバックで踊ったこともあるグループの一つだ。
泉もバックで踊っていた彼らをライブの映像で見ている。こうして直接見るのは、懐かしいような気恥ずかしいような、なんだか変な気分だ。
遠い場所から、円陣を組んだ声が揃って聞こえる。
この声を聞くのも久しぶりである。