first stage ワタリガラスの止まり木

#ヴァンド

 ◆  ◆  ◆

「泉さんって、今度の土曜日空いてますか?」

 泉は、仕事場の後輩である夕陽の問いかけに、一度箸を止めた。
 今はお昼時で、事務室の前に備えられた商談用のフリールームでお弁当を広げて食べていたところだ。自分の机で食べてもいいのだが、やはりひとの目を遮るように作られた場所で食べる方が気が楽でいい。
 そう考えて、一人もくもくと食べていたところに現れたのが夕陽だ。

「土曜日? どうして?」

 泉が首を捻ると、夕陽は弾んだ声音で答えた。

「一般で出てたチケット買えたんです! 今週末の朝田事務所の子たちのライブのチケット!」

 嬉々として語る後輩を、目を丸くして見る。

「今って、チケット一般で販売してるの?」

「してますよ? ごうえんみたいな大人気グループはファンクラブ優先販売が続いてますけど、新しい子や中堅の子たちのところは積極的に導入してきてて……」

 そこまで話した夕陽は、ぴたりと口を閉ざして首を傾けた。

「泉さん、知らなかったんですか?」

 その問いには、黙って頷くしかない。
 知らなかったもなにも、最近はライブに行っていないので、チケットを取る行動をしていない。泉がライブに通っていた頃はファンクラブ優先販売が当然で、抽選がつきものだ。
 朝田事務所のライブは、当たれば天国、外れれば絶望。それが、ファンの間で流れる空気。
 泉が推していたアイドルは、そこそこのファン数でそれに合った広い会場を借りてくれていたから当たりやすい方ではあった。けれど、世間から国民的アイドルとも呼ばれる豪華炎乱はどんなに広い会場を借りても需要と供給が合わず、地獄の抽選祭りで有名だ。泉は遠巻きから見ているだけだが、ごうえんファンの友人はアリーナでもドームでもツアーが決まると胃が痛そうだった。唯一当たる望みがあるとするなら、北海道のドームだ。あそこは国民的アーティストでも埋めるのが難しいと言われていて、豪華炎乱も他の会場に比べたら当選倍率が下がるという。
「当てるのも大変だが、行く方も大変だ」と、友人は歴戦の戦士の表情で語っていた。
 そんな抽選が当たり前の事務所が、一般販売を始めた。
 抽選に慣れた泉からしてみれば「急にどうしたのか」と不安になる話だ。
 思いきった方向転換である。確かに、一般に向けた販売もしたらグループや事務所の認知度が上がる他に、ライブというものを気兼ねなく味わえるだろうけれど。
「ファンクラブの子たち、よく怒らなかったわね」と、自然と口から出た。

「怒ってますよ。何で高い年会費支払っているこっちは手に入らなくて、一般は手に入ってるんだって。ファンクラブ会員も一般のチケットを会員割引で買えるんですけどね。そのおかげで、今ここに土曜日のチケットがあるのだし。席はちょっとあれですけど……」

「天井席?」

「ええ、まあ……たぶん。行ってみないとわからないですけど、ステージの近くは無いですね。ていうか」

 夕陽は一度言葉を区切り、泉の顔にずいっと自身の顔を近づける。
 思わぬ行動と迫力に、泉は身を仰け反らした。

「先輩、昴くんが辞めてから、ライブ行ってないんですか?」

 話の方向をぐいっとねじ曲げてきた。
 そこを突いてくるか。できれば、抉って欲しくないところだったな。
 泉は顔をしかめたい衝動にかられたが、後輩とのこの先の関係を考え、抉られた部分は見なかったことにする。
 この後輩は、悪気があって言っているのではない。ただ純粋に、疑問に思ったことを聞いているだけだ。
 自身を落ち着けるように息を吐いてから、口を開いた。

「友達に誘われて行ったことはあるけど、自分から進んでチケットを取るとかはしてない……かな?」

「何でです?」

「それは……」

 泉はどう答えたものかと、視線を落とした。
 私は、どうしてアイドルのライブに行かなくなってしまったのだろう。
 鬼頭昴が現役だった頃は、彼のライブだけでなく、後輩たちが中心となって公演しているミュージカルやライブも観に行っていた。
 朝田の事務所は、先輩たちが行ってきた事を後輩たちが受け継いでいる。後輩たちの公演は今も行われているし、夕陽が取ってきたチケットも、受け継いだものの一つだ。
 行こうと思えばきっと行ける。
 けれど、公演の概要を見て、いざチケットを購入しようと思っても、苦しそうな姿でステージを去った鬼頭の様子が脳裏を過ってしまって、結局やめてしまうのだ。
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