first stage ワタリガラスの止まり木

#ヴァンド

 先程も聞いた、ぎぃっと重たい音が耳に響く。
 鬼頭は迷うことなく、人間一人分開いた隙間に体を滑り込ませ、少年たちは扉が閉じないように押し開きながら、大人の後に続く。
 中は六畳ほどの控え室だった。会場の会議室を借りているらしく、室内の隅っこにホワイトボードが鎮座し、ぺたぺたと今日の段取りやステージの配置図が貼られている。
 口の形に置かれた長机の一辺には差し入れと思われるお菓子が置かれ、向かい側の辺に男が二人並んで座り、先に入室していた鬼頭と談笑していた。
 男二人のうち、片方はよく知っている。青みのある黒い髪を肩ほどまで伸ばし、顔には穏やかで柔らかな笑みを浮かべている男。服装こそ、いつも見ている運動着ではなくカジュアルなお出掛け服だが、樹たちはその顔をよく知っている。いつも厳しいんだか優しいんだか……やっぱり厳しい指導で若手を鍛えてくれる人、ハル先生だ。
 もう一人は、毛先がぴょこぴょこと跳ねている癖のある髪を赤茶色に染めている男だった。着ている服はハル先生同様にカジュアルな服装だが、気品さと威厳があり「あ、この人に逆らってはいけない人だ」と直感が伝えてきた。そして、アイドルに詳しくなくても、この人の事をテレビや雑誌で見かけた事が無い人間は居ないと思う。大袈裟な言葉で表せば国民的、過小な表現をしても事務所の顔。
「この人、ここの事務所の人だったんだ」と、今さらながら思い、焦る。意識してないと、芸能人の誰がどこの事務所に入っているのかなんてわからないものだ。アイドルに詳しい姉なら、顔を見た瞬間息を呑むなりするのだろうけど。
 この人と一緒にいるということは、ハル先生の正体も見えてきた。なぜ今まで気づかなかったのかと、膝から崩れ落ちそうだ。危ないから触れてはいけないと、脳みそが認識するのを拒否してたのかと思うほど気づかなかった。
 この二人は、豪華炎乱というユニット名で活動しているアイドルだ。活動歴は二十年に迫り、歌だけでなく俳優業にバラエティー、情報番組にも度々出ている。
 表によく出ているのは赤毛の男の方だ。名前は榊雅臣(さかき まさおみ)。ハル先生の名前は、樹の記憶が正しければ聖春高(ひじり はるたか)だ。
 直哉と大も同じ思いをしているだろうかと、樹は二人を盗み見る。
 大はぽかんとしていたが、直哉はいつものすんとした表情だ。直哉の事だから、気づいていて黙っていた可能性がある。
 樹は、焦った様子を見せないようにぎゅっと唇を引き結ぶ。背筋もできるだけピンと伸ばした。
 同時に、赤毛の男の視線が鬼頭をすり抜けて、控えている自分達に向けられた。
 一瞬剣呑な眼差しをされた気がするが、男は瞬き一つすると人懐っこい表情と柔らかくあたたかな目をして口を開いた。

「やっと直に顔が見れた! 初めましてだねえ、三人とも!」

 いささかどころか、部屋全体に響く声音で話しかけられる。
 樹の隣にいる大が「おおう」と怯んだ様子を感じ取り、「失礼だぞ」の意味を込めて、大の脇腹に肘をねじ込んだ。
 カエルが潰れた時に似た声が聞こえたが、今は無視する。
 鬼頭の鋭い視線が自分たちに向けられ、「ほら、挨拶」と促された。
 まだ「お疲れ様です」も「初めまして」も言っていない事に気づく。
 わたわたと、三人ばらばらに挨拶の定型文を述べ頭を下げた。
 挨拶が遅れたことを二人は気にしてないらしく、赤毛の男は「いいよいいよ」と手をぱたぱたと振り、ハル先生はいつもの微笑みを見せている。
 樹と大は、挨拶が遅れたことを怒っている様子も怒る気配も無い大人の姿に、胸を撫で下ろした。ハル先生のレッスンで一番重要なのが挨拶や返事だ。手抜きすると、必ず怒られる。
 ひとまず生き延びることができたと、大と目配せした。直哉は相変わらずすんとした表情のままだ。何を考えているのかわからない。もしかしたら、なにも考えていないのかもしれない。
 少し気を緩めた間に、雅臣が言葉を発した。

「昴くんってば意地悪で、全然会わせてくれないんだもんなあ」

「お前が勝手に会おうとしなかったんだろうが。ハルは様子見ついでにレッスンしてただろ」

 拗ねた様子を見せる赤毛の男に、鬼頭は「心外だ」という表情を見せながら言い返した。

「だって、なんか知らないけど仕事が次々とやって来るんだもの。配分間違ってないかい?」

「昔休んだ分が来てるんだろ、喜ばしいことだ。そのままたくさん働いて、事務所に金を落とせ。巡り巡って、俺の給料も増えるから」

「君の給料を増やす為に働いてるんじゃないんだよ」

「プロデューサーはお前の稼ぎで新社屋建てたいとか言ってたぞ」

「新社屋は無理」

 飛び交う言葉のわりには険悪な雰囲気はなく、むしろ和やかな雰囲気が漂う。やり取りに慣れているような、ああ言えばこう返されるのがわかっているような空気だ。
 周囲が口を一切挟めないまま、二人は言葉を投げ交わす。
 次第に直哉が飽きてきて、キョロキョロと部屋の内装を眺めたり、ぐいぐいと樹の服の裾を引っ張ったと思えば、樹の耳元でぼそりと呟いた。

「新社屋じゃなかったら建ててくれるのかな? 都内の一等地に一軒家とかならいける?」

「そういう問題じゃないって」

 そもそもそういう事を言うもんじゃない。
 ぺしりと直哉の肩を叩くと同時に、直哉と同じく飽きてきたハル先生こと春高が口を開いた。

「ああ、そうだ。三人は誰がリーダーにするか決めたかい?」

 その言葉を聞き、三人揃って気の抜けた言葉が口からでる。
 正式結成が決まった日に、代表者の名前を提出番組もあるからと教えられ、誰がユニットの代表(リーダー)をするのか決めておけと言われていたのだ。あれから日が経っているが、リーダーはまだ決まっていない。
 今日まで、三人一緒に行動している時間が多かったが、レッスンに気を取られていてすっかり忘れていた。鬼頭も何も言っていなかったので、あの大人もきっと忘れていたのだと思う。
 樹が、どう答えたものかと考えていると、直哉が樹の右腕をむんずと掴み、腕の主に断りもなく挙手をさせた。
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