first stage ワタリガラスの止まり木
#ヴァンド
◆ ◆ ◆
泉が帰り支度をしていた時、机に置いていたスマートフォンが、ピロンと音を立てて通知を知らせた。
鞄に向けていた視線を机上へ落とし、消えていたスマートフォンの液晶を灯す。
通知は、弟のマネージャーから送られて来たメールを知らせるものだった。弟の緊急連絡先として、親のものではなく泉の番号を教えていたのだ。メールアドレスと無料通話ができるアプリのIDも交換済みだ。が、滅多に使われることはなかった。スマートフォンを使ってやり取りするより、直接会ってやり取りした回数の方が上回っていた。
彼の誕生日が過ぎる前までは。
最近は忙しいのか、それとも盛夏の天気で外に出るのが億劫になったのか、顔を合わせる機会は春頃に比べるとずいぶん減った。その代わりに、誕生日を過ぎた頃から、ふとした時に彼から連絡が来るようになった。
内容は自分に関する事ではなく、弟たちの事。今日はこの時間に帰らせるといったものから、レッスン中や撮影中の動画が送られてくる。今届いたものは、アーティスト写真の撮影中の動画だった。
昨日撮りに行ったとは樹から聞いているが、どんな様子で撮ったかまでは話してくれなかった弟なので、この様子確認動画は助かる。帰宅時間を一緒に知らせてくれるのも、保護者の立場からしてみると大変ありがたい。弟たちはこれから帰るようだ。
「近々あるライブの準備もあって忙しいだろうにな」と、胸の内で彼に労いを送り、受け取った動画に目を通す。
動画の中にいる弟たちは、いつもと変わらぬ様子でくだらないやり取りを交えながら、撮影を進めている。
明るい雰囲気で取り組めているようで良かったと、胸を撫で下ろした。
最後に見た大好きなアイドルの表情は、とても苦しそうなものだったから。本人は、見せないようにしていたつもりでステージに上がっていたようだが、察しの良いファンは気づいていたし、泉もその一人だ。弟たちは、そのアイドルに面倒を見てもらっている。
不思議な縁だ。自分が推していたアイドルに、弟たちが世話をしてもらえるなんて。自分が入社した会社の近所に、彼が居る事務所があること自体奇跡なのにと、日々思う。
自分でも気づかないうちに顔がにやけていたのだろう。側に居た女の同僚の一人が、怪訝な表情をして泉の名を呼んだ。たまに弁当の買い出しを手伝ってくれるあの同僚だ。名を、安野舞(あんの まい)という。アイドルの事は、地上波の番組によく顔を出す有名な人しか知らないが、泉がアイドル好きな事を知っている人物の一人だ。
「どうしたんです?」
「い、いえ別に……!」
ひらひらと手を振って、にやつきを誤魔化す。
あわあわと慌てた様子を見せると、舞の口角が愉しげに吊り上げられた。
「もしかして、例の彼氏から?」
「彼氏じゃないです!」
彼女の言葉に被せるように否定してから、画面を消灯させる。
返事は家に帰ってからゆっくりしよう。貰いっぱなしは、相手が鬼頭ではなくとも印象が悪い。せめてお世話になっている旨くらいは伝えなければ。
そそくさと帰り支度に戻ったところで、今年度の新入社員で泉と同じ部署に配属された女性がとことこと近寄ってくる。名を京夕陽(みやこ ゆうひ)といい、彼女もまたアイドルに推しがいると、新入社員の歓迎会でひっそりと教えてくれた。酒が入ると正直者になるようで、ファンレターを送らないタイプの泉に「どうして送らないのか」と強く追究してきた子でもある。
「泉さん、【弟さんが迎えに来てますよー】って連絡が受付から来てますよ」
泉は「え?」という言葉と共に、目を丸くする。
弟から「今日一緒に帰ろう」という連絡は貰っていない。あの律儀で心配性な弟の事だから、メールか電話はしてきそうなものだ。
「変な子ねえ」と首を傾げつつ、身支度を済ませて階下にある正面玄関へと向かう。
いささか早歩きで移動する泉の後を、パンプスの音を響かせて舞と夕陽が続く。自分の荷物を持って来ていないところを見ると、帰るつもりでついて来ているわけではなく、泉を迎えに来た弟見たさだろう。
二人とは気軽に話せる同僚ではあるが、特別親しいわけではないので、弟の存在は教えているけど、写真は見せていない。
「お姉さんを迎えに来るなんて、随分と優しい弟さんねえ」と舞が笑う。
「たまたま時間があったからですよー」
「いくら姉弟仲良くても、迎えに来る子なんて滅多に居ませんよー。私の弟なんか友達と遊ぶことばかりでー」
夕陽の弟談義を聞きながら、泉が先に受付のあるエントランスに足を踏み込む。
泉の目に飛び込んで来たのは、受付のお姉さん二人を相手に仲良く雑談する直哉の姿だった。
「お姉さんたちは、昴くん派? それとも、」
口を開くよりも先に、身体が先に動く。
泉は直哉の首根っこをぐいっと引っ張り、受付から引き剥がした。
カエルが潰れたような鳴き声が聞こえたが気にしている場合ではない。受付からの視線も痛かったけど、それも無視する。
ある程度移動したところで、泉は直哉の首根っこを解放した。
「あなた何やってるの⁉」
「お迎えに来ました。あそこに居るのは会社の人?」
泉の驚いた反応と責める声に、直哉は怯む事も落ち込むこともなく、淡々とした口調で答える。
猫の目に似た少年の目が、泉の背後に居る舞と夕陽を捉える。
直哉がぱたぱたと手を振れば、二人も小さくぱたぱたと振り返した。
マイペースな直哉の様子に、泉は呆れ返った表情を見せ、肩を小さく上下させる。この調子では、強く言い聞かせてもきっと聞く耳持たずだ。
泉が、長く息を吐き出している間に、舞と夕陽がこそこそと距離を詰め、改めて直哉を上から下までじっくりと観察する。
舞がにんまりと口の端を上げた。
「あらやだあー! 弟くんって聞いたから樹くんが来たと思ったのに、直哉くんじゃないのー! 仕事帰りー?」
泉は、「こんにちは」と直哉がぺこりと頭を下げる姿を首を僅かに捻って見た。なんだか、喉の奥に引っ掛かりがある。
引っ掛かりを覚えたのは舞の発言だ。一体どこの部分でと悩んでいると、夕陽が口を開いた。
「舞さん、直哉くんのことよく知ってますね」
「あらだって、テレビに出てたでしょう?」
舞の問いかけに、きょとんと目を丸くしたのは夕陽だ。泉はぱちぱちと二度瞼を瞬かせる。
夕陽の戸惑いが混ざる視線が泉に向けられた。
アイドルをよく見ている側の彼女は問う。
この少年は、舞が見る番組に出た事があっただろうかと。
泉は首を横に振った。
衛星放送の番組には出たが、地上波はまだだ。
直哉は、そんなお姉さん二人の様子を一度視界に入れてから、舞へ戻した。
「見てくれて、ありがとうございます」
「見れば見るほど、鬼頭さんそっくりねえ。血繋がってないのよね?」
「他人です」
きっぱりと否定し、ふいっとそっぽを向く。
じっと覗き込んできた舞に照れたのかもしれない。新米アイドルも中身は十代男子だ。そして、興味を無くすと直ぐ次の行動に移る。
今もぐいっと泉の服の裾を引っ張ると「もう帰ろう」と伝えて来た。
夏の夕暮れは、寂しい空気に包まれている気がする。
ビルの隙間から見える青が、時が進むにつれて次第に赤みを増やし、紫とも桃色ともいえない鮮やかな色へと変化していく様は、毎日見てもあきない。今日の空は何かの色に似ているなと思っていたら、隣を歩くお姉さんが口を開いた。
「地上波のテレビ出た事ある?」
会社を出て、駅へと続く歩道を半分ほど歩いてから、泉は直哉に問う。
直哉はきょとんと首を傾げてから「ないです」と答えた。
「だよねえ。じゃあ、どこで見たのかしら? 舞さん」
「彼女の家、BSのアンテナないのよ?」と、泉は続ける。
直哉はその言葉を聞いて、口に出さなかった疑問が解消された。
「テレビで見た」とあの女の人が言ったとき、お姉さんたちがきょとんとしたのはそれが理由か。
スマホを片手に、ちらちらと画面と前方を見ながら直哉は口を開く。
「それは不思議な話ですね」
BSが見れないあの女の人が、どこのテレビで直哉を見たのか。
動画だって、知る人ぞ知るという場所にしか載せていない。アイドルに疎い彼女が見つけられるだろうかと、泉は首を傾げている。
「顔を見ただけで、俺だと気づいたのも凄いよね」
「そういえば、そうね」
「樹の写真見せた事ないんだけどな」と呟かれた言葉を聞きながら、直哉はメッセージアプリを開いて、目的の人物を見つけると迷うこと無く文字を打った。
【怪しい人を見つけたよ】
◆ ◆ ◆
泉が帰り支度をしていた時、机に置いていたスマートフォンが、ピロンと音を立てて通知を知らせた。
鞄に向けていた視線を机上へ落とし、消えていたスマートフォンの液晶を灯す。
通知は、弟のマネージャーから送られて来たメールを知らせるものだった。弟の緊急連絡先として、親のものではなく泉の番号を教えていたのだ。メールアドレスと無料通話ができるアプリのIDも交換済みだ。が、滅多に使われることはなかった。スマートフォンを使ってやり取りするより、直接会ってやり取りした回数の方が上回っていた。
彼の誕生日が過ぎる前までは。
最近は忙しいのか、それとも盛夏の天気で外に出るのが億劫になったのか、顔を合わせる機会は春頃に比べるとずいぶん減った。その代わりに、誕生日を過ぎた頃から、ふとした時に彼から連絡が来るようになった。
内容は自分に関する事ではなく、弟たちの事。今日はこの時間に帰らせるといったものから、レッスン中や撮影中の動画が送られてくる。今届いたものは、アーティスト写真の撮影中の動画だった。
昨日撮りに行ったとは樹から聞いているが、どんな様子で撮ったかまでは話してくれなかった弟なので、この様子確認動画は助かる。帰宅時間を一緒に知らせてくれるのも、保護者の立場からしてみると大変ありがたい。弟たちはこれから帰るようだ。
「近々あるライブの準備もあって忙しいだろうにな」と、胸の内で彼に労いを送り、受け取った動画に目を通す。
動画の中にいる弟たちは、いつもと変わらぬ様子でくだらないやり取りを交えながら、撮影を進めている。
明るい雰囲気で取り組めているようで良かったと、胸を撫で下ろした。
最後に見た大好きなアイドルの表情は、とても苦しそうなものだったから。本人は、見せないようにしていたつもりでステージに上がっていたようだが、察しの良いファンは気づいていたし、泉もその一人だ。弟たちは、そのアイドルに面倒を見てもらっている。
不思議な縁だ。自分が推していたアイドルに、弟たちが世話をしてもらえるなんて。自分が入社した会社の近所に、彼が居る事務所があること自体奇跡なのにと、日々思う。
自分でも気づかないうちに顔がにやけていたのだろう。側に居た女の同僚の一人が、怪訝な表情をして泉の名を呼んだ。たまに弁当の買い出しを手伝ってくれるあの同僚だ。名を、安野舞(あんの まい)という。アイドルの事は、地上波の番組によく顔を出す有名な人しか知らないが、泉がアイドル好きな事を知っている人物の一人だ。
「どうしたんです?」
「い、いえ別に……!」
ひらひらと手を振って、にやつきを誤魔化す。
あわあわと慌てた様子を見せると、舞の口角が愉しげに吊り上げられた。
「もしかして、例の彼氏から?」
「彼氏じゃないです!」
彼女の言葉に被せるように否定してから、画面を消灯させる。
返事は家に帰ってからゆっくりしよう。貰いっぱなしは、相手が鬼頭ではなくとも印象が悪い。せめてお世話になっている旨くらいは伝えなければ。
そそくさと帰り支度に戻ったところで、今年度の新入社員で泉と同じ部署に配属された女性がとことこと近寄ってくる。名を京夕陽(みやこ ゆうひ)といい、彼女もまたアイドルに推しがいると、新入社員の歓迎会でひっそりと教えてくれた。酒が入ると正直者になるようで、ファンレターを送らないタイプの泉に「どうして送らないのか」と強く追究してきた子でもある。
「泉さん、【弟さんが迎えに来てますよー】って連絡が受付から来てますよ」
泉は「え?」という言葉と共に、目を丸くする。
弟から「今日一緒に帰ろう」という連絡は貰っていない。あの律儀で心配性な弟の事だから、メールか電話はしてきそうなものだ。
「変な子ねえ」と首を傾げつつ、身支度を済ませて階下にある正面玄関へと向かう。
いささか早歩きで移動する泉の後を、パンプスの音を響かせて舞と夕陽が続く。自分の荷物を持って来ていないところを見ると、帰るつもりでついて来ているわけではなく、泉を迎えに来た弟見たさだろう。
二人とは気軽に話せる同僚ではあるが、特別親しいわけではないので、弟の存在は教えているけど、写真は見せていない。
「お姉さんを迎えに来るなんて、随分と優しい弟さんねえ」と舞が笑う。
「たまたま時間があったからですよー」
「いくら姉弟仲良くても、迎えに来る子なんて滅多に居ませんよー。私の弟なんか友達と遊ぶことばかりでー」
夕陽の弟談義を聞きながら、泉が先に受付のあるエントランスに足を踏み込む。
泉の目に飛び込んで来たのは、受付のお姉さん二人を相手に仲良く雑談する直哉の姿だった。
「お姉さんたちは、昴くん派? それとも、」
口を開くよりも先に、身体が先に動く。
泉は直哉の首根っこをぐいっと引っ張り、受付から引き剥がした。
カエルが潰れたような鳴き声が聞こえたが気にしている場合ではない。受付からの視線も痛かったけど、それも無視する。
ある程度移動したところで、泉は直哉の首根っこを解放した。
「あなた何やってるの⁉」
「お迎えに来ました。あそこに居るのは会社の人?」
泉の驚いた反応と責める声に、直哉は怯む事も落ち込むこともなく、淡々とした口調で答える。
猫の目に似た少年の目が、泉の背後に居る舞と夕陽を捉える。
直哉がぱたぱたと手を振れば、二人も小さくぱたぱたと振り返した。
マイペースな直哉の様子に、泉は呆れ返った表情を見せ、肩を小さく上下させる。この調子では、強く言い聞かせてもきっと聞く耳持たずだ。
泉が、長く息を吐き出している間に、舞と夕陽がこそこそと距離を詰め、改めて直哉を上から下までじっくりと観察する。
舞がにんまりと口の端を上げた。
「あらやだあー! 弟くんって聞いたから樹くんが来たと思ったのに、直哉くんじゃないのー! 仕事帰りー?」
泉は、「こんにちは」と直哉がぺこりと頭を下げる姿を首を僅かに捻って見た。なんだか、喉の奥に引っ掛かりがある。
引っ掛かりを覚えたのは舞の発言だ。一体どこの部分でと悩んでいると、夕陽が口を開いた。
「舞さん、直哉くんのことよく知ってますね」
「あらだって、テレビに出てたでしょう?」
舞の問いかけに、きょとんと目を丸くしたのは夕陽だ。泉はぱちぱちと二度瞼を瞬かせる。
夕陽の戸惑いが混ざる視線が泉に向けられた。
アイドルをよく見ている側の彼女は問う。
この少年は、舞が見る番組に出た事があっただろうかと。
泉は首を横に振った。
衛星放送の番組には出たが、地上波はまだだ。
直哉は、そんなお姉さん二人の様子を一度視界に入れてから、舞へ戻した。
「見てくれて、ありがとうございます」
「見れば見るほど、鬼頭さんそっくりねえ。血繋がってないのよね?」
「他人です」
きっぱりと否定し、ふいっとそっぽを向く。
じっと覗き込んできた舞に照れたのかもしれない。新米アイドルも中身は十代男子だ。そして、興味を無くすと直ぐ次の行動に移る。
今もぐいっと泉の服の裾を引っ張ると「もう帰ろう」と伝えて来た。
夏の夕暮れは、寂しい空気に包まれている気がする。
ビルの隙間から見える青が、時が進むにつれて次第に赤みを増やし、紫とも桃色ともいえない鮮やかな色へと変化していく様は、毎日見てもあきない。今日の空は何かの色に似ているなと思っていたら、隣を歩くお姉さんが口を開いた。
「地上波のテレビ出た事ある?」
会社を出て、駅へと続く歩道を半分ほど歩いてから、泉は直哉に問う。
直哉はきょとんと首を傾げてから「ないです」と答えた。
「だよねえ。じゃあ、どこで見たのかしら? 舞さん」
「彼女の家、BSのアンテナないのよ?」と、泉は続ける。
直哉はその言葉を聞いて、口に出さなかった疑問が解消された。
「テレビで見た」とあの女の人が言ったとき、お姉さんたちがきょとんとしたのはそれが理由か。
スマホを片手に、ちらちらと画面と前方を見ながら直哉は口を開く。
「それは不思議な話ですね」
BSが見れないあの女の人が、どこのテレビで直哉を見たのか。
動画だって、知る人ぞ知るという場所にしか載せていない。アイドルに疎い彼女が見つけられるだろうかと、泉は首を傾げている。
「顔を見ただけで、俺だと気づいたのも凄いよね」
「そういえば、そうね」
「樹の写真見せた事ないんだけどな」と呟かれた言葉を聞きながら、直哉はメッセージアプリを開いて、目的の人物を見つけると迷うこと無く文字を打った。
【怪しい人を見つけたよ】