first stage ワタリガラスの止まり木


#ヴァンド

「たっちゃん、おせーなあー」

 言いながら、大がレッスン室のど真ん中で大の字になった。
 樹が試験会場に向かってから、もう十分は過ぎている。戻ってくる気配はまだなかった。
 待ちくたびれたのは直哉も同じらしく、彼の隣でごろんとうつ伏せになっている。ご丁寧なことにヨガマットを敷き、バスタオルをクッション代わりにしていた。ピコピコとスマートフォンに入れているパズルゲームに勤しむ姿は、現代的な高校生のそれだ。

「案外、試験でずっこけてたりして」

「一分半の試験でずっこけるとかないだろう」

「わかんないよー。ひよひよのヒヨコちゃんだから」

「ヒヨコちゃん?」

「そうそう」と、直哉は頷く。

「まあメンタルヒヨコでも…………俺たちの中で一番ヤバイ性格してるの、あいつだけどね」

 直哉の言葉に、大は訝しげな表情を見せた。
 首を捻る大に「よく考えてみなよ」と言葉を続けながら、身体を起こす。

「俺と十六年一緒にいるんだよ」

 直哉はとげとげとした強い口調と、常にむすっと機嫌の悪い表情をしていることから、同級生や下の世代から怖がられ、年上からは煙たがれることが多かった。性格も、優しいよりは怖いや冷たいと思われる事が多い。だから、クラス替えや入学式が大の苦手だ。怖がられるから。
 樹は、そんな直哉と十六年共にいる。特に嫌がることもなく、怖がることもなく、飽きることもなく。
 そんな樹のどこがヤバイ性格なのだろうか。大から見れば、ただただ直哉と仲が良くて気があったので、ここまで生きてきた印象である。
 大も直哉と付き合いは長いが、子供会で顔を合わせる機会はあっても保育園が違ったので、深く関わりあうようになったのは小学校に入学してからだ。
 傾いた首が戻らない大を見かねて、直哉は一人話しを続けた。

「あいつ、ずっと見てるの。俺のこと」

「は?」

「シャトルランの時も、レッスンしてる時も、ずっと俺を見てる。鬼頭さんと話してる時もそう」

 視線を感じて振り返って見れば、樹の顔が大体そこにある。
 羨ましいという表情をしている時もあれば、怒った表情を見せている時もある。
 大の眉間にしわが寄る。
 直哉は小さく肩を上下させた。

「たぶん、俺に嫉妬してるんだろうね」

「嫉妬……」

「あと、独占欲みたいなのもあると思う」

 また随分と、どろどろねばねばした言葉が出たものである。
「はあ」と、大はわかったようなわかっていないような、曖昧な相づちを返した。

「樹が羨ましいなあって顔をしてる時って、俺が何かした後なんだよね。シャトルランもそうだし、レッスンもそうだし」

「怖い顔をしてる時は?」

「樹が知らない、もしくは知っててもあんまり喋った事がない人間と俺が喋ってた時」

「ヤキモチ? 恋かよ」

 大の感想に、直哉は愉しげに肩を揺らして笑う。

「ただの恋なら、俺も対処できる」

「できるのかよ」

「まあね」

「お前、そんな風に見られて嫌だとか思ったことねぇの?」

「ないよ。俺も樹と似たような面持ち合わせているし。たぶん、俺の方が質が悪い」

 直哉は言葉を区切り、自分の両手を見下ろす。

「俺だって、羨ましいって思うことあるよ。国語のテストは、樹の方が上だし、社交的だし」

 樹は注目されるのが苦手なだけで、人と喋る事は苦にしてない。対する直哉は、テストや人前に出るのは平気だが、初対面の人間とは直ぐには話せない。怖がられたらどうしようと、警戒してしまう。
 小学生の頃は、樹か大が間に入らないとまともに話せなかった。番組で話せたのは、舞浜にいるキャストの喋りを参考にしていたからだ。

「だから、樹は居てくれないと俺困っちゃう。大ちゃん一人じゃ、俺の世話するの大変でしょう?」

「それな」

「色々言ったけどさあ。……気分屋な俺を懐柔してる時点で、樹(あいつ)やっぱヤバイ奴だと思う」

「どうも昔から逆らえない時がある」と、直哉は不思議そうに首を捻り、うーんと唸る。
 直哉の言葉に、大は深く頷いた。

「ホントそれな」

 ひとまず、今は樹の試験が無事に終わることを祈るのみである。
 下手な真似して「お前やっぱりクビな」という判断は勘弁だ。


 樹は曲が終わったところで、大きく息を吐き出しながら座り込んだ。
 鬼頭から録り直しを要求され、課題曲をたっぷり二回歌い踊ったところだ。 
 ぜーはーと肩を大きく上下させて呼吸を整えつつ、マネージャーを盗み見る。
 マネージャーは映像を確認しながら、何かを考えるように唸っていた。
 待て、マネージャー。録り直しはもう嫌だ。部屋に戻りたい。
 カメラの前に立つだけでも緊張するのに、その上マネージャーと二人っきりでいるのだ。ハル先生は樹をこの部屋に送り届けてから「ガンバって」と言ってどこかに行ってしまった。
 会社の大人と二人で居るのはとても気まずい。気さくに話しかけている直哉の度胸を分けて欲しいと思う。
 居心地悪く、そわそわとしながら鬼頭の言葉を待つ。
 鬼頭はたっぷり一分ほどかけて動画を確認した後、ようやく顔を上げた。

「次」

「へ?」

「今習っている振りあるだろ? あれやってみろ」

「は?」

 急な要望に、樹は狼狽えた。
 確かに、今月から習い始めたものはあるけれど、まだ未完成であやふやである。正直、やりきれる自信がない。
 鬼頭はそれ以上は言わず、樹の起こす行動を見守っている。
 見定めるつもりの、棘を含んだ眼光に、冷えた汗が背筋を流れた。
 どうする樹。嫌だと素直に言うべきか。それとも、玉砕覚悟で挑むべきか。
 突然の事だから「できない」と断っても、目前の男は怒りはしないはずだ。
 でも、それはよくない気もする。逃げたような印象を抱かれるし、なにより樹自身が「やっておけばよかった」と後悔しそうな道だ。
 どうするどうすると考えていると、直哉と大の背中が脳裏を過ぎていった。
 あの二人ならどうするだろう。
 直哉も抜き打ちで歌わされたと言っていた。大は何も言われなかったけど、言われていたら渋々ながらもやっていそうだ。根が真面目な男だから。
「しょうがないなあ」と思いつつも、二人がやる方を選ぶのはやれるという自信があるからだろう。
 シャトルランが終わる度に、合唱祭が終わる度に、何かが終わる度に、堂々とした姿の二人をずっと羨ましく思っていた。
 似た環境で育っているのに、どうして差があるのだろうと考えていたが、差なんて本当は無かったのかもしれない。
 樹が持とうとしなかっただけだ。やれるという自信を。今の自分がどこまで出来るのか試してみたいという気持ちを。
 羨ましいと思う時間があるなら、少しでも練習して自信を持て。
 二人と一緒に立っても遜色ないように。

「曲、流してもらっていいですか?」

 緊張で声が僅かに掠れたが、樹は鬼頭を真っ直ぐに見据えて頼む。
 鬼頭の目が僅かに見張られた気がした。
31/63ページ