first stage ワタリガラスの止まり木
#ヴァンド
◇ ◇ ◇
小さな鬼は、カーテンを閉じきった薄暗い部屋で、クッキー缶の蓋を開けた。
舞浜で買った、クッキーだ。蓋には世界的に有名なキャラクターたちが、パークのイラストを背景に笑顔を向けている。家にある中でも一番古い缶で、遠い昔、父親に買ってもらったものだ。
小さな鬼は缶の中にしまっていた絵はがきの束と、通帳と印鑑の存在を確認して、胸を撫で下ろした。
よかった。まだ手をつけられていない。これに手を出されたら、小さな鬼はきっと正気ではいられない。
絵はがきの束を取り出すと、小さな鬼が大切にしている物がもう一つ出てきた。
小さな紙切れに書かれた、名前と連絡先。
走り書きで書かれた名前は、鬼頭昴。
小さな鬼は紙切れを絵はがきの上にのせ、胸に抱いた。
目を閉じ、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
「大丈夫」
俺には【パパ】がいるから、大丈夫だよ。
◇ ◇ ◇
ミンミンジリジリと、セミたちのが合唱が熱い空気を震わせる。
七月頭にあった期末考査が終わり、気がつけば採用試験当日を迎えている。
夏特有の湿気が空気に溶け込む朝、樹は自宅の前で直哉が出てくるのを待った。
スマートフォンを片手に、隣にある友人宅を見上げる。
期末考査が始まる少し前から、母親と直哉による小競り合いが増えていた。
直哉はテスト勉強がしたいのに、母親は記念日に合わせた家族旅行に無理矢理連れて行こうとしたのが発端だった。その上で、成績は落とさずむしろ上げろと言うのだから、言っていることが無茶苦茶である。
直哉曰く、母親は「家族揃って旅行に行くなんてとっても仲良し家族ね」という姿を近所の人や旅先の人に見せつけたかったらしい。ついでに、幼い娘二人の面倒を直哉に押しつけて、自分は夫とゆっくりデートをする算段をしていたのだろうとも推測していた。
結局、直哉は自力で母から脱出し、旅行にはついて行かなかったそうだが、以来母親の小言が増えたとため息を吐いていた。
『自分の体裁を守るのに必死なんだよ、あの人は。自業自得のくせに……付き合いきれない』
今週は父親も母親も遅い日が多く、小さい娘たちは母方の祖父母宅に預けられているという。直哉も預けられそうになったが、まだ学校が残っていたのとレッスンのこともあるので、自宅に留まっていた。
見上げていた視線を、手元のスマートフォンに落とす。
採用試験はあってないようなものだとは言われているが、上手ければ上手いほど、仕事をもらえる機会は増える。
試験の練習をしながらも、初めてのテレビ収録を終えた日から、ちょこちょこと同年代や年下の練習生がいるスタジオに集められて、先輩たちの曲を練習している。振り付け師からは、夏にあるライブに出すかもしれないと言われていた。
バックダンサーは、スタジオやステージの大きさによっては当初予定していた人数よりも減らされることがあると、先月テレビ局に赴いた時に教わった。
削られるのは、後方で特に端に立つ人間。前方で中心に立つ人間は、滅多に削られることはない。
全体練習時。樹の立ち位置は、後方の端よりだった。なにかあれば、切られる位置。大は樹と同じ列だが、やや中央寄り。直哉は樹の前の列で、位置は大とそれほど変わらない。
これまでの練習内容と成長を鑑みて配置されたが、なかなか妥当な配置だと思った。
「他人の心配をしている場合じゃないんだよなあ……たぶん」
三人の中で、削られやすい位置に居るのは樹だ。
頑張らないと置いていかれる。
まずは、今日の採用試験だ。
空は高く晴れ渡っているのに、ざらざらとした砂嵐の映像が被って見える。
せっかくの夏だというのに、華やかな芸能界も、有名な女優が違法な薬を所持していたという報道が流れてから、どんよりとした空気に包まれていた。
「今日は以前から知らせていた通り、採用試験(テスト)を行う」
いつものレッスン室で、いつものように少年三人の前に立った鬼頭が、ファイル片手に厳かに告げる。
その傍らで、ハル先生が頑張れと言わんばかりにぱちぱちと拍手を送った。
「みんな始めた頃に比べたら、だいーぶ様になってきたよー。大丈夫、大丈夫ー」
「リラックスしてねえ」とにこやかに励ますハル先生を、樹と大は「他人事だな」と頬をひきつらせた。
直哉だけは「大丈夫、大丈夫ー」とハル先生の真似をしている。
「こいつはこいつで緊張感がねえな」
鬼頭が直哉の様子を見て、呆れたように口を開いた。
「とりあえず、一人ずつ採点用のビデオ撮るから、ハルに呼ばれたら隣の部屋来いよ。──わかりましたか?」
「はーい」
樹と大は短い返事をしたが、直哉だけが間延びした声を返した。
「じゃあ、まず萩原から」
「なんでぇえ⁉」
「五十音だよ」
「誕生日順じゃねえのかよ⁉」
大の叫びに、直哉と樹が同時に言葉を放った。
「名前順も誕生日順も最後だからやだー!」
「一番先は嫌だ!」
誕生日順だと、一番手は四月生まれの樹で、殿(しんがり)は十二月生まれの直哉だ。五十音だと大が一番手で、殿は誕生日と同じく直哉だ。樹は真ん中なので、五十音だと聞いて胸を撫で下ろしていたところで大の突っ込みが入った。今は「余計な事言いやがって」という気持ちである。
トップバッターは嫌だが、かといって二人分の試験を待つ時間も緊張で苦しい。できれば無難な真ん中が良いという子どもの思惑がぶつかり合う。
バチバチと睨み合う三人に、眺めていた大人二人は顔を見合わせ、ハルは苦笑を、鬼頭は呆れた様子を見せた。
「じゃあ、もうジャンケンな! 勝った順な!」
「ええーー。負けた順がいーいー」
大の提案に、直哉が不満を見せる。
幼い頃からの付き合いで、誰がジャンケンに強いか弱いかも熟知していた。三人の中では大が最弱で、直哉が最強である。最がつく者による一番の押しつけあいだ。樹の戦績は五分五分なので、ここは静かに行方を見守る。
「それもジャンケンでいいんじゃないか?」と樹がこぼしている間に「なんでもいいから、さっさとやれ」とマネージャーが二人を怒っていた。
◇ ◇ ◇
小さな鬼は、カーテンを閉じきった薄暗い部屋で、クッキー缶の蓋を開けた。
舞浜で買った、クッキーだ。蓋には世界的に有名なキャラクターたちが、パークのイラストを背景に笑顔を向けている。家にある中でも一番古い缶で、遠い昔、父親に買ってもらったものだ。
小さな鬼は缶の中にしまっていた絵はがきの束と、通帳と印鑑の存在を確認して、胸を撫で下ろした。
よかった。まだ手をつけられていない。これに手を出されたら、小さな鬼はきっと正気ではいられない。
絵はがきの束を取り出すと、小さな鬼が大切にしている物がもう一つ出てきた。
小さな紙切れに書かれた、名前と連絡先。
走り書きで書かれた名前は、鬼頭昴。
小さな鬼は紙切れを絵はがきの上にのせ、胸に抱いた。
目を閉じ、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
「大丈夫」
俺には【パパ】がいるから、大丈夫だよ。
◇ ◇ ◇
ミンミンジリジリと、セミたちのが合唱が熱い空気を震わせる。
七月頭にあった期末考査が終わり、気がつけば採用試験当日を迎えている。
夏特有の湿気が空気に溶け込む朝、樹は自宅の前で直哉が出てくるのを待った。
スマートフォンを片手に、隣にある友人宅を見上げる。
期末考査が始まる少し前から、母親と直哉による小競り合いが増えていた。
直哉はテスト勉強がしたいのに、母親は記念日に合わせた家族旅行に無理矢理連れて行こうとしたのが発端だった。その上で、成績は落とさずむしろ上げろと言うのだから、言っていることが無茶苦茶である。
直哉曰く、母親は「家族揃って旅行に行くなんてとっても仲良し家族ね」という姿を近所の人や旅先の人に見せつけたかったらしい。ついでに、幼い娘二人の面倒を直哉に押しつけて、自分は夫とゆっくりデートをする算段をしていたのだろうとも推測していた。
結局、直哉は自力で母から脱出し、旅行にはついて行かなかったそうだが、以来母親の小言が増えたとため息を吐いていた。
『自分の体裁を守るのに必死なんだよ、あの人は。自業自得のくせに……付き合いきれない』
今週は父親も母親も遅い日が多く、小さい娘たちは母方の祖父母宅に預けられているという。直哉も預けられそうになったが、まだ学校が残っていたのとレッスンのこともあるので、自宅に留まっていた。
見上げていた視線を、手元のスマートフォンに落とす。
採用試験はあってないようなものだとは言われているが、上手ければ上手いほど、仕事をもらえる機会は増える。
試験の練習をしながらも、初めてのテレビ収録を終えた日から、ちょこちょこと同年代や年下の練習生がいるスタジオに集められて、先輩たちの曲を練習している。振り付け師からは、夏にあるライブに出すかもしれないと言われていた。
バックダンサーは、スタジオやステージの大きさによっては当初予定していた人数よりも減らされることがあると、先月テレビ局に赴いた時に教わった。
削られるのは、後方で特に端に立つ人間。前方で中心に立つ人間は、滅多に削られることはない。
全体練習時。樹の立ち位置は、後方の端よりだった。なにかあれば、切られる位置。大は樹と同じ列だが、やや中央寄り。直哉は樹の前の列で、位置は大とそれほど変わらない。
これまでの練習内容と成長を鑑みて配置されたが、なかなか妥当な配置だと思った。
「他人の心配をしている場合じゃないんだよなあ……たぶん」
三人の中で、削られやすい位置に居るのは樹だ。
頑張らないと置いていかれる。
まずは、今日の採用試験だ。
空は高く晴れ渡っているのに、ざらざらとした砂嵐の映像が被って見える。
せっかくの夏だというのに、華やかな芸能界も、有名な女優が違法な薬を所持していたという報道が流れてから、どんよりとした空気に包まれていた。
「今日は以前から知らせていた通り、採用試験(テスト)を行う」
いつものレッスン室で、いつものように少年三人の前に立った鬼頭が、ファイル片手に厳かに告げる。
その傍らで、ハル先生が頑張れと言わんばかりにぱちぱちと拍手を送った。
「みんな始めた頃に比べたら、だいーぶ様になってきたよー。大丈夫、大丈夫ー」
「リラックスしてねえ」とにこやかに励ますハル先生を、樹と大は「他人事だな」と頬をひきつらせた。
直哉だけは「大丈夫、大丈夫ー」とハル先生の真似をしている。
「こいつはこいつで緊張感がねえな」
鬼頭が直哉の様子を見て、呆れたように口を開いた。
「とりあえず、一人ずつ採点用のビデオ撮るから、ハルに呼ばれたら隣の部屋来いよ。──わかりましたか?」
「はーい」
樹と大は短い返事をしたが、直哉だけが間延びした声を返した。
「じゃあ、まず萩原から」
「なんでぇえ⁉」
「五十音だよ」
「誕生日順じゃねえのかよ⁉」
大の叫びに、直哉と樹が同時に言葉を放った。
「名前順も誕生日順も最後だからやだー!」
「一番先は嫌だ!」
誕生日順だと、一番手は四月生まれの樹で、殿(しんがり)は十二月生まれの直哉だ。五十音だと大が一番手で、殿は誕生日と同じく直哉だ。樹は真ん中なので、五十音だと聞いて胸を撫で下ろしていたところで大の突っ込みが入った。今は「余計な事言いやがって」という気持ちである。
トップバッターは嫌だが、かといって二人分の試験を待つ時間も緊張で苦しい。できれば無難な真ん中が良いという子どもの思惑がぶつかり合う。
バチバチと睨み合う三人に、眺めていた大人二人は顔を見合わせ、ハルは苦笑を、鬼頭は呆れた様子を見せた。
「じゃあ、もうジャンケンな! 勝った順な!」
「ええーー。負けた順がいーいー」
大の提案に、直哉が不満を見せる。
幼い頃からの付き合いで、誰がジャンケンに強いか弱いかも熟知していた。三人の中では大が最弱で、直哉が最強である。最がつく者による一番の押しつけあいだ。樹の戦績は五分五分なので、ここは静かに行方を見守る。
「それもジャンケンでいいんじゃないか?」と樹がこぼしている間に「なんでもいいから、さっさとやれ」とマネージャーが二人を怒っていた。