first stage ワタリガラスの止まり木

#ヴァンド

 じっと睨みつける形で、直哉は女を見る。
 対する女も、サングラスの奥で目を丸くしながら子どもを見ていた。
 鬼頭はというと、何で出掛けたはずの子どもが家にいるのかという疑問より、子どもの放った言葉が気になった。
 鬼頭の記憶が正しければ、【玉藻前】は伝説上の狐の名前だ。彼女は駆け出しの頃、舞台で玉藻前を演じているが、この子どもがまだ三歳か四歳頃の話だ。テレビの告知を見ていたとしても、覚えている年齢ではない。その名前を、この子どもは疑問にする形ではなく断定する形で言い切り、制する視線を向けている。
 両者の間で静かに視線が交わる中、女が先に動いた。
 テーブルに置いていた手を外し、身体の向きを鬼頭から直哉の方へ変える。
 自分の目線と同じか、やや高い位置にある直哉の目を、女は覗き込む。

「坊や。その名前をどこで知ったの?」

「読んだ本に載ってた。それに、あなたその役名で舞台に出てたでしょう。──朝田繭(あさだ まゆ)さん」

 女の視線が鬼頭に移る。
 彼女の目が問いかけていた。「あなた、教えたの?」と。
 鬼頭は小さく首を振った。過去に共演していた女なの情報など、鬼頭は与えたことない。
 大人の空気を察してか、直哉がふんぞり返る。

「俺、お勉強熱心なの。それに、記憶力にも自信ある。定食屋さんの前で俺達のこと見てたのも、あなたでしょう?」

 女が息を呑む。
 答えないということは図星だと、鬼頭は長い付き合いで悟った。
 覗いていた女のことが気になって、あの日から調べていたのだと、直哉は語る。
 定食屋の前で、樹と直哉の盗み聞きしていた人物は鬼頭が目当てだったと仮定して、まず事務所の前によく現れる出待ちの顔を思い出してみた。
 子どもたちは基本的に電車移動だ。最寄りの駅から事務所までの道沿いで、出待ちらしき人物を幾度か目撃し、頻繁に目にする者の顔も覚えている。
 その中に、明るい色の髪を切り揃えた者はおろか、すらりと伸びた身体と手足を持った者はいなかった。居たら居たで、直哉たちの視界にしっかりと飛び込んで来ただろうし、覚えている。
 出待ちにいない顔なら、スタッフか過去に縁があった人物かもしれない。でも、関係者なら堂々と会いに来ているはず。こそこそと隠れた真似をするのは、後ろめたい気持ちか気まずい事があったからだろう。
 幸か不幸か、この家には過去の映像や資料が残っている。
 鬼頭の自宅を度々訪ねていた直哉は、家主が仕事部屋に引きこもっている間に、あの物置みたいな和室を漁った。
 そして見つけたのが、鬼頭と繭が共演したドラマのDVDだった。

「ドラマの宣伝とか、若手の役者に箔をつける為に熱愛報道流すってよく聞く手段じゃない? それでネットニュースとかも漁ってみたら、二人の報道も出てきたの」

「あらあら」

「怖いぞ、お前」

 子どもの情報収集能力に、大人二人は舌を巻く。
 女の視線が、直哉から鬼頭に再び移される。
 今度は「なに部屋の中荒らされてんのよ」と言っていた。
 鬼頭は「仕方ないだろう」と口だけ動かして答える。
 がさごそと物音はしていたが、いつもの暇潰し探しだろうと思って放置していた。まさか、繭の正体を探っていたとは夢にも思っていなかった。
 繭は息を吐いて、直哉の目を覗く。

「そう……随分お勉強熱心なぼくちゃんだこと。でもねえ……」

 形の良い指が直哉の片頬を包み、自分の顔に子どもを引き寄せた。
 直哉が逃げたそうに身を捩るが、繭は無視して言葉を続ける。
 ねっとりとした声音に、聞いている鬼頭も眉間にしわを寄せた。

「深入りしない方が幸せな時もあるわよ。…………あら?」

 繭は、二度瞼を瞬かせてから、再度直哉の目を覗く。
 鼻と鼻が触れそうな至近距離だ。その距離なら、子どもの瞳に彼女の顔がしっかりと映っていることだろう。
 しばらく直哉と視線を交わしてから、ようやく口を開いた。

「あなた人間?」

 繭の問いに直哉は理解が追い付かなかったようだ。
 ゆっくりと瞬きを三つしてから、戸惑い気味に「人間ですけど?」という当たり前の答えが出る。
 繭は直ぐ納得いかなかったようで、少年の身体を這うように、上から下までじっくりと眺めてから、頬から手を外した。

「まあいいわ。…………お話はもう終わりでいいかしら、昴。なんなら、夜の方も付き合うけど?」

「またあの週刊誌の妄言に乗ってみる?」と、蠱惑的な笑みを見せる彼女に、鬼頭は勘弁してくれと顔をそらした。
 深い息が口から溢れ出る。

「これ以上の黒歴史はごめんだ」

 鬼頭のつれない反応に、繭は肩を竦めた。

「黒歴史だなんて失礼しちゃうわね。ぼくちゃんだって、こんなに綺麗な女性がママだったら嬉しいでしょう?」

「え? 俺、ゆるふわ森ガールがいい」

 子どもの素直な返答に、繭は絶句し、鬼頭は笑いを噛み殺した。


「五分も経たないうちに二回も振られたの初めてなんだけど」

 繭は納得いかない様子を見せるが、心の底から怒っているわけでもないようだ。
 靴を履き、くるりと鬼頭を振り返った時には、憮然としていた表情が柔らかいものに変わっている。
 鬼頭の傍らにいる子どもを視界に入れてから、口を開いた。

「アイドルやるんですってね」

「うん、たぶん」

 採用試験これからだから、まだなんとも言えないけど。
 首を傾げる直哉に、繭は鼻を鳴らした。

「採用試験なんて、あってないようなものでしょう。ジュニアの番組にも出して貰えたんでしょう?」

「まだ放送してないのに、何で知ってるの?」

「こっそりと見に行ってたのよねえ。ま、良い世界とはわたしの口からは言えない。あんたたちがデビューする頃には、わたしは居ないと思うけど、せいぜい頑張ることね」

 女の飄々とした口ぶりに、直哉は首を傾げ、鬼頭は僅かに目を見開いた。
 ひらりと片手を振って、男二人に背を向ける。
 こつりと、踵が床を打つ音が響いた。
 ドアノブに手をかけ、人間一人分開いたところで、彼女は思い出したように言葉を発した。

「重圧に潰されないように気をつけなさぁい、ぼくちゃん。そこにいる情けない男みたいにならないよう祈ってるわぁー」

 パタンと音を立てて扉が閉められ、彼女の姿が見えなくなる。
 女の気配が消えてから、鬼頭は一気に脱力し、その場にしゃがみこんだ。

「だいじょーぶ?」

「あの女といるといつもこうだ」

 長い時間、強風に当てられた感覚である。
 思えば、あの女は風みたいなやつだ。朝田麦の門下生は、自然物をモチーフにした人物やユニットが多いが、彼女はその中でも多く作られた風がモチーフだった。
 他人を煽るような意地の悪い性格をしていても、彼女の歌声はどこまでも広がり、聴いている者を包み込む。その声音は澄んだ色をしていて、高らかに響き渡る。
 朝田麦から直接指導を受けた彼女は、瞬く間に芸能界の階段を駆け上がり、今では俳優の中でも忙しい人物に分類されるほど成長した。
 舞台上では繊細な表現をする一方で、日常に舞い戻れば大胆不敵な物言いをする彼女に、鬼頭はきちんと勝てたためしがない。
 息を吐いたまま、玄関先を見つめる家主の後頭部を、子どもは励ますようにてしてしと叩いた。
 穏やかに流れる風の中で、一瞬だけ吹き抜けた突風だった。
 次、彼女の名前を目にしたのは、採用試験の前日。
 梅雨が明け、夏の太陽が元気に地上を照らす頃。
 彼女に歌声が、テレビからラジオから響いてくる。
 良い報せではない物も一緒に、繰り返し流される。
 朝田繭は、違法な薬物を自宅で所持していたとして逮捕された。行われた薬物検査の結果は、陽性だった。
 ワイドショーの司会とコメンテーターたちの、邪推と正義感を撒き散らすコメントが朝から晩まで流される。
 鬼頭は憤りと虚しさを抱えながら、背景に流れる彼女の歌声にだけ耳を傾けていた。
 一見華やかな道を辿った彼女にも、心の闇はあったのだ。
 心の闇に気づけなかったのは、これで二回目だ。
 瞼を閉じれば、重圧に押し潰された彼の姿がありありと浮かぶ。

 ──すまない。
 ──俺は逃げる、逃げるぞ、鬼頭……!

 仲間(とも)の声が、今も耳にこびりついて、止まることを知らない。 
 無念の涙を流し、嗚咽する仲間に、どう答えてあげれば良かったのか、なんと声をかければ良かったのか。
 答えは今もわからない。
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