first stage ワタリガラスの止まり木
#ヴァンド
「エントランスで十分も待たされたの初めてなんだけど」
家に上がり込んだ女が、一息で文句を付ける。
腕は組んだまま、昔からある尊大な態度を一切崩すことなくである。
つばが広い婦人用の帽子に隠れてはっきりとは見えないが、その下には紫色のサングラスと半眼になった目があるはずだ。
直哉が来た時同様、大きく息を吐いてから「とりあえず座れ」とダイニングにある椅子を指差した。
女は直ぐには着席せず、久しぶりに入った家を見て回る。
「相変わらず、女の影が感じられない部屋ね」
「ほっとけ」
「でも、子どもの影はあるのね」
ソファーに置かれた直哉の荷物と、適当に畳まれた高校の制服を視界に入れ、女は愉しそうに喉を震わせた。
口数の減らない女に苦々しい表情を見せ、客人用の麦茶をテーブルに置く。
「それは後輩のやつだ。妙になつかれてな」
「それって、さっき下(エントランス)ですれ違った男の子かしら? 雰囲気が昔のあなたにそっくりよねぇ」
女は帽子を外しながら、ゆっくりと椅子に近づき腰を下ろす。
「さては…………隠し子?」
「違う」
鬼頭は、図星でも突くような女の言い方をばっさりと切り捨てる。
帽子を外したことで、ようやく全貌が明らかになった女の顔は、テレビで見るものと変わらない。
こう見えて、女は業界から好かれている女優だ。舞台をメインとしているが、連続ドラマにも年に二回は出演している。スケジュールも再来年の分まで埋まっているという噂も流れるほどだ。
そして、鬼頭が気を許した女の一人だった。
帽子の下にあった髪は肩ほどで切り揃えられ、明るい色をしている。そして、紫色のサングラスもやはり装備していた。赤く染められた暑苦しい色のワンピースを身につけ、こうするのが当然とばかりに足を組む。素足は晒さない主義なのか、黒色のストッキングで肌を隠していた。
「その姿で表を歩いてきたのかと苦言を呈する」と、「タクシー使ったに決まってるでしょう」と強気な口調で返される。
「それで、話ってなぁあに? わたし、これでも忙しいのよ」
「売れっ子女優さんだから」と、茶化して言う彼女の前に、誕生日に届いた藁人形を投げ置く。泉の写真はそのままだ。
女は、サングラスの下にある目を僅かに動かして、藁人形から投げつけた元アイドルに視線を移動させた。
「お誕生日のプレゼントね」
「毎年、毎年、気味の悪い物送りやがって……」
毎年、適当な住所と名前で送られてくる藁人形は、目前に居る女の仕業であった。別れた年の翌年から送られてくるようになった。
女は悪びれた様子を見せずに、ただにこやかに穏やかに微笑む。
ワンピースとよく似た色の唇が、三日月の形をしていた。
「あら? かわいいじゃない? わたしを忘れないでって釘に込めて送ってるのよ。ね? 忘れられないでしょう?」
「恋人ごっこに先に飽きたのはそっちだろう」
鬼頭は、辟易とした様子で女に向けていた膝の向きを左手側に変え、背もたれに肘を置く。
この女と向かい合わせに座るのは、持っている体力をすべて吸いとられるような気がした。いちいち煽るような一言があるのも原因かもしれない。
一時の遊びとはいえ、この女に身を委ねた過去の自分が情けなく憎らしい。彼女の姿を視界に入れては、なんで恋人ごっこなんかしたんだかと、自問自答ばかりしている。
「それで? お話っていうのは、これで終わりなわけ? 文句言う為にわたしを呼びつけたの?」
鬼頭は、女から外していた視線を戻し、サングラスの奥にある目を睨む。
女の表情は、相変わらず愉しそうだ。
その表情(かお)からまた視線を外し、藁人形の頭を指で叩く。
「この写真、どこで手に入れた?」
藁人形にある写真は、泉で間違いない。
ただ、その写真が道端で隠し撮りした物ではなく、真っ直ぐしっかりはっきりと正面を向いて撮ったものである。服も私服ではなくスーツだ。
社員証や履歴書で使われるやつみたいだ。本人しか持ち得ない写真を、この女は一体どこで入手したのか。
鬼頭は尋問する目付きをして、女に問う。
尖りのある冷たい視線を受けても、女は笑ったままだ。
答えを急かしたい気持ちを押し殺して、彼女が口を開くのを待つ。
「──会社の近くに、好きな芸能人が所属している事務所がある」
「は?」
女のお伽噺を聞かせる語り口に、気の抜けた言葉が漏れ出る。
「この娘がどうだかは知らないけど、あんたの事務所を囲むビルの中に邪な気持ちを抱いた者がいないとは限らない」
そう。例えば、好きな芸能人に近づきたくて、事務所に近い職場を選び、出会う機会を伺う者や、芸能人の行動を盗み見てプライベートな情報を掴もうとする者とか。
いつどこで、誰が何を狙っているのかわからない。
だから、世間に顔を出す人間は、住所がわからないように部屋の見取り図がわかる写真や動画を見せない。見せたとしてもモザイクがかかり、服装の一つ一つも気をつけている。
「何が言いたい?」
彼女のまどろっこしい話に、聞いてる方は眉間にしわが寄る。
女は、にたりと笑い「敵は案外近くに居るってことよ」と続けた。
「わたしが【釘を刺してもいい写真はないか?】と聞いて、あっさりと写真を渡してくれる人間がね」
「それは……出待ちの人間か?」
「さあ?」
両手を広げ肩を上下させ誤魔化す素振りを見せる。
「……釘を刺せるなら、入手先なんてどこでもよかったの。それにしても、人の心はやわやわねぇ。ちょっと突っついただけで、ぶわぶわと抱えていたものが溢れてくる」
蜂の巣を突っついた時みたいにね。
女は組んでいた足をほどき、床に着けた。
床に降り立った彼女の身はすらりと伸びて、身体から生える手足はその身に恥じない長さをしている。
テーブルに片手を置き、鬼頭を見下ろした。
「その柔らかさがある分、取り繕いやすいのかもね。様々な形に変えて、心の奥底を見せないようにしている。わたしたち役者は、その道のプロなのよ」
作品の企画書から、スタッフが作りたいものを読み取り、脚本を読んで演じる人物を読み取り、それらしく振る舞えるように心の形を作り変えていく。
顔だけで演じては、見ている者に所詮作り物だなと思われてしまうから。
見ている者を魅了し、お話の世界へと引きずり込みたいなら、心から与えられた役にならねばならない。
「でも、脆いのは変わらないから、突っつけば出てきてしまう。形作れなくなった者はどんどん壊れて、落ちていく」
女は、鬼頭の顔を覗き込む形で身を屈めた。
サングラスの奥から放つ視線を使って心を見抜こうとしているようだ。この女は昔から、鬼頭の内側を探る視線を向けてくる。
婀娜(あだ)めいた笑みを見せる彼女は、ねっとりと絡み付く声音で言葉を続ける。
女の細い指が、鬼頭の顎に添えられた。
鬼頭の顎が僅かに上がり、女と視線を交えた。
「辞めたあなたの心はどう? 現役(まえ)と同じ? それとも……」
彼女の声が鬼頭の心にまとわりつき、固く閉ざした心をこじ開けようとした。
以前は、この声に従っていれば、楽に生きれると思っていた。
芸歴は鬼頭よりも女の方が長く、閉鎖的で独特の風習がある芸能界での処世術も熟知している。
彼女に流されていれば、どうにかなると思っていた。
そんな彼女に、知らない間に新しい恋人を作られ、放り出された時は多少は驚いたが、まあいいかとあっさりと冷めた感情を抱いた。
鬼頭は、今も驚くくらい冷静だ。昔だったら、あっさりと流されて心を暴かれていただろう。
今にして思えば、彼女と共に居たのはただ身を守る場所が欲しかったからだ。彼女という広げられた傘の下で守られて、ぬくぬくと暮らしたかった。今、彼女を前にしても何も思わないのは、守ってもらえる存在を必要としてないからかもしれない。
付き合っていたとは言い切れないが、世間的にはそういう風に見えていた時代と現在とを比べれば、鬼頭は守る術を知っている。生き抜く処世術も知っている。
「壊れたのなら」
彼女の顔がゆっくりと近づく。
「そのままわたしと一緒に堕ちてみない?」
耳元で女がねっとりと囁く。
鬼頭は息をゆっくりと吐き出しながら、女を押し退けようと肩へ手をのばした。
辞めた頃なら、甘美な囁きに誘われて、戻れない場所へ足を進めただろう。
ただ、今はあの頃ほど壊れていない。
彼女の肩に置いた手に力を込めた時、出掛けたはずの少年の声がお互いの耳を突いた。
「玉藻前」