first stage ワタリガラスの止まり木

#ヴァンド

「可愛い後輩(こども)が泊まりに来ましたよ!」

 鬼頭は、そんな言葉を耳に入れた自宅の玄関先で、肺の底から息を吐き出した。気圧の変化があったわけでも、日中から酒を呑んでいるわけでもないのに、頭の奥が痛くなる気配を感じた。思わず、こめかみに指を当ててしまう。
 今言いたい事はただ一つ。「勘弁してくれ」
 視界にあるのは、制服姿の直哉だ。白いワイシャツが目に眩しい。通学用で使っているリュックを肩にかけているが、それとは別にトートバッグも一つ持っている。舞浜にあるリゾートで買ったんだなあというのが一目でわかるバッグで、レッスン着を持ってくるのによく使っている物だった。
 もう一度息を吐き出してから、口を開いた。

「学校はどうした」

「今日は土曜日だから、午前中で終わりです」

「平日であっても今はテスト期間中なので、やはり早く終わります」と、子どもは続ける。
「ああ、そうだった」と、学生組の予定を思い出して舌を打ちたくなった。
 時が七月に移ってから、子どもたちはテスト期間に入った。高校生活初めての期末考査。家庭学習に身が入るように、レッスンも休止させている。
 しばらく子どもたちの顔を見ない予定だったのに、なぜこの子どもの顔を見ているのだろう。
 確かに、ちまちまと家にやって来る機会は増えていたが、泊まり宣言は初めてだ。

「家にいなくて良いのか? 小さい妹が居るだろう」

「…………今夜からみんな出掛けてるからいいの。付き合った記念日で、どこかに行ったっぽい。俺はお留守番」

 鬼頭の中で、答えるのに少しだけあった子どもの間が引っ掛かる。

「と、いうわけで、お邪魔しまーす」

 大人が何も言わない事を良いことに、直哉は自分の家の如くずかずかと玄関土間に侵入して、靴を脱ぎ始める。
「待て待て」と、鬼頭は子どもの背中にあるリュックを掴んだ。
 今まさに廊下に上がろうとしていた子どもは、蛙が潰れた時に似た声を出して、玄関に引き戻される。

「今日は駄目だ」

「なんで?」

 子どもがじっとりとした視線を向けて問う。
 鬼頭は客の顔を頭に思い浮かべ、面倒臭そうに肩を上下させた。

「今日は客が来るんだよ」

 子どもがはたりと動きを止め、ぱちぱちと二度瞬いてから汚い物を見る視線を作り出す。
 発した言葉は一言「女か」であった。
 直哉の勘の鋭さに、言葉が詰まる。
 否定は出来ない。実際に来るのは本当に女性だからだ。
 テレビや雑誌越しで存在を確認していたが、直接対面するのは久しぶりの女。一言で表すなら【元カノ】というやつだろう。
 いつだったかに週刊紙に写真を撮られた後、実際に恋人ごっこをしたあの女だ。
 そんな女に「話がある」と言って呼びつけたのは鬼頭の方である。
 会いたくなったから呼び出したわけではない。
 言葉を発しないままの大人を、子どもはさらに視線をじっとりとさせた。

「泉さんというものがありながら…………不潔」

「違う! いや、違わないが、そういう女じゃない! そもそも、今その名前は関係ないだろうが!」

「じゃあどんな女なの⁉」

「これは見逃して帰れない。今日来る女がどんな女なのか見定めてやる。ついでに、泉さんにちくってやる!」と、息巻く子どもと押し問答を繰り広げている間に、インターホンが鳴り響いた。
 今度は鬼頭が、蛙の鳴き声に似た声を出す。
「もう来やがった」という舌打ちと共に、リビングに戻りモニターを見れば、今日来る女が腕組みして待つ姿が映っていた。
 後からついてきた直哉も、鬼頭の肩に顎を置いてモニターを睨み付ける。

「ソノオンナダレヨ」

「うるさい、うるさい。ちょっとお前、泊まってもいいがその代わり舞浜で二、三時間遊んでろ。暇潰しの金やるから」

 懐が痛い方法だが、この好奇心旺盛な子どもを数時間追い出すくらいなら安いものだと納得させる。
 この子どもはリゾートの年パス保持者だ。舞浜での遊び方は誰よりも熟知しているし、数時間どころか閉園まで帰ってこない可能性もある。
 子どものくせに、どこにそんな高価な物を買う金があったのかと不思議に思ったが、どうやら誕生日のプレゼントは毎年年パスにしてくれと親に頼んでいるそうだ。
 直哉はまだ文句を言っていたが、財布から一万円札を取り出して渡すと、子どもはようやく口を閉ざした。
 鬼頭の顔とお札にある肖像画を交互に見る。
 間。

「一万円じゃ三十分ももたないよ! 夏イベのグッズ出たばかりなんだぞ!」

「何を買う気だお前は!」
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