first stage ワタリガラスの止まり木

#ヴァンド

「お前、本当に大丈夫なのか?」

 鬼頭が会計を済ませている間、樹は店の前で再度直哉に問う。
 直哉は「安心してくれ」と言うが、何度も樹の家に避難という名のお泊まりをしたことがある直哉だ。安心しろと言われても無理がある。
 樹の問いに、直哉は背伸びをしたまま樹を見やる。
 視線がとても冷ややかだ。「しつこいなあ」という気持ちもこめられていて、樹は一歩身を退きそうになった。

「大丈夫って言ってるでしょう」

「……そうは言うけどさあ」

「大丈夫だ」と言う人間の「大丈夫」ほど、信じられぬものはない。
 樹の不信感が伝わったのだろう。
 直哉が背伸びをやめて、大きくため息を吐く。
 黒い瞳を持つ目が、じろりと半眼にされた。
 ああ、不味い。深入りして、地雷を踏んでしまったかもしれない。
「悪かったよ」と降参するように両手を肩まであげると、直哉はふんと鼻を鳴らしてから、瞼を一度瞬かせる。
 鋭かった視線を普段の物に戻して、彼は再び口を開いた。

「他人の心配するよりも、自分の心配した方がいいんじゃないの? 午前中、上の空だったでしょう」

「何考えてたの?」と、やや刺のある声音で問われる。視線は元に戻っても苛立ちは少し残っているようだ。
 樹はやはり見抜かれていたかと、苦い笑いを見せた。
 鬼頭から直接の指摘こそなかったが、今日の樹はいささかふわふわとした気持ちでレッスンに入った。自覚もしている。
 それもこれも、全部姉のせいだ。
 鬼頭の誕生日に聞いた姉の行動が理解できなくて、腑に落ちないのである。
 泉は、漫画やアニメが好きな樹に「推しは推せる時に推せ」と言っている。
 欲しい本があれば、見つけた時に迷わず買いなさい。
 好きな作者を見つけたら、迷わず感想を送りなさい。
 漫画でもアニメでも同人誌でも声優でも何でもいいから、好きなものを見つけたら自分の声を届けなさいと、樹に言い聞かせるように何度も伝えていた。
 なのに、どうして泉は鬼頭にファンレターを送らなかったのだろう。いの一番に送ってそうなのに。
 直哉なら何かわかるだろうか。この男は、樹と同じかそれ以上に泉に懐いている。小さい頃から泉に引っ付いていたし、なにより直哉の初恋は泉だ。幼稚園児が幼稚園の先生を好きになるようなやつで、母親に冷たくされる反動もあったのだろうけど、直哉は間違いなく泉に愛を求めたのだ。
 樹はしばらく考え込んでから、泉とやり取りした内容を直哉に教える。
 一通り話し終える頃には、直哉の声音から尖りが消えて、彼も考え込みながら言葉を放った。

「泉さんはさあ、複雑な乙女心って言ったんだよね?」

「うん。でも、はぐらかすために言ったことかもしれないし、本心かどうかはわかんないよ」

 発言した時の口調も軽かったし、おどけてみせただけだろう。
 樹はそう結論を出したが、直哉は首を横に振った。

「違う違う。たぶん……ガチだと思う」

「え?」

 幼馴染みの分析に、樹の思考がぴたりと止まる。
 再び動き出すまでに、空気を三度は吸って吐いた。
 いや、いやいやいやと今度は樹が首を振る。
「本気で言ったなんて、まさかそんなわけない」と言いたかったが、直哉の眼差しは真剣だ。言葉が出せず喉奥に呑み込んでしまう。
 よく考えて見ろと、彼の口が動く。
 泉は、長いことアイドルのファンをやっている。推しは鬼頭昴一人だけだが、他のアイドルを見るのも好きだ。生のライブを観に行くこともあれば、ファン仲間と話をする機会もあっただろう。SNSが発達した現代では、ネットでファンや友人と情報交換したり、公式が配信している動画を見る事もあるはずだ。そこに書かれているファンのコメントも。
 良いものも悪いものも見てきたはずだ。
 当初は応援のコメントや感想を残していたファンが、時が経つにつれて変わっていく様を。アドバイスを気取った暴言を吐いたり、逆に恋人みたいなふりをして愛を囁いたり、怖れを感じるほどの独占欲を剥き出す人間を見てきた事だろう。輩(やから)と呼ばれる、ファンの皮を被った横暴な人間を。
 その輩たちは、元々は一般的なファンであったはずだ。ただ、応援しているうちに、追いかけているうちにどんどんと深みに沈んでいって、理性を失った。
 好きが大きすぎるあまり、アイドルはこの世に存在する人間だということも忘れて、何をしても良いという状態になるのかもしれない。
 自分が好きなアイドルだから、応援してるアイドルだから、何をしても許してくれる、笑ってくれる。家に押し掛けても、迎え入れてくれると。
 そんな事、実際にはあり得ないのに。
 デビューどころか、まだ人前にも出ていない自分たちにも、「事務所のファンに絡まれたら、蹴っ飛ばす勢いで散らせ」と言われているのだ。デビュー組はもっと厳しく対応しているはずだ。
「泉さん、聡い人だから……。手紙を送ることで深みに沈む予感がしたなら、この先に行かないよう自分で自分に制限をかけたのかもしれないね。手紙ってどうしても送り先の人の事を考えちゃうから」
「そうなのかな?」と樹が首を傾げたところで、靴底がアスファルトを擦る音が耳に入った。
 樹のものでも直哉のものでもない。
 店の前を通りかかった人のものかと思ったが、音がしてから間髪入れずに直哉が樹の背後に向けて吠えた。

「誰⁉」

「なに?」

 彼の視線を辿って、背後を見やる。
 女性が一人、物陰から飛び出して走り去っていく姿が視界に入る。
 直ぐに背中を向けられた為、顔ははっきりと見えなかったが肩ほどで切り揃えられた明るい髪が印象的であった。
 二人でまばらな人通りの中に紛れて消えていく背中を見送って、直哉が首を捻った。

「お話、聞かれてた?」

「どうだろ……。でも足音聞こえたしな……」

 あの女性がいつから立ち聞きしていたかわからないが、二人とも声を潜めていたわけではないから聞こえていたかもしれない。
 神妙な面持ちでお互いに黙り込む。

「どうしたん?」

 気まずい沈黙を打ち払うように、もう一人の幼馴染みの声が空気を震わせた。
 店の扉が開いて、鬼頭に付き添っていた大が姿を見せている。
 思い悩んだ様子の幼馴染みの姿を視界に入れて、目を丸くしていた。
 ほどなくして、鬼頭も店から出てきて少年たちの様子を目にするなり「どうした?」と首を傾げる。
 樹と直哉は視線を交わした後、怒られるの覚悟で盗み聞きされたことと、その女性(ひと)をそのまま見送ってしまったこと、身体の特徴を伝えた。
 大は唖然とした様子を見せ、鬼頭は面倒臭さと呆れた様子で子どもを咎める。

「不注意だったな」

「俺たちが狙われるとは思わなかったんだ」と返そうとしたところで、樹は首を傾げた。
 狙われたのは、自分たちなのか。
 ここに居るのは、半人前アイドルだけではない。元アイドルもいる。
 引退してから五年は経つというのに、未だに熱心なファンからファンレターを貰い、誕生日プレゼントを送りつけられ、出待ちもされる元アイドル様がいる。
 本人も察しているのか、難しい表情をして女性が駆けていった方角に視線を投げて深いため息を吐いていた。

「ひとまず、いったん会社戻るぞ。午後は予定変更して、朝田のスタジオに行くからな」
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