first stage ワタリガラスの止まり木
#ヴァンド
「マイク持つ手が下がってるぞ。集中しろ、集中」
「振りに引っ張られてんじゃねえ」と、鬼頭の声が曲と少年の歌声の中で響く。
六月が半分過ぎてもハル先生はまだ不在で、鬼頭が面倒を見てくれている。
名指しで指摘したわけではないが、自覚がある者はマイクを持つ腕に力を入れ直す。
今日は土曜日。レッスンの時間は午前午後と通して用意され、少年三人は午前の早い時間帯から身体を動かしていた。地下のレッスン室に入ってから二時間半が過ぎようとしている。もうすぐ昼時だ。
梅雨の湿気がレッスン室にも忍び込んでいる中で、玉粒の汗を滴らせつつ、鏡の向こう側にいる自分自身と向き合い、歌い踊る。
樹は鏡越しに一瞬だけ、後方で三人を見つめる鬼頭を視界に入れる。
鬼頭がレッスンを見るようになってから一つ気づいた事がある。
この人は、名前の通り鬼だ。
一つ一つの指導は的確であり、丁寧に教えてくれるのだが、間違えた所は鬼頭が「良し」を出すまで何度もやり直される。歌い出しだけで一時間使った日もある。
ハル先生は、一気に教えて一気に踊らせた後で間違いを指摘するのだが、鬼頭は一回一回止めて直させるから、前進しているのか足踏みをしているのかわからない。
それでも、間違えた箇所を指摘される回数は当初よりも減っている。反復練習の連続にうんざりした瞬間(とき)も無いわけではないが、「前よりも良くなった」と評されるのは嬉しい。
一喝された後、通しで行われた採用試験の演目を終え、三人同時に息を吐き出す。
何度も口を挟まれると胸が苦しいが、何も言われずただ黙って踊っている様子を見られるのも気まずくて、変に緊張してしまう。
音程はあっていたか。
発声に問題はなかったか。
振りつけは間違えていなかったか。
だらだらと垂れて来る汗を、Tシャツの襟や袖で拭いながら評価を待つ。
マネージャーを見れば、ふーむと顎を指で撫でながら首を傾げていた。
これで何か指摘があれば、午後は地獄の反復練習だが、今日は夕方からスタジオに行く予定があるので、軽めですましてくれるはず。
樹の大が唾を呑み、直哉が「お腹空いたなぁ」という表情を浮かべていると「まあ、いいか」と鬼頭の口が開かれた。
酷評が来ると覚悟していた樹と大は、ぎょっと目を丸くする。
少年たちの口から漏れ出た情けない声に、鬼頭の方も驚いた。
「なんだよ。怒られたかったのか? 怒って欲しいなら今からやるが?」
「いや、いやいやいや!」
「いらない、いらない!」
全力でぶんぶんと頭と手を振り、雷の受け取りを拒否する。
貰える物は貰っておきたいお年頃ではある。が、お説教は別だ。丁重にお断りしたいが、裏を返せばその気になれば指摘出来る箇所がまだ残っているということでもあり、まだまだなんだなと苦い物が喉の奥から込み上げてくる。
練習に費やした時間は、確実に数が大きくなっている。
振りつけも歌も、初回のレッスンに比べれば、歌いながらも動けるようになっている。
でも、まだ足りないのだ。
趣味の範囲なら半端な出来でも良いのだろう。でも、これは趣味ではなく仕事だ。お金が関わってくる事だ。お金が関わる以上、半端な出来ではいけない。
ハル先生が注意した後でいつも言っている。
「このレッスンにもお金が発生しているのだから、文化祭気分ではいけないよ」と。
もっと上手に踊りたい。
目の前にいる男が「よくできました」と素直に褒めてくれるように、上手に踊りたい。
漠然とした目標を抱えた時に「だったら変な驚き方するんじゃねえ」という苦言が代わりに降ってきて「ごもっともです」「おっしゃる通りです」と慌てて頭を下げた。
「お腹減った!」
とうとう腹の虫を抑えられなくなったのか、直哉が大声で斬り込む。
練習で喉が温まったのか、発声が大変良い。むしろ、うるさいくらいだ。キンとした耳鳴りが、直哉以外の人間の耳を襲っている。
鬼頭は片耳を押さえながら「今から昼休憩な」と言い渡した。
「でも俺、お昼ご飯ないよ」
「なんで⁉」
三人分の声が重なった。
「お待たせしました、しょうが焼き定食です」と、樹と大の前にしょうが焼き定食が置かれる。千切りにされたキャベツに添える形で置かれた豚ロースは、お店秘伝のタレとしょうがで絡めて、香ばしく焼かれていた。吊り下げ型の照明によって、てりがテラテラと輝いている。
「いただきます」と、二人が割り箸を割る間に「サバ味噌定食と肉じゃが定食です」と、さばの味噌煮が直哉の前に、肉じゃが定食が鬼頭の前に置かれる。サバはフィレを一枚まるっと煮付けたらしく、横長の皿にどんと目立つ位置に盛り付けられている。肉じゃがは深めの皿に配されていた。
このお店で、しょうが焼きの次に人気なのが肉じゃがなのだと、女将さんから教えられた子どもたちだ。昔は普通盛りだけだったが、人気が出た今では中盛りと大盛の肉じゃがも用意されているという。
鬼頭は中盛りサイズで頼んでいた。「後でちょうだい」と直哉がねだったからだ。
定食が一揃いした最後に「おつまみザンギです」と中央に唐揚げが置かれた。
ザンギを頼んだのは直哉だ。腹ペコ少年は、置かれてから早々に自分の方へと引き寄せる。鶏肉を分けるつもりは無いらしい。
「ザンギと唐揚げって何が違うん?」
大がしょうが焼きに箸を伸ばしながら、直哉に問う。
白い陶器の平皿には、一口大の鶏肉が五つ、からりと揚げられて山を作るように盛られている。
直哉は天辺にあるザンギを頬張りつつ、「知らぬ」と首を横に振った。
今来ているお店は、事務所から歩いて行ける場所にある定食屋さんだ。お昼ご飯がないと直哉が言うので、三人一緒に連れて来てもらった。
樹は千切りのキャベツを豚ロースで巻きつつ、思考を巡らせる。
事務所の近くという事は、姉の会社からも近いという事だ。
泉と鬼頭がよく鉢合わせするという店はきっとここだと察した。
弁当を作って出勤する泉が、作る時間はあったのに何も持たずに出る事が時折ある。何も持たない日は、コンビニに寄るか会社で弁当を頼んで食べてるのだろうとは思っていたが、まさかあの姉この男(マネージャー)に会う為にわざと用意しない日を設けたのか。
でも、この男はプライベートでアイドル扱いされる事を嫌うと直哉が言っていた気がする。それ故、鬼頭の方も自ら進んでファンサービスを行うことはないと。先日の誕生日も、ルール違反の出待ちが会社の玄関前で居座っていたが、レッスンが行われている間に警備員の人が退去させたらしく、退社時間を迎える頃にはひっそりとした夜の街に戻っていた。
ファンサービスしない主義なのに、泉と帰ったりするのは何故だろう。
泉も泉で、ファンレターを出した事がないと言っておきながら、鬼頭と顔を合わせるのは何故だろう。男女の仲というわけでもないだろうに。
大人ってよくわからない生き物だ。
黙々と食べ進めながら、斜め向かいに座る鬼頭を盗み見る。
姉の推しは、小皿に直哉の分を肉じゃがを取り分けて甲斐甲斐しく世話をしていた。
耳を澄ませば親子みたいなやり取りが続いている。
この二人の距離も急に詰まったよなと、自然と眉間にシワができた。
レッスンの時も直哉が率先して受け答えし、休憩時間中はちょっかいを出すことも増えて、ちょっと前までは「樹、樹」と引っ付いてきてたのに、すっかり鬼頭にご執心気味である。
大人嫌いなのに珍しい事もあるもんだと肉を飲み込むと、大の声が耳に入った。
「直ちゃん、早弁する時間どんどん早くなってね?」
大の言葉は直哉に向けて投げられたらしい。
直哉が肉じゃがをつまみながら、樹の正面で「うん」と頷く。
「最近、夕飯用意されてなくってさあ」
刹那。
場の空気が、ずしりと重たくなった。
「白米もおかずも俺の分ないから、冷凍の炒飯温めたり、カップ麺だけとかで凌いでるよ」
予期してなかった発言に、大が硬直する気配を感じとる。樹も発言内容を理解するのに時間がかかった。
口に出さなくても、互いの表情を見れば言いたい事が一致しているとわかる。
直哉(こいつ)、夕飯用意されてないの?
鍋や釜に残っているだけで、お皿に移されていないとかではなく、食べる分そのものがないのか?
ただ帰りが遅いという理由だけで、そんな事あり得るのかと思ったが、直哉の母親は一般的なお母さんのそれとはかけ離れているため、絶対に無いとは言い切れない。
斜め上の行動するのが、直哉の母親なのだ。
さしものマネージャーも箸を止めて、直哉の横顔を見つめている。
爆弾を落とした当の本人は、一口大にしたサバの身をぽんぽんと一生懸命白米に叩いて味噌煮のタレを移していた。この男、米には味がついていないと食わない主義なのだ。
樹は、どう言葉を返してやればいいのかと、後ろ頭を掻きたい気分にかられる。
そんな幼馴染みに大が助け船を出す形で口を開いた。
「朝はちゃんと食ってんのかよ」
「朝は朝で、妹たちの弁当におかず詰めたり、保育園とか幼稚園行く準備手伝ったりとかで、がっつり食う暇がない」
夜も朝もがっつり食べれないから、腹が減る時間が早くなって昼までもたなくなるのだ。
「母親はなにしてんだよ」
「自分の身支度を入念にしてるよ」
どんよりとした空気がより一層重たくなる。
神妙な面持ちでいる幼馴染みたちに気づいて、直哉は一言つけ加えた。
「暴力振るわれてるとかじゃないから、安心してほしいんですけどー」
「安心できねえよ」
大の苦言に、樹もうんと深く頷いた。