first stage ワタリガラスの止まり木


#ヴァンド

 いつも使っているレッスン室へと足を運び、壁際に並べられた長机に荷物を置きつつ、直哉が口を開いた。

「二人とも表情暗くない?」

「逆に聞きたいんだが、直ちゃんはなんで元気なんだ?」

「藁人形見た後なのに…………これから公開処刑なのに…………」

 藁人形の登場で一瞬吹っ飛んだが、今日の先生はあのマネージャーである。
 じっとりとした視線を送る大と、胃痛を抱える樹に、直哉は「もう!」と喝を入れる。

「本人から教えてもらえるなんて滅多にないゾ!」

 一人着々と制服から練習着に着替える姿を見て、二人は顔を見合わせる。
 事務所に入っておおよそ二ヶ月。ハル先生の時は自ら進んで準備をするなどなかった。

「あいつ……急にやる気になってどうしたん?」

「わかんない……」

 長年連れ添った友人の変わりように身体が震える。
「まだ準備してなかったのか?」と言って鬼頭が入って来たのは、その時であった。

「俺はいつでもできるよー」

 やる気に満ちている少年は、その場でくるくると回る。
 レッスンを楽しみにしている様子に、鬼頭も目を丸くしてから、樹と大に問いかけた。

「こいつ、頭かどっかぶつけたか?」

 くるくると回っていた少年は、ぴたりと動きを止めてぶーっと頬っぺたを膨らませた。


 正面にある鏡に、普段は見ることがない大人の姿が映っている。
 自分達のマネージャーの姿だ。スーツではなく、練習用の緩い衣服で身を包んでいる。
 今日からハル先生は地方出張(ツアー)で不在、他の先生も夏に行われる音楽番組の特番やツアーの付き添いで忙しい。先生たちが落ち着くまでの間は、アイドル経験者であるマネージャーが直々に教えることになったそうだ。
 いつもと同じ準備運動(ストレッチ)と体幹トレーニングを終えて、いよいよ鬼頭本人による振り付けの指導に入る。
 樹は水分補給をしながら、鏡の側でレッスンの進行状況を確認する鬼頭と直哉の姿を盗み見た。
 赤の他人に対して滅多に心を開かない直哉が、あのマネージャーにはあまり日をかけずに心を開いている。
 直哉の方から、ぐいぐいと大人の懐に入り込むような真似をするのは珍しいのだ。幼い頃から一緒にいるが、初めて見る行動かもしれない。

「振り付けは一通り教わってるんだよな?」

「採用試験の範囲分だけ教えてもらってます。歌唱も同じです」

「わかった。手本無しでも行けるか?」

「いけます」

「いけねえよ」と胸の内側で突っ込みを入れる。
 樹の思いとは裏腹に、マネージャーの「じゃあ始めるか」という言葉がレッスン室に響いた。
 一定の間隔をあけて横一列に並び、呼吸を落ち着かせる。
 左端に立つ樹は、鏡越しに二人の様子を盗み見る。
 中央に立つ直哉は集中力を高めている。
 大も「緊張する」と呻いていたが、中学時代合唱祭という舞台で伴奏をした経験が生きているのか、落ち着きを取り戻していた。どたばたしているのは樹だけだ。
 三人の準備が整ったのを確認してから、鬼頭が曲を流す。
 流れて来たのは、カラオケバージョンの課題曲。
 本番では、このカラオケバージョンに自分の声をのせるのだが、今日は振り付けの練習なので歌唱は無しだ。
 少年たちは音を聞きながら、一つ一つの動きを本人の前で見せる。
 樹は、正解を探るような、間違ってはいないだろうかと不安を抱く自分の動きを見て、頭を抱えたくなった。
 ライブで踊っていたマネージャーの姿に遠く及ばない。
 踊っている本人が思うのだ。見ている側にもきっと伝わっている。
 終わった後、どんな感想を述べられるのかと想像しただけで怖くて、鬼頭の顔が見れない。
 一分半踊りきってから音が止まる。
 まだ一回踊っただけだというのに、汗が出た。
 静かなレッスン室に、大人のうーんと唸る声が響く。
 各々、手の甲やTシャツの袖でにじみ出た汗を拭っていると、マネージャーがおもむろに口を開いた。

「まだ、全部覚えたっていう自信がないな」

 その問いかけに、三人は顔を見合わせてから気まずそうにうなずく。
 自主練習もしているし、レッスンもしっかりと受けているが、どうしても不安になって、隣にいる奴の動きを見ながら踊っているところはある。
 素直に肯定した三人に、鬼頭は怒ることもなく、呆れることもなく、当然のように直哉の樹の間に立ち、少年たちと向き合う。

「振りの順番は合っていたから、びくびくしながら踊るな。特にお前だ、兵藤樹」

 名前を呼ばれ、樹の肩が跳ね上がる。
 鬼頭の顔を、そろそろと頭を動かして見上げると、力強い視線が樹の顔を射抜いてきた。

「合ってるんだから堂々としろ。筋が良いのに勿体無い」

 マネージャーの言葉が胸を突き、鼓動がどくりと変な跳ね方をする。

「身体の伸びが良ければ、声も自然と出るんだ。忘れるな」

「他の二人も」と、男の視線が動いて樹から離れる。
 元アイドルが助言を与える声を遠くに聞きながら、樹は頬に熱が集まるのを感じた。
 今のは褒め言葉だろうか。
 だとしたら、初めてだ。
 レッスン終わりに「お疲れ」と労われたことはあれど、褒め言葉をかけられる事は無かった。
 レッスンの様子を見に来ても、一つ二つの助言はあっても「良くできた」と言われた事もない。
 心に染みていく言葉にボケッと驚いたまま鏡にある樹の姿を見る。
 鏡の中の樹も、ボケッと驚いた表情をしていた。


「あら、お帰りなさい」

「いつもよりも遅い帰宅ねえ」と樹を迎えてくれたのは、先に帰っていた泉だった。父は既に自室で休んでいて、母は風呂。姉弟のど真ん中にいる兄は、大学の近くに住む友人の家に泊まっているそうだ。
「レッスンが長引いたんだよ」とぼやきながら靴を脱ぎ、背負っていた鞄を下ろす。
 鬼頭のレッスンはいつもと同じ時間に終わるはずだったが、直哉の「もう一回、本当にもう一回、これでもう終わり」という延長(おねだり)の連続で、三十分近く延びてしまった。
 向こうも「サビ残だよ」と嘆いていたが、樹と大は聞こえない振りをした。直哉は「ブラック企業?」と突っ込んで、頭をがしがしわしゃわしゃとかき混ぜられてたけど。
「そんな事があったんだよ」と、夕飯の支度を手伝いながら泉に話すと、ふにゃふにゃと姉の頬が緩む。

「楽しそうでよかった」

「うん、楽しい。……今日、鬼頭さんに筋が良いって言われた。今、レッスンできる先生のがいなくて、しばらくの間は鬼頭さんが教えるんだって」

 直ぐに「良かったね」と返ってくるもんだと思って言ったのに、姉は口を開かない。
 どうしたのだろうかと泉を見れば、目を真ん丸にして樹を見上げていた。

「昴さんが教えてるの?」

 二拍分間をあけてから、ようやく口が開かれる。
 姉の問いに樹は「そうだけど?」と首を傾げながら答える。
 鬼頭から教わっていると先に言ったのに、どうして聞き返したんだろう。
 弟が不思議に思っている間に、泉は手元にある肉じゃがの鍋に視線を落とす。
 きょとんとした表情を浮かべていた顔には、いつもの優しい笑顔が戻っていた。

「そっか…………そっかあ」

「……鬼頭さんが先生してるの意外だった?」

 今度は樹が問いかける番だ。
 弟の問いに、姉は「そうねえ……」と一度鍋から視線を外し、天井を見上げ答えを勿体振る。
 視線の先にあるのは姉の部屋だろう。姉の部屋にあるクローゼットには、姉が買い集めた鬼頭昴のCDやライブDVD、掲載された雑誌等が収納されている。
 あの場所(クローゼット)は泉の宝箱であり、思い出を封印する箱でもあるのだ。ただ、あの箱を開けて思い出に浸る姉を、樹は見ていない。
 樹がいない時に開けているのかもしれないし、本当に開けていないのかもしれない。

「ちょっとだけね。ほらあの人って、突然仕事(アイドル)辞めちゃったじゃない?」

 紡がれる言葉に、樹は「うん」と静かに相槌を打つ。

「辞め方が辞め方だったから、歌うのも踊るのも嫌になったのかなあって思ってたけど…………そっかあ…………まだ踊れるんだね」

 泉は感慨深げに語りながら鍋を見つめているが、浮かんでいるのは歌い踊る鬼頭の姿だろう。
 姉の口から鬼頭の話を聞くのはこれで二回目だ。一回目は、樹が鬼頭と初めて会った日だった。それまで、姉の口から鬼頭を推していたという話は聞いたことがなかった。
 食事用のテーブルに、夕飯の肉じゃがと惣菜の唐揚げ、ニラと卵の味噌汁が並べられる。他の家族は既に終えているので、樹の分だけだ。
 支度を手伝った姉は、私の仕事は終わったとばかりにアイドル雑誌に手を伸ばして、腰を落ち着けている。
 点けたままのテレビには、有名な女優が主演をする弁護士のドラマが流れていた。

「誰か載ってる?」

「うーん、あんたが知ってるアイドルはいないかなあ」

「ほら」と言って、雑誌を広げて見せてくる。
 確かに知らない男だ。
 見開きの片側……奇数のページに、メンバーカラーと思われる色を背景にして、男がにこやかな笑顔を見せている。衣装は誕生日の主役らしく華やかさのあるジャケット姿だ。ライブで使う衣装とはまた違うものなんだろうなと察する。
 この人は今年二十歳を迎えるらしく、記事の中で成人の仲間入りする心境と、自身が所属するユニットの今後の展開や展望を当たり障りなく語っていた。テレビでもよく見る題材と答えだ。
 誕生日という単語に、ふと届いたプレゼントをより分けていたマネージャーの姿を思い出す。
 年に一度やって来る、推しの誕生日。クリスマスよりも、バレンタインよりも特別だと思うファンは多いだろう。
 手紙はともかく、物や食物は防犯と衛生の都合で処分か返送すると言っていたが、姉も何か贈ったのだろうか。姉が鬼頭を応援していた期間は、鬼頭の活動期間の殆どを占めていた。熱心に追いかけていたのは間違いない。それに、最近になって顔を合わせる機会が増えたと聞くし、人付き合いの一貫で渡したかもしれない。
 渡したと決まったわけでもないのに、若干のむかつきを抱えながら問うと、樹の予想とは反対の言葉が返ってきた。

「渡してないわよ」

「今年どころか、過去を遡っても渡したことがない」と泉は断言する。
 樹は目を丸くした。

「何で?」

「何でって…………複雑な乙女心のせいよ」

「姉ちゃんに乙女心とかあったんだ」

 つい口が滑って、余計な一言が出る。
 姉が聞き逃すわけもなく、樹のすねに泉の踵が入った。小中高と空手をやってきた人間の蹴りだ。痛い、とっても痛い。自転車の練習で転んだ時くらい痛い。
 はぐらかされたという事に気づいたのは、痛みが引いた頃だった。

「……ファンレターとか、一回も送ったことないの?」

「そうよ」

「辞めるって言った後も?」

 泉が樹の顔をじっと射抜く。
 そして、また同じ言葉を繰り返した。

「そうよ」

 これ以上踏み込んではいけない気がしたが、一度沸き上がった好奇心を抑えられるほど、樹は器用な性格をしていない。
 それに、好きなアニメや漫画の事を話す姉の姿は何度も見てきたが、推してるアイドルを話す姉は本当に珍しいのだ。今日を逃したら、もう話さない気がした。
「どうして、送らなかったの?」と、沸き上がった好奇心が喉から出る。
 泉は、直ぐには答えなかった。
 でも、不快には思わなかったのだろう。顔にある唇は、三日月の形をしている。
 弟の好奇心に呆れているのか、それとも面白がっているのかは樹にはわからない。
 姉の誤魔化しは母の次に上手だ。
 そういえば、樹が小学校から帰宅した時、家に居た泉が携帯の画面を見つめたまま、硬直していた事がある。鬼頭が引退するという知らせを出した日だ。
 樹の帰宅に気づいた姉は、ケロリとした表情で「おかえり」と言ってくれたが、今思えば泣いていた事を誤魔化していた気がする。当時は幼くて気づけなかったのもあるが、気づいたとしても踏み込めなかっただろうなとも思う。
 姉の泣いてる姿を見るのは気まずい。悲しくて泣いてるのならなおのこと気まずい。向こうも泣き顔を見られたら気まずいはずだ。
 樹が言葉を待っていると、優しい表情を見せたままゆっくりと口が開かれた。

「辞めるって言った後に送られる言葉ほど、届かないものなのよ」
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