first stage ワタリガラスの止まり木

#ヴァンド

 幼い少女が、国民的猫型ロボットのオープニング曲を歌う最中、樹は直哉をドリンクバーのコーナーへと連れ出した。
 空のコップにウーロン茶を注ぎ入れつつ、口を開く。

「連れてきて良かったの?」

「良くないけど、しょうがないじゃない。親が揃って居ないんだから」

 直哉が、むすりとほっぺたを膨らませて答える。
 親友が今日連れている幼い娘は、年の離れた妹たちだ。上の妹が光希で、下の妹が麻希。まだ誕生日は来ていないが、今年六歳と三歳になる。光希の方がお喋りで、幼稚園の年長さん。麻希は無口で仏頂面をよく見せている。まだ一桁の年齢という、手はかかるが可愛い盛りの娘たちだ。
 直哉のレッスンが無いのをいいことに、母親は直哉に妹二人を押し付けて出掛けてしまったそうだ。どこに出掛けたのかは知らないが、おそらくアウトレットモールか何かだろうと直哉は推測している。父親は仕事らしく、こちらも日が昇る前には自宅を出たという。
「あのクソババア」という呟きが、樹の耳に届く。
 直哉の顔を盗み見れば、眉間にしわが寄っていた。
 文句を投げられないまま、妹の世話を了承したのだろう。昨年の受験シーズンも似たような事が多々あって、思うような家庭学習が出来ていない様子だった。
 今日はカラオケと振り付けの自主練習だ。受験期のように妹を静かに大人しくさせる必要はない。
 が、一つだけ受験には無かった問題がある。
 直哉は妹たちに、自分が芸能界に入った事を伝えていないのだ。
 レッスンをしている事はもちろん。事務所に入ったことも内緒にしている。
 二人はまだ小さい。兄が芸能人になったと知って、光希は幼稚園で何を言うか。麻希も保育園で何を言うかわからない。
 二人の兄が芸能人になったと知って、周囲が何を言うかもわからない。
 幼い娘らが危険な目にあうくらいなら、理解できる歳になるまで黙っていようと直哉は決めたのだ。

「今日は何て言って誤魔化したの?」

「文化祭の練習」

「……ありそうでありえない所にしたんだね」

「でも、一番無難でしょう」

 大のウーロン茶と、光希のオレンジジュースを手分けして注ぎ、三人が待つ個室へと戻る。
 猫型ロボットは歌い終わったらしく、今度は大が歌えと光希が迫る姿がまず目に入った。

「大ちゃん、持ってきたよー」

「サンキュー……。次、どっちか歌って。休憩したい」

 二人がいない間に二曲ほど歌わされ、さらに遊べとねだる麻希の面倒も見ていたのだから、カラオケ店に来てからは兄よりも働いている。

「さすが大ちゃん。面倒見だけはいいね」

「【だけ】とか言うな! 他にも取り柄あるわ!」

「例えば⁉」

 光希が目を輝かせて問う。
「え?」と、大は言葉を詰まらせる。
 麻希は大よりもジュースに興味があるらしく、ストローを出せと直哉にせがんでいた。
 樹はやり取りを聞きながらリモコンを操作して、採用試験の課題曲を入力する。
 鬼頭昴のライブDVDを見ていて気づいたのだが、あの人は十年走って来た中でシングルを二十曲出していた。その中には、聞き覚えのある曲もあった。母や姉が見ていたドラマの主題歌だったのかもしれない。家で見る番組は、母と姉の見たいもの優先で、男は録画して見るばかりだ。
 多いのか少ないのかはわからないが、カップリング曲やアルバムに書き下ろした曲等を含めると三十曲から四十曲くらいあるのだろう。
「全部覚えてこい」と言われたら死ねるな。
 言い出しかねない大人の顔を思い出して身震いしてると、大を弄って満足した光希がにゅっと割り込んできた。

「ねえねえ、たっちゃん」

「な、なあに、光希」

「この曲大ちゃんも歌ってたよ。たっちゃんも歌うの?」

 課題曲の歌詞を指差す幼子に、今度は樹が言葉を詰まらせた。

「えっと、練習だからだよ」

 練習なのは事実だから嘘はついていない。
 樹の言葉を聞いて、光希はふむと頷く。
 そしてゆっくりと首を傾けてから「何回歌うの?」と問われた。

「何回だろうねえ……?」

 どこかで光希が好きな歌を歌おう。
 途中で飽きて駄々っ子になられても困る。



「最近、来客が多い気がする」

 家でも事務所でも、人を接待する時間が増えている気がする。
 鬼頭が眉根を寄せて告げれば、来客者の雅臣は「気のせいだよ」と笑い飛ばした。

「お前、車で来たのか?」

「いんや。駅から歩き。奥さんたち、駅前のモールで遊んでるのよ」

「ああ……」

 自宅の最寄り駅前には、全国展開している有名なショッピングモールがある。この駅近辺に住んでいる者なら、一度は立ち寄った事があるだろう。鬼頭も、買い出しの多くはこのモールに頼って足を運んでいる。引退する少し前には、家出をして途方に暮れていた男の子も保護した。
 ダイニングテーブルのイスに雅臣を座らせ、鬼頭は向かい側の椅子に腰を下ろす。
 テーブルにはスマートフォンとノートパソコン、分厚い英語辞典、国語辞典、仕事の書類が広がったまま置かれていた。

「持ち帰り仕事?」

「だーれかさんに頼まれたやつだよ。来年のツアー用でな」

 雅臣は心当たりがあるのか、視線を泳がせた。

「あと……あいつらのユニット名考えてた」

「ユニット名?」

「正式採用するつもりなら、いずれはその話も出てくるだろう。というか、あの魔女は名付ける気満々だぞ」

 スマートフォンのメールフォルダを開き、昨日朝田麦から送られて来たメールを見せる。
 メールの本文には、子どもたちのユニット名候補がずらりと並べられている。
 一行目からずらずらと並ぶ候補は、始まりこそ真剣に考えた様子が思い浮かぶが、後半に進むにつれて酒でも飲んでいるのかと疑うものに変わっていった。
『牛スジ』が出てきたところで、雅臣はスマートフォンを鬼頭に返す。
 全部読むのは無理だった。精神が破壊される気配を感じた。

「どれにしたの?」

「全部平身低頭、懇切丁寧に取り下げたわ」

「ですよねえー」

「今日食べた物メモみたいだったもんねえ」と、視線を遠くに投げる。
 鬼頭もメールの内容を改めて読んで、目頭を揉んだ。

「僕らも、下手したら牛スジだったのかな……」

「タテガミとかじゃないか? ……このメールが届いてから、言い知れぬ不安と恐れを抱いてな。魔女が名付ける前にこっちで決めてしまおうと思った」

「それで辞典とか引っ張り出してたの?」

 言葉の代わりに、ため息を返す。
 あの魔女のセンスはダメだと危機感を抱いて、自身の中にあるネームセンスを磨いていたところに、雅臣が来訪してきたのだ。
 来訪の理由は特に思い至らないが、ツアーが始まることに関係しているのだろう。今までの年なら鬼頭も帯同していたが、今年はあの子どもたちを任されている為、留守番組だ。都内の会場と幕張会場なら、顔程度は出せるかもしれない。
 ぱらぱらと辞典のページを捲って、あの子らに合いそうな単語を探す。
 今は雅臣の相手ではなく、ユニット名をどうするかだ。
 鬼頭が悩ませていると、雅臣が冷蔵庫から勝手に持ち出してきた缶コーヒーを片手に口を開いた。

「あれ良かったじゃん。昴くんたちが使う予定だったやつ」

「あれ?」

「話し聞く限り、似合っていると思うよ。お蔵入りしたまま、表には出してないし良い機会じゃない? ……昴くんたちにとってもさ」

「仕舞ったままにしておくのは勿体無いよ」と、雅臣は柔らかい笑みを見せる。
 鬼頭は直ぐに答えを返さず、スマートフォンの連絡帳を開く。
 この件は、自分一人では決められないと悟ったからだ。
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