first stage ワタリガラスの止まり木
#ヴァンド
六月最初の日曜日。
朝の早い時間から、空には薄い雲が広がっている。
樹は、朝食が出来た事を知らせる母親の声を聞きながら、ばたばたと出掛ける準備をしていた。
前日の土曜日は一日レッスン漬けで、身体はくたくたな状態だ。
が、採用試験が七月の期末考査終了後に行われると決まって、のんびりとはしてられない。
今日は休みとなっているが、少年三人は自主的に練習しようと話し合って、朝からカラオケ店で歌唱の練習をする予定を立てた。
朝田プロデューサーが来たときに今の出来を見てもらったが、「あんたは筋はいいけど、持久力が課題ね」と、僅か一分半のお披露目で見抜かれた。
他の二人も課題を言われていた気がするけど、朝田の言葉が頭の中で反響していて、樹の耳には入ってこなかった。
カラオケ店で練習すると言っても、今日は混雑する休日。過ごせる時間は限られている。カラオケの後は大の祖父宅へ赴いて、お寺を借りて振り付けの練習。
試験までまだ一ヶ月とみるべきか。もう一ヶ月しかないとみるべきか。
鞄に押し込んだままのクリアファイルを取り出して、中に入っている紙の束を取り出す。
試験の概要が書かれたコピー紙。貰った時はなにも書かれていなかった裏面に、今は樹の字でびっしりと、先生たちから注意されたところと、アドバイスが書かれている。
鬼頭(マネージャー)は「実力を見る試験ではない」と言っていたけど、やはりちゃんとできないと不安だ。
二人だけ採用して一人だけ不採用とか、考えただけでも背筋がひやりとする。
それに、今できるようになっていれば、後から新しい練習が始まっても慌てずに済むだろう。
しわが寄るほど、ファイルをぎゅっと握りしめる。
直哉と大に置いて行かれないようにしないと。
ただでさえ、体力面で差が出ているのだ。自主練習で、ちょっとでも距離を詰めなければ。
「よし」と気合いを入れ、クリアファイルと鞄を片手に部屋を出ようとした時、姉のちょっと怒った声が真後ろから樹の名を唱えた。
びくりと肩を震わせて振り返れば、眉をきゅっとつり上げ目を三角の形にした泉の顔が目に入る。
「【ご飯ですーっ】て何回言えば良いんですか?」
「き、聞こえなかった!」
返事をしている間に、クリアファイルを掠め取られる。
ぱらぱらと紙を見る姉の目がやや柔らかいものに変わったが、険しいものが残っていることに変わりない。
昨日レッスンから帰るなり、夕食をそこそこ残した状態でさっとお風呂に入って、居間のソファーで寝落ちたものだから、神経がぴりぴりと尖っている。
泉は樹の出で立ちに気づいて、緩めていた眉に再び力を入れた。
「今日も練習だっけ?」
「レッ……レッスンじゃなくて、自主練。三人で歌の確認したり、振り一通りやったり」
今日の予定を伝えれば、姉が深い息を吐き出す。
「まーったく、もう。真面目にやるのはいいけど、ちゃんと休みも入れないと倒れるよー。あんたは疲れちゃうと直ぐ風邪ひいちゃう子なんだから」
「最近は、小学校の時ほどひいてないって! それに、姉ちゃんの元推しから自主練の許可貰ってるし、問題ないよ!」
「【元】じゃなくて【今も】です!」
あ、そうなんだ。
姉の迫力に突っ込みが声として出てこない。
その間に、クリアファイルが樹の頭に振り下ろされた。
「直哉だって、あの子もストレスたまると熱出すタイプなんだから、ほどほどにね。ストレス数値ちゃんと見てあげてよ」
「はいはい」
学年は着実に確実に上がっているのに、お小言が年々増えてきている気がするのはなぜだろう。これでは姉ではなく、お母さんだ。母ちゃんよりも母ちゃんしている気がする。
泉の所に産まれる甥や姪は将来大変かもなと思いつつ、姉と共に部屋を出た。
「樹がこんなに夢中になってレッスンするとは思わなかったなあ」
「だって……下手だと思われたら嫌じゃん。ただでさえ全部覚えきれてないのに、試験のビデオ撮るの鬼頭さんだし、本人の曲だし……」
ぼそぼそと、喋る声から自信が消えていく。
DVDに映るアイドル全盛期のマネージャーは、画面越しでもきらきらとしていた。一挙手一投足が自信に満ち、迷いのない動きをしている。これでいいのか、この動きで合っていただろうかと迷い、不安になる樹とは違う。
「だから、せめて振りつけだけは、ちゃんとさせたいなーって」
「思っている」と続けようとしたところで、頭に姉の拳が落とされた。
「なにすんだよ⁉」
今度は、樹が目を三角の形にする。
泉は腰に手を置いて、末の弟を見据えた。
「お姉ちゃんねえ、樹たちが真面目に練習してくれて嬉しい。ステージに立つ日も楽しみにしてる。でもねえ……。まだ生まれたてのぴよぴよちゃんが、十年突っ走って来た推しに数ヵ月で追い付くのは、なんか腹立つ」
「がち勢か」
本音の九割が後半に集約されている。
姉はアイドルが好きみたいだから、楽しみにしているのは確かなのだろうけど。
ひりひりとした鈍い痛みが残る頭を擦っていると、インターホンが鳴る音がした。
直哉が迎えに来ると行っていたから、きっとその音だ。が、それにしては、早い気がする。昨日のやり取りで決めた時間まで、まだ何十分か余裕があるのだ。
「はいはい」と返事をして玄関扉を開ければ、予想した通り直哉の姿がそこにあった。
「来るの早くない?」
「緊急事態宣言です」
「は?」
直哉が視線を下げるのに倣って、樹も視線を下げる。
親友とよく似た顔立ちの幼い娘が二人、直哉の影から樹を見上げていた。
「光希(みき)、麻希(まき)……?」