first stage ワタリガラスの止まり木
#ヴァンド
樹は、直立した状態で鏡と向き合う。両の手はへその辺りに置き、口には吹き戻しを咥えていた。大と直哉も同じ体勢で鏡を見つめている。
「はい。息をゆっくり細く長く吐き出してー」
ハル先生の合図に従って、息を細く長く吹き戻しに吹き込む。
三人分のぴぃーと高い音がレッスン室に広がっていくのを耳にしつつ、呼吸に集中する。
次第に、樹の吹き流しがひょろひょろと弱くなり始めた。
他の二人はまだ元気よく音が鳴っているが、樹は今にも止まりそうだ。
ハル先生が、樹にゆっくりと歩み寄り、樹の手に自分の手を重ねる。
「はーい、まだだよー。まだ行けるー、まだ止めなーい」
樹が「無理です」と目で訴えても、ハル先生は「無駄な動きしないよー」と、樹の腹を押す。
ぴゅいっと吹き戻しの音が裏返った。
「やべっ」っと思った時には遅く、直哉と大がいる位置からげっふごっふと咳き込む音がする。
樹は、友人二人をじっとりとした視線で見れば、肩を震わせて込み上げて来るものを押し殺していた。
「おい……」
「いや、【おい】はこっちの台詞だわ!」
「もーう。刺客のつもりー? 新記録行けそうだったのにぃーー」
「誰が刺客だ! 好きで裏返ったんじゃないってぇえのっ!」
真剣にやった上での結果である。
肺活量が二人と比べてへたれなのは申し訳ないが、これでも結構頑張っているのだ。このレッスンを始めた頃と比べたら、多少は吹く時間が延びている。
樹が延びているということは、元から肺活量があった二人も延びているということだ。
しゃあしゃあと言い合っていると、ハル先生が「ケンカしないよ」と柏手を打つ。
レッスン室の扉がノックされたのはその直ぐ後であった。
四人分の視線が扉に向けられる。
ハル先生が返事をするよりも先に、開いた扉の隙間から鬼頭マネージャーが体を滑り込ませる。
「わりぃな、突然」
「どうしたんです? 昴さん」
ハル先生が首を傾げると、鬼頭がちょいちょいと手招きをする。
耳を貸せという動作も加わり、こそこそと話された内容に、ハル先生の目がぎょっと開かれた。
少年三人は、大人たちのただならぬ空気に目を瞬かせ、顔を見合わせるしかない。
直哉の口にある吹き戻しが、ぴゅう……ぴゅう……と寂しげに鳴った。
「外せば?」「暇なんだもん」「待てない子どもか」と、視線で会話し、大人たちに戻す。
大人たちは、良いとも悪いとも言えない物を食べた後みたいな雰囲気で包まれていた。こそこそとした会話はくぐもっていて、内容は読み取れない。
急な仕事が入る時間帯でもないが、芸能界は深夜帯も動くからそうでもないのだろうか。
樹が首を傾けていると、再び扉が開いて派手な巨体が視界に飛び込んできた。
「もー! 会わせる許可取るのに何時間かけてるのよ! 昴!」
びりびりと、レッスン室の空気が震える。
女とも男とも断言出来ない大声に、マネージャーが顔を顰めっ面を見せた。
樹は手の甲で目を擦る。
ただでさえレッスン室は眩しいのに、新しくやって来た人物の、視界に入る色全てが目を刺激して痛いのだ。
隣にいる直哉は「うっ」と鼻を隠している。きっと彼女から薫る香水の匂いがお気に召さないのだろう。
「失礼だぞ」と大が小声で指摘した時、「あら!」と大きな声が子どもに向けて投げられる。
ぎょろりとした目と視線が合わさり、三人は息を呑んで身を寄せ合った。
離れ離れになった途端、食べられる予感がする。
「ちゃんといるじゃないのー! 隠すなんて酷い男たちだこと」
「もう!」と不満そうに頬っぺたを膨らませ、風船みたいな身体がますます大きく見えた。
「どこのどなた……?」
「知らん」
「荒れ地にいそうな魔女みたーい」
樹と大がひそりと言葉を交わす中、直哉だけが見た目の感想を述べる。
が、二人に声に出して突っ込みをする余裕はない。
かわりに、樹の手が直哉の口を塞ぎ、大の手が後頭部を叩く。
あの魔女みたいは失礼だろ!
確かにそんな感じはするけれど、このお馬鹿!
「だぁーーーーれが荒れ地の魔女ですって⁉」
大きな声が、耳の鼓膜を貫く。
「耳が良いな、この人」と思う暇もなく、魔女は滑るような動きで樹たちと距離を詰め、ふくよかな手を伸ばした。
樹と大は直哉を盾にして、難を逃れる。盾にされた直哉は、むにむにとふくよかな手に頬っぺたを掴まれた。
「ひどいー」と抗議する声が聞こえたが、今は身の安全第一である。
そもそも、この魔女みたいな人間(人間でいいんだよな?)は、本当に誰なのだろうか。
大人たちの反応を見る限り、偉い人間な感じはする。
「社長の奥さんとかかな?」と予想していると、マネージャーがようやく割って入って来た。
「子どもが怖がってるからやめい、ババア」
「ばばあ?」
三人分の声が重なる。
「誰がババアだ」と手の力が強くなり、直哉が短い悲鳴を上げた。
ハル先生が苦い笑いを見せ、鬼頭は嘆息する様子を見せる。
「朝田プロデューサー、その辺で勘弁してあげてください」
「セクハラで訴えるぞ」
大人たちの苦言を耳にしながらも、魔女は直哉の頬っぺたから手を離さない。それどころか、感触を確かめるようにむにむにとマッサージを始める。
「あらやだ! この子もお肌、すべすべのぷにぷに! ベイビーちゃんのお肌みたい!」
「ババア、マジでいい加減にしろ」
鬼頭は魔女の後頭部に、資料が挟まったファイルを投げつけた。
樹は、直立した状態で鏡と向き合う。両の手はへその辺りに置き、口には吹き戻しを咥えていた。大と直哉も同じ体勢で鏡を見つめている。
「はい。息をゆっくり細く長く吐き出してー」
ハル先生の合図に従って、息を細く長く吹き戻しに吹き込む。
三人分のぴぃーと高い音がレッスン室に広がっていくのを耳にしつつ、呼吸に集中する。
次第に、樹の吹き流しがひょろひょろと弱くなり始めた。
他の二人はまだ元気よく音が鳴っているが、樹は今にも止まりそうだ。
ハル先生が、樹にゆっくりと歩み寄り、樹の手に自分の手を重ねる。
「はーい、まだだよー。まだ行けるー、まだ止めなーい」
樹が「無理です」と目で訴えても、ハル先生は「無駄な動きしないよー」と、樹の腹を押す。
ぴゅいっと吹き戻しの音が裏返った。
「やべっ」っと思った時には遅く、直哉と大がいる位置からげっふごっふと咳き込む音がする。
樹は、友人二人をじっとりとした視線で見れば、肩を震わせて込み上げて来るものを押し殺していた。
「おい……」
「いや、【おい】はこっちの台詞だわ!」
「もーう。刺客のつもりー? 新記録行けそうだったのにぃーー」
「誰が刺客だ! 好きで裏返ったんじゃないってぇえのっ!」
真剣にやった上での結果である。
肺活量が二人と比べてへたれなのは申し訳ないが、これでも結構頑張っているのだ。このレッスンを始めた頃と比べたら、多少は吹く時間が延びている。
樹が延びているということは、元から肺活量があった二人も延びているということだ。
しゃあしゃあと言い合っていると、ハル先生が「ケンカしないよ」と柏手を打つ。
レッスン室の扉がノックされたのはその直ぐ後であった。
四人分の視線が扉に向けられる。
ハル先生が返事をするよりも先に、開いた扉の隙間から鬼頭マネージャーが体を滑り込ませる。
「わりぃな、突然」
「どうしたんです? 昴さん」
ハル先生が首を傾げると、鬼頭がちょいちょいと手招きをする。
耳を貸せという動作も加わり、こそこそと話された内容に、ハル先生の目がぎょっと開かれた。
少年三人は、大人たちのただならぬ空気に目を瞬かせ、顔を見合わせるしかない。
直哉の口にある吹き戻しが、ぴゅう……ぴゅう……と寂しげに鳴った。
「外せば?」「暇なんだもん」「待てない子どもか」と、視線で会話し、大人たちに戻す。
大人たちは、良いとも悪いとも言えない物を食べた後みたいな雰囲気で包まれていた。こそこそとした会話はくぐもっていて、内容は読み取れない。
急な仕事が入る時間帯でもないが、芸能界は深夜帯も動くからそうでもないのだろうか。
樹が首を傾けていると、再び扉が開いて派手な巨体が視界に飛び込んできた。
「もー! 会わせる許可取るのに何時間かけてるのよ! 昴!」
びりびりと、レッスン室の空気が震える。
女とも男とも断言出来ない大声に、マネージャーが顔を顰めっ面を見せた。
樹は手の甲で目を擦る。
ただでさえレッスン室は眩しいのに、新しくやって来た人物の、視界に入る色全てが目を刺激して痛いのだ。
隣にいる直哉は「うっ」と鼻を隠している。きっと彼女から薫る香水の匂いがお気に召さないのだろう。
「失礼だぞ」と大が小声で指摘した時、「あら!」と大きな声が子どもに向けて投げられる。
ぎょろりとした目と視線が合わさり、三人は息を呑んで身を寄せ合った。
離れ離れになった途端、食べられる予感がする。
「ちゃんといるじゃないのー! 隠すなんて酷い男たちだこと」
「もう!」と不満そうに頬っぺたを膨らませ、風船みたいな身体がますます大きく見えた。
「どこのどなた……?」
「知らん」
「荒れ地にいそうな魔女みたーい」
樹と大がひそりと言葉を交わす中、直哉だけが見た目の感想を述べる。
が、二人に声に出して突っ込みをする余裕はない。
かわりに、樹の手が直哉の口を塞ぎ、大の手が後頭部を叩く。
あの魔女みたいは失礼だろ!
確かにそんな感じはするけれど、このお馬鹿!
「だぁーーーーれが荒れ地の魔女ですって⁉」
大きな声が、耳の鼓膜を貫く。
「耳が良いな、この人」と思う暇もなく、魔女は滑るような動きで樹たちと距離を詰め、ふくよかな手を伸ばした。
樹と大は直哉を盾にして、難を逃れる。盾にされた直哉は、むにむにとふくよかな手に頬っぺたを掴まれた。
「ひどいー」と抗議する声が聞こえたが、今は身の安全第一である。
そもそも、この魔女みたいな人間(人間でいいんだよな?)は、本当に誰なのだろうか。
大人たちの反応を見る限り、偉い人間な感じはする。
「社長の奥さんとかかな?」と予想していると、マネージャーがようやく割って入って来た。
「子どもが怖がってるからやめい、ババア」
「ばばあ?」
三人分の声が重なる。
「誰がババアだ」と手の力が強くなり、直哉が短い悲鳴を上げた。
ハル先生が苦い笑いを見せ、鬼頭は嘆息する様子を見せる。
「朝田プロデューサー、その辺で勘弁してあげてください」
「セクハラで訴えるぞ」
大人たちの苦言を耳にしながらも、魔女は直哉の頬っぺたから手を離さない。それどころか、感触を確かめるようにむにむにとマッサージを始める。
「あらやだ! この子もお肌、すべすべのぷにぷに! ベイビーちゃんのお肌みたい!」
「ババア、マジでいい加減にしろ」
鬼頭は魔女の後頭部に、資料が挟まったファイルを投げつけた。